くつきじょう

朽木城

滋賀県高島市

別名 : 朽木陣屋、朽木氏館、朽木屋敷
旧国名 : 近江

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朽木氏岩神館遺跡の説明板
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イオ

岩神館(滋賀県高島市朽木岩瀬) (2024/11/09 訪問)

岩神館(城びと未登録)は、鎌倉前期に朽木荘を領した朽木氏が拠点とした城館で、室町中期に拠点を朽木城に移した後も、戦国期には戦乱の京を逃れてきた室町将軍を岩神館に迎え入れ、足利義晴は約3年、足利義輝は約6年半にわたって滞在しています。岩神館跡には江戸前期に秀隣寺が創建され、後に興聖寺が移って朽木氏代々の菩提寺となりました。

興聖寺の駐車場には朽木氏岩神館遺跡の説明板が立てられています。駐車場から興聖寺に向かうと、境内北東隅から北辺と東辺に石垣が続いています。古くからの石垣のようですが、岩神館の頃からのものなんでしょうか。石垣沿いに南に進むと興聖寺の入口があり、説明板と冠木門が立てられています。入口の南側にも石垣が続いていますが、こちらは近年に積み直されたのか新しい感じでした。

冠木門をくぐると拝観料(300円)を払って境内を散策します。境内南東部の旧秀隣寺庭園は、足利義晴の滞在中に朽木氏らの依頼により細川高国が作庭したとされる豪快な石組みを配した池泉鑑賞式庭園です。紅葉にはまだ早い時季でしたが、安曇川と対岸の山並みを借景として将軍の無聊を慰めるべく築造された見事な庭園でした。境内南部は墓地になっていて、墓地の背後には岩神館の土塁が遺っています。土塁は墓地の西辺から南辺を囲むように続き、その外側には堀切があるはずですが、防獣ネットがめぐらされていてよくわかりません。そこで境内を出て北側から西側に回り込んでみると…おお、確かに! 土塁も堀切もはっきり確認することができました。

庭園も土塁も堀切も見応えありましたが、何より「麒麟がくる」で義輝が十兵衛に「麒麟がくる道は遠いのう…」と嘆いたのはこの地だったんだな…と考えると(義輝と十兵衛の会談はフィクションだとしても)感慨深いものがありました。そういえば、その回の麒麟がくる紀行も興聖寺でしたっけ。…などと満足しつつ興聖寺を後にし、帰宅する車中でふと思い出しました。土塁と堀切を見るために外へ出たまま、本堂内を見学するのを忘れてたーっ! 興聖寺の本堂は主目的ではないとはいえ、せめて楠木正成の念持仏と伝わる不動明王坐像くらいは見ておきたかった…。
 

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イオ

西山城(滋賀県高島市朽木市場・荒川・西山) (2024/11/09 訪問)

西山城(城びと未登録)は、文献資料に記載がなく詳細は不明ながら、朽木氏が朽木城に拠点を移した後に詰城として築いたと考えられています。

朽木陣屋から北に約200mの住宅地奥に西山城の登城口があります。登城口から少し行くと西山城遺跡の説明板があり、その先は軽トラが通るような未舗装道(愛宕神社の整備道?)をひたすら歩きます。登城口から約25分で尾根筋に出て、出曲輪の表示もあったのでやっと着いた…と思いきや、そこから主郭部までまだ10分ほどかかりました。

主郭西麓の愛宕神社にお参りしてから登って行き、主郭南下段の南曲輪に取りつきました。南曲輪は南裾の尾根筋を堀切で遮断し、東辺は主郭から続く土塁の外側に竪堀を落としています。南曲輪の北西部には主郭に通じる枡形虎口が設けられていました。

主郭は周囲に土塁をめぐらせていますが、北端のひと際分厚く高いコの字型の土塁は、西山が地元で烽台(ホウダイ)と呼ばれていることから烽火台の遺構と考えられるようです。現在は樹木で眺望はききませんが、東に安曇川、西に若狭街道を見下ろす位置にあり、なるほど烽火台や見張台には好適地ですね。

主郭北西部の虎口から北下段の北曲輪へ。北曲輪の北辺から東辺にかけて土塁がめぐり、東辺の土塁の食い違い部の石積みは溜桝の遺構と考えられています。北曲輪北裾の尾根筋は3条の堀切で断ち切り、その先には北出曲輪がある…らしいのですが、手持ちの縄張図には載ってなかったため、堀切までで引き返してしまいました(主郭にある説明板の周辺図には載っています)。

小規模な詰城ながら烽火台も堀切もなかなか見応えがありました。ただ、登城道もよく整備されていて歩きやすく傾斜も緩やかなのはいいんですが、そこそこ距離があるため、打下城と田中城で結構歩きまわった身には地味に堪えました…。
 

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イオ

朽木陣屋と信長の隠れ岩 (2024/11/09 訪問)

高島七頭にかぞえられる朽木氏が室町中期に拠点を岩神館から移して築いた城館で、安曇川に北川が合流する段丘上に位置します。小浜と京を結ぶ若狭街道と西近江への朽木道が交わる水陸交通の要衝にあたり、金ヶ崎の退き口の際には朽木元網は朽木谷を越えて退却する織田信長に味方して朽木城に宿泊させ、京まで先導しています。その後、元網は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、江戸期には交代寄合として朽木城の地に陣屋を構えて、明治まで朽木氏がこの地を領有しました。

朽木陣屋の建物は明治に全て撤去され、陣屋跡はグラウンドや史跡公園、住宅地になっています。遺構としては周囲にわずかに土塁や堀があり(水堀は見落としました…)、駐車場に石垣、公園内に井戸が遺っているくらいです。公園内の朽木資料館は昨年3月で閉館しており、展示は中江藤樹記念館に引き継がれる予定とのことでした。また公園内には茅葺の民家が移築されていますが、朽木陣屋とは特に関係ないもののようです。

陣屋跡をひとめぐりすると、朽木城の詰城にあたる西山城に登城して(別途投稿します)、信長の隠れ岩へ。信長の隠れ岩(高島市朽木荒川)は、金ヶ崎の退き口の際に織田信長が身を隠したと伝わる岩で、ここから朽木元網のもとに松永久秀と森可成を派遣して自らに味方するよう説得させたんだとか。国道沿いに説明板があり、そこから5分ほど登って行くと巨岩が林立する中に案内表示があります。この日は折よく草が刈られた直後でしたが、隠れ岩への遊歩道は夏場は藪に沈む上にヤマビル出没地なのでご注意を。
 

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しんちゃん

朽木氏岩神館・名勝旧秀隣寺庭園 滋賀県高島市朽木岩瀬 (2023/12/03 訪問)

朽木城とされているのは陣屋のあたりなのですが、朽木氏と言えば興聖寺こと朽木氏岩神館を外すわけにはいかないでしょう。
陣屋からほど遠くない場所にあり、かつて足利将軍を慰めるために作った庭園は旧秀隣寺庭園として国の名勝に指定されています。
佐々木信綱によって承久年間に築かれたとされ、その流れを汲む朽木氏を頼って室町幕府将軍がたびたびこの地にやってきたそうです。12代将軍足利義晴が朽木稙綱を頼ってきた際に稙綱は大納言宣下を受け、管領細川高国の力によって浅井亮政・朝倉孝景の助力を受けて蓮池池泉観賞(回遊式)庭園を作庭したとのことです。庭園は往時の姿を保っているといわれ住職の話では庭園周辺の最も高い木が当時から残っているとのことです。墓地の背後から南側にかけて土塁が残っており、その外側に堀跡らしき跡が続いています。

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城郭情報

分類・構造 陣屋
天守構造 なし
築城主 佐々木信綱
築城年 鎌倉時代前期
主な城主 佐々木氏、朽木氏
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(水堀)、井戸
指定文化財 県史跡(朽木陣屋跡)
再建造物 説明板(朽木陣屋)
住所 滋賀県高島市朽木野尻
問い合わせ先 朽木資料館
問い合わせ先電話番号 0740-38-2339