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朝田 辰兵衛

延沢城散策1/2(登城口~櫓門跡) (2024/04/20 訪問)

todo94さんの投稿としりとり手札で,興味をそそられたお城のひとつが「延沢城」でした。他の方の投稿でもカモシカ遭遇が語られており,かなり高い出現率なのだと認識しておりましたが,私の前に姿を現してはくれませんでした…。
まず,目指すは「常盤小学校」。以前は「常盤中学校」だったようです。常盤小学校の西側と東側に登城口があります。東側にはパンフレット置き場があります。西側ルートと東側ルートは途中で合流します。東側ルートの途中に三の丸があるので,往路か復路のどちらかで東側ルートを選択されることをおすすめします。ちなみに私は往路で西側ルート,復路で東側ルートを選択しました。

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トク

102【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と家康出会いの地?-中泉御殿) (2024/02/15 訪問)

(26人目)井伊直政の続き④です。
家康が浜松時代に鷹狩りの休憩地として建てた中泉御殿を訪れました。

JR磐田駅から南に徒歩3分の所にあり、御殿の跡地は現在は公園とコンビニになっています(写真①)。また駅から北へ徒歩10分の所にある西願寺にある門は、御殿の裏門が移築されたものだと伝わっています(写真②③)。

浜松時代に家康は鷹狩りを大変好んでいました。磐田駅の南側一帯は現在は住宅地ですが(写真④)、当時ここは池や沼が多く、そのため鳥や動物が多く生息していたようで、家康はこの地を好み、数十回もここで鷹狩りを楽しんだと言われています。そしてその休憩地として中泉御殿を建て、ここを狩りの拠点としていたようです。

1575年、14才になった虎松(直政)は、鷹狩りの最中に目通りがかない、家康と出会ったと伝えられています。しかしその場所がどこだったのか調べましたが、明確な場所はわかりませんでした。ならば私は、この周辺で出会った確率がいちばん高いのではないかと思い訪れました(これはあくまで私の推測なので間違っていたらすいません)。

家康は井伊直親が自分と通じていたため今川氏真から殺された事を憶えていました。井伊家は正室の瀬名の母方の家でもあり、その血筋の直親の子が生きていた事に驚き、虎松を見た瞬間、「直親の実子であれば召し抱えぬわけにはいくまい」と語ったそうです。そして虎松は300石で家康の小姓として召し抱えられ、念願の井伊家再興を果たすことができたのでした。

私は磐田駅からこの鷹狩り地の一帯を眺めながら考えてみました(写真④)。家康には初めて見た虎松がどのように映ったのでしょうか? きっと何か感じるものがあったのではないでしょうか? そしてこれを何より一番喜んだのは、念願の井伊家再興を夢見ていた、叔母であり養母でもあった直虎である事は言うまでもありません。

次は、直政の出世の始まり(浜松城)を訪れます。
 

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しんちゃん

ラブリー砂岩の世界。 (2024/03/10 訪問)

先日、西高木家陣屋の石垣の95%が養老山系の硬質砂岩と書きましたが、自分で数えたわけではありません。そこまで変態じゃないです。岩石の比率は某サイトを参考にさせていただきましたが、河戸石は見ればすぐにわかります。基本的に石垣の石というのは、天下普請でも無い限りは現地調達が鉄則ですので、地理的に見て河戸石が使用されているというのは想定できます。
私の好きな和泉砂岩は白亜紀の地層から採取される砂岩で和泉山脈から讃岐山脈、高縄半島に至るまでの広範囲に分布しています。特に和泉で採取される砂岩は綺麗な緑灰色で土木や墓石など幅広い用途に使われています。ちなみに和泉砂岩でつくられた古い墓石はみんな崩れてしまっているようです。諸行無常ですね。
淡路島の洲本城の石垣も和泉砂岩で場内に石切り場があります。叶堂城の石垣は移転に伴い撤去されてしまいましたが、付近で採取される和泉砂岩を使用しているとみて間違いないでしょう。他に有名なのは和歌山城と岸和田城に使用されている和泉砂岩です。

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しんちゃん

山科本願寺 (2024/02/10 訪問)

山科本願寺は蓮如によって文明15年(1483)に築かれました。周囲には堀と土塁が巡らされ、今では山科中央公園に土塁が一部残っていますが、かなり大きな土塁です。
天文元年(1532)法華一揆の衆徒と手を組んだ細川晴元と対立し、山科本願寺は焼け落ちてしまったそうです(天文の乱)。こののち本願寺は本拠を石山に移し、例の人物と派手にやるわけです。

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しんちゃん

織田信長の側室、吉乃の方ゆかり (2024/03/10 訪問)

今日は家の屋根の業者が来るので半日有給です。皆さん頑張って仕事してくださいね~。ご安全に。
布袋東保育園の一画に生駒氏の邸址の石碑があります。生駒氏の菩提寺・久昌寺は老朽化のため解体され、公園としてオープンする予定です。解体時、思ったより古い時代の部材が出てきたそうです。ひょっとして文化財としての価値も高かったのではないでしょうか?
自治体の事情もあると思うのですが、いささか残念。久昌寺や墓所、門の写真は2021年の物です。今は公園もオープンしてると思うので、墓所も参拝しやすくなっているのかな?
廣間家の門は生駒屋敷の中門を移築したもので江南市の文化財に指定されています。

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赤い城

フェンスの中に立つ石碑 (2024/05/17 訪問)

出張途中に少し時間があったので立ち寄りました。
阪急蛍池駅の西側に位置します。
工事も終わり、消防施設のところに石碑が立っています。
石碑はフェンスに囲まれていて中には入れません。
周囲に痕跡はないかと散策しましたがやはり市街地化しています。

イオさんのレポートによると移築された門が市内にいくつかあるとのこと。
時間が限られていたのでモノレールの柴原阪大前駅から近い長屋門のみ見学。
民家に立派な門が建っていました。
この辺りの名家なんでしょうね。

時間があれば他の移築門も見学したいです。
さっ、仕事仕事。

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しんちゃん

蜂須賀小六正勝 (2024/03/10 訪問)

シロー★城びと編集部さん 元気になりましたね。そうでなくてはです。また新しいムーブメントを期待しています。
ちなみに「続百名城かるた」まだ、あきらめていません(しつこいなー)。いつかは玉越です。
蜂須賀城は鎌倉時代からの土豪・蜂須賀氏の本城とされています。蜂須賀小六正勝もここで産まれたとされ、蜂須賀家菩提寺である蓮寺華には蜂須賀正勝公顕彰碑と城址碑が立っています。蜂須賀氏は斎藤氏に従っていたとされ、織田信秀の圧力によって宮後城に移り、そこで正勝の嫡子・蜂須賀家政が産まれたとされ、宮後城跡近くの道沿いに家政公生誕碑が立っています。
蓮寺華南西の園龍院には蜂須賀小六正勝公旧宅跡碑があります。道が狭いので、車から降り写真を撮ってそそくさ退散です。 

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シェル

福井の旅の締めは丸岡 (2024/02/25 訪問)

 福井の旅の最後は、現存12天守の丸岡城へ!!
 越前大野城からバスで福井駅に戻り、福井駅西口1番のりば 丸岡城行のバスに乗車。京福バス休日フリーきっぷ利用。乗車時間は約1時間。(バスの場合は丸岡城公園の駐車場の所まで行くので便利です。)
 100名城スタンプは券売所で押印。雨模様ということもあり、ほぼ貸し切り状態で見学。
 本丸部分には、石瓦の天守を筆頭に野面積みの石垣、人柱となったお静の慰霊碑、霞ヶ城の由来となった井戸などの見所があります。
 天守内は一階が展示スペース、二階は本多重次・本多成重のパネル展示、三階は展望スペースになっています。特に二階から三階の階段がかなり急です。またこの階段の所には、狭間が設けられています。これは階段に寄っかかりながら撃つしかないですね…
 悪天候でしたが、天守からは福井市街や北陸新幹線の高架なども見ることができました。
 二階で遠望中、しれっとハトさんが石瓦の所にいたので、ついつい撮影しちゃいました!!
 本丸から西側のお天守前公園へ降りると、階段の所に昭和十七年に建立された「国寶 霞ヶ城」の石碑があります。
 そこからバス停のある丸岡城駐車場の間の庭園の所は、丸岡観光情報センターの建設のため、工事中でした。

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本丸周囲散歩 (2024/06/06 訪問)

 福井城本丸周囲を散策し舎人門や百間堀の石垣などを時間に制限がありましたが、観て廻りました。

 越前おろし蕎麦を食べたくて福井駅構内にある「おそばだうどんだ越前」さんで越前セット(おろしそばと焼き鯖寿司のセット)をいただきました。

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結城秀康 (2024/06/06 訪問)

 久しぶりの福井城です。すばらしい本丸の石垣と堀が残っています。山里口御門、御廊下橋などが復元されて雰囲気を醸し出しています。
以前に来た時も思いましたが、本丸には現在福井県庁があり写真を撮ると写りこんでしまいますね。
 福井駅からも近く徒歩5分くらいで行くことができます。

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お礼

戦い済んで日が暮れて 一夜明くれば また奮い立つ

改めまして、「日本100名城かるた」商品化に奔走してくださったみなさま。
気にしてくださっていたみなさま。
しつこい投稿に我慢してくださったみなさま。

本当にありがとうございました。
まごまごしている編集部への支援応援、本当に心強かったです。
不成立が決まったあと、本当に多くの方が残念な気持ちをお寄せくださって、
これだけ期待されていたのにふがいない、と誠に申し訳なく思うと同時に、
今後への暖かいエール一つ一つに励まされております。

いつまでもくよくよしてはいられません。
今後どのようなことができるのか、関係者一同新たな気持ちと頭で考えております。
まだ具体的なことは何も決まっていませんが、動きがあり次第、城びとのサイトやSNSでお知らせしてまいります。
今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

重ねてになりますが、今回は本当にありがとうございました。

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柴田勝安 (2024/06/06 訪問)

柴田勝家の一族、勝安が築いたとされる城です。勝山市民会館前に城址碑と説明板があります。遺構はないようです。

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ごんぎつね

巨大な山城 (2022/11/26 訪問)

麓には静かで広大な敷地に立派な毛利家の墓所がありました。
踏み入れると明らかに雰囲気がガラッと変わり、神聖な空気が感じられます。

その先としばらく進むと郡山城の登山口へ!

多くの曲輪、堀切がしっかりと残っておりました。

特に急な坂はなく、平坦で歩きやすいのですが、
なぜかどんどん体力が消耗されていく。。
いくつか山城攻めはしていますが、今まで一番しんどかった記憶がある城です。

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小城小次郎

それも何かのご縁なのだろうか (2023/11/23 訪問)

常陸と安芸の宍戸家はそれぞれ佐竹と毛利という雄藩で重臣に名を連ねていたという、ある意味「持っている」家柄。八田知家の子孫(宍戸)と大江広元の子孫(毛利)が5kmしか離れていないところにいたというのも奇跡だと思う。それも何かのご縁なのだろうか。

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零汰

穴だらけの地面の一角に (2024/05/15 訪問)

道路を走っていると日頃と景観が違ってガードレールが見当たりません。替りにマイナーな城では滅多に見ることの無い立派な立派な横堀が続いています。各々の敷地の出入口はアピール抜群の土橋が。土橋って目立たなくて写真撮りずらいのに。
「・・・・これってアスファルトを避けて写真撮ってどっかの城跡の写真ですって出しても分からないんじゃね?」

こちらのチャシは竪穴式住居跡の一角に存在します。グーグルマップにも出てきて迷わず近くに辿り着くことが出来ます。田んぼのあぜ道を渡ってマーカー近くで林の中を覗きますがちょっと雰囲気がそうじゃない。東に100~150m程度あぜ道歩いて行くと「開発局」の看板がありました。どうやら遺跡の場所に設置しているようです。こちら以外に数か所で見かける事になります。そこから入り込むと目当てに行き着きました。「北の遺跡案内」でも同程度のズレがありましたが、ピンポイントのマーカーなので誤差の範疇です。

穴だらけの地面の一角にそれはありました。堀は浅くなっていますがこれまでの2か所のチャシと形状は同じです。こちらを見ることでこのタイプのチャシは祭祀用なんじゃないかと気が付きました。(例えば集落にある神社のような関係性など。ですが私個人の見解で裏付はありません)

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コロスケコロコロ

村岡城! (2024/06/05 訪問)

眺めの良い場所で往時が偲ばれて良かったです。

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しんちゃん

上を向いて歩こうかな。 (2024/04/13 訪問)

楽田城は織田久長によって永正元年ごろに築かれたとされ、「遺老物語」によれば永禄元年(1558)城中に高さ5mの檀を築き、その上におよそ12mと15mの櫓を建て、階上の中央に八畳敷き程の座敷を設けたとあります。どうやらこれが天守閣に対する最も古い記述とされているようです。
天正12年の小牧・長久手の戦いの際には小牧山の徳川家康に対して、豊臣秀吉家臣・堀秀政が守り、秀吉も犬山城から楽田城に入ったとされています。かつての土塁や堀も今は失われ、楽田小学校の一角に城址碑が立っています。

話はかわりますが、コンビニのツバメが巣立って行きました。一羽残らず巣立つことができたようで、ツバメの親の努力には頭が下がります。だいぶお疲れと思うのですが、いまごろ四羽を先導して南に向かって飛んでいるのでしょうか。一羽も欠けることなく目的地にたどり付けると良いですね。
また話はかわりますが、正直 「百名城かるた」の件は残念です。自分のことばかり書いていますが、こうしたイベントで城びとが盛り上がってコンテンツとして長く続いて欲しいと思っているのは本当です。「かるた」もなんらかの形で継続していって欲しいと思っていますし、様々なイベントで皆が楽しめて、新しい城びとが入ってこれる呼び水になってくれればいいなと思っています。

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しんちゃん

大名格の交代寄合の陣屋跡 (2024/03/10 訪問)

西高木家陣屋は河岸段丘上に築かれた西高木家の陣屋跡で、前身は関一政の築いた多羅城とされています。高木家は西家・2300石、北家1000石、東家1000石の三家で交代寄合美濃州として交代で参勤交代を行い、大名と同等の格式を与えられていたようです。天保3年(1832)に北高木家が火事にあい、西高木家も屋敷を焼失したそうです。
嘉永5年(1852)に表門が、明治29年(1896)に屋敷が再建され、敷地内には大垣市上石津郷土資料館が建てられています。また当時の石垣が残り、見たところ河戸石が使われているように見受けられます。どうやら95%が養老山系の硬質砂岩(河戸石)、4%が花崗岩、1%が結晶片岩のようです。河戸石はジュラ紀の地層から採取される、硬い砂岩で、名古屋城の二の丸外周や加納城(推測)にも使われています。劣化して崩れてくるというよりは、端が割れたり欠けたりしています。苔むして変色してくると、もはや花崗岩などと見分けがつきません。立派な石垣になっています。

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イオ

かるた大会

CF、力及ばず無念です…。昨夜からため息をつきながらつらつらと考えるに、日本100名城かるた自体に魅力がないのではなく、魅力をより多くの城好きに知ってもらう時間が足りなかったのかなぁ、と。

だとするならば、現段階での商品化は出来ないとしても日本100名城かるたの魅力を広く伝えることができれば結果は違ってくるわけで、販売用の商品でなく城びと編集部の備品としてかるたを10セットばかり用意することがもし可能なら、百聞も一見も体験に如かずで、お城EXPOでかるた大会を開催して参加者にその魅力・面白さを体験してもらうことで、城好きの間に日本100名城かるたの存在が浸透し、あわせてチラシ等を配布して次なる戦略につなげる…。

商品の企画や広報宣伝は全くの素人なので、そんな簡単な話ではないんでしょうけど、以前からかるた大会、かるた大会と言い続けている身としては、お城EXPOで城好きのみなさんとわいわい楽しくかるたに興じることができるなら、さしあたっては商品化されなくてもいいかな、とさえ思っています。

……いや、でもやっぱり手元にほしいな(笑)

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イオ

二つの砲台 (2024/04/13 訪問)

江戸末期に大阪湾防備のため勝海舟の建議により江戸幕府が築いた台場で、完成後の試射で砲煙が内部に充満するなどして、実戦に用いられることなく明治を迎えています。

西波止町バス停が最寄り(徒歩約2分)ですが、この日は阪急レンタサイクルで小松城から転戦しました。御前浜公園の北西部に砲台の石堡塔(砲塔)と外郭(土塁)が現存しています。石堡塔は直径約17m、高さ約12mの円筒形で、1階北側に入口(内部非公開)があり、2階の周囲には11個の砲眼、北側に縦長の窓が1個開口しています。石堡塔の周囲を囲んで外郭が設けられていて、西辺には外郭の土塁が遺り、南辺と北西辺(防潮堤の向こうの西波止公園内)には外郭の石材が並んでいます。石堡塔の入口付近には外郭石材(たぶん)が集められていました。また、外郭土塁の南部と北部、防潮堤北側の階段脇に西宮砲台の説明板が、階段の道向かいには史蹟 西宮砲台の石碑が立てられています。

なお、西宮砲台から東南東に約1.3kmには西宮砲台と同時期に築かれた今津砲台がありましたが、陸軍省から民間に払い下げられて解体され、現在では跡地に砲台の石材を利用した今津海岸砲台記念石と今津砲台の説明板が立てられているのみです。さらに訪問時は道路工事中だったため、記念石も説明板も柵越しにかろうじて見えるだけでした…。小松城からの道中だったこともあり立ち寄ってみましたが、こうして二つの砲台をめぐってみると、石堡塔と外郭が遺る西宮砲台がいかに貴重な存在であるかがよくわかります。
 

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