1582年、本能寺で信長討死との報を受け、備中高松から畿内へ急行した羽柴秀吉と明智光秀が激突した山崎(京都府大山崎町)。勝敗の分れ目という意味でよく耳にする「天王山」はこの地にあります。
両軍がこの山の占領を争い、羽柴軍の手に帰したとされますが、一方で、実際にどれほど戦局を左右する場面だったかについては様々な議論があるようです。
ひとつの見方は、山の争奪戦以前に両軍の兵力差は明らかであり(多く見積もって羽柴4万、明智1万6千)、おそらくは戦略段階で大勢は決していたと見るべきというもの。
その後の人心を一新したであろう大一番。その意味では「天王山」にふさわしいのでしょうが、細部に至っては、記録を残した側、つまり勝者の側の筆が幾分滑らかすぎた(盛った?)ということもあったりするのかもしれません。
標高270メートル。淀川を挟んで男山に対し、京都盆地の西の出入口をおさえる形勝の地。付近一帯には史跡が多く残っています。
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