岩神館(城びと未登録)は、鎌倉前期に朽木荘を領した朽木氏が拠点とした城館で、室町中期に拠点を朽木城に移した後も、戦国期には戦乱の京を逃れてきた室町将軍を岩神館に迎え入れ、足利義晴は約3年、足利義輝は約6年半にわたって滞在しています。岩神館跡には江戸前期に秀隣寺が創建され、後に興聖寺が移って朽木氏代々の菩提寺となりました。
興聖寺の駐車場には朽木氏岩神館遺跡の説明板が立てられています。駐車場から興聖寺に向かうと、境内北東隅から北辺と東辺に石垣が続いています。古くからの石垣のようですが、岩神館の頃からのものなんでしょうか。石垣沿いに南に進むと興聖寺の入口があり、説明板と冠木門が立てられています。入口の南側にも石垣が続いていますが、こちらは近年に積み直されたのか新しい感じでした。
冠木門をくぐると拝観料(300円)を払って境内を散策します。境内南東部の旧秀隣寺庭園は、足利義晴の滞在中に朽木氏らの依頼により細川高国が作庭したとされる豪快な石組みを配した池泉鑑賞式庭園です。紅葉にはまだ早い時季でしたが、安曇川と対岸の山並みを借景として将軍の無聊を慰めるべく築造された見事な庭園でした。境内南部は墓地になっていて、墓地の背後には岩神館の土塁が遺っています。土塁は墓地の西辺から南辺を囲むように続き、その外側には堀切があるはずですが、防獣ネットがめぐらされていてよくわかりません。そこで境内を出て北側から西側に回り込んでみると…おお、確かに! 土塁も堀切もはっきり確認することができました。
庭園も土塁も堀切も見応えありましたが、何より「麒麟がくる」で義輝が十兵衛に「麒麟がくる道は遠いのう…」と嘆いたのはこの地だったんだな…と考えると(義輝と十兵衛の会談はフィクションだとしても)感慨深いものがありました。そういえば、その回の麒麟がくる紀行も興聖寺でしたっけ。…などと満足しつつ興聖寺を後にし、帰宅する車中でふと思い出しました。土塁と堀切を見るために外へ出たまま、本堂内を見学するのを忘れてたーっ! 興聖寺の本堂は主目的ではないとはいえ、せめて楠木正成の念持仏と伝わる不動明王坐像くらいは見ておきたかった…。
+ 続きを読む