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多治見修理 (2022/10/15 訪問)

 城の下には木曽川が流れ、犬山、鵜沼、美濃加茂方面を結ぶ交通の要衝にあります。戦国時代、多治見修理が守っていましたが、美濃攻略を目指す織田信長の配下河尻秀隆により攻略されました。その後、信長の命令で勝山城に改名しました。
 主郭には櫓風の展望台があります。眺望はすばらしく、この日は晴れていて小牧山城が見えました。犬山城は残念ながら山陰に隠れて見ることができません。西側へ続く尾根には堀切と土橋が見られます。「岐阜の山城ベスト50を歩く」に石垣があるとの記載あり、「久太郎の戦国城めぐり」さんのHPの図を見ると3ヶ所記載されていました。西側の石垣は見つけることができましたが、他の2カ所は藪になっているためか、探し方が悪いのか、気合が足りずヘタレなのか、見つけることができませんでした。

 坂祝駅から徒歩約10分で登城口に行くことができます。階段が多い山登りですが道はハイキングコースとして整備されていて比較的歩きやすいと思います。この日は天気も良く多くの老若男女のハイカーが登ってみえました。登って行くと曲輪を思わせる削平地もあります。約30分弱で主郭に行くことができました。

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Sambo

大手門跡 (2022/09/03 訪問)

大手門跡、発掘工事中でした。

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イオ

彦根夜の陣 (2022/09/17 訪問)

ここ数年、毎年訪れている彦根城ですが、今回は夜間特別公開にやって来ました。開催時間の少し前に表門券売所に着くと、すでに20人ほどの列ができています。18時になり入城。秋分の日の前週のため入城した時点ではまだ明るさもあり、いつもの日中とさほど違いを感じませんでしたが、天守内を見学しているうちに日が沈み、最上階からは彦根の街の夜景を見渡すことができました(夜景写真は綺麗に撮れませんでしたが…)。日中は蒸し暑い一日でしたが、台風が接近しつつあるせいか夜の天守内は強い風が吹き抜けていました。

天守を出ると、ライトアップされた天守の漆喰の白さが暗闇の中ひときわ鮮やかです。青空のもと聳える天守も映えますが、ライトアップも実に素晴らしいなぁ…と見惚れながら、着見櫓跡から南隅をめぐって西の丸へ。西の丸にも最低限の照明はあるものの、足元が暗い箇所もあるので持参したLEDライトで前方を照らしながら進むと、西の丸三重櫓もライトアップされていました。天守と同じ三重三階ながら、飾り破風が設けられていないせいか地味な印象の西の丸三重櫓ですが、白と黒のコントラストが鮮烈でいつになく華麗に見えます。西の丸から先は公開されていないため、来た道を表門に引き返すと、天秤櫓に彦根橘紋が映し出されていました(行きはまだ明るくて気付かなかった)。また、表門付近は井伊の赤備えにちなんででしょうか、真っ赤にライトアップされていました(時間によって青もあります)。

せっかく夜の彦根城に来ているのだからと「観月の夕べ」の開催されている玄宮園にも行きました。ライトアップされた玄宮園はいつもとまた違った雰囲気があり、庭園越しに仰ぐ天守は真っ白に輝いて見えました。本来は呈茶席や邦楽演奏、お月見コンサートなども開催されるはずでしたが、台風接近のため中止に。残念…。玄宮園を出て駐車場に戻る途中に振り返ると、佐和口門にも彦根橘紋が映し出されていました。

さて、いつもの彦根城は日帰りですが、今回は翌日に甲賀市での「出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 2022」に参戦するために宿を取っており、急いで帰る必要はないので、彦根ちゃんぽんの名店「らーめん本気」であんかけちゃんぽんを注文。この日の昼食はコンビニおにぎりだけだったこともあり、遅めの夕食でたいがいお腹も空いていましたが、麺と野菜にたっぷりあんのかかったちゃんぽんは味・量ともに満足のいくもので、すっかりお腹を満たしてくれました。攻撃的とまで言われる熱々のあんは口の中をやけどしそうなほどですが、冬場には城めぐりで冷え切った身体を芯から温めてくれそうです。

# 登城2日後に台風の影響で馬屋の門扉が破損し、天守の漆喰が剥落したとのニュースを見ました。直前に訪れていただけに気になっています。一日も早く無事に修復されますことを…。
 

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AJ

田んぼ、神指、直江状 (2022/09/15 訪問)

会津ラストは駅前から電動自転車。のんびりこいで15分ほど。目の前にひたすら広がる収穫直前の田んぼ、田んぼ、田んぼ。その中にポツポツ見える小高い丘。この不自然な光景に思わず足を止めたあなたの城愛は相当なもの。

神指城(方形二輪の輪郭式平城)。と言っても目につくのは本丸土塁と二の丸四隅の土塁のみ。山に近く拡張が困難なうえ、守備にも不利だった若松城を嫌ったとされる直江兼続。北西に約4キロ離れた神指ヶ原に上杉家の大城郭を築こうとしましたが、家康の会津征伐への対応を余儀なくされたため普請は中断。関ヶ原後、上杉景勝が米沢に減知転封されたため、未完のまま終わりました。

面積は若松城の約2倍。川や運河から近く、完成すれば政治のみならず経済の中心としても機能していたはずです。蒲生氏郷亡き後、上杉家が奥羽の押さえとして120万石で会津に移ったのが1598年。一見、秀吉によって創業の地・越後春日山から引き剥がされたようにも見えますが、景勝・兼続主従がこの地を京や大坂、あるいは西の広島(毛利)に並ぶような“都市”にしようとした気概が見え隠れする遺構です。

さて、これを豊臣家への「謀反の準備」と言い張ったのが家康。そしてその指摘を世迷言と一笑に付したのが世に言う「直江状」であります。どちらかと言えば、後者を好意的に描く作品が多いように思います。

でもどうなんでしょう。これだけの大城郭を築いておけば、秀吉没後、情勢が再び乱れた際にキャスティングボードを握れる、というちょっと影が差した考えが、景勝にはなかったとしても、兼続の中に未必の故意に近い状態であったと考えるのが自然ではないでしょうか。田んぼの真ん中でふとそんなことを思うのでした。

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小城小次郎

この地をお城に選んだのは (2022/05/28 訪問)

宇都宮(城井)氏が城井谷に舞い降りたのは源頼朝の命だというからその歴史はめっちゃ古い。当初から城井ノ上城も使われたらしいが現状は城というより祭祀施設。崇敬を集めていた地に城を構えて一体化したということか。

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赤い城

渡良瀬川に沈んだ城 (2022/09/19 訪問)

古河駅から徒歩で15分くらいで古河歴史博物館に着きます。
この辺りが諏訪曲輪で土塁が残っています。
堀跡も整備されていました。
途中にある福法寺には移築された乾門がありますが形は改変されているそうです。
歴史博物館から近くを歩くとまずは獅子ヶ崎の土塁。
説明板も設置されています。
北に行くと大手門の跡地、さらには頼政神社。
土塁の上に建っています。
本丸や二の丸などの中心部波渡良瀬川の河川敷となり遺構は残っていません。
かつては三重の天守が建っていました。
街中を歩いて遺構ハントが楽しめる城。
古河公方の居城で江戸時代には土井利勝が治めた地です。

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ほにゃにゃら

546年記念限定御城印発売

11月13日勝間田城址にて勝間田城546年祭限定御城印を300枚限定で発売します(1枚300円)
あわせて缶バッチも100個限定にて販売します(1セット300円)

当日はお茶みかんなど地元農産物の販売もあります。
9時から15時まで雨天決行

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カズサン

復元櫓を観たいと二度目の登城 (2004/06/18 訪問)

 鹿児島に出張時、周辺業務移動にレンタカーを使用し、空き時間に一山越えて人吉城を二度目の登城、初登城には同僚の車で案内していただき、復元されてる角櫓、大手脇多聞櫓を観たいと出掛けたのですが、御館跡、同庭園、有名な武者返し石垣を初見学しただけで、復元櫓を探し当てて見学探訪する事が出来ませんでした、当時スマホが有る訳で無く、浜松に帰って復元櫓の場所位置を確認して、半年後の今回、復元角櫓、復元大手脇多聞櫓、同間をつなぐ続き石落とし付き長土塀を、やっと観察する事が出来ました。

 武家屋敷が広がっていた外曲輪部分の北側の球磨川を外堀とし、西側の胸川も外堀として北西角部分の北側に単層角櫓が平成元年に復元され、西側に大手脇多聞櫓が復元、同時に続き石落とし付き長土塀も復元されました、城郭雑誌に復元された角櫓から大手脇多聞櫓、続長土塀の写真が掲載されて居り、何時か見たいと思って居た事が、18年前の平成16年6月中旬に叶いました。

 相良氏は静岡県相良の出身で鎌倉幕府初期に人吉地頭を頼朝より受けて以来、南北朝、戦国期、対島津戦、秀吉九州征伐、関ヶ原と耐えて2万2千石を守り明治まで相良氏で継承し治世しました。静岡県浜松市在住者としては思い入れも有ります。

 石垣も立派で球磨川沿いの護岸も兼ねた長高石垣群、胸川沿いの長高石垣も素晴らしい苦労の造作だった事でしょう、小藩での高石垣造りはさぞ大変で、対島津への牽制として幕府からの援助も有った事でしょう。
 水の手橋側の水の手門跡の土塀の復元も平成19年に復元されて居ます。

 ただ残念な事に2年前の令和2年7月に人吉大水害に遭い甚大な被害がもたらされた事です、また人吉城も被害に遭って居り、復旧工事中の様子、今回の登城では人吉城歴史館は出来て居ませんでしたが、被害に遭い休館中との事を皆さんの投稿で聞き及んで居ります、早い災害復旧を祈ります。
 

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イオ

島津の退き口 (2022/09/17 訪問)

大垣市から上石津町にかけては関ケ原の戦いにおける「島津の退き口」の舞台となった地であり、あちこちにあるゆかりの史跡をめぐってみました(上石津郷土資料館でガイドマップが配布されています)。実際には上石津町から関ケ原へと退却ルートを逆にたどっていますが、ここでは時系列に沿って投稿します。

島津義弘陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原)
関ケ原の戦いにおいて西軍総崩れにより戦場に孤立した島津義弘隊は、敗走する西軍諸隊で溢れる後方の北国脇往還でなく、敵中を突破して前方の伊勢街道から退却することを決意。福島正則隊を突破し、徳川家康本陣をかすめて、前代未聞の前進退却を敢行しました。

烏頭坂(岐阜県大垣市牧田)
井伊直政・松平忠吉隊の激しい追撃に対して、烏頭坂で副将の島津豊久が捨て奸(本隊を逃がすために小部隊が全滅覚悟で留まって追手を足止めする決死の戦術)により迎撃し、義弘本隊は逃れたものの、豊久はこの地で討死したとも、重傷を負って伊勢西街道を逃れたとも伝わります。道路沿いに烏頭坂の説明板が、坂の上に島津中務大輔豊久之碑が建てられています。

琳光寺(岐阜県大垣市牧田)
なおも追いすがる井伊直政・松平忠吉隊に対し、牧田上野で家老の長寿院盛淳が捨て奸を行い、盛淳は義弘から賜った陣羽織を身に付け「我こそは義弘也」と名乗りを上げ身代わりとなって討死しました。牧田の琳光寺には長寿院盛淳の墓の説明板、宝暦治水の際にこの地を訪れた薩摩藩士が盛淳を偲んで刻んだ五輪塔と子孫が建てた顕彰碑があります。また、大垣市役所牧田支所の南東隅にも盛淳の顕彰碑が建てられています。

白拍子谷(岐阜県大垣市上石津町上多良)
烏頭坂を逃れた豊久は勝地峠で追撃を振り切って白拍子谷に隠れましたが、傷は重く、退却の足手まといにならないようこの地で自刃したと伝わります。谷の入口付近に白拍子谷の石碑と説明板が建てられています。

瑠璃光寺・島津豊久の墓(岐阜県大垣市上石津町上多良)
豊久の亡骸は薬師寺(現在の瑠璃光寺)で手厚く葬られ、裏手の森(カンリンヤブ)に五輪塔が建てられました。現在も瑠璃光寺は豊久の菩提寺として位牌が祀られ、カンリンヤブの五輪塔は豊久の墓所として島津塚と呼ばれています。

そして、島津豊久や長寿院盛淳らの勇戦により伊勢東街道を逃れた島津義弘は、駒野峠から五僧峠を越えて近江に抜け(諸説あります)、多大な犠牲を払いつつも薩摩への帰国を果たしました。

…それにしても、敵中突破やら捨て奸やら壮絶極まりない「島津の退き口」ですが、捨て奸も各々自発的なものだったと云われますし、
島津義弘はこの人のためなら命も惜しくないと思わせるだけのものを持った将だったんだなぁ、と改めて。してみると、鬼島津と恐れられた義弘隊の精強さは、義弘自身の勇猛さはもちろんながら、根底にこの結束力あればこそだったのかもしれませんね。
 

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真田幸隆 (2022/10/13 訪問)

 上杉方の東条氏の城で武田晴信が真田幸隆に命じて落とし、海津城ができるまで北信濃攻略の重要拠点となりました。山頂の主郭より尾根に曲輪が展開して堀切で防御しています。最西端の堀切は他の堀切と合流して竪堀となっていました。石積みや畝状竪堀と思われる遺構もあります。水の手はなさそうでしたが、どうしていたのでしょうか。

 川中島の東方、松代の方から見るとポッコリした個性的な山です。城址はトレッキングコースとなっていて、いくつか登城口がありますが、自分は玉依比売命神社の脇から登るコースを選択しました。登城口にはパンフレットが置いてあります。南尾根コースで登り、北尾根コースで降りてきました。パンフレットでは片道1時間30分でしたが、自分は1時間10分くらいで何とか主郭へ行くことができました。急坂あり岩場ありで、ロープや鎖を使って往復しました。宮坂武男先生の絵を見ていただくと周囲が断崖となっている山城だとわかりますが、実際その通りです。北西部のみ奇妙山に尾根が続いています。東西南は岩壁が露出しています。この岩は今から200万年~500万年前に噴出した溶岩が固まってできた両輝石安山岩とのことです。久々になかなか“ロック”な山城攻めでした。岩沢登山口から登城した方が急坂のようですが時間は早く主郭へ行くことができるようです。パンフレットでは1時間10分となっていました。以前から気になっていた城址で、11月過ぎてからの方がいいかなとも思いましたが、思い切って行ってきました。

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海津城 (2022/10/13 訪問)

 久々の登城です。城址は丁寧に整備、管理され散策しやすいです。海津城といわれたころはどんな風景だったのでしょうか。

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ぴーかる

兵庫城/大輪田泊 (2022/09/11 訪問)

【兵庫城】
<駐車場他>イオンモール神戸南(買い物前提)終日駐車料金無料のようです。私は知らずに近くのコインPに駐車
<交通手段>車

<感想>日帰り西摂津東播磨ちょこ城巡りの旅8城目。兵庫城は信長時代に荒木村重の反乱ののち、鎮圧に功のあった池田恒興に兵庫の地と摂津国の太守として信長より与えられ、1581年に花隈城を廃城にしてその石垣を使用して築城されました。わずか2年で池田恒興は大垣に転封されたのでそののちは豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元を代官に置きます。江戸時代には尼崎藩に組み込まれて陣屋が置かれ、その後天領となります。明治時代に入り、兵庫鎮台→すぐに兵庫県庁となります。現在県庁は移転し城跡はイオンモール神戸南を中心にその西の運河と運河の西側一帯になります。

 現在の教科書はどのようになっているかは知りませんが、私の高校時代の教科書ではこの地は大輪田泊(おおわだのとまり)と言って平清盛が港の大改修を行って日宋貿易に力を入れ巨万の富を得た場所と習った記憶が強く城の名は初めて知りました。

 今回の史跡巡りもイオさんの詳細な投稿が大いに役立ちました。兵庫城跡碑→清盛塚→能福寺の平相國廟・兵庫大仏→大輪田泊石椋→来迎寺の妓王・妓女供養塔、ここは滋賀県野洲市の永原屋敷跡を訪れたとき発見した妓王妓女の生誕地と過ごした場所が繋がって感無量、→地下鉄出口横の兵庫城発掘調査地説明板→イオンモール入口前の兵庫津説明板 ここにも清盛くんが居ります。→イオンモール3Fイオンホール前の兵庫津・兵庫城の出土品の展示と巡りました。2019年のイオンモール建設前には石垣・郭跡が発見されましたが現在は埋め戻され地下に。今見れる遺構は少ないですが平清盛時代の史跡巡りなどができて大いに満足できました。満足度は城の遺構として。

<満足度>◆◇◇

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サイコロ切符🎫 (2022/10/09 訪問)

サイコロ切符で、【松江】があたりました。

良く行く定番の城下町に当たってしまいました。
せっかくなので、行きました。

所用で三原駅から、出発:写真⑤⑥
列車は、のぞみしか選択出来ず、しかも3連休中に行ったので、列車選べず、滞在時間は、約2時間30分でした。

AIが観光地を選んでくれるキャンペーンがあり、そのカフェに行きました④。日本茶カフェです。松江はん7代藩主松平治郷公は、茶人で、松江市のお茶処にしてくれました。

只今、松江城では、【松江城すいとうろ】開催中②③。10月16日は、松江城【どう行列】です。

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朝田 辰兵衛

帰路の途中下車で。 (2022/09/25 訪問)

台風一過の晴天で,途中下車散策の選択ができました。JR下総中山駅から国道14号線に出て,約500mで多門寺。裏の墓地エリアが気になったので,墓参のフリをして奥まで足を運びました。墓地の奥には古道らしき抜け道が…。後世に作られたのかどうかは不明ですが,うっすらと堀切跡が見えなくもないな…と。
そして,振り返れば,JR総武線の往来が良く眺望できます。

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POYO58

皆さんに大感謝!

高取城の投稿の途中ですが、先に。今日10月13日は僕が城びとデビューから一年となりました。ここまで城巡りを楽しくできたこと、皆さんに感謝したいです。投稿は大桑城をはじめ、100件以上投稿してきました。やっぱ一年は早いですけど、ネット上でいろんな人ともう仲良くできたので幸いです。

さて僕が城びとを始めて楽しかった城の順位を乗せておきます。

10位 黒井城
やっぱ明智光秀大好きなので黒井城を10位にしました。黒井城は今は石垣しかありませんが、光秀が唯一負けた黒井城合戦の後、大改修したものであり、大変貴重です。黒井城は登るのが辛いのですが、やっとてっぺんについても曲輪が並び、枡形虎口が何箇所も設置されていて、結局追い払われるような残酷な城です。登った後のあの快感は忘れられません。

9位 松坂城
9位は松坂城。蒲生氏郷の石垣が大好きなのでランクインさせました。いつか会津若松城の天守台も見てみたいのですが。建物は一切ないものの、石垣が建物の様子を物語っているようでした。駐車場にとめに行こうとした時に見えたあの高石垣。思わず飛び跳ねてしまいました。枡形虎口が多く、穴太積みの石垣が美しかったです。

8位 松本城
8位は松本城。やっぱ漆黒の国宝の天守はここにしかないので。石落としが11箇所に狭間が115箇所と多すぎる。水堀には鴨や白鳥、松本城天守の背後には真っ白のアルプスで自然にも巡られ、深い歴史を持った凄い城だなと思いました。

7位安土城
7位は安土城。安土城は2回攻城しました。やっぱこの城があったからこそ、石垣の城が今も沢山残っているんだと思います。この城は重要な存在だと思いました。安土城は残念ながら燃えて幻の城となっていますが、見せる城として評判を集めています。やっぱり最初は石垣が横に並ぶだけで、上に行くほど堅固にはなるものの、そんなに他の城と比べて難攻不落には思えませんでした。でも見せる城としてはバッチリですね!

6位赤木城
6位は赤木城。藤堂高虎の野面積みの石垣がすごく美しいです。城の規模は小さいですが、虎口や横屋掛かりは立派でした。西郭や東郭は簡単に攻められるかもしれませんが、本丸へはなかなか辿り着けないです。

5位 彦根城
5位は彦根城。彦根城も2回攻城しました。彦根城はとにかく独特な櫓がたくさんあり、且つ残っているのが素晴らしいと思いました。明治天皇にも残すように命じられた城で、今は世界遺産を目指しています。石垣の枡形虎口も圧巻です。

4位 姫路城
4位は姫路城。姫路城は修学旅行で行きました。なので全て周ることができませんでしたが、とにかくすごかったです。真っ白の天守に、重要文化財がたくさんあり、石垣も立派で面白かったです。今度行くときは全て周りたい。

3位 大阪城
3位は大阪城。全くどこを攻めたら良いのかわからなくなってしまいました。大阪城は天守も好きですが、圧倒的な石垣と櫓、門に目を丸くしていました。さすが家康の城。一回中に入ってしまえば、あとはありません。来客数もお城の中で日本一を毎年更新しているため、ものすごく人気の高いお城です。

2位 上田城
2位は上田城です。上田城の魅力は中じゃなくて周り。櫓とものすごく高い石垣と崖を見るのが一番いい。もともと水堀だった場所に立ってみると、当時秀忠が南門から行こうとした気持ちがわかります。上田城自体は好きですが、僕は真田家も大好きなのでこの城を2位にしました。

1位 高取城
1位は高取城。まだ投稿中ですが…。高取城は迷う暇もなくやられてしまいます。中に入ろうかな、いや別の場所に行こうかな、なんて考えていたらご臨終です。天守台の高さには感動しました。また本丸虎口や、新櫓台の美しさも頭の中から離れません。ただ猿石を見逃してしまったのでもう一回行きたいです。

こんな感じです。これからも城びとやっていくのでどうぞ宜しくお願いします。

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第2回)岡城② (2022/09/21 訪問)

「(第1回)岡城①」からの続きです。

二の丸の角には月見櫓がありました(写真①)。この絶景からみる月はさぞかしきれいだろうなと思いました。明治の作曲家「滝廉太郎」(写真②)は竹田の出身で、この岡城をイメージして「荒城の月」を作曲したと伝えられています。私もこの歌を口ずさみながら歩きました(何かAJさんに似ている?)。

「春 高楼の 花の宴~♪ めぐる盃 影差して~♬・・・」
よく見ると銅像の頭の上にバッタが現れ私の歌を聞いてくれていました(笑)(写真③)

石垣の上から見る久住の山々の遠景はとても気持ちがよかったです(写真④)。そして本丸には、中川氏が代々守り神とした天満神社がありました(写真⑤)。(二の丸より三の丸、西の丸を眺めた写真⑥⑦)。

もみじや桜の木がたくさんあったので、春秋はもっときれいだろうと思います。その頃また来たいと思いました。

私は本丸の御三階櫓跡に立ち、ここから白滝川を挟んだ片ケ瀬の地を眺めてみました(写真⑧⑨⑩)。そこは、薩摩一の猛将:島津義弘25,000の大軍が陣を張っていた場所です。そして、それを見た父の志賀親度(ちかのり)は、息子の志賀親次(ちかよし)を見捨て、何と島津義弘の陣へ寝返ったそうです。若干20才の城主「志賀親次」は、父からも見放され、主君である大友宗麟からの援軍も期待できないにもかかわらず、大友家への忠義を貫き、わずか1,500の兵のみで戦う事を決意しました。しかし、この大軍を相手にどうやって戦ったのでしょうか? そして3度合戦し、何と3度とも勝利を収める事ができました。それは何故どうやって勝つ事ができたのでしょうか?

その理由を探りに、次は岡城合戦の地を歩きます。
 

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第1回)岡城① (2022/09/21 訪問)

(前書きからの続きです)

岡城は大分県の竹田市にある山城です。私も今まで、いくつかの100名城である石垣の山城を訪れました。そしてどれも素晴らしかったですが、岡城はスケールがまた一味違いました。

登城口(100名城スタンプ場所)からは、いきなり切り立った岩盤が出迎えてくれます(写真①②)。大友家臣の志賀氏の時の岡城はこの岩盤のみで、総石垣造りに変えたのは大友氏改易後、1594年に播磨三木城から入った「中川秀成」です。そして、中川氏が代々幕末まで岡藩主を務めました。

岡城の石碑前(写真③)から、かまぼこ石が並ぶ階段(写真④)を上り、大手門(写真⑤⑥)を通ります。それから、家老屋敷跡の前、中仕切り門跡(写真⑦)、太鼓櫓門跡(写真⑧)などの石垣を抜けると三の丸に出ます。

そして、やはり三の丸から二の丸へ続く横矢掛りの高石垣は必見です(写真⑨)。この石垣の上に立って見ましたが、下に吸い込まれて落ちてしまいそうなそんな感じの高さです。確かにまず攻め落とすのは相当むずかしいだろうと感じました。(高所恐怖症の方は下を見ない方がいいかもしれません! 私も足が震えました(笑)。 柵などはないので写真撮影に夢中になって落ちないように十分注意して下さい。落ちたらまず助からない程の高さです(写真⑩))。

岡城②へ続きます。
 

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (前書き)つぶやき

またこりずに、おじさんはテーマを決めて、当時の武将の気持ちになって、ひたすら城と合戦場を歩いて回ってきました。すいませんがその投稿をまた数回に分けてさせていただきますので御容赦下さい。初回の「九州の桜2022」、前々回の「明智光秀最期の30日を辿る」、前回の「熊本城(鹿児島城)と西南戦争の遺跡を歩く」に続き、今回のテーマは【島津VS大友:最終決戦の城巡り】です。

1578(天正8)年 大友宗麟が高城川(耳川)の戦いに敗れてから、1585(天正15)年に島津義久が豊臣秀吉に降伏するまでの8年間「島津VS大友の戦い」はまだまだ続きました。私は舞台となったゆかりの地のうち、高城と岩屋城は以前すでにお伝えしましたので、ここからはその続きを追って行きました。(高城は以前の6月17日の2回の投稿を、岩屋城は以前の7月20日の投稿をもしよろしければ参照して下さい)。

【当時の時代背景】

大友宗麟は高城川(耳川)の戦いに敗れてから、家臣の謀反も相次ぎ大友家単独での再起はもはや不可能、このままでは島津に滅ぼされてしまうと悟り、大坂の豊臣秀吉に謁見し助けを求めに行きます。これで秀吉は九州征伐(=島津討伐)の大義名分ができたと喜び出兵を開始しました。

島津四兄弟とは、義久(長男)、義弘(次男)、歳久(三男)、家久(四男)四人です。そしてこの四人の抜群のチームワークにより、高城川の戦いでは「釣り野伏せ」で見事に大友軍に勝利を収めました。岩屋城を攻めた島津忠長は彼らの叔父にあたりますが、忠長は高橋紹運の奮戦で岩屋城の戦いで多くの死傷兵を出し、これで立花宗茂が籠る立花山城の攻撃も断念し撤退しました。これに当主「島津義久」は激怒します!

しかし、逆に秀吉が九州に到着する前に大友宗麟を討ち豊後を制圧すれば、秀吉は大義名分を失い、かつ豊後も島津の領土と認めざるをえない、つまり島津念願の九州制覇も叶うという可能性がまだ残っているのではないかという事にも気づきました(秀吉と対等になるにはもうこれしかない!)。よって、義久は弟三人に、秀吉が九州に到着するまでに大友本領の豊後を制圧し、宿敵「大友宗麟」を討つべく薩摩全軍6万をもって豊後への出陣を命じます。

私はこれからこの【島津VS大友:最終決戦】となったゆかりの6つの地を訪れました。 岡城(片ケ瀬城・鬼ヶ城)→鶴賀城(戸次川)→大友館→高崎山城→臼杵城→津久見(→山口宇部) です。

以前、城人に掲載されていたもので大変分かりやすい図がありましたので拝借させていただきました(すいません一部追記させていただきました)。これと私が作った拡大図の両方を見ていただくと、これから私が訪れる場所とその流れがよく分かると思いますので、参考としていただければと思います(写真①②)。週1ペースくらいでの投稿になるかとは思いますが、御興味が湧かれた方に読んでいただければ幸いです。

では、「(第1回)岡城」から始めます。
 

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侍ホリタン

東海道の要衝、多くの譜代大名が治めた名城を訪ねて (2022/10/10 訪問)

駐車場は二之丸帯曲輪の土塀を見渡せる高台と多聞櫓の近くにあります。多聞櫓は三重県内で唯一現存する城郭建造物で土日祝に限り無料開放されています。多聞櫓の石垣と二之丸帯曲輪の土塀は迫力があります。外堀跡の周囲を囲む様に遊歩道が整備されており気持ち良く散策する事が出来ます。御城印は多聞櫓近くの衣料品店「じぼりや」さんで販売されています。

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イオ

樫原城(岐阜県大垣市上石津町上多良樫原) (2022/09/17 訪問)

※ 西高木家陣屋の前身とも云われる多羅城の候補地(のひとつ)ですので、西高木家陣屋で投稿します。

樫原城(城びと未登録)は、築城者など詳細は不明ながら、令和2年の調査で戦国期後半のものと確認された単郭方形の山城で、明智光秀生誕地と伝わる進士家の居城・多羅城の候補地のひとつとされます。

津島神社手前の樫原公民館の駐車場に車を駐めて登城開始。津島神社社殿の北側に樫原城の説明板があり、その脇の登城口から奥に進んで分岐で脇道に逸れると、神社の背後から続く尾根を断ち切る巨大な堀切がありました。幅も深さもなかなかのものです。分岐に戻って進むと主郭の東側に虎口があり、虎口の脇から主郭南辺にかけて分厚く高い土塁が続いています。土塁に登ってみると堀切の底まではかなりの高さがあり、そう簡単には乗り越えられそうにありませんでした。主郭の西辺は急峻な切岸になっていますが、滑落の危険ありとして注意が呼びかけられています。北辺は斜面中腹の横堀(堀切)によって尾根筋を遮断し、横堀には折れも施されています。また東辺の中腹には帯曲輪がめぐり、北東隅部の横堀を見下ろす位置には土塁が設けられていました。30分かからずにひとめぐりできる小さな城ながら、堀切も土塁も横堀も大いに見応えがありました。

さて、これでこの日の山城はおしまいなので、車に戻ってスニーカーに履き替えようとトレッキングシューズを脱ぐと…靴下が血まみれ!? もしやと思って脱いだ靴をはたくと案の定 中からヤマビルが落ちてきました…。ヤマビルを警戒して肌を露出せず、靴下も厚手のものを履いていたんですが、まさか靴下越しにやられるとは……ヤマビルおそるべし。麻酔成分のため痛みはなく、血液凝固を阻害する成分のため本当に血が止まらないんだなぁ、などと妙な感心をしながらとりあえずの止血をして、次からは靴下にヤマビル除けスプレーをするか登山用スパッツで靴の中に入られないようにしないと…などと対策を考えつつ、樫原城を後にしました。
城ケ平城と樫原城のどちらでやられたかはわかりませんが、注意が呼びかけられているとおり本当に出ますので、暑い頃や雨の後などは特に注意して(この日は蒸し暑く小雨まじりという最悪の条件)、充分に対策した上での登城をおすすめします。それぞれヤマビルを警戒しながらでも訪れる価値のある山城だと思いますので。
 

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