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T-Shionoya

館山城訪問 (2005/05/03 訪問)

過去のお城巡りの振り返り第20弾は、千葉県館山市の館山城。

館山平野の海岸線の北側にある富浦の水軍基地岡本城を居城としていた1580年代の里見氏。
反対の南端部には高の島湊があり、館山城は元々そこを抑えていたであろう支城。
安房丘陵から軽く飛び出た標高約70mの小さな山に築かれています。

館山湾を北の軍事と南の経済で支配した里見氏ですが、秀吉の小田原征伐後は本拠を館山城に変更。
しかし江戸初期に里見氏は伯耆国倉吉へ移封され、城は廃城となりました。

現在は城山公園として整備され、模擬天守は八犬伝の博物館。
山頂部の広場は昭和期に削平されたものだそうで、中腹の梅園付近が義康時代の館跡、孔雀園が忠義時代の館跡と推定されています。
また山麓西部には関ヶ原以降に掘られた鹿島堀の跡が見られるとのこと。

訪問時を写真で振り返ると、2つの博物館に寄りながら、パンフレットを参考に公園内を歩いた模様。
しかし思い出せるのは、駐車場から天守まで意外と坂が長かったということのみ。
公園の南エリアは堀切以外にも曲輪の名残があるようで、いま訪れたら当時より城を感じることができるかな?

※1枚目の写真は'11年の再訪問で撮影

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カズサン

【甲斐・南部氏館】山梨県南巨摩郡南部町 南部氏初代光行公の騎馬像設置 (2022/10/01 訪問)

 南部氏館跡は山梨県南巨摩郡南部町南部に在り、グーグルマップに史跡マーク南部氏館跡と掲載されて居ます。

 南部氏館跡登城は平成29年5月以来2度目です、今回は妻が新しく出来た「道の駅なんぶ」が静岡民放テレビ夕方の放映でシャインマスカットの産地販売とシャインマスカットを使用したジェラート「シャインマスカットタルト」を食べたいとの希望で、中部横断道が昨年、新東名新清水JCTと中央道双葉JCT間が完全開通して居り走破もして無く、中部横断道使用甲州金婚日帰り城廻りと洒落込みました。
 中部横断道南部ICを降りると直ぐに道の駅なんぶに繋がって居ます。勿論「シャインマスカットタルト」も食べ、シャインマスカットを土産に購入、宅急便で孫達にも送りました。

 南部町は南部氏発祥の地、甲斐源氏の祖である新羅三郎義光の後裔で加賀美遠光の三男光行がこの地の地名から南部光行を名乗ったのが始まり、光行は頼朝の奥州合戦に従軍し軍功を上げて奥州糖部(現在の青森県岩手県一部)の地を賜った、子孫は徐々に奥州に移住し勢力を拡大、南部藩として明治まで奥州有力大名として栄えた。
 
 南部三郎光行公の騎馬像は平成30年9月、道の駅なんぶ駐車場側に設置され、建物内に情報発信館「南部氏館」資料室が在ります、当日は10月3日まで整備工事中で見学出来ず、頼んで南部氏のパンフレットを頂く。以前から南部光行騎馬像を観たいと思って居り叶いました。
 南部光行公の騎馬像はもりおか歴史博物館所蔵の御代々御画像南部光行部分をもとに、乗馬については、南部馬に近いと言われてる木曽馬を採寸し、立体化しているとの事。「道の駅なんぶ」のシンボルとして設置されたとの事。
 
 南部氏館跡の二回目の探訪は道の駅から国道52号線から富士川沿いに一本東の旧身延道を南東に約2km程ですが、中沢薬局南部店の所から東に村道富士川沿いを150m程南東行き裏から入る。車は手前の幅広エリアに路駐。
 南部氏館跡は私有地の様ですが、唯一残ってる井戸跡前に案内板と標柱が立って居ます、そこからは西の山側に菩提寺の妙浄寺、南部城山跡、その下に源義光を祀った新羅神社を遠望する事が出来ます、浄光寺には南部氏供養塔、発掘された墓石が有ります。(今回は訪ねて居ません)
 各史跡はグーグルマップを見て頂くと記載されて居ますのでご参考に、説明文は南部町教育委員会発行の「歴史文化公園 南部氏の郷」を引用抜粋して居ます。
 

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おぃしーぃ

良く残してくれました (2022/10/01 訪問)

横浜線中山駅から徒歩15分程、住宅地にある城址です。主郭がお寺になっていて、食違いの虎口、矢倉台跡が良く残っており、マニアには有名ですね。周囲も歩けば谷地形を良く利用した大堀切やら堡塁の様な矢倉台が良くわかります。
こんな小さなお城が、戦国の先駆けになった永享の乱の始まり地であり、北条氏にとっても小机城を中心にした鶴見川防衛ラインとして重要な役割を担ったという、深い歴史を秘めています。
神奈川県民の御城ファンを名乗るなら、発達した戦国末期の小机城と共に初期の地方領主クラスの見本として、ぜひ訪れるお城と思います。横浜市内は明治期以降いくつものお城が破壊されてきましたが、この奇跡的に残ったお城を味わいましょう。
なお、行き方は中山駅北口から線路沿いに歩くことをお勧めします。車は少ないし、後堅固がわかる田んぼが見えたら明治の橋台がある線路をくぐった目の前が搦め手です。横断歩道を渡って真っ直ぐ行けば搦め手からの登城ルート、おすすめは左の道からぐるっと回って大堀切の中から登城するルートです。

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朝田 辰兵衛

日在城(千葉県いすみ市) (2022/09/24 訪問)

【ひあり じょう】今回のJR外房線巡り最大の目的がココ。にのまるさんに「しりとり攻城」していただいた,有子山城アプローチ手札の城です。
有力な情報は2つ。城の北側に設置の石碑が,ストリートビューでも確認できる。そして,2018年9月24日に(等高線が最も密な)北側斜面から登城された「古城盛衰記」さんのレポート。
「古城盛衰記」さんのレポートでは,南西面で登城口を探せなく,北側斜面を…とあり,さらに南側(いすみ市若山1776の西側)から北に登って尾根を右に進むと,城跡の南西側に出ると思われる…と結論されてます。
私は,国土地理院の地図でシミュレーションして,いざ現地へ…。城址碑と北側斜面を確認。北側斜面は草木の繁茂で足元を確認できず。しかも,踏み込んだ足元に水があふれ出る状態。ここは無理せずに南側へ。南側登城口と思しき場所を発見し,さらに先の方を眺めていると,厳重にネットか柵かでふさがれているのが見えました。この斜面も,踏み込んだ足元に水があふれ出る状態…。少しだけ歩みを進めると,登城口に向かって左側住宅に居住の方が窓を開けて私の方を注視しておられました。
(これはラッキーと思い)私から声をかけ,「ここから上へは行けますか?」と。
回答は,上にはここから行くことができるが,もう10年以上,誰も登っていない。上からイノシシがしょっちゅう出てきて,防護ネットをしているとのこと。記憶の中では,ケータイの工事で業者の方が登ったのが最後と。
私が思うに,ケータイの基地局が山頂に見当たらないので,おそらく置局調査だろうと思います。基地局があれば,それに伴い道も整備されますので。また,義経の鵯越え的理論から言えば,「イノシシが降りれるということは,何かしら道がある」ということ。条件が整えば行ける…と思いました。
ただ,今回は足元が悪い中,イノシシが突進してきたら,運良く避けれても滑落のリスク大。イノシシの習性からしても,台風などの強風によって落ちた木の実を狙って出てくる一面があります。確実に登城口がわかったということを収穫材料として,引き揚げました。

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赤い城

期せずして連投に (2022/09/11 訪問)

前回投稿してからどなたも投稿されてなく連投になってしまいました。
民家の敷地になっています。
民家の前に説明板も立っています。
裏山に少し入らせていただくと堀と土塁を見ることができました。
武士の鑑、畠山重忠の家臣、本田親恒の居館です。
この民家も本田氏の子孫の方がお住まいのようです。

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侍ホリタン

2022春の特別公開「トの櫓、搦手周辺」 (2022/03/09 訪問)

姫路城では毎年春と冬に期間限定の特別公開を行っていて、普段公開されていない所を見学出来ます。ただし別途料金が必要で公開場所入り口で支払う事になります。

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マダム卑弥呼 

ついに来た。戦国武将最大の有名人 (2022/10/01 訪問)

二回目の小谷城。、今回は大手門から歩きました。資料館では2時間くらいで帰ってこれますよって言われたけど帰ったのは
11時から15時(お昼ご飯の30分や休憩時間含む)までかかりました。山城としてもかなり高く、(今回は行っていないが、大嶽城址の所の標高は500mちかくの495m)資料館で見た観音寺城より高いとみて、驚きました。そりゃ疲れるわ。
完全な体調ではないとはいえ、小谷城へ行きたいと思うようになったきっかけ(二回目とは言え)はやはり浅井長政の城を見たかったこと、あとは朝倉との関係性はどうだったんだろうということ(信長を裏切って市と別れる選択をした長政の心情)とか色々考えていました。資料館ではあまりいい内容のものは残っておらず(おそらく資料で言えば安土の考古学博物館の方がいいかも)二つ目の部屋ではVTRが流れていてきちんと見ることができませんでした。(邪魔になるのが嫌なので) とにもかくにも山城最後の戦いとしては戦国時代に一番有名な場所だし、娘たちのその後もとても劇的な人生だったので、歴史の面白さをかんじずにはおれません。
残念なことは登城口にあった寄付の箱に小銭を用意して持って行けばよかったと思ったことですねぇ。1000円札入れようと思ったけど完全に小銭用だったのであきらめました。たまってる小銭を入れて持って行けばよかった(苦笑)

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赤い城

多摩ニュータウン (2022/09/04 訪問)

南武線の南多摩駅から徒歩で数分。
多摩ニュータウン造成時に遺構は消滅、説明板が立っているだけです。
近くの普門庵や大麻乃豆乃天神社付近にも曲輪があったとされているもののこの辺りにも明確な遺構はなさそうです。
本丸は説明板から少し登った住宅地の辺りのようです。
多摩川渡河点監視のための物見の城だったようです。

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城とマスク

首里城復元へ (2022/09/29 訪問)

いよいよ復元工事が始まる首里城を見学しました、完成したらまた訪れたいです。マスクはラゴーシャン製フルフェイスタイプを被りました。

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きほ

タワーから見下ろす城 (2017/08/16 訪問)

五稜郭タワーからの眺望は、張り出した5つの稜堡が美しい星型を確認することができます。
2010年には箱館奉行所が復元されています。
稜堡式五稜郭は国内では他には信濃国の龍岡城しか存在しない貴重なものです。

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一重山 (2022/10/01 訪問)

 しなの鉄道線屋代駅の背後の山が城址です。北側登城口から登城しました。尾根を上がっていくため緩やかな傾斜で道も整備されていて登りやすいです。堀切により各曲輪が形成されていますが、一部は土取りで失われています。堀切や竪堀は浅くなっていると思いますが、武者隠しの土塁などもあり楽しむことができました。ただ城郭放浪記さんのHPによると主郭背後の水道施設と墓地になっている所は5重の堀切があったとのこと、見てみたかったですね。主郭西側には石積みが残っています。

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古殿稲荷社 (2022/10/01 訪問)

 篠ノ井駅から徒歩10分くらいで、わずかに残る土塁と案内板へ行くことができます。

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神主屋敷 (2022/10/01 訪問)

  資料を見ると貴重な建物であったことがわかります。火災で焼けてしまい残念です。

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城山史跡公園 (2022/10/01 訪問)

 主郭、二ノ郭に館や見張り台、兵舎、門などが復元され、戦国時代の雰囲気を醸し出しています。NHK大河ドラマ「風林火山」「江~姫たちの戦国」のロケ地となったことでも知られています。縄張り図を見ると他にも尾根などに曲輪があり堀切などもあったようですが、どうなっているのでしょうか。

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侍ホリタン

甲賀の名城を訪ねて② (2022/10/01 訪問)

本日2城目、水口城から車で10分ほど、国道307号線沿い水口小学校近くに登山者用の無料駐車場あります。まず忠魂碑前公園を目指します。ここから稲荷神社方面に行くと大手道、忠魂碑方面に行くと西大手道になります。いずれも山頂まで15分程度です。大手道の方が狭い急峻な山道になります。石垣は大きいもので3箇所、竪堀、空堀、食い違い虎口等が良好な形で残っていて見所多いです。城跡が広大ですが案内板の表示も多くて効率良くみてまわれました。御城印は「甲賀市ひと・まち街道交流館」で2種類のものが販売されています。

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赤い城

駅前の石碑 (2022/09/04 訪問)

平山城址公園駅のロータリー沿いに石碑が立っています。駅周辺が館跡のようです。
背後の平山城址公園まではちょっと歩きます。
物見台として機能していたとされます。
公園には平山神社がありますが遺構はなさそうです。
駅近くには平山氏ゆかりの宗韻寺があります。
遺構は微妙ですが近くを歩くのは良さそうな感じ。
東京薬科大学も公園のとなりにあります。

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ぴろちゃん

素敵な山城 (2022/10/01 訪問)

今日の女子旅のメンバーさんが、スタンプを押しに寄りました。長宗我部氏の城です。全体的にとても整備されていて登りやすく見学しやすく、とても勉強になりました。今日は天気も良かったので海も見えて、景色も堪能しました。

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ぴろちゃん

6年ぶりのリベンジ (2022/10/01 訪問)

6年前、一緒に観光に行った方々が「お城は上がらなくていいでしょ」の一言で見るだけだった高知城に念願叶ってやっと登城しました。御殿も残る現存の城で歴史を感じながら、龍馬伝を思い出しながら楽しく過ごしました。

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侍ホリタン

甲賀の名城を訪ねて① (2022/10/01 訪問)

水口城南駅前に無料駐車場あります。駐車場から城跡まで徒歩5分です。現在、御成橋改修中で通行不可のため資料館へは水口高校グランド脇仮設入口からの入城になります。御城印は資料館内で3種類のものが購入できます。1階は約8分間の水口城を紹介したビデオ、水口城の復元模型等を観賞できます。2階の展示室、私が訪問した時は甲賀にある他の城の展示資料を観賞できました。2階からは水口岡山城跡がある古城山を眺める事ができます。

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ヒロケン

さんじゅーろー様 (2022/08/18 訪問)

「天空の山城」とも称される備中松山城は岡山県高梁市の北、標高440m臥牛山山頂から山麓にかけて、全長約1.8kmにわたり築かれた巨大な山城です。山上には北から大松山、天神の丸、相畑の城戸、小松山、中と下の太鼓の丸の各曲輪が築かれています。山麓にも馬酔木の丸と呼ばれる出丸と備中松山藩の政庁が置かれた御根古屋があります。

現存する天守は、2層2階で西面に半地下のようにして附櫓が付属する複合式望楼型天守です。現在は西面に付属する付櫓に開けられた出入り口から入れますが、当初は八の平櫓から渡櫓を経て天守へ至りました。また天守に通じる階段は、敵の侵入を遅らせるため直角に曲げられています。外観は建物高さが11mで現存する12天守の中では最も小規模ですが、12天守の中では最も高所にあります。

1617年池田長幸公が6万3千石で立藩しますが。2代長常公に跡継ぎがなく没したため池田家は廃絶。翌1642年に水谷勝隆公が5万石で入封。2代勝宗公は天守建造など3年に渡り大修築を行い、現在の姿にしています。しかし3代勝美公も跡継ぎがなく1693年に死去。その養子となった勝晴公も13歳で死去したため、水谷家も断絶しました。断絶後は「赤穂浪士」で有名な赤穂藩主浅野内匠頭長矩公が城の受け取にあたり。家老大石内蔵助が城番を務めました。その後、安藤家・石川家に引き継がれましたが、最終的には板倉家が5万石で入封し、8代続き明治維新を迎えています。

備中松山城へは、幾度となく訪れていますが、今回の目的は臥牛山山頂にある大松山に行くことと、城主さんじゅーろー様にお目通りする事(#^^#)。大松山には行ったことがなく、皆さんの投稿を見て訪問するチャンスを伺っていました。これまでは、小松山の石垣群と現存天守・現存櫓で満足していたため、大松山には行かず仕舞いとなっていました。今回の投稿は、小松山とさんじゅ-ろー様のみですが、次回の投稿で大松山を紹介したいと考えています。
今回の小松山訪問ではさんじゅーろー様にお目通りが叶い、10分程独り占めすることが出来、大変満足しています(#^^#)

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