はやしおおじょう

林大城

長野県松本市

別名 : 林城、金華山城
旧国名 : 信濃

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主郭
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ぴーかる

小笠原氏城跡 (2023/11/23 訪問)

【林大城】
<駐車場他>南の谷の集落からの入口が分からなかったので城跡内を縦断する松本市道3165号線で主要部手前まで車で行きました。4台程度駐車でき仮設トイレもありますが、東の橋倉地区から行くと駐車場手前から凸凹が大きく、木々もはみ出しているので途中の鉄塔のある所<36.225762, 138.013454>にスペースがあります。
<交通手段>車

<見所>曲輪群・堀切・主要部分・石段
<感想>2泊3日松本・佐久・吾妻の山城攻めの旅初日3城目。林小城からの連闘「日本100名城、続日本100名城に負けない名城 第19回小笠原氏城跡①」で取り上げられた林大城に行きました。上記の橋倉地区から車で行くと橋倉地区の方が市道を整備しておられて車で行けるか伺うと倒木で上まで行けないとのこと。途中の鉄塔のあるスペースに駐車していいとのことでしたので、駐車して昼食を食べているとあと20分程で整備が終わるから待つなら待ってというので待ちながら橋倉地区の方とお話しました。城跡の情報は:①城跡には松木が沢山生えているのですが、近年どんどん枯れていっているそうです。確かに曲輪内に枯木を切った丸太が沢山積んでありました。②林大城は水の出が悪いので西にある水番城(城名もその由来から)から大林城の東麓まで水路を敷いていたそうで、確かに主郭下方に井戸跡はありましたが、とても小さいものでした。

 城跡主要部は大きい曲輪の連郭で駐車場から虎口に石段の残る副郭、堀切を挟んで主郭、主郭は土塁囲み(石垣が残り当時は石垣囲みのよう)で虎口に石段、主郭背後と北側に腰曲輪があります。主要部から北東方向に伸びる尾根曲輪の数が先達方の記述の通り凄い数で、大手道の両サイドにずーっと極小の曲輪が延々と連なっているので当時はどんな感じになっていたかと想像が膨らみます。真ん中ら辺の堀切で引き返しました。
 整備が行き届いて素敵な城跡でした。山の尾根全体を使った大城跡でしたが、私的にはわくわくする探索感があまりなかったです。100名城に負けない名城ということで期待が大きすぎたのかも。

<満足度>◆◆◇

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しんしんちゃん

主郭周辺の遺構はしっかりしている。北側の郭の多さは尋常ではない。 (2023/11/19 訪問)

林大城は信濃国守護職の小笠原氏の城で井川城や林小城とともに国の史跡に指定されています。二の郭の下に駐車スペースがあり、車でそこまで行くことが出来ます。私は道が途中から未舗装になっていたので途中から歩いて登りましたが、上まで車で上がっても問題は無さそうでした。その途中で三条の竪堀がありました。なかなか期待できそうです。
駐車スペースから南は主郭方面、北側は下りで三日月状の郭(扁平地が)幾重にも続きます。まずは主郭方面へ向かいます。主郭の下段に二郭らしき郭があり東屋が建っています。さらに南に進むと石垣跡の残る虎口を通過して本丸に入ります。本丸の周辺には土塁が残り、奥手に石垣が残っています。主郭南にも郭があって、さらに南の尾根上には左右に竪堀が配され城域を守っています。主郭の周囲を囲む帯郭から主郭に戻りますが土塁には石がちらほら残っています。主郭周囲の石は誰かにに持ち去られたのでしょうか?
南側の遺構は確認したとして、北側の遺構を見に行きます。ありますあります、アホみたいに郭がいっぱいあります。40~50はあるでしょうか?こんなに郭を造ってどうするんでしょう。家臣を家族ごと住まわしたんでしょうか?(人質?)
純粋に郭として使用したとしても後ろから味方の撃った矢が背中に刺さりそうです。あまり実用的な造りとは思えません。戦闘は周囲の山城に任せて権威の象徴として君臨していたのでしょうか?上に行くほど偉いってやつでしょうかね。火責めにされたらひとたまりも無いと思いますが。

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詠狸庵

針塚古墳から信濃府中の山城群を望む (2020/11/08 訪問)

松本市里山辺(古くは束間郡山辺郷)は松本市街の東郊、美ヶ原高原の西麓に当たります。弥生〜古墳時代には現在の松本市街中心地域は湿地、沼沢地で居住に適さず、その周囲特に北東から南にかけての地域に人々が多く居住していたようです。この内の東部が里山辺地域で一帯は古代から行政の中心地となることが多く、平安時代以降この近辺に信濃国府が置かれ、また室町時代末期には薄川を挟んで信濃守護小笠原氏の拠点となる林城が造営されました。山麓にはいくつかの温泉が散在し、かつて聖武天皇が行宮の造営を計画した記録もあります。
この辺りからは信濃府中(のちの松本)の南から北東に連なる山並に、府中をぐるりと取り囲むいくつもの山城を望むことができます。

⚪︎針塚古墳
幅約2mの周溝をめぐらした円墳で直径約20m、高さは約2mで、高句麗の墓制に近い積石塚古墳。美ヶ原から流下する薄(すすき)川の右岸段丘上にあり、副葬品などから5世紀後半の築造とされています。このほかにもかつてはいくつかの古墳がありました。
奈良時代に松本地域の二人の高句麗系帰化人が、先祖より長らく住み続けて来たことから日本姓を賜るよう朝廷に願い出て、それぞれ田河、須々岐の姓が下賜されたという記録があります。その内の須々岐氏の祖先の墳墓なのではないかと私は思っています。近くには須々岐水(すすきかわ)神社もあります。積石塚は九州から関東までの範囲に見られ、特に香川県から徳島県の一部、長野県から山梨県にかけて多く、日本海側には少ないのが特徴です。

⚪︎林城(林大城・林子城)
信濃守護小笠原清宗が1459年に築城し、曾孫小笠原長棟が井川城(松本駅の南約1キロ)から同氏の本拠をここに移しました。谷を挟んで大城と小城があり、かなり規模の大きい山城で、それぞれ遺構がよく残っています。年代的には小城の方が後に築かれたようで、より山城としての完成度が高いと思います。井川城と共に国の史跡「小笠原氏城跡」に指定され、域内はよく整備されています。麓には館町が形成され地名に名残を留めています。

⚪︎水番(すいばん)城
林大城から谷を隔てた東にあり、林城の水之手を守るために築かれた支城で、竪堀、土塁、石積が残る。

⚪︎宮原城
諏訪氏系山家氏に対する小笠原氏の砦として築かれたという説があり、要害城とも呼ばれる。主郭と二つの副郭があり、傾斜に沿って四重の竪堀が残る。

⚪︎山家(やまべ)城
鎌倉時代末期に諏訪氏系山家氏によって築かれたとされる。この山家氏は1481年に小笠原長時によって滅ぼされ、その後16世紀初頭に播州姫路より小笠原氏系の折野昌治が移居、山家氏を称し小笠原貞朝に服属した。この時に現在の縄張が整備され、小笠原氏が敗れた後も武田氏によって改修、増補されたとされる。縄張はかなり広く、主郭の土塁、東側石垣や五条の連続堀がよく残る。

⚪︎霜降(しもふり)城
もともと桐原氏の支城として造営されたらしいとのこと。「下振(しもふり)」とも書き、他に上振城もあったという。規模は大きくないが縄張は整っているように見える。

⚪︎桐原城
15世紀に小笠原氏の配下であった桐原氏によって築かれたという。縄張がかなり複雑で竪堀、石積みがよく残っている。

⚪︎犬甘(いぬかい)城
松本北方の丘陵地帯から岬のように突き出した蟻ヶ崎にある。中世以降この地を支配した地頭犬甘氏の城で、南北三百メートルにわたり主郭と三つの副郭が連なる。
一帯は美ヶ原、浅間温泉、松本城下から安曇野、北アルプスをぐるりと見渡せ眺望が素晴らしい。ここに1843年松本藩主戸田光庸(みつつね)が桜や楓を植えさせ、民と共に楽しめるようにと一般に解放した。これが城山公園で、現在も桜の名所となっている。

この他、北東から北にかけて横谷入城、稲倉(しなくら)城、茶臼山城、早落城、伊深城、平瀬城等があります。




⚪︎兎川寺と旧山辺学校
針塚古墳のすぐ近くには飛鳥時代の創建と言われ小笠原氏の祈願寺であった真言宗の兎川(とせん)寺があります。明治維新の激しい廃仏毀釈によって多くが失われましたが、それもまた歴史の流れというものでしょう。
また道を挟んで明治初期の擬洋風建築、旧山辺学校校舎(県宝)があります。国宝旧開智学校の建築にも加わった棟梁佐々木喜十によるもので、意匠は旧開智学校によく似ていますが屋根は寄棟ではなく入母屋、車寄は唐破風ではなく千鳥破風、窓はガラスではなく障子と、異なる所も多くあります。華やかな開智学校に比べると少し地味な印象ですが、教育熱心な土地柄を感じます。内部は資料館として公開されています。

⚪︎信濃国府推定地域
ここと松本市街地の中間南北1kmほどの範囲に信濃国府が所在(平安初期以降)したと推定されます。地名等にその名残が見られるとされています。

この他、近くには多くの民芸品を蔵する松本民藝館、室町時代の本殿を持つ筑摩神社(重文)、大正時代の建築で現存する数少ない旧制高校校舎である旧制松本高校校舎(重文)があります。少し離れていますが東日本最古級とされる前方後方墳、弘法山古墳(国史跡)もあります。

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モト

主郭に残る石段が素敵でした (2023/01/12 訪問)

城跡では山の上にある主郭は自然公園になっています。
個人的には主郭部分に残る石段が雰囲気があって印象に残りました。
もちろん主郭部分の囲む土塁もそこに残る少しある石垣にも目がいきました。
ここはぜひ林小城tセットがおすすめです。
松本市に残る城跡はどれも見応えがある物ばかりですね。

私は大嵩崎から登りました。
ここは林小城のある山との間にあります。
林大城と小城の連携を想像しながら登ることができました。
主郭のある頂上まではまぁまぁの勾配があり、頂上までは時間は15分くらいでした。
大嵩崎とは反対の橋倉には駐車場もあるようなのでそこを目指して行ったのですがこの時期は場所によっては雪があります。
おかげでスタッドレスを履いていなかった車は坂を登る事ができずたどり着く事ができませんでした。
その時は半分諦めかけて小城だけでも行ければと行ってみた結果小城の入り口付近に少々の停めるスペースがあり両城跡に行く事ができました。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 小笠原氏
築城年 長禄3年(1459)
主な城主 小笠原氏
廃城年 天文19年(1550)
遺構 曲輪、石垣、土塁、堀切、切岸、井戸
指定文化財 国史跡(小笠原氏城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 長野県松本市里山辺、入山辺
問い合わせ先 松本市教育部教育政策課教育文化センター
問い合わせ先電話番号 0263-32-7600