はいばらじょう

埴原城

長野県松本市


旧国名 : 信濃

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主郭石垣
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ぴーかる

大要塞の小笠原氏城跡 (2023/11/23 訪問)

【埴原城】
<駐車場他>蓮華寺前に駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>曲輪群・石垣・堀切・畝状竪堀群・武者走り
<感想>2泊3日松本・佐久・吾妻の山城攻めの旅初日1城目。現地説明板によると、埴原城の築城年・廃城年は定かではありませんが信濃国守護である小笠原氏の家臣埴原氏によって築城されたとされます。1550年に武田晴信の進攻によって落城しましたが武田氏滅亡後に小笠原貞慶が奪還し改修した可能性が高い、現在残る遺構はこの時のもののようです。

 登城口は蓮華寺の北<36.188000, 138.009114>にあり屋敷跡が残ります。獣柵のゲートを開けて入って登ると主郭から西に伸びる尾根曲輪の真ん中辺の堀切に出ます。私は行きませんでしたが、登城口の屋敷跡を左手の山道に入っていくと西に伸びる尾根曲輪の先端から登れるようです。

 城跡は主郭を中心に東側以外の5方向の伸びる尾根上に曲輪群を配し、1つの尾根曲輪群に5~8条の堀切で遮断しています。城跡全体では大小合わせて数十条の堀切があるでしょう。主郭の西南方向に2郭・3郭・構という曲輪が連なっています。主郭の東側に大堀切があり大堀切の東側は山の上方になりますが、かなり見応えのある扇状の畝状竪堀群があります。竪堀群の中に1条、堀底状通路という大切通しがあり圧巻です。
 主郭は2局構造になっていて中心に堀切・土塁で仕切っています。東側の主郭は東面の大堀切のための大土塁がありアーチ構造、西側は平坦で南面と西面に見事な石垣が残っています。主郭の南側は2郭3郭から伸びた斜面に並行して武者走りが2・3本通っています。
 主郭南の武者走り・登城路の更に南下段、構という曲輪の東下段の削平地にも石垣遺構が見られます。現地にある縄張り図に曲輪になっていないので見落としがちかもしれません。ここもかなり見応えあります。
 
 多くの堀切渡りでかなり体力を消耗しますが、それを忘れる程の見事な見応えある大城郭の城跡、夢中で散策して3時間かかりました。「日本100名城、続日本100名城に負けない名城 第19・20回小笠原氏城跡」に含まれるようですが、この埴原城跡の詳細な記事は無い、私的には埴原城跡は単独個別で百・続百名城に負けていない城跡でお勧めです。

<満足度>◆◆◆

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:埴原城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の8城目は埴原城です。
水番城から転戦。蓮寺華・埴原城駐車場(36.187055、138.008412)に駐車し、獣除けフェンス(36.188080、138.010250)まで200mくらいでした。

埴原城は信濃国の守護・小笠原氏の家臣埴原氏(村井氏)が拠った城で、埴原勅旨牧(御牧)が荘園化された頃(鎌倉時代)に牧場地帯から 西の松本盆地の南部に下り、村井に館(小屋城)を構えて村井氏を称したようです。
その頃に要害城として埴原城を構えたのが この城の始まりとされています。
室町時代に小笠原氏が信濃守護職として入部した為、その支配下に入りました。
戦国時代に入ると甲斐の武田氏が 信濃に侵攻を始め、小笠原氏は本城の林城の南にある埴原城の整備強化をはかりました。
1548年(天文17年)塩尻峠の戦いの後、1550年(天文19年)武田晴信により真っ先に攻撃され落城しました。
この後、林城など小笠原氏の諸城は続々と落城し、信濃守護小笠原氏はこの地を追われることになります。
武田氏滅亡後、小笠原長時の三男である小笠原貞慶が徳川家康の支援を得て深志城などを奪還した際にこの城も取り戻して改修しています。
現在城址には石垣や土塁、畝状竪堀群などの遺構を確認することができます。

主郭より各尾根に遺構が残る大きな山城で城域が広すぎます。若干の右ひざ痛が残る中、90分かけて攻城しましたが半分も見学できていないと思います。
主郭付近は石積も良好に残っていますが、登城路にマウンテンバイク跡が残っていたのには驚きました。
攻城時間は90分くらいでした。

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ヒロケン

小笠原氏大要塞群の一つ (2020/04/01 訪問)

埴原城は小笠原氏大要塞群の城の一つで、諏訪伊那地方からの敵に備えた南方の前線基地としての役割を担っていました。
1542年の「塩尻峠の戦い」の後、1550年武田信玄が小笠原長時を攻略する際に真っ先に埴原城を陥落させたため、近隣の小笠原氏城の林城・桐原城・山家城などの城が相次いで自落したことでも戦略上重要な城であったことが伺えます。

埴原城は小笠原氏城の林城・桐原城・山家城等と並んで戦国時代を代表する松本市内で最も規模の大きい山城で、城跡には今でも多くの郭や土塁・石垣・空堀・竪堀・堀切が良好な状態で残っています。
行き方としては、蓮花寺(松本市中山4524)を目指し、蓮花寺駐車場に駐車し、徒歩30分程で主郭に到着します。

この城の見所としては、「お姫様の化粧水」と呼ばれる水場を過ぎたあたりから、主郭部の石垣・主郭後方の技巧的な空堀を始めとする竪堀群が素晴らしい\(^_^)/(私見です)
(城域の至る所に、猪・鹿のう〇こがあり、踏まないように散策するのが大変です。)

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神秘のベールに包まれた大城塞 (2015/10/12 訪問)

埴原城は松本市の東南に位置し、信濃守護小笠原氏の居城林城の南の守りを司っていました。築城時期など詳細は不明。在地の埴原氏(村井氏)の城だったようですが戦国時代甲斐の武田信玄が信濃へ侵攻した際、埴原城を攻撃し落城させています。そして埴原城落城を受けて、林城、桐原城など小笠原系の城砦が戦わずして自落しました。

埴原城の凄さは、尾根先から山頂部にかけて城の守りを厳重にしている点です。城の西側には中山砦(現・中山霊園)があり、そこからは松本平が一望できます。つまり、こちら方面からの敵の侵攻は容易に見つける事ができ鉢伏山など2000m近い山を背後にしている敵が攻めにくい東側に対する防御が完璧なのです。主郭から東へ二の曲輪と続き、大堀切で一本進路を切っておいてさらにその先に畝状の竪堀を配すると言う念の入れよう・・・。埴原城の見どころは主郭から東側のこのくどいほどの土木量にあります。主郭の石積みは長野県の山城に多く見られる比較的平らな石をそのまま積んだもので、二段構えの構造は埴原城内屈指の遺構と言えます。

登城口の蓮華寺から歩道伝いに登れるので難易度的には初心者でも安心して登れる山城です。また、蓮華寺周辺は埴原氏の屋敷などがあったと推定されています。麓の屋敷跡から山城の奥の院まで、これ程の規模でしっかり造り込まれている埴原城の遺構は一見の価値大です。

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城郭情報

分類・構造 山城
天守構造 不明
築城主 村井(埴原)氏?
築城年 鎌倉時代?
主な城主 村井氏
遺構 曲輪、石積、土塁、堀切、竪堀、井戸跡
指定文化財 県史跡(小笠原氏城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 長野県松本市中山
問い合わせ先 松本市教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 0263-34-3292