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イタさん

大倉砦 山梨県上野原市 (2024/04/02 訪問)

要害山と呼ばれる大倉砦跡。山頂の案内板に詳細は載っていない。甲斐・相模・武蔵の国境の砦とされ、地域最大の規模を誇る史跡で戦国時代末期の築城と推測、と記載がある。

ハイキングコースになっている要害山東の大曽根地区から。鶴川に架かる鏡渡橋(キョウドバシ)辺りからは三角錐に見える。幅狭な生活道路の終点に山神社が建つ。社殿裏からが山道になり登りがきつくなる。山頂手前から遺構が現れる。幾つかの堀跡はかなり浅くなっている。土塁は主郭の土塁と、最西の土塁が分かる高さで残る。

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イタさん

中央高速と住宅地に変貌 (2024/04/02 訪問)

ハイキング帰りの途中に上野原城跡に寄ってみました。諸先人方の内容から遺構の無いのは承知だったが、本当に見当たらなかった。かろうじて神社境内に案内があるので分かる。図では距離感が掴めなかったですが、東側に整地し建てたと思うが、一段低くスーパーがあり、その東側と奥は一段高くなり台地に見え、境辺りは当時の谷だったのかと勝手に想像しました。

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トク

「福岡城さくらまつり」と「幻の天守閣」 (2024/04/02 訪問)

「福岡城さくらまつり」が開催されている、満開の桜咲く福岡城を訪れてきました。1月に梅の花が例年より2週間早く咲いたので、このまま行くと桜もどうなるか心配でしたが、結局は私の心配をよそに、昨年より1週間程遅い開花となってしまいました。

私の好きな散策スポット、下之橋御門と伝潮見櫓(写真①⑥)の登城口から入り、大天守台の西側には現存する多聞櫓(写真②)、その周辺には黒田長政公が築いた野面積の石垣が今でも数多く残り、その石垣と桜とのコントラスト(写真③④⑤)を楽しみながら散策しました。

期間中、大天守台の上に夜間限定で「幻の天守閣」をLEDでライトアップして浮かび上がらせるというイベントが開催されています(写真⑦⑧⑨)。この日は平日にもかかわらず、大変多くの方々がこのイベントを訪れていました。見た目は日本人っぽい外国人の方々がとても多く、聞こえてくるのは韓国語や中国語ばかり。ここはいったいどこの国?といった感じでした。福岡は外国人観光客が今とても多いです。

そのせいか、このイベントを機に、また福岡城天守論争が再熱しています。インバウンド観光の目玉として一日でも早く模擬天守または復元的天守という形で天守を建てたいという福岡市と、天守が確かにあった事を示す明確な根拠となる資料とそれに基づく忠実な再現整備計画がない限り認めないという文化庁。「福岡市VS文化庁」の熱いバトルがいよいよ本格的に始まりそうです。しかし現時点では両者の隔たりがあまりにも大きく、簡単に決着がつきそうな気配は全くありません。今後どのような展開になって行くのか、注目しながらこの行方を見守って行きたいと思います。 地元新聞にも詳しく取り上げられた記事があるので、興味のある方は読まれて下さい(写真⑩)。
 

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天守無しがアツい

今は旧城寺 (2024/04/02 訪問)

(URL)https://kojodan.jp/castle/1242/#section-access-info

榎下城(えのしたじょう)…横浜市緑区にあった丘城。恩田川の南の舌状台地上に位置する。現在は旧城寺の境内で本堂裏手の高まりを本丸とし、南側の虎口の土塁と東側・西側にそれぞれ空堀跡を残す。近世の軍記物などでは上杉憲直を武州榎下城主と記し、憲直は永享十年(一四三八)の永享の乱で鎌倉公方足利持氏に味方して称名寺(金沢区)で自害したという。戦国期には北条氏家臣の山田右京進が居城したと伝わるが詳細は不明である

横浜市歴史博物館のミュージアムショップに、(榎下城など)数ヶ所の横浜市内にある城跡の御城印が販売されており、その全てを購入。それから一ヶ所ずつ…その城跡を巡ることにしました(^∇^)

中山駅から15-20分ほど歩いて、細い藪の道を抜けると城内…というか境内へ。そう…ここは城跡と言っても現在はお寺なのです。旧城寺という場所…どうやら私は反対側から来てしまったようで、入口としての役割を果たしてる門(1枚目)まで回り、まずそこを撮影してからお地蔵さんに参拝

2枚目がここの案内板…上記の城に関する説明文は、御城印に同封されてる説明書に書いてありそれを見ながら入力したのですが、それとほぼ同じ内容が画像右の黄色いプレートにも書かれてます。

本堂裏の小高い丘が土塁の跡…空堀も少し残ってるとも書かれていた気がしますが(ソースは他の案内板もしくはURL)、見た目における城の痕跡を示すのは、この案内板なだけがします

3枚目は本堂の裏手にある記念碑。辺りは墓地となっており、その左側にある階段を上った先にあります。城が機能していた頃(室町時代)ではなく、昭和に建てられたもの…だそうです

この近くには弓道場もあり、そこを少しチラ見してみたら…何と人がいて…しかも稽古中でした…🎯 お疲れ様です(^∇^)

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todo94

京阪の城めぐり⑤ (2024/02/24 訪問)

普門寺城からの転戦です。イオさんが訪れた時には山門が閉ざされていたとのことですが、私は山門の修復工事にあたってしまいました。駐車場の脇から写真撮影をさせていただきました。

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しんちゃん

実は歴戦の城。 昭和が懐かしい‥ (2024/03/30 訪問)

竹ヶ鼻城は応仁年間(1467~1469)の築城とされています。小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉の水攻めにより開城したとされています。当時の城主は不破広綱とされています。関ヶ原の合戦では織田秀信の重臣・杉浦重勝が城主を務め8月22日に東軍に包囲され降伏を勧められるも拒否し、大身槍を奮って奮闘し城に火を放って自害したと有ります。翌日には岐阜城は陥落し、織田信秀は高野山に送られた後、慶長10年5月27日(1605.7.13)に高野山から下山させられ山麓にて死去と伝わります。享年は25とされ自害とも伝わっています。怪しすぎますね。
本丸と二の丸の中間あたりに城郭風の歴史民俗資料館及び映画資料館が立っています。定期的に昭和の名作映画を上映しているようです。入館料は300円くらいなので格安です。メチャうらやましい‥。昭和の時代はメチャクチャでしたが、歪んだ綺麗ごとをむりやり押し付けられる今の時代は正直息苦しくてたまりません。たまらなく昭和の時代が懐かしくなったりするのも齢をとってきたせいなのでしょうか。多少理不尽であろうと範を通そうとするものがいなくなってしまったのは残念ではあります。

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しんちゃん

名古屋藩といわれたこともありました。(尾張藩) (2024/03/30 訪問)

八神城は毛利氏の城とされています。現在は土塁の一部とされているものが残り、城址碑が立っています。真福寺には八神城の城門が移築されています。毛利氏は土岐氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏と仕え江戸時代には尾張徳川家に仕えていたようです。案内板には名古屋藩と書かれています。まあ、そんなに間違っても無いですね。今でも名古屋県とか言われますからね。

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ぴーかる

直鳥城 (2024/02/11 訪問)

【直鳥城】
<駐車場他>直鳥クリーク公園駐車場
<交通手段>車

<見所>水濠
<感想>1泊2日久留米・佐賀の旅6城目。現地説明板によると、この地は弥生時代から人々が定住を始め、中世には現在に近い形の集落が形成されていたそうです。直鳥城は永正年間(1504~1520年)に犬塚家久によって築城され、要塞化された環濠集落として発展していったそうです。犬塚氏は当初大友氏に味方します。3代目城主犬塚鎮家は鎌田江城に居住し龍造寺氏を攻めますが、逆に1571年、龍造寺隆信に鎌田江城を攻め取られ逃げ落ち、直鳥城は打ち捨てられたようです。
 城跡の主要部中心地は広い曲輪になっていて現在は貸畑地になっています。畑地以外の曲輪跡は藪化している所が多く、現地説明板には竹藪化している場所には土塁が残っているそうですが、濠を隔てては見えません。奈良県の環濠集落は見ましたが、中世平城でこれ程水濠と曲輪が明瞭に残っている遺構は初めて見るし、初めて見るこれまでと違った城郭構造に興奮しました。いびつな形がまたいい感じ。水壕と藪化した場所は現在は水鳥たちの楽園になっています。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

多くの将兵が討死。 (2024/03/30 訪問)

加賀野井城は田んぼの端っこに、ぽつんと標柱と案内板が立っています。下の土盛りは土塁の跡でしょうか?
案内板によると、天正年間(1573~1591)には加賀野井弥八郎秀望が織田信雄の臣下となり、四百十五貫文(1万石)を領して城主となったそうです。小牧・長久手の戦いの後、天正13年5月豊臣十万の大軍の攻撃を受けたそうです。織田信雄の援軍2千も一緒に籠城しましたが、防ぎきれず講和を申し入れるも受け入れてもらえなかったので、5日に夜陰に乗じて大手より打って出るも、多くの城兵が討死し城主秀望は関東に逃れ落城したとのことです。
この場合城主が切腹を申し入れれば降伏は受け入れてもらえたかもしれませんが、自分がやれと言われると、なんとも言えませんな。やだやだ。

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しんちゃん

南北朝のころの城 (2024/03/30 訪問)

日比津城は南北朝の時代に築かれたとされ、大円寺北隣一帯が城址とされています。小ぶりだが堅固な城で、堀は水で満たされ、正門と裏門の橋の橋板はいつでも取り外せるようになっていたそうです。城主は野尻氏で境内に残る二つの石塔の左の五輪塔地輪には「貞治4年(1365)」「三月十八日」、右の宝篋印塔の基部には「為道誓禅門」「一周忌故也」「応永十七年(1410)二月十二日」と刻まれているそうです。中央に立つ石碑には「日比津城主碑誌」の文字がはっきりと刻まれています。

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しんちゃん

城主・簗田政綱は桶狭間合戦で活躍。 (2024/03/30 訪問)

九之坪城は「ふれあいの家」の周辺に築かれていたようで、駐車場に立派な城址碑が立っています。尾張国守護斯波氏の家臣・簗田政綱は斯波氏の衰退後は織田信長に仕え、九之坪城を与えられたと案内板には書かれています。
桶狭間の戦いでは大きな功績を挙げ、「太閤記」には、この合戦の功で三千貫の知行と沓掛城を与えられたとされているようです。それ以外の合戦でどれだけの功績を挙げたのかはわかっていません。

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POYO58

アングルベストは?

犬山城はどのアングルが1番いいのでしょうか?
まず犬山橋から撮るとなると伊木山をセットに撮ることができ、綺麗な写真が撮れます。ただ欠点としては犬山城から少し離れるのでドアップしないと天守が小さくなってしまいます。
次に木曽川から。これは遊覧船に乗れば撮れます。木曽川から撮ると結構綺麗ですよ。多分これがベストアングルだと思うのですが、お金がかかりますね。
最後に岐阜県側から撮ると、これも結構綺麗に撮れます。春には桜と一緒に撮ることもできます。

アングルはこんな感じです。よかったら参考にしてください…

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todo94

京阪の城めぐり④ (2024/02/24 訪問)

寺戸城からの転戦です。今回の京阪の城めぐりにおけるメインターゲットの城です。前もって普門寺に拝観予約の電話を入れておきました。拝観料は500円です。1時間20分に及ぶ長いお話を拝聴させていただきました。等持院に足利義栄の木像がないこと、徳島で見たことなど話をしてしまって話が弾んだせいかもしれませんが、大変勉強になりました。

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赤い城

時の流れは・・・ (2024/03/24 訪問)

国道2号線沿い、姫路市東出張所周辺が城趾です。
播磨三大城の一つですが遺構はほぼなくなっています。
大河ドラマ軍師官兵衛では初期の舞台でしたね。
その名残の顔出しパネルは半分消失、ボロボロに。
時の流れは時に残酷です。

本丸には天守風の公会堂が建っている他、黒田家の墓所や石碑があります。

向かいのグラウンドが二の丸、その間の道路が堀跡のようです。
北側の天川橋がかかる下の窪みが僅かに遺構として残っています。

公会堂は地域のイベント会場になっているようでこの日は親子連れも多く見られました。
遺構は少なくても地域に密着した良い城かと思います。

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ぴーかる

蓮池城 (2024/02/11 訪問)

【蓮池城】
<駐車場他>蓮池公園駐車場20台分程あり。
<交通手段>車

<感想>1泊2日久留米・佐賀の旅5城目。蓮池城は応永年間(1394~1428年)に小田直光によって築かれたとされたとされます。戦国時代後期に小田氏は龍造寺氏に臣従し、近世は鍋島氏佐賀藩の支藩として分地され蓮池藩5万2千石、陣屋が設けられます。
 城跡は佐賀江川の北側にあり、方形の堀跡が残ります。城跡にあった蓮池神社も老朽化してなくなっています。陣屋跡は川の南側にあるようで、現在は公園化されています。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

鞍掛合戦古戦場 (2024/01/01 訪問)

鞍掛山城は鞍掛山(240m)の山頂部に本丸が築かれ、そこから北に降っていった先に二の丸があり古戦場址の石碑が建っています。さらにそこから北にのびる尾根上に三の丸が配されているようです。弘治元年(1555)厳島の合戦で陶晴賢を滅ぼした毛利元就が防長二国に侵攻した際に最初の合戦場になったとされています。
大内氏の奉行三家老の一人で玖珂盆地の領主であった治部大輔杉隆泰は2600の兵を率いて毛利軍7000を迎え撃ちましたが、将兵1370とともに討死し落城したそうです。城の近くまで車道が通じていて駐車場にトイレも整備されています。ありがたいですね。

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しんちゃん

神社の方が城址っぽい。 (2024/01/03 訪問)

枝ノ城は枝宮八幡神社の東約100mの位置に築かれていました。神社の宮司・森脇氏に関わる城とされています。丘陵の上に築かれ、背後を堀切で区切り、頂部を一辺20mの方形と15m×6mの三角形の郭に分けているようです。南方約10m下方の□40mの郭も城址になるようです。枝宮八幡神社には森脇氏の主筋にあたる吉川元春公の坐像が据えられています。
最初、どこにあるのかわからず地元の人に聞いてようやくわかりました。

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しんちゃん

かつては三方を沼に囲まれた要害の城であった (2024/01/02 訪問)

須々万沼城はかつては城の三方を沼に囲まれた要害の城であったようです。現在はケアハウスの敷地内になっていて、かつての要害のイメージは有りません。ケアハウスの南西側の道を行くと、お地蔵さんが並んでいる場所があり、そこに小さな城址碑がありました。おそらくケアハウスの北東側に丸太で組んだ模擬見張台(櫓)があったと思うのですが、老朽化のせいか撤去されたようです。
須々万沼城は室町時代に築かれたとされていますが詳細は不明です。弘治年間には大内氏に属していたようで、山崎興盛、江良賢宣らが籠城して攻め手の毛利軍と戦っています。弘治3年(1557年)に毛利軍の侵入を許し、城内にいたものは悉く惨殺され、山崎興盛・隆次父子は自害し、江良賢宣は城を出て降伏したそうです。保福寺の正門の前に説明版があるようですが見落としてます。

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しんちゃん

織田信長の弟・織田信治の居城 (2024/03/10 訪問)

野府城は現在の一宮市開明字城堀、圦西郭、圦東郭、雲閑寺郭地内にあり東西約300m、南北約200mの規模であったようです(現地案内板による)。織田信長の弟(織田信秀五男(七男とも))織田信治の居城だとされています。信治は元和元年(1570)9月19日に浅井・朝倉の軍が宇佐山城に迫ってきた際、救援に駆けつけ、翌20日に森可成らと共に近江坂本で討死したそうです。
一宮市立開明小学校は城址の一部を占めており、城址碑と説明版が立っています。ちょうど親子連れが校内で遊んでいたので便乗して写真を撮らせていただきました。

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atsufumi

スッキリ!!天守 南面眺望 (2024/04/01 訪問)

いつもと違う天守。南からの眺望がスッキリ!!

天守南にそびえ立つ松の木2本が伐採され、景観がスッキリ!!
天守がバッチリ見えるようになりました。

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