新庄城は新庄盆地の中央に位置し現在は新庄八幡宮の境内になっています。戸沢藩初代戸沢政盛によって寛永3年3月に築城がなされたとのことです。かつては本丸を中心に二重の堀を配し指首野川を天然の外堀としていたようです。今でも八幡宮の周囲に堀が残り各所に残された櫓跡の標識が往時をしのばせます。
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2023/12/17 11:16
2021/11/03 23:44
戊辰戦争で落城した戸沢氏六万石の居城 (2021/11/03 訪問)
コロナの新規感染者数も落ち着きを見せてきた祝日、地元鳴子峡の紅葉が見頃との情報でドライブに。例年この時期は道路の渋滞などで大変混み合うため早朝に出発し午前8時には到着できたが駐車場は既にほぼ満車の状態だった。きれいな景色にしばし見とれた後はもちろん城址探訪となるわけだが、山形県側に足を延ばして新庄城を目指した。
新庄市は戸沢家6万石の旧城下町。元和8年(1622)に山形の最上家改易により戸沢政盛がこの地に入封し、当初は真室城(鮭延城)に入るが手狭であったため、最上家家臣日野将監の居館を拡張整備して築城したという。
残された絵図によれば縄張は本丸を中心に南側に二の丸を設け、それを三の丸が囲む近世の平城。本丸には三重の天守と三つの隅櫓を、東側と北側には桝形の櫓門を構えていた。天守は寛永13年(1636)に火災により焼失し、その後は再建されなかったらしい。
慶応4年(1868)の戊辰戦争において新庄藩は、総督府軍(新政府軍)および秋田藩と奥羽越列藩同盟の庄内藩の間に在って御家存続のための活動を続けるが庄内藩軍の攻撃を受け7月14日に落城。城は新庄の街と共に戦火により消失したという。
現在、城址は最上公園となり本丸の堀、土塁、櫓跡、石垣などが残る。旧三の丸にある「新庄ふるさと歴史センター」の観覧もおすすめしたい。
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2021/09/17 21:20
表御門切込接ぎ石垣と水堀/土塁が美しい (2013/05/09 訪問)
平成25年5月連休明け上山城を終えて山形新幹線で新庄駅へ新幹線は早くて便利です、タクシーで最上公園と成ってる新庄城へ初登城。
城跡ハンドブック等で新庄城は表御門の左右の切込接ぎ石垣写真がトップに掲載さて代名詞に成ってますので本丸の水堀を渡り石垣を見学綺麗に石垣が残ってます、時間的に表から撮ると逆光で左右に石垣を揃えての構図では暗く映って写真見栄えが悪し、本丸をぐるっと回り二の丸側の虎口、裏御門虎口側、土塁と水堀を観察、水堀、土塁が綺麗に整備されてる、二の丸大手側には役所跡に市の施設が建ち、車で訪問された方には駐車場が各所に在ります。
終わってタクシー帰ろうとするがタクシー見つからずぶらぶら歩いて城下町を散策し新庄駅へ駅には新庄まつりの飾り付けがされてました。
兄弟夫婦でコアーの宿泊先、銀山温泉に山形新幹線大石田駅経由銀山温泉迎えバスで移動、宿は銀山温泉で有名な能登谷旅館木造3階建て素晴らしい露天風呂と内湯でした、イワナの骨酒が美味、酒量が増しました。
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分類・構造 | 輪郭式平城 |
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天守構造 | 不明 |
築城主 | 戸澤政盛 |
築城年 | 寛永2年(1625) |
主な改修者 | 戸澤政盛 |
主な城主 | 戸澤氏 |
廃城年 | 明治元年(1868) |
遺構 | 曲輪、石垣、土塁、櫓台、横堀(水堀) |
指定文化財 | 市史跡 |
再建造物 | 碑、説明板 |
住所 | 山形県新庄市堀端町6 |
問い合わせ先 | 新庄市商工観光課観光交流室 |
問い合わせ先電話番号 | 0233-22-2111 |