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泉頭城 (2023/10/21 訪問)

旅行のついでに(柿田川公園)

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ドリセブ☆

お花見時期 (2022/04/04 訪問)

お昼の桜もいいけど夜桜も綺麗ですよ♪

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朝田 辰兵衛

武将像に惹かれたので… (2023/09/18 訪問)

武将像に惹かれたので,つい来てしまいました。湖北エリアは猛暑になっていないとの予報でしたので,そんな情報も後押ししました。
『ここから俯瞰できる山城や砦を攻城する意欲も,何気に湧いてくる場所だな…』というのが,賤ヶ岳の魅力に思います。
ところどころに看板がありましたが,鎌刃城同様「山ビル注意」です。

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トク

73【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津義弘と内城) (2023/10/17 訪問)

(24人目)「島津義弘」の続き④です。
義弘が15才頃から約4年間を過ごした「内城」を訪れてきました。

鹿児島中央駅から南国交通バス「大龍小学校前」で下車、または市電に乗り終点「鹿児島駅」(写真⑨)からでも徒歩6分程の所にあります。私はバスで行き市電で戻りました。

江戸時代に入り鹿児島城が築城されると、この跡地は貴久と義久の菩提を弔う大龍寺となりましたが、寺は明治時代に廃仏毀釈で破却、その後は「大龍小学校」になっています。校庭に内城の碑が残っているようですが校庭の中には許可がないと入れないので、碑を柵の外から撮影しました(写真①すいません)。またその横には旧校門や大龍寺跡の碑もありました(写真②③)。でもこの小学校を見た瞬間ビックリ!😯 西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人」が掲げられていて、西郷の教えが今でも受け継がれているのには感動しました(写真⑦⑧)。今和泉島津家屋敷「篤姫」生誕の地も隣接していて、その向こう道の突きあたりが西郷隆盛の墓所(南洲公園)です(写真⑥)。

この近くにはもともと東福寺城という島津宗本家の城があったようです。しかし伊作島津家である父の貴久が守護であった宗本家の後を継ぎ、1550年に伊集院の一宇治城から鹿児島市内の海に近いこの場所に新たに内城を築城し移り住みます。城といっても屋形のような平城(居館)であったようです。ザビエルに出会ってから南蛮貿易の重要性に気づき、その貿易を盛んにするために海に近い場所に移して港を整備し、また大隅日向の統一を目指すための拠点としてここに居を移したと思われます。そして貴久死後は、長男の義久が後を継ぎ城主となり、江戸時代にその義久の後を継いだ義弘の子で初代薩摩藩主の忠恒が鹿児島城を築城するまでの約50年間、ここ内城が島津の本城となりました。

義弘も父の貴久と共に1550年に移り住み、15才頃から約4年間をここで過ごしたようです。そして18才になった義弘は、いよいよここから初陣を迎えます。

次は、義弘初陣の地で最初に城主となった(平松城)を訪れます。


【余談】さつま焼酎の看板
「さつま白波」は有名な鹿児島の芋焼酎ですが、鹿児島中央駅前でバスを待っていた時、ふとこのでっかい看板が目に止まり、思わず笑ってしまいました(写真⑩)。皆さんにはこの「だいやめで、きばいもんそ。」の意味がわかりますか?🤔(正解はこの下↓です)
 ↓
 ↓
 ↓
 ↓
(正解は)
 ↓
 ↓
「今夜は一杯飲んで今日の疲れを癒し、また明日から気合をいれてがんばりましょう!」
の意味でした~!😊
 

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カズサン

大書院と二の丸(3/3) (2023/10/01 訪問)

 続いて大書院を眺めつつ、二の丸周囲と大書院式台玄関、二の丸北大手の桝形囲いの石垣を眺めて三の丸北へ進行、相変わらず車、観光バスは引っ切り無しに駐車場へ入って来ます、余裕の三の丸駐車場です。
 この後は城下の混雑してる地区を避けて丹南篠山口ICを経由して北近畿道を通り但馬へ。
 

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カズサン

埋門からのアプローチ(2/3) (2023/10/01 訪問)

 南内堀周辺の復元整備の確認へと探訪を終えて、且つ天守台、本丸、二の丸の南側石垣城塁も十分堪能し、二の丸搦手門側からアプローチし二の丸埋門から二の丸内部へ進入、二の丸内部、平成12年に復元された大書院は風雪23年に耐えて風合いが出て来ました南側を眺めて、本丸へ現在青山神社が鎮座、天守台に登り周辺を俯瞰する、遠く八上城の山容を望み、天端より復元整備された南内堀、南広場を眺める。
 城下の賑わいほどではないですが、観光客が多く入城して居ました、何時訪ねてもワクワクします。
 

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赤い城

伝正寺境内が主郭 (2023/09/30 訪問)

伝正寺と三田公会堂周辺が城趾。
車も停めることができます。
伝正寺の周りを土塁が囲んでいてその外側は堀だったようです。
ちょうど彼岸花の時季で土塁を彩っていました。
公会堂の裏手にも土塁があるようですが見落としてしまいました。
姉川古戦場からも近い場所にありますが先を急ぐことにしました。
次回は小谷城も含めて周辺をじっくり回ってみたいですね。

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しんちゃん

なんとなくノスタルジックな気分になれる。 (2020/01/04 訪問)

秋月城は別名・秋月陣屋といい、戦国期の秋月氏の館跡に寛永元年(1624)に黒田長興が
築いたとされています。県の文化財に指定されている黒門を進むと黒田長興を祀る
垂裕神社にたどり着きます。城の主要部分は秋月中学校の敷地となっているようで
木造の校舎が良い味わいを出しています。大手には瓦が敷き詰められていて瓦坂と
呼ばれています。派手さはないものの落ち着いた雰囲気の良い城址です。

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しんちゃん

基肄城の写真のあまり いものがんぎ 佐賀県三養基郡基山町小倉 (2020/01/04 訪問)

基肄城の最大の見どころは水門周辺の石垣ですが、基山山頂部の主郭周辺の遺構も
なかなか見ごたえがあります。眺望が素晴らしいのはもちろんですが主郭下の
土塁を堀で分割した防御設備は「いものがんぎ(芋の雁木)」と呼ばれています。
芋畑の畝に見た目が似ていることが呼び名の由来らしいですが、なかなか素朴な
ネーミングセンスで良いと思います。

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しんちゃん

広大な城域を遺構で囲む。城というより山。 (2020/01/04 訪問)

基肄城は朝鮮式山城と呼ばれる古代の山城で基山と坊住山の二つの山にまたがる広大な城域
を持ち、太宰府の南の守りを担っています。天智2年の白村江の戦いで敗れた日本が新羅・
唐に対する防衛のために天智4年に築いたとされています。南水門の周辺には石垣など遺構が
良く残っており、水門は急峻な山容から流れる谷水の排水の役割も担っていたようです。
基山の山頂部からの眺望は素晴らしく、東峰の周辺には土の堤が残っています。2時間ほどの
ウォーキングを楽しみましたが、あまりにも城域が広いので全容を把握するまでに至って
いません。

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しんちゃん

夕暮れの中津城 (2020/01/04 訪問)

少し古い写真になりますが、中津城は二回目の訪問で、続百名城のスタンプが
欲しくて駆け込みに近い形で訪問したのを覚えています。すでに夕方になってきて
写真もいささか暗いのですが、これはこれで味があるのかもしれません。
サンドイッチのような直角三角形の縄張りを持っていた風変わりな城で扇城の
別名を持っています。黒田官兵衛の築いた石垣を細川家が改修した跡が残って
いるようなので三度目の訪問の際にはゆっくり石垣の継ぎ目を探してみたいと
思います。

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カズサン

南内堀復元整備の探訪(1/3) (2023/10/01 訪問)

 折角丹波篠山市まで来ておりますので、淀山城、八上城を終えて篠山城へ寄り、グラウンド、野球場として埋められてた内堀南側を埋め戻した南側内堀の復元整備は如何に進捗してるかと確認と探訪を8年振りに致しました。

 駐車場:篠山城三の丸北西駐車場(有料)を利用、土日祝日は400円、以外は200円、賑わって混んでいましたがお客さんは城下町側のイベント、街歩きの方へ運んでいました。

 探訪ルートは、駐車場から三の丸西、南へ、三の丸南広場が整備されてます、外堀側の土塁も奇麗に整備、トイレも完備、内堀を南、東目視確認、南東角の内堀から北へ、西へ石垣整備されて奇麗になっています、北方向の内堀は草が茂り良く分かりませんが、北大手から北、東は平成24年頃には完成しております。
 南東角の内堀と天守台の高石垣の景観は篠山城の見所一番かもしれません。
 南搦手門の土橋辺りの整備はまだの様で、土橋からの付根辺りから南内堀中ほどは、岩盤が露出して折りこのままの内堀整備かも?北の土橋、南の土橋を除いて内堀の水堀化整備はおおよそ完了なのでしょう。
 平成14年(2002年)から約20年超、少しずつでも復元整備が進んでいました。
  

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ぴーかる

勝山御殿跡 (2023/09/09 訪問)

【勝山御殿跡】
<駐車場他>駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>石垣
<感想>1泊2日北九州・豊前中津の旅3城目。第38回 日本100名城、続日本100名城に負けない名城として特集されていた勝山御殿跡に行きました。今回の旅のプラン立案の後にいい場所があったのを見直して急遽プランに入れ込んだので山城の方の勝山城登城は今回は見送り、御殿跡を軽く巡りました。元々山城と御殿跡との関連はほとんど無いので御殿跡の方が城びと未登録なのですが、特集として紹介されているので、勝山城の「行った」ポチはせずに勝山城の投稿として(先達方もそういう方が多い)させていただきます。
 御殿跡を道路が分断して駐車場がありますので御殿跡には車を降りればすぐ行けます。本丸表の郭は南に大手口、東西に1か所づつあります。大手口の巨石を組んだ落とし積みと呼ばれる石垣は本当に圧巻で見惚れました。特集される名城なのに城びとフラッグが無い、実体感してみて再度城びと追加見直しが必要かと思われました。

<満足度>◆◆◆

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佐々木政堯 (2023/10/19 訪問)

 文明3年(1471年)佐々木政堯が室町幕府の命を受けて築城し佐々木高頼の観音寺城に対抗したのが始まりとされています。
織田信長の上洛戦において一気に攻め落とされたと伝っています。小説などで信長と六角氏との攻防においてよく出てくる城で名前は昔から知っていましたが、あまり遺構もないようなので後回しにしてきました。山の上の曲輪跡と思われる面積が意外と狭く、多くの人数は籠れない印象です。少しだけ残る石垣が見どころですが、季節的に草木も緑を保っていてわかりにくかったですね。
 
 JR能登川駅よりバスに乗り山本バス停下車。徒歩約5分で登城口に行くことができます。

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目加田城跡公園 (2023/10/19 訪問)

 六角氏の重臣であった目加田氏の城で目加田城跡公園となっています。土塁が残っています。

 近江鉄道豊郷駅より徒歩約15分で行くことができます。

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WEST

富山城探訪 (2023/10/11 訪問)

富山城は市街地にあり、非常にアクセスしやすいお城です。駐車場も城址公園の地下にあります。
見どころは、創建当初から残る唯一の建造物である千歳御門と天守付近にある鉄御門の鏡石です。これらを含めて比較的短時間の散策でお城の雰囲気を堪能できると思います。
なお、天守は郷土博物館を兼ねた模擬天守ですが、天守ファンにはうれしいですね。

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WEST

増山城探訪 (2023/10/11 訪問)

増山城を訪問しました。麓には増山陣屋と駐車場があり、アクセスし易いお城です。この日は平日のためか登城者は他にいませんでした。
このお城は越中三大山城といわれており、登城は少々きついですが、途中に堀切、郭を見ながら山城らしい登城となりました。
一の丸では眺望を素晴らしく、疲れを癒してくれます。
残念ながら、堀切下からの階段が破損しており、安室屋敷へのアクセスはできませんでした。
増山城の北東には亀山城がありますが、時間の都合もあり断念しました。

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WEST

金沢城探訪 (2023/10/11 訪問)

数十年ぶりに金沢城を訪問しました。多くの門、櫓等が復元されており、その大きさは壮観です。城址内をゆっくり探索するには半日程度必要と感じました。
市街地にあり、早朝から登城している人が数多くいて、その人気の高さを実感しました。
順次整備しているのか、残念ながら現存する三十間長屋は工事中でみることができませんでした。(令和6年3月まで)
城址内の玉泉院丸庭園も整備され、その眺めに散策後の軽い疲労感を癒してくれました。庭園内の休憩所「玉泉庵」で抹茶を頂き、お殿様の気分に浸りました。
再度登城したくなるお城です。

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駿府城

企画展 特別講演会「“皇帝”家康の駿府城」を開催します!

慶長期駿府城は、大御所家康が手腕を振るう国内最高レベルの政治拠点。ヨーロッパの人びとから“皇帝”とも呼ばれた家康が、世界に向けた外交に取り組む場でもありました。巨大な天守台の築造経緯を物語る発掘成果や、他の城に見られない特徴などを挙げながら、城郭・文献・考古の専門家たちが慶長期駿府城の実像を探ります。
日時     10月28日(土) 13:00~16:00(開場12:15)
会場     静岡市民文化会館 中ホール
定員     500人(申込順)
参加費    無料
申込     10月23日(月)まで、静岡市コールセンター(電話054-200-4894)
で受付(申込順)
講演・報告  基調講演/中井均さん(滋賀県立大学名誉教授)
成果報告/松下高之(静岡市歴史文化課)
パネルディスカッション
コーディネーター/萩原さちこさん(城郭ライター・編集者)

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しんちゃん

長野城 写真のあまり 三重県津市 (2023/10/15 訪問)

長野城の写真が余ってしまったので掲載させていただきます。個人的には主郭より
北東の遺構の方が興味がありました。南北朝のころから使われている城らしいの
ですが、北東部の遺構の堀、土塁、これらの遺構は戦国期のものではないかと
考えます。わずかですが石積のようなものまであり、尾根の下方から通路が堀の
ように上方に続いていて、上の方には両側に大きな土塁まであります。門の礎石
らしいものが幾つかあり、北東から尾根沿いに昇ってくるとなかなか壮観な
光景だったのではないでしょうか?ここから西に回り込み大岩の間を通って
主郭に到達したのかな?想像が膨らみます。

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