なかいずみじんや

中泉陣屋

静岡県磐田市

別名 : 中泉代官所
旧国名 : 遠江

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①	中泉御殿跡に立つ家康像
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トク

102【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と家康出会いの地?-中泉御殿) (2024/02/15 訪問)

(26人目)井伊直政の続き④です。
家康が浜松時代に鷹狩りの休憩地として建てた中泉御殿を訪れました。

JR磐田駅から南に徒歩3分の所にあり、御殿の跡地は現在は公園とコンビニになっています(写真①)。また駅から北へ徒歩10分の所にある西願寺にある門は、御殿の裏門が移築されたものだと伝わっています(写真②③)。

浜松時代に家康は鷹狩りを大変好んでいました。磐田駅の南側一帯は現在は住宅地ですが(写真④)、当時ここは池や沼が多く、そのため鳥や動物が多く生息していたようで、家康はこの地を好み、数十回もここで鷹狩りを楽しんだと言われています。そしてその休憩地として中泉御殿を建て、ここを狩りの拠点としていたようです。

1575年、14才になった虎松(直政)は、鷹狩りの最中に目通りがかない、家康と出会ったと伝えられています。しかしその場所がどこだったのか調べましたが、明確な場所はわかりませんでした。ならば私は、この周辺で出会った確率がいちばん高いのではないかと思い訪れました(これはあくまで私の推測なので間違っていたらすいません)。

家康は井伊直親が自分と通じていたため今川氏真から殺された事を憶えていました。井伊家は正室の瀬名の母方の家でもあり、その血筋の直親の子が生きていた事に驚き、虎松を見た瞬間、「直親の実子であれば召し抱えぬわけにはいくまい」と語ったそうです。そして虎松は300石で家康の小姓として召し抱えられ、念願の井伊家再興を果たすことができたのでした。

私は磐田駅からこの鷹狩り地の一帯を眺めながら考えてみました(写真④)。家康には初めて見た虎松がどのように映ったのでしょうか? きっと何か感じるものがあったのではないでしょうか? そしてこれを何より一番喜んだのは、念願の井伊家再興を夢見ていた、叔母であり養母でもあった直虎である事は言うまでもありません。

次は、直政の出世の始まり(浜松城)を訪れます。
 

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しんちゃん

家康公の鷹狩りのための御殿‥の一画にあった陣屋 (2024/05/25 訪問)

中泉御殿は徳川家康が鷹狩りの際に用いる宿泊所として中泉村に築いたとされ、中泉陣屋は御殿の一角に置かれ「中泉代官所」とも呼ばれました。陣屋のあった場所は御殿遺跡公園として整備されています。周辺に遺構は有りませんが、御殿の裏門が西願寺に、表門が西光寺に移築され、案内板が建てられています。
また磐田市の民家には陣屋の表門が移築されているようです。

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城好きのメガネ

「中泉陣屋」 (2024/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
中泉陣屋は、徳川家康が伊奈忠次に命じ、鷹狩のための施設として御殿を築いた。その後は、中泉陣屋として遠江・三河・信濃の天領を支配する代官所として利用される。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR磐田駅 徒歩10分

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くうくう

モニュメントとして駅南市街地の公園に

天正15年(1587)徳川家康が伊奈忠次に命じ鷹狩用宿泊施設と作らせた中泉御殿が始まり。ここに隣接するように江戸初期に中泉陣屋が置かれたらしい。西に表門を構え外回りの延長が約571m。遠江三河にわたる天領の支配は幕末には7万6千石余りに及ぶ。49代の代官が就任した。
現在は御殿遺跡公園となり、案内板があるくらいで遺構は無い。そこには、かつてここに遠江国府があったことを記している。「御陣屋跡 軍兵稲荷道」の道標が残る。小さな家康らしい石像があった。

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城郭情報

分類・構造 陣屋
天守構造 なし
築城主 伊奈忠次
築城年 天正18年(1590)
主な城主 伊奈氏
廃城年 慶応4年(1868)
遺構 曲輪、移築門(磐田市新島312(個人宅)・西光寺・西願寺)
再建造物 石碑(御陣屋跡 軍兵稲荷道)、説明板
住所 静岡県磐田市中泉字御殿