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初芽

登りやすく景色も綺麗! (2023/12/24 訪問)


滞在時間:1時間ほど

ハイキングツアーにて登城。
寒かったけど天気が良く、本丸跡から大阪の街並みが一望できてとても綺麗でした。
台風の影響で一部石垣が崩れてしまったとガイドさんからお聞きしましたが、それでもしっかり見られて良かったです。
石垣以外の遺構(堀とか土塁とか)も多分これかな〜?と思うものがあったのですが、倒木や枯れ草で隠れていて自信なく。
先に遺構の位置が書かれたマップを入手しておけばよかったと反省しました。

登りやすい城跡でしたが過去にはマダニが出たとのことで服装対策等はしっかりと!

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T-Shionoya

筑前国の重要拠点 立花山城 (2023/10/12 訪問)

10月の福岡旅行で訪れた2つ目の城が福岡県の福岡市や新宮町などに跨る立花山城。

福岡平野の北東、古から海陸交通のランドマークであった標高367mの立花山一帯を要塞化した城。
最高峰の井楼山を本城とし、他のピークや尾根に出城や砦などを配置。
貿易港博多の監視が可能なポイントで、筑前国を統治する重要拠点の1つとして争奪戦が繰り返された模様。

南北朝時代に豊後国の大友氏の一族が築いたと伝わり、立花姓を名乗っていたが16世紀後半に滅亡。
1571年に大友重臣の戸次鑑連が入城し立花道雪の名で知られ、養子の立花宗茂が城主を継承。
その後、筑前国の大名となった小早川の時代は名島城の支城となり、黒田時代に廃城となりました。

現在は登山道が整備され、福岡で気軽に楽しめるメジャーな登山スポットの1つ。
山頂からの博多湾と福岡市街地の眺望は絶景。

訪問時、立花口からスタートすると途中でルートが分岐し、立花山ルートで山頂の本城へ。
古井戸は埋没していたものの、山頂部に到着すると本丸は石垣と虎口らしき遺構が残る曲輪。
山頂から北西に石垣ルートで下山すると、所々で削平地が見られ、点在する石垣は徐々にレベルアップ。

予定していた松尾山は断念し、秋山谷から小つぶらを駆け足で巡り滞在時間3時間越え。
時間不足でやや消化不良ながら、立花道雪・宗茂への興味が増した私の城郭巡りの161城目でした。

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しんちゃん

姉帯一族奮戦す。 (2021/05/08 訪問)

姉帯城は馬渕川の北に位置する丘陵上に築かれており南は絶壁になっています。九戸南部氏の一族の姉帯氏の城で九戸政実の乱の際には城主・姉帯大学兼興・五郎兼信兄弟ら一族郎党が豊臣軍と戦いましたが大半が討死したと伝わります。現地案内板には大学の妻で長刀の名手小滝の前や棒術の名手である小屋野(性別不明・女性では?)らも一緒に戦ったようですが生死を含めて詳細が不明です。
城址は主に二つの郭で構成されていて西にある二の郭の方が整備が行き届いています。かなりの規模を誇る大堀切を渡って主郭にたどり着きますが藪化が進んでいます。主郭東側にも堀切があり城址を外部と遮断しています。

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くうくう

その後の高知城のモデルになった一豊の掛川天守

今川氏の遠江進出の拠点として朝比奈氏が掛川古城を築城し、永正10年(1513)頃この地に移った。徳川氏との攻防で永禄12年(1569)開城、今川氏滅亡。その後山内一豊が入城し、拡張、近世城として天守など整えた。天守は倒壊していたが平成6年(1994)日本初の木造復元された。白漆喰壁、黒い廻縁高欄、付櫓があり三層四階で青銅製の鯱があがる。他に大手門も翌平成7年(1995)に木造復元された。二ノ丸御殿は日本に4ヶ所しかない現存御殿建造物。珍しい銀杏型石垣が見られる。本丸には三ノ丸から移築された太鼓櫓が現存する。

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しんちゃん

源義経の北行伝説の舞台でもある。 (2021/05/08 訪問)

八戸城は馬渕側の南側の河岸段丘の北端に築かれていて太平洋とも3kmほどの近さにあります。元々は根城南部氏が支城として築き「中館」と呼称し城主は中館氏を名乗ったそうです。寛永4年(1627)に国替えにより三戸南部氏の直轄になり寛文4年(1664)南部重直が没すると幕府の采配により遺領10万石のうち2万石を重直の弟・重房に与え八戸藩が成立しました。八戸城の整備はこの時に行われたようです。
現状公園になっていて遺構は残っているようには見えませんが、本丸中心部にある三八城神社境内には本丸跡の石碑が建っていて南東の南部会館には角御殿表門が残っています。源義経の北行伝説の舞台の一つで、三八城神社境内に弁慶石があり、東にある「おがみ神社」には義経の正室・京の久我大臣が自害したという伝説があり、その霊を祀っているそうです。

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小城小次郎

織豊以前の石垣の城なのだ (2023/04/16 訪問)

在地土豪から六角氏の有力被官へと大きく成長した永原氏のお城だが永原氏は織田信長の勧告に応じず近江を去ったため信長近江入り前(つまり織豊系城郭誕生以前)の石垣造りの城としてこの城の価値はとんでもなく高い。

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赤い城

道後公園 (2023/12/05 訪問)

松山に出張があり、少し時間がとれたので立ち寄りました。
駐車場に着いた途端に雨が。
駆け足での登城になってしまいました。
搦手から入り土塁に沿って歩きました。
資料館はまた今度ゆっくり。

途中土塁の断面も展示されています。
土塁には裾石が施された部分もあります。
内堀には遮蔽土塁も施されます。
主郭部からは松山城を望むことも出来ました。

時間もなかったのでこの辺で退却しました。
ちょっと濡れたけど満足、さっ、仕事仕事。

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チェブ

長いものに巻かれると、静かな時間。 (2023/10/30 訪問)

「小幡陣屋」を検索すると、『織田 信長の次男 信雄の庭園』など、信長さんの七光的です。
織田 信雄さんを検索すれば、『迷走する愚将』など、お父さんが信長さんのわりに~のダメダメ評価。

でも、『名勝 楽山園』を見学すれば 信雄さんのポイントは上がるはずです。
入城料は300円だったと思います。お城関係のパンフレットやチケットを入れる箱の中から見つけられませんでした(;´д`)
復元された中門をくぐれば枡形虎口。もう、「小幡陣屋」を忘れて庭園へ向かってました。
広い庭園に池があり、鯉が集まってきます。エサも無いのに鯉と遊び、疲れたので梅の茶屋へ。
畳が敷いてある茶屋で、上がって良いとの事です。もう、ゴロンとしたくなる感じです。
弓道場が見えて、タイムスリップしたような錯覚。
遠くの山々が綺麗で、春の緑や冬の雪も素敵な眺めになることでしょう。

庭園を終えて「小幡陣屋」へ。
井戸跡や、建物はありませんが、何の間だったかのパネルがあり識別してあり解りやすかったです。
それから、土塁の向こうに長屋が復元されてました。
中は展示物があります。こちらに鯉のエサも売ってます。

信雄さんを検索し、よく最後まで読むと戦国の世を器用に渡り歩いた、とか織田家の血筋を絶やさず繋いだ等、誉めてます。
不器用だけど、一生懸命な信雄さんと、しておきます。
「小幡陣屋」には、織田 信長さんのカラーマンホールがありました。
『信雄さんのだったら写真に写したのに』と、無視しました。
今更ながら信長さんマンホールの写真、写しておけば良かったと後悔する「小幡陣屋」攻めでした。

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とばつびしゃもん

奥平氏5代の居城 (2022/10/09 訪問)

古宮城から数分で到着。二の丸直下にある駐車場に駐車し登城開始。
二の丸を通って本丸へはものの数分。本丸には石碑や案内板があり、きれいに整備されていました。
本丸西側の土橋跡から西曲輪を通って一旦城外へ出るとそこは道の駅の駐車場。折り返して本丸下の堀跡を東へ進み、虎口跡、大手跡を通って駐車場へ戻る。

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しんちゃん

五月館 岩手県二戸郡一戸町 (2021/05/08 訪問)

岩手県一戸町にある五月館は旧奥州街道と国道4号線に挟まれた丘陵上に築かれており小繋川が東側を流れています。最高部が主郭で背後に堀切を敷き、北側に二の郭、三の郭を配しています。九戸政実の乱の際に城主小鳥谷市は九戸側に味方し姉帯城に籠城したとのことです。おそらく姉帯城の守勢と共に討死したと思われますが、その後五月館がどうなったかは不明です。

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しんちゃん

北館は公園になっている。 (2021/05/08 訪問)

一戸城は国道4号線沿いの馬渕川の東の台地上に築かれていました。北館・八幡館・神明館・常念館の4つの郭で構成されています。最北の北館は公園になっているので気軽に訪問できますが、他の郭はビニールハウスなどになっているようです。
近くからこっそりのぞきましたが写真は有りません。一戸城は一戸南部氏の城で建長年間(1249~1256)に築かれているようですが一戸氏が身内同士の諍いで滅亡してからは九戸氏と南部氏の間で争奪戦が有り南部氏の配下になったそうです。

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しんちゃん

整備された先住民族蝦夷の遺跡 (2021/05/06 訪問)

高屋敷館は国道7号に面する舌状の台地上に築かれていました。10~12世紀ごろにかけて人が住み中央の環濠集落とは異なる時代に築かれています。蝦夷などと呼ばれた先住民のものと見られ、青森県八戸市では10世紀中ごろ以降に中央からやってきた国司や城司との軋轢があったようで、この地方における情勢の変化があったようです。
高屋敷館は国の史跡に登録され整備が進んでいます。周囲を堀と柵塀で囲み土塁も復元されているようです。

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とばつびしゃもん

遺構がほぼ完全な状態で残る城 (2022/10/09 訪問)

湯谷温泉から作手歴史民俗資料館へ。古宮城模型を見学し続日本100名城スタンプポン。
資料館から数分で城址に到着。城址の一角にある白鳥神社横の駐車スペースに車を駐車し登城開始。
祭事中のところを邪魔しないよう神社の右手から城内へ入る。主郭の虎口では神社の御神木である大木が目に留まる。曲輪、土塁、堀切など、遺構を1時間ほどかけて見て回る。中には牢屋と考えられる曲輪がありました。
城址は公園的な整備がされていないが、戦国時代の城郭がほぼ完全な状態で残されていて極めて貴重とのこと。城内は個人所有地という注意を促す看板もあり、迷惑にならないよう登城する必要あり。

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牛若丸

結構な山城でした (2023/12/16 訪問)

駐車場も整備されていました。
駐車場からは歩いて15分位で本丸に到着しました。

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牛若丸

戦国時代の様子が復元されていました。 (2023/12/16 訪問)

一部工事のために通れませんでしたが戦国時代の様子が良く復元されていました。
当日は天気があまり良くなかったのですが、それもまた良きでした。
駐車場もあり車で行くのが便利です。バスで行くとかなりの山登りになります。

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しんちゃん

大間岬と言えば、やはりマグロ ウニもおいしい。 (2021/05/07 訪問)

本州最北端の地、大間岬は知る人ぞ知るマグロの産地です。弁天島にゴメ(カゴメ)が舞い日本最北端の地の石碑があります。早朝に訪れたのですがどうしてもマグロが食べたくて仏ヶ浦で時間をつぶしてきました。
コロナの時期だったので店内で召し上がるわけにはいかず青空の下のテーブルでいただきます。ゴメが狙ってるから気をつけなとアドバイスをいただきます。どうやらここのゴメは海鮮を狙う油断ならない奴のようです。ここはウニもおいしいので海鮮丼をチョイス。マグロもいっぱい入っています。ご飯の大小をもらい即席で海鮮丼の大小を造ります。並べ方もセンスです、今見てもよだれが出てきます。
本当に大間のマグロは美味しかったんですよ。これが本当のマグロか‥と感動したのを覚えています。おかげで大間以外のどこでマグロを食べてもおいしくなくて逆に困ってしまいました。もう一日くらいゆっくりしてマグロやウニをたらふく食べたかったですが旅の城カラスはいつまでも同じ場所にはいられないのですよ。

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しんちゃん

歩いて回るとけっこうな広さがある。 (2021/05/07 訪問)

七戸城は七戸町に接する台地上にあります。広大な城域を持ち、歴史は古く当初は蝦夷館であったようです。鎌倉時代、工藤右近将監がこの地に入ったとされ建武の新政後は伊達氏→結城氏→南部氏と領主がかわっていったようです。工藤氏のころから城郭として整備がされていた可能性があり南部氏によって本格的な城郭になり南北朝の時代には八戸城と共に南朝方の重要な拠点だったようです。
主要な部分は本城と呼ばれ公園になっていて江戸時代は陣屋が置かれたようです。北に復元された東門があり、本城の西に北館、南西に西館が配され本城と北館との間には水堀が残っています。北の貝の口は広大な田畑になっているようで南の宝泉館の周辺も畑地になっているようです。

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しんちゃん

仏ヶ浦  青森県下北郡佐井村 (2021/05/07 訪問)

国の名勝で天然記念物の仏ヶ浦は青森県下北半島の西岸にあります。何でこんなとこわざわざ来たかというと、早朝に大間の岬に寄ったら急にマグロが食べたくなったけど店がまだやってないので時間をつぶす必要があったわけですね。
以前ブラタモリでタモさんたちが大間岬に寄った時には時間に都合かマグロを食べずに恐山のほうへ行ってしまいましたが、大間と言えばやっぱりマグロですよ。マグロの話ばかりですが仏ヶ浦の投稿です。1500万年前に海底火山から噴出した火山灰が押し固められ(緑色凝灰岩)それが風雨で削られてこんな形になっちゃったらしいです。五百羅漢や蓮華岩などしゃれた名前が付いていて海上からだとより、全容がわかるそうです。最近は熊もでるらしいです、亀の死骸を見ましたがなにか流れ着いたりするんですかね。

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しんちゃん

本丸・二の丸に主の名が残っている。 (2021/05/07 訪問)

伝法寺館は舌状の丘陵上に築かれていて国道4号線が北郭に差し掛かっています。北館と南館の二つの郭で構成され、南の郭の方が本丸と見られ間に堀切が配されています。かつて南部氏に仕えた日の宮氏によって築かれたようで、同じ南部氏に仕える津村越後が本丸に入った際に二の丸に移り、それぞれの郭に「日の宮館」「津村館」の呼称が残っているようです。

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城内散歩 (2023/12/23 訪問)

 城内あるいは堀周辺を散策して目についた遺構などです。

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