(26人目)井伊直政の続き⑬です。
直政がついに侍大将となり、秀吉との決戦のため初めて「井伊の赤備え」を引き連れて布陣した小牧山城を訪れてきました。名古屋駅から名鉄犬山線に乗り岩倉駅で下車。東口から小牧行のバスに乗って30分、小牧市役所前で下車すると目の前が小牧山城です。
バスを降りると、まず大きな土塁が目の前に現われます。榊原康正がわずか5日で築いたという有名な土塁です。高さ8mと大きくて深いですが、さらにその上にも土塁があり(二段構え)、秀吉がこれを見た瞬間「小牧山を攻めるは容易ではない」と語った理由が分かる気がしました。そして外側は鋭く内側は緩やかな傾斜だったようです(写真⑤⑥⑦)。つまり守りやすく攻めにくい作りになっていたという事ですね! さすがは康正です。
信長・家康時代には天守はなく、土造りの城に最上部を石垣で固められていたようです。今ある天守(写真①)は、昭和42年に名古屋の実業家(平松茂さん)が私財を投じて建てたと書いてありました。その天守に登って見渡すと、360°濃尾平野が見事に一望できました。そして北東の方角を眺めると、秀吉が布陣していたという楽田城があの位置にあったようです(写真②)。そして南東の方角には合戦地、長久手がかすかに見えました(写真⑧)。
井伊直政は御幸橋口付近に布陣していたと思われます(写真③④)。楽田城にいた秀吉軍10万の壮大な軍勢を、家康と直政はどんな思いで、ここ小牧山から見つめていたのでしょうか?
家康はこの時から井伊の赤備えを主力部隊にしようと考えていたようです。というのも石川数正がこの直前に秀吉の元へ出奔したため、徳川軍の戦力や戦術などの情報は秀吉側へ筒抜けとなっていました。よって今までと違う部隊で、違う戦い方を余儀なくされていたようです。そこで家康は軍制を甲州流へ変更、主力は井伊直政軍1万、酒井忠次・本多忠勝・榊原康正軍はそれぞれ5千の陣容に変更しました。。
対する秀吉は、この膠着状態を打開するため「中入り」の策をとります(中入りとは、空白となっている背後の相手の居城を攻める事です)。池田恒興と森長可の秀吉軍別動隊が夜陰にまぎれて岡崎城を攻めるために出陣。家康は伊賀衆の報告でこの動きを知ります。
多数のかがり火を焚いて、いかにも家康はまだこの小牧山城にとどまっているかのように見せかけ、本多忠勝を残し、家康は直政らとともにこの堀を密かに通って城外へ抜け出し、長久手へ向かいました。どうして秀吉の間者(忍者)にも気づかれず、うまく抜け出す事ができたのでしょうか? 深い堀なので気づかれなかったと伝えられていますが、本当にそれだけだったのでしょうか? 深夜で足元が暗いのに、全くかがり火を焚かないで、どうやって長久手までの写真⑧の長い距離を行く事ができたのでしょうか? これだけの軍勢が移動するので、鎧のガシャガシャという音や人間の足音、馬の足音や鳴き声など、秀吉の間者や地元の農民などから気づかれない理由がないと思うのですが🤔? 私には何だかとても不思議に思えてなりませんでした。
次は(長久手古戦場)へ続きます。
引き続き赤備え隊の活躍を追います。
【余談】名古屋の居酒屋
夜は名古屋の居酒屋に入ってみました。濃い味噌ソースをかけたカツや土手煮、名古屋コーチンの手羽やその出し巻き卵といったメニューが多く(写真⑨)、どうやら濃い味噌を使った味で、鶏や豚などを食すのが名古屋文化なのかもしれません。ならばこれらにはチューハイが合いそうだなと思って注文すると、こんなものが出てきてビックリしました😲(写真⑩)。このレモンも名古屋文化なのでしょうか??
+ 続きを読む