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AJ

大返し、からの〜 (2015/11/03 訪問)

1582年、本能寺で信長討死との報を受け、備中高松から畿内へ急行した羽柴秀吉と明智光秀が激突した山崎(京都府大山崎町)。勝敗の分れ目という意味でよく耳にする「天王山」はこの地にあります。

両軍がこの山の占領を争い、羽柴軍の手に帰したとされますが、一方で、実際にどれほど戦局を左右する場面だったかについては様々な議論があるようです。

ひとつの見方は、山の争奪戦以前に両軍の兵力差は明らかであり(多く見積もって羽柴4万、明智1万6千)、おそらくは戦略段階で大勢は決していたと見るべきというもの。

その後の人心を一新したであろう大一番。その意味では「天王山」にふさわしいのでしょうが、細部に至っては、記録を残した側、つまり勝者の側の筆が幾分滑らかすぎた(盛った?)ということもあったりするのかもしれません。

標高270メートル。淀川を挟んで男山に対し、京都盆地の西の出入口をおさえる形勝の地。付近一帯には史跡が多く残っています。

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シェル

水戸市内で水戸城に次ぐ大規模な城郭 (2023/09/25 訪問)

 見川城から移動し、「見川稲荷神社前」のバス停からバスで向かおうとするも、1時間待ちであったため、やむを得ず徒歩で約40分かけて移動。
 他のアクセス方法としては、JR常磐線 赤塚駅南口バス停から、「宮前」または「報仏寺」で下車してすぐです。
 城の縄張は、北の天徳寺から南の国道50号近くの八坂神社までの東西500m、南北600mの広大なものだったようです。
 主な見どころは、①報仏寺 ②八坂神社 ③河和田小学校周辺 ④天徳寺の4か所です。
(その他にも遺構はあるようですが、大部分が私有地になっています。)
①報仏寺
 土塁と堀が残存しています。この土塁はかなりの高さがあります。堀は少し水が残っていました。かつては水堀だったようです。また報仏寺の東側の山門の所に河和田城跡の碑が立っています。
②八坂神社
 報仏寺から南に5分ほど歩いたところにあります。境内の東側から見事な土塁と水堀を見ることができます。個人的に一番鳥肌が立ちました!!
③河和田小学校周辺
 河和田小学校のバス停裏に、二重の堀と土塁が残存していて、歩道から見学することができます。
 河和田小学校の校門近くには、河和田城の説明板があります。
④天徳寺
 山門周辺に土塁と堀が残っています。現在は、堀に水はありませんが、かつては水堀だったと思われます。

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ゆき

残念ながら‥ (2023/11/03 訪問)

遺構は門、櫓、堀があるのみでした。資料館はリニューアル工事の為入れずでした。
来年1月オープン予定だそうです。

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ゆき

実は (2023/11/03 訪問)

ずっと気になっていた小田城跡に行きました。
小田氏は佐竹、上杉等様々な大名に攻め落とされながらも奪い返す執念はさすがです。
資料館で紹介されていた障子堀は残念ながらありませんでしたが虎口、堀、土塁、曲輪の跡がしっかり残っていました。
あまり大きくないので見やすくおすすめです!

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赤い城

来島海峡大橋塔頂ツアー (2023/10/29 訪問)

ネットで見つけた来島海峡大橋の塔頂ツアーに参加しました。
登城はしてません、が「行った」にポチしときます。
朝田さんにクイズで教えて頂いた茶色い穴は次回のお楽しみにしておきます。

下田水港からツアーがスタートします。
武志島には武者走りや岩礁ピットが残っているそうです。
来島城の砦の役割かな?
吊り橋の錘であるアンカレイジを見学したあと馬島へ上陸しました。
早速橋脚への塔頂、もちろんガイドさん付きです。
エレベーターで登り、その先少し階段を登ります。
観光用では無いのでその辺はご注意。

この日は凄く良い天気。
塔頂部からの眺めは最高でした!
まずはやっぱり来島城を探しました。

見えました!

塔頂部にいたのは20分くらいですが大崎下島など瀬戸内の多島美を満喫出来ました!
これ、おすすめです。

下に降りたあとは馬島の散策ツアーに。
馬島も城だったようです。
城の痕跡を見つけることは出来ませんでした。
が、馬島神社の先に来島海峡の潮流スポットがあります。
本当に速い、びっくりでした!
ずっと見ていたい感じでした。

この後は通常の潮流ツアーとなりました。
砲台跡が残る小島、そして来島へ。
今回は来島城は遠景のみです。

造船所を海から見学したら来島海峡の潮流体験です。
先ほどの馬島の潮流を今度は海から。
この潮を征した村上水軍の素敵さ、想像するだけでテンション上がります。

港に戻る途中の中渡城(島)には村上水軍の埋蔵金伝説があるそうです。

再び武志島に、ここでも潮流体験、船のエンジンを止めるとなおさら潮の速さが実感出来ました。
本当に満足、このツアーは本当におすすめです。

帰港後はせっかくなので亀老山へ、綺麗な夕景を見学して大返し。
リア攻めでは無いものの瀬戸内の素敵さを実感出来た1日でした。

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小城小次郎

だんだん綺麗になっていく (2024/04/03 訪問)

2017年の国史跡指定と度重なる大河ドラマ(岡崎信康最期の地)登場が効いたかいつの間にか高石垣を下から見上げることができるようになったし南曲輪の堀切通路も綺麗になった。これからまだまだ綺麗になるに違いない。

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月見灯

攻めるのは一苦労 (2023/10/31 訪問)

登城口から本丸まで、整備された道を歩いても約30分。
息を荒げながら登りました。

本丸の6段の石垣がとても綺麗で、登れるよう整備されていてとても素晴らしかったです。

城下町のおんな城主醸造所の酒粕ソフトクリームは絶品なので、岩村城に登城した帰りに是非お召し上がりください。

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月見灯

秋めいていました! (2023/10/31 訪問)

紅葉している木もあり、秋を感じられました。
限定御城印も二種類あり、しっかり入手いたしました。

木曽川や大きな岩盤を活用して、天然の要害になっている所は迫力満点です。
天守台からは、中津川の景色を一望できます。
車で行くほうが楽ですが、対向車とすれ違えない箇所もあるため、運転に自信がないと怖いかもしれません。

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カズサン

国史跡松本屋敷立石垣 (2023/10/05 訪問)

 駿河丸城跡を終えて、地道を南下し車を吉川元春館の駐車場に駐めて、徒歩で国道433号線北側山裾に在る松本屋敷を訪ねる、歩いて約400m程です。広島県未踏の城探訪3城目です。小雨が降ったりやんだりでした。

 住所:広島県山県郡北広島町海応寺354
 駐車場:吉川元春館、戦国の庭歴史館駐車場を利用、徒歩で松本屋敷へ。
 参考資料:グーグルマップに依る。

 7年前の平成28年6月、吉川元春館を終えて小倉山城へ行く途中にチョイ寄りと思ったのですが、国道沿いに在るものと思ったのですが遭遇せず、しっかり地図で確認して居なかったせいですが、1本北山裾に入った集落道沿いだったのですね。
 
 国道からの案内指示板も確認して、7年振りに松本屋敷跡を初登城、国道から田圃を挟んだ山裾、石垣は吉川元春館、の石垣と同じ立石をある間隔で挟んだこの地方独特の積み方です、南中心に枡形虎口の石垣囲い、上部は現在そば畑に成って居ました。
 東角に案内板があります、間口約70m、奥行き40mで南面の中ほどに6mの門、吉川元春館と共通する石積手法が用いられている、吉川元春の妻が「かり宿」に住んでいたと有りこれが松本屋敷に当たると考えられる。吉川元春館が完成するまでここに滞在していたのでしょうか?(案内解説板抜粋)
 

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WEST

熊本城探訪 (2023/10/25 訪問)

熊本城を訪問しました。震災後の復旧途上ですが、大天守の内部には入ることができ、各階の展示も充実して分かりやすく、時間をかけてゆっくり見たくなるものでした。
まだまだ周りをみてみると災害復旧の途上で痛々しい姿のところもありますが、熊本市民の復旧への願いがひしひし伝わってきます。
訪問時は、宇土櫓は復旧工事中で足場が組まれていました。早い復旧を願うばかりです。
城内には加藤清正公が祀られている加藤神社があり、お参りをするもの良いと思います。神社からは大天守・小天守を撮影するスポットがあり、夕方の撮影がお勧めです。
まだ全面復旧は数年後のことでしょうが、是非再訪したいと思います。

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WEST

菊池本城探訪 (2023/10/25 訪問)

菊池氏の本拠地とした菊池本城(守山城、隈府城)を訪問しました。
鞠智城の時代の後、勢力を誇っていたのが菊池一族のことで、諸説ありますが、菊池本城は16代武政が築城したと伝えられているお城です。今は菊池神社となっており、その一角に城址碑があります。
菊池一族については、「菊池市役所 経済部 菊池プロモーション室 菊池一族プロモーション係」が製作したHPにて詳しく説明しています。分かりやすいですので、是非HPも訪れてみてください。

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カズサン

国史跡駿河丸城 (2023/10/05 訪問)

 広島県北部の未踏の城探訪2城目、駿河の名称が付いているので静岡県在住者としては是非見たいと平成28年6月に小倉山城に登城したのですが肥前の城探訪の途中下車、駿河丸城までは足が向かわず、今回7年目にして登城しました。

 駐車場:無し、登城口案内板下に辛うじて1台可能(34°46'37"N 132°27'37"E)、古城盛衰記さんガイドの通り。
 参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップに依る。

 宿泊した三次から三次IC→大朝IC間高速利用し、降りた辺りは7年前の記憶かなぜか懐かしい、ナビを古城盛衰記さん案内の駐車可能エリア合わせ進行、近くに来ると駿河丸城跡の案内指示板が出ている、駐車エリアは草が茂りバックして1台ギリギリ三角コーナーへ駐める。
 案内解説板を確認して、登城路へしかし草が茂り毛虫がワンサカ草を食べてる、迂回して田圃の畔を歩き登城坂へ、本丸南下の切岸横に城域へ入る道が付いてる、しかし案内板など無く少し不安、初登城者には何らかの案内板が欲しい、本丸下の堀底道を北へ、堀切とその北に横堀が構えてる、本丸へ登る道を探すが人踏道スロープが北、南に在るが急で私には登れない、北側の登城坂は以前丸太階段が付いて居たような状態ですがこの辺の土、真砂土で埋まってる、虎ロープでも付けてくれれば登れたかもしれない?
 雨の降りそうな暗い状態でしたので西の本丸跡堀底道を南北往復して下城、もう少し整備保全してほしい、国史跡指定が昭和61年の様で初期はそれなりに良かったのでしょうが30年40年経つと荒れ気味に成ってしまうのでしょうか?、この後東の二の丸別峰を麓の民家より眺めましたが特に案内板も無く此処で終了。
 この後、吉川元春舘の在る戦国の庭歴史館へ、係りの方と話したおり、駿河丸城に登ったと告げたら、登ったの⁉とビックリおどいた?の様子に見えましたが?登城はあまりメジャーで無いらしい。
 
 歴史は、鎌倉時代末期に駿河国(入江庄吉川?現静岡市清水区)から安芸国大朝本庄の地頭として移った吉川経頼一族が築いた城と思われる。小倉山城を築いて移るまでの約70年をここを本拠とした。(案内板抜粋)
 

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WEST

鞠智城探訪 (2023/10/25 訪問)

熊本県の続日本百名城の一つの鞠智城を訪問しました。熊本空港から自動車で40分程度です。
まず、温故創生館にて映像、展示物等で事前情報を入手後、城内を散策しました。鞠智城は七世紀後半に築城された古代山城で遺構のみですが、城門跡、土塁跡が残っており、散策しながら当時の雰囲気を感じるもの良いかと思います。
ただし、城内は結構広く、城門跡、土塁跡まで見て回ると一時間強はかかりますので、見学時間に余裕が必要です。
また、城内には発掘調査を基に八角形の建物の鼓楼、板倉等の建物が復元されています。

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きよまさ

岩崎城に行く (2023/10/24 訪問)

本当は天守ないんだけど・・・

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チェブ

藪と雑木林。 (2023/10/04 訪問)

小山 朝村さんが築城した「薬師寺城」。

遺構を、藪に隠し侵入を拒絶します。
この日は、雨があがって曇り。お日様が出て、藪はぐんぐん元気になるのでしょう。
周りは畑と、民家。
路駐をして、さっさっと写真を写して退陣です。

藪は「薬師寺城」の説明板の近くにも、寄せ付けてくれません。

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Pylori

麓から見上げる迫力は圧巻 (2023/10/29 訪問)

曲輪が素晴らしい。さすが謙信公

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朝田 辰兵衛

二上山万葉ラインを東から西へ… (2023/10/07 訪問)

改変されて見どころの少なくなった守山城を,徒歩で「二上山万葉ラインを東から西へ…」などというルートで散策する変態は私ぐらいかと思います。
古国府城から西へ300mほど進むと,二上山万葉ラインに入ります。そして,最初のピークが「平和の鐘」。自由に鐘をつくことができます。自動販売機,トイレも設置されており,休憩場所としてチョイスしました。
「平和の鐘」から先は谷となります。守山城から見れば,天然の東側防御施設になっていると思います。そしてまた登りが続き,みなさんがアップされている「大伴家持像」にたどり着きます。さらに先が守山城。眺望はバッチリなんですが…。
結局,そのまま西へと。国道160号線に出て,二上山万葉ラインを歩き切りました。200mほど南下して,新守山バス停から高岡市内中心部へと向かいました。

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トク

76【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津義弘と飯野城) (2023/10/17 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑦です。
義弘が最も長い26年間(30~56才頃)を過ごした「飯野城」と義弘が天下にその名をとどろかせた「木崎原古戦場」を訪れてきました。飯野城へはえびの文化センター前から再度同じバス小林駅行バスに乗り10分「飯野」で下車しそこから徒歩20分の所にあります(写真①)。

人吉城の相良氏の抑えと日向の伊東氏の薩摩進攻に備えるため、義弘は1564年に平松城からここ飯野城へ居を移します。そしてここから出陣した、木崎原の戦い(1572年:対伊東氏)、耳川の戦いと豊後攻め(1578年:対大友氏)、根白坂の戦い(1590年:対豊臣)と数々の義弘伝説をここ飯野城から出陣して作っていきました。

ここもシラス台地を利用し三方を川内川と急峻な崖に囲まれ、本丸・二の丸・三の丸・物見曲輪から構成された強固な作りの城でした(いかにも島津らしい城だ🤔)。物見曲輪からは木崎原古戦場も見えました(写真⑩)。

1590年「根白坂」で豊臣秀長軍に大敗した義弘は、再びここ飯野城へ逃げ戻り籠城します。しかし義久が秀吉に泰平寺で降伏したため、徹底抗戦を叫ぶも結局は兄には逆らえず、また義久には薩摩を義弘には大隅の安堵の条件を秀吉から提示されたため、自らも剃髪しここから秀吉の元へ行き降伏しました。

そしてその直後、この日向の飯野城を離れ、自領大隅の松尾城(栗野城)へ移り、さらに秀吉の命により朝鮮へ出兵します(文禄の役)。帰国後1594年そこから南の海に近い帖佐に館を構えそこに移り住み、また再び朝鮮へ出兵します(慶長の役)。そしてその帖佐から1600年の関ケ原へと出陣して行ったのでした。

次は、木崎原古戦場に続きます。
 

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うさ

寺部城 (2023/11/01 訪問)

ちょっと分かりにくい所にあります。駐車場もないです。住宅街にあります。

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うさ

市場城 (2023/11/01 訪問)

駐車場も旗が立っていて分かりやすく、近くの観光案内所で御城印も頂けます。
とても登りやすい山城です。

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