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本山土居屋敷など (2023/12/22 訪問)

 戦国時代には本山氏の屋敷があった跡で、山内氏の時代には山内刑部、但馬親子、続いて野中玄蕃、兼山親子4代の屋敷となりました。その後は山内氏の参勤交代時の藩主の宿泊所となり本山御殿とよばれていたようです。野中兼山は今回の旅で初めてしりました。用水工事や湾岸整備等にて業績のある方ですが、弾劾により失脚しています。機会があればもう少し勉強したい人物です。
本山町内には野中兼山関連の上の坊や山内刑部の墓があります。

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しんちゃん

恐山 青森県むつ市田名部字曽利山 (2021/05/07 訪問)

恐山菩提寺は恐山の麓にある曹洞宗の寺院で恐山の山名がそのまま寺院の通称になっています。境内には温泉がありちゃんと男性用・女性用と別れています。シーズンになるとイタコさんがやって来て口寄せをしてくれます。イタコさんは冬の間は八戸市あたりにいるようで私が訪問した時には一人しかいませんでした。活火山のよで周辺に小さな地獄のような光景が広がっており、それぞれに無間地獄や金堀地獄などの立札が立っています。あたしゃここに落ちるのかねえと思いながら散策していると宇曽利湖(うそりこ)が目の前に広がります。
通称・賽の河原と呼ばれているようで美しくもおどろおどろしい光景が広がっています。

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本山茂宗 (2023/12/22 訪問)

 土佐七雄のひとり本山氏の居城で、本山町の南側の田井山の尾根に築かれています。主郭を中心に北側に曲輪を展開しています。尾根側に堀切を設けて防御としていますが、尾根を歩いて行くともうひとつ堀切跡と思われる地形がありました。石垣を多く見ることができますが、大正時代に農林省林業試験場森林測候所が設置され、職員住宅や太平洋戦争後射的場として使用され手が加えられているようです。「土佐の山城」(ハーベスト出版)には当時のまま残存している部分が少ないと記載されていました。どれが当時からのものかは自分では判断できません。
城址からの眺望はよかったです。

JR大杉駅よりバスにて乗り本山プラチナセンター前下車。徒歩約10分で登城口である十二所神社に行くことができます。十二所神社より登城路が整備されていています。

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龍馬記念館 (2023/12/21 訪問)

 桂浜北部の丘陵に築かれた城で、長曾我部元親の居城として知られています。跡地には県立坂本龍馬記念館等が建てられています。天守台や井戸、石垣などを観ることができます。三重堀切は時間の都合もあり観ていません。

 高知駅バスターミナルよりバスに乗り龍馬記念館前バス停下車。天守台跡へは徒歩約3分です。

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しんちゃん

ドは土塁のド~ 安東氏全盛期の城 (2021/05/05 訪問)

脇本城は生鼻崎を含む丘陵地に築かれており、城域は2万平方メートルを占めています。檜山安東氏が湊安東氏を併合した全盛期のころに築かれているようで日本海に大きな勢力を誇った安東氏らしく今でも日本海や周辺を良く眺望できます。
檜山城も広い城域を誇っていましたが(見きれていない!)脇本城も広大な城でまるでゴルフコースを回っているようです。登城道からそのまま進むと西側の城域を訪問でき郭の西側に大きな土塁が連なっており土塁の上から日本海を眺望できます。天下道と名付けられた道を通って東の内館を目指していくと非常に大きな土塁が目の前にそびえます。主郭の高さに土塁の高さがミックスされているのですが実に見事な土塁です。内館の南からは周辺や日本海を望むことができます。城域が大きく二つに分かれており主郭はどちらかはっきりしませんが土塁の見事さから私は東側を推したいですね。
檜山城、湊城と並んで安東三城と呼ばれているようですが唯一、続日本百名城に選定されています。

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天然温泉はるのの湯 (2023/12/21 訪問)

 天然温泉はるのの湯付近が跡地です。遺構はないようなので、駐車場にある説明板を撮影して撤退しました。

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吉良親貞 (2023/12/21 訪問)

 土佐七雄の一人吉良氏の城と伝わっています。城址は案内標識があり迷うことなく登城することができました。登城路を歩いて行くと南側の曲輪の西側にある畝状竪堀に遭遇します。浅くはなっていると思いますが形状は確認できます。城は主に南北に主要な曲輪があり真ん中には見ごたえのある堀切が設けられています。この堀切は、昔は竹製で作られた橋が架かっていましたが、今は崩落しています。北側曲輪の北西に伸びる尾根には4重の堀切があり、この城の見どころだと思います。他の尾根にも堀切がありました。
以前に整備されたようですが、その後はあまり維持されている気配が乏しく尾根筋に降りて行く道もわかりにくくなっています。4重堀切付近は降りて行く道がわからず難渋しました。
城域は広くありませんが、楽しませてくれる城址です。
 高知駅バスターミナルからバスに乗り新川通バス停下車。約10分で登城口に行くことができます。

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朝田 辰兵衛

帰宅してから気がついたのだが… (2023/11/04 訪問)

辛垣城を攻めるため,JR福生駅前のホテルをリザーブしていました。帰宅してから気がついたのですが,1駅となりに「しろうたカフェ」があったんですね…。今日はイベントやってたんだナ…。私は「東京の端っこ」に行くぜと気合いが入り過ぎていたのか,完全に失念してしまいました。

辛垣城ですが,思ったより岩場が続きました。悪天候時はおすすめしません。
下山時に,これから攻城される女性とすれ違いました。登城口がここで合っているのか不安だったようです。なので,登城口の画像も入れておきます。そこから先は,にのまるさんの投稿が参考になります。

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しんちゃん

湊騒動発端の城、そして‥ (2021/05/05 訪問)

豊島城は岩見川の北、標高70mの台地上に築かれています。永正3年(1508)畠山重忠の末裔豊島玄蕃頭(畠山荘司次郎重村)が豊島城主となったそうです。玄蕃頭の子・豊島次郎重村は湊安東氏と深いつながりがあり天正16年(1588)豊島城にいた湊安東高季が本家に反乱を起こし結果的に敗北したそうです。
豊島城は奥御殿を主郭とする本城と南方に位置する前御殿(見張用の郭?)に分かれ、登城道の途中から道が二つに分かれます。ここにヤツのフンが有りました。こら!クマ公 大事な城跡で縄張りアピールするんじゃない!
城跡で熊のフンを見たのはこの時が初めてで、それなりに動揺していたと思うのですが前御殿と奥御殿はしっかり見ていますね。最近はツキノワグマも狂暴化してきているので注意が必要です。熊が臆病だという人がいますが、見えないものを恐れているわけで実際に遭遇すると奴ら逃げてくれないみたいですね。私もそろそろポリスマグナム(水性・本州用)でも装備しようかな。

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しんちゃん

太宰治記念館「斜陽館」 青森県五所川原市 (2021/05/06 訪問)

今日は休日だというのにイヤイヤ工事に駆り出され、鉄粉まみれで仕事です。話が違うじゃん‥どうせまみれるなら金‥いやいや、どうせならお金にまみれたいですなあ。
今回は太宰治記念館の話です。太宰治の生家で五所川原市の施設となっています。また近代和風住宅の代表として国の重要文化財に指定されています。太宰治は衆議院議員・津島源右衛門の六男としてこの家で生まれました。子供の頃は運転手つきで学校に通っていたそうです。お金持ちですなあ。成長した太宰は5回以上も自殺を図った後、最後は愛人さんと心中してしまいましたが「走れメロス」「斜陽」などの傑作を多数生み出した偉大な文豪でもあります。ちなみに私は「人間失格」を購入してまだ読んでいません。(ちなみに表紙はストレイドッグスのあの方です)

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しんちゃん

11世紀中ごろの集落として再現。 (2021/05/06 訪問)

中里城遺跡は古代~中世にかけて様々な人々に利用されてきました。縄文時代前期(約5500年前)から狩猟の場所として使われ、10世紀中ごろには集落が築かれ、11世紀中期には堀や土塁・柵列などで村の周囲を囲っていたようです。戦国期には城館として利用していたと思われ、現在・11世紀中ごろの状態に合わせて復元がなされているようです。

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しんちゃん

神明宮がひっそりと佇む。 (2021/05/06 訪問)

柴崎城は安東氏の城で福島城の支城とされています。嘉吉3年(1443)安東盛季が南部氏の攻撃から逃れこの城に入ったとあります。現在は神明宮がひっそりとたたずんでいて、かつての面影はさほど残っていないようです。

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しんちゃん

吉野城 奈良県吉野郡吉野町 (2021/04/02 訪問)

桜の名所、吉野山はかつて山城としての機能も持っていました。鎌倉時代に幕府に対して挙兵した後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王が拠点とし金峰山城の蔵王堂のあたりが中心であったようです。鎌倉幕府の大軍が押し寄せた際、大塔宮は蔵王堂にこもりましたが村上義光が身代わりとなり大塔宮を救ったそうです。村上義光の墓は蔵王堂の南、県道257号沿いにあります。
建武3年(1336)後醍醐天皇が吉野に逃れ皇居を置き南朝を興しますが3年後に没します。この後、北朝方の武将・高師直が吉野に攻め入り寺院・伽藍は消失したそうです。吉野山には源義経の伝説も残り義経が逃避行の途中、この吉野山に身を隠し、愛妾の静御前と別れたとの言い伝えがあります。金峯神社の近くには義経のかくれ塔がひっそりと佇んでいます。

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トク

86【関ケ原の26人】(24)島津義弘 (島津義弘と加治木城) (2023/10/10 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑮です。義弘が晩年を過ごした「加治木城」を訪れようと思いましたが・・・

JR日豊本線「加治木駅」で下車、しかし加治木城はここからまだ徒歩50分のところにある山城です。しかしここで改札口を見ると、本日最終19:20発の特急「きりしま」が、何とトラブルで運休との貼り紙が😱~! 今夜は宮崎市に宿をとっていたので、加治木城を訪れた後、今日中に宮崎市まで行く予定でしたが、その前は16:43発、これが本日の最終となりもうあと90分しかない。せっかくここまで来たがこれではもう無理。よって登城は断念しました(すいません)。

でも(ん?待てよ🤔)しかしここで駅の観光案内板をよーく見ると、義弘は山上の加治木城に住んでいたのではなく、どうやらここから西へ徒歩10分の所の平地に館を構えて住んでいたようです。何とこれはラッキ~! 10分なら行ける、またもや義弘様のお導きか!

関ケ原から7年後の1607年、義弘は帖佐からここ加治木の地を与えられ、加治木へ居を移します。しかし、山城は不便なため、麓に館を構えていました。現在その館跡は加治木高校の敷地の一角にあり(写真⑤)、護国神社になっていました(写真①②)。島津義弘は晩年をここで過ごし、そしてここで亡くなったそうです(写真③義弘死去の碑)。ここで亡くなったのか~と思うと、ちょっと感慨深くなってしまいました。また神社の中には、西南戦争で亡くなった別府隊の碑もありました(写真④)。隊長の別府晋介といえば、城山で自刃した西郷隆盛を介錯した男です。ここ加治木の出身だったようですね。

また駅に戻り再度観光案内板を再度見ていると、加治木駅から反対の東へ徒歩10分の所にある精矛神社(くわしほこじんじゃ)には、義弘が祀られていると書いてあり、まだ時間があるので、そこまで行ってみました(写真⑥⑦)。義弘が朝鮮から持ち帰った石臼(写真⑧)や、大河ドラマ「西郷どん」の撮影がここであったらしく、その時の写真などがありました(写真⑩)。そしてここに来て初めて知ったのですが、この神社の宮司(島津義秀さん)は、なな何と・・・義弘の直系の末裔だそうです😯!

最後に義弘の墓所(福昌寺)を訪れます。
 

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赤い城

搦手はしばらくの間工事中。 (2023/12/03 訪問)

天霧城のあとクールダウンで登城しました。
資料館の無料駐車場に車を停めます。
まずは内堀と土塁を見ながら修復工事中の高石垣を見学。
痛々しいです。
復旧資料館を経て搦手へ。
搦手は栃丿木門から上は工事中につき立入禁止でした。
一番の見どころっぽいんですが暫しの間我慢ですね。
一周し見返り坂から生駒坂、本丸に向かいました。
ちょうど夕刻で夕日を望むことも出来ました。
城友さんたちと城談義しながらの散策、楽しかったです。

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チェブ

奥平 信昌さんのモミアゲ。 (2023/10/30 訪問)

奥平氏と言ったら「長篠城」を思い出し、鳥居 強右衛門さんの勇気ある行動や、長篠の戦いの鉄砲戦術、と言う具合に頭に浮かんできます。

「奥平城」は鎌倉時代頃に甘楽郡司になった赤松氏が奥平氏を名乗り築城されたようです。
8代目が、三河の作手に移り歴史を動かしました。
家康さんが関東に入ると、奥平氏も甘楽郡に戻りました。

「奥平城」は里山を想わせる畑の所にポツンと説明板がありました。
駐車場はありません。路駐して登城口へ行き、またもやパチリ。少し登ると畑があります。
路駐と私有地?との心配で退陣しました。
近くの『奥平氏発祥の地』を目指しました。
写真⑤、集落に入る道端に石碑があります。Googleで指した所は民家の奥でした。
奥平氏のルーツ探しにしては、諦めの早い退陣です。

2023年大河ドラマ『どうする家康』での奥平 信昌さん、格好良かったですね。
ドラマの本編とは別に、あの『モミアゲ』が肖像画と同じで、違う意味で感激しました。

里山風景の中に、あのモミアゲを思い出した「奥平城」攻めでした。

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イオ

高宮城(滋賀県彦根市高宮町) (2023/09/09 訪問)

近江高島駅から琵琶湖を半周して彦根駅へ。佐和山城は昨年に登城しているので、彦根駅構内のQRコードを読み込んでポチ制覇のみに留め、近江鉄道に乗り換えます。青春18きっぷは当然使えないのでイコカで行こか…と思ったらイコカ非対応!? イコカどころか切符も券売機でなく窓口販売、しかも有人改札で硬券に鋏を入れてもらう…ときたもんだ。昭和かよ(笑) ここ30年ほどは経験のない昭和体験にわくわくしながら電車に乗り、車窓に掲示された瓶割山城のQRコードを読み込みます(ポチは後日)。そういえば、この車両も何か見覚えがあるような…と思っていたら、近江鉄道は西武グループであり、西武を引退した車両が使われているんですね。学生時代は西武沿線に住んでいましたので、道理で馴染みがあるわけだ。そんなこんなで高宮駅に着き、電車が出発したらホームから線路に下りて出口側のホームに渡ります。これまた久しぶりの経験。たった3駅ながらいろいろと昔が思い出されて楽しい近江鉄道でした。

さて、鉄道ネタはこれくらいにして、高宮駅から高宮城に向かいます(徒歩6分)。

高宮城(城びと未登録)は、室町中期に高宮の地を与えられた六角氏頼の三男・信高が高宮氏を名乗り築いた城で、高宮氏(南殿)代々の居城となりました。高宮氏は戦国期には六角氏を離れて浅井氏に従いましたが、織田信長により小谷城が落城すると、高宮城に火を放って一族は離散しました。

高宮小学校から高宮幼稚園にかけてが城跡とされ、小学校での発掘調査では土塁や堀、井戸が確認されていますが、地表面には遺構は見られず、小学校の北隅に高宮城跡の石碑と説明板が立てられているのみです。

城跡碑から西に徒歩3分の高宮寺は高宮氏の菩提寺で、高宮氏代々の墓所には五輪塔が立ち並んでいます。高宮寺から西に4分ほど歩くと中山道高宮宿の本陣跡や脇本陣跡があり、本陣向かいの円照寺には明治天皇ゆかりの止鑾松や徳川家康が大坂夏の陣の帰路に腰掛けたと伝わる家康腰懸石がありました。中山道沿いに北に向かうと松尾芭蕉ゆかりの紙子塚、多賀大社一の鳥居や常夜燈、御神燈があり、
高宮氏が崇敬し高宮氏の家紋「丸に二つ遠雁」が伝わる高宮神社にお参りして高宮宿を後にしました。

その後、南彦根駅から三雲駅に向かい、駅構内のQRコードを読み込んで三雲城をポチ制覇(登城はまたいずれ)して、帰途につきました。大垣城に行けなくなって余った分の青春18きっぷを消化するための鉄道利用での城(イベントスポット)めぐりでしたが、運転しないでいいのは楽な上に移動中に本を読んだり寝たりできるので、駅近の城めぐりでは鉄道利用もいいな、と実感した一日でした。
 

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姫街道

極寒の朝、天守閣から岐阜城を眺める (2023/12/22 訪問)

木曽川沿いの断崖上に建つ天守閣から、昨夜の積雪で銀色に光る伊吹山を背後にひかえた金華山の岐阜城が見える。
一方、南を眺めれば濃尾平野にポツンと小牧山が見える。素晴らしい眺望だ。
犬山城は、木造天守閣に気がとらわれがちだが、ダイナミックな構造の大手道も見所の一つだ。

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ぴーかる

小笠原氏城跡 (2023/11/23 訪問)

【林大城】
<駐車場他>南の谷の集落からの入口が分からなかったので城跡内を縦断する松本市道3165号線で主要部手前まで車で行きました。4台程度駐車でき仮設トイレもありますが、東の橋倉地区から行くと駐車場手前から凸凹が大きく、木々もはみ出しているので途中の鉄塔のある所<36.225762, 138.013454>にスペースがあります。
<交通手段>車

<見所>曲輪群・堀切・主要部分・石段
<感想>2泊3日松本・佐久・吾妻の山城攻めの旅初日3城目。林小城からの連闘「日本100名城、続日本100名城に負けない名城 第19回小笠原氏城跡①」で取り上げられた林大城に行きました。上記の橋倉地区から車で行くと橋倉地区の方が市道を整備しておられて車で行けるか伺うと倒木で上まで行けないとのこと。途中の鉄塔のあるスペースに駐車していいとのことでしたので、駐車して昼食を食べているとあと20分程で整備が終わるから待つなら待ってというので待ちながら橋倉地区の方とお話しました。城跡の情報は:①城跡には松木が沢山生えているのですが、近年どんどん枯れていっているそうです。確かに曲輪内に枯木を切った丸太が沢山積んでありました。②林大城は水の出が悪いので西にある水番城(城名もその由来から)から大林城の東麓まで水路を敷いていたそうで、確かに主郭下方に井戸跡はありましたが、とても小さいものでした。

 城跡主要部は大きい曲輪の連郭で駐車場から虎口に石段の残る副郭、堀切を挟んで主郭、主郭は土塁囲み(石垣が残り当時は石垣囲みのよう)で虎口に石段、主郭背後と北側に腰曲輪があります。主要部から北東方向に伸びる尾根曲輪の数が先達方の記述の通り凄い数で、大手道の両サイドにずーっと極小の曲輪が延々と連なっているので当時はどんな感じになっていたかと想像が膨らみます。真ん中ら辺の堀切で引き返しました。
 整備が行き届いて素敵な城跡でした。山の尾根全体を使った大城跡でしたが、私的にはわくわくする探索感があまりなかったです。100名城に負けない名城ということで期待が大きすぎたのかも。

<満足度>◆◆◇

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刑部

両頭の城 (2023/11/04 訪問)

玉石積みの石垣が面白いと言うか珍しさに驚きを隠せません。整備されていて見やすくなっています!

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