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トク

私の兵糧丸

寒い冬の最中に夏の話題で恐縮ですが・・・

私が夏の登城時に必ず持ち歩いた物、それは「くまモンのタオル」と最寄りのコンビニで買った「氷」(ロックアイス)です。

九州の夏はとにかく暑い! 最近は6~9月は30度以上の真夏日はあたりまえ、7~8月は35度以上の猛暑日も数えきれないくらいありました。昨年はせっかく汗ダクで登城したのに、いざ写真を撮ろうとしたらスマホのカメラが起動せず、肝心の写真が撮れない😱~! なんていうトラブルを何度も経験しました。どうやら私のスマホは35度前後の炎天下に30分以上いると動作しなくなるようです(たぶんICが限界温度を越え動かなくなる)。よって今年は登城前に最寄りのコンビニで氷を買ってスマホといっしょにカバンの中に入れて冷やしながら登城しました。途中でその氷や融けた水を口に含めば熱中症も防げて一石二鳥です。コンビニの氷は融けにくく結構2時間近くもつので、そうやって克服しながら写真も撮れました。そしていよいよ疲れた時に元気をくれたのが、熊本城で買ったこの「くまモンのタオル」です! これで汗を拭きながら「トクもがんばるモン!」なんてものまねをすると最後までがんばって歩けました(でも全然似てなかったよ🤔)?・・・
 

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しんちゃん

八幡山城 静岡県静岡市駿河区八幡 (2021/03/14 訪問)

八幡山城は八幡神社の背後に立つ標高63mの八幡山に築かれています。平山城でなだらかな尾根上に郭が築かれており富士山も良く眺望できます。応永18年(1411)に駿河守護今川範政がこの地に入った時に築いた城塞の一つだそうです。
今川家の家督騒動の際に太田道灌が布陣したという伝承があり、伊勢新九郎盛時に関わる伝承もあるようです。

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しんちゃん

三保松原 国指定名勝・世界遺産 (2021/03/14 訪問)

三保松原は静岡県清水区の三保半島にあり世界文化遺産に指定されています。古くからの景勝地で国指定名勝でもあります。
この清水区もともと私の生まれ故郷なのでして、生まれてしばらく次郎長通りのすぐ近くで暮らしていました。三保松原は7kmほどの長さが有りますが羽衣の松あたりから海岸に出て見る景色が素晴らしかったです。

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しんちゃん

大岩山砦 中川清秀墓  滋賀県長浜市余呉町 (2019/12/01 訪問)

賤ヶ岳砦から北東へ尾根伝いにしばらく進んだ先、標高280mの大岩山の山頂部に大岩山砦は築かれていました。賤ヶ岳の合戦の前哨戦で中川清秀が佐久間盛政の軍勢と戦い坂虎口の周辺で討死したとあります。賤ヶ岳砦からの道中に清秀の首を洗ったという首洗い池がありました。その亡骸は地元の民が谷におろし芝で覆い隠し守ったとされています。
南側の坂虎口を北に向かうと二の郭がありその先の主郭に中川清秀の墓がありました。

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しんちゃん

妻籠宿 長野県木曽郡南木曽町 (2019/03/10 訪問)

妻籠宿は中山道42番目の宿場で中山道と飯田街道の追分に位置する交通の要衝でもありました。江戸時代の面影を非常に良く残しており観光地として有名で、外国人を含む多くの観光客が訪れています。
熊谷家住宅や妻籠宿本陣、脇本陣奥谷・林屋住宅(歴史資料館)など多くの観光施設があり、のんびり回れば一日は楽しめそうです。
交通の要衝らしく街道の抑えの妻籠城や、街中に枡形(町の史跡)が残っています。

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しんちゃん

街道を押える城 (2019/03/10 訪問)

妻籠城は室町時代にはその存在が確認できていて天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに際には木曽義昌の家臣・山本甚兵衛良勝が入り徳川勢の菅沼・保科の軍勢と戦ったとあります。
土橋を渡っていくと右手に東郭、左手に主郭があり間に堀切がかかっています。主郭の周囲には帯郭がいくつか残っていました。

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ぴーかる

大曲輪群と石垣跡 (2023/11/24 訪問)

【平賀城】
<駐車場他>瀧不動寺前に駐車スペースあり。または城跡東側の霊園手前、道路カーブミラーの所<36.226034, 138.510709>の道路脇
<交通手段>車

<見所>石垣・石切り場
<感想>2泊3日松本・佐久・吾妻の山城攻めの旅2日目5城目。平賀城は1184年に平賀義信が築いたと伝えられる。平賀義信は平安時代末期の河内源氏の武将で父は新羅三郎義光の四男、平賀氏の祖でもあります。本家平賀家はその後新田氏に内包されていき、平賀郷の在地土豪が平賀氏を名乗るようになります。戦国時代には小笠原氏庶流の大井氏の出である平賀玄信という者がこの平賀城主であったようです。
 上記瀧不動寺に駐車できるのを知らず、城山保育園付近の道路脇に駐車して登城しました。瀧不動寺も当時は勿論山城の一部に含まれていただろうし下仁田街道側に接しているのでこちら側が防備の要かも。瀧不動寺は切り立った大岩が多くここも岩の切岸兼石切り場だったかもしれません。城跡はさほど広くない山頂の削平地に連郭に主郭2郭3郭と段々にあります。南西面の傾斜地と北東面の傾斜地に横幅の広い段曲輪があります。北東面の曲輪群の先に出丸があり霊園手前のカーブミラーの道路に出ます。出丸の南側曲輪壁には良好に石垣が残されています。出丸南方向にさらに連郭の段曲輪になっており崩れた石垣遺構が残ります。
 凄いのが南西面の曲輪群で幅150m程の段が6段程度、麓付近の住宅地のすぐ手前まで広がっています。石垣が良好に残り曲輪の区画が明瞭に分かります。曲輪の間々の仕切り石垣はスロープ状になっています。最奥の主郭の南壁にあたる箇所に巨石群がありここも石切り場だったように思います。南西面の曲輪群は麓から見上げると圧巻の見応えで、やはり葉の落ちた冬場がいいと思います。素晴らしい城跡で百・続百名城以外のマイベストに入る城跡でした。お勧めです。

<満足度>◆◆◆

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しんちゃん

新倉山浅間公園 山梨県富士吉田市新倉 (2019/04/20 訪問)

富士山と桜、五重塔が一緒に見られるスポットとして有名になった神社があります。新倉富士浅間神社です。神域が公園になっており神社の上に建っている五重の塔は忠霊塔みたいです。様々な絶景の本などでも紹介され海外の人にも人気が高く、凄い人出でした。
忠霊塔の後ろから桜と富士山を一緒に写真にとることが出来ますが人が多くなかなか大変です。でも苦労をするだけの価値がある素晴らしい絶景だと思います。

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朝田 辰兵衛

光明寺墓地裏から廻り込めます↻ (2023/11/04 訪問)

光明寺の西側から墓地裏に廻り込んで行けます。ただ,光明寺にはパネルが設置してありますので見落とし注意です。ちょっと,境内を突っ切って,本堂の裏から…っていうのは気が引けます。
主郭を取り囲むように横堀が走っており,主郭からは眺望が開けています。光明寺のパネルだけで終わってしまってはもったいないです。

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POYO58

結構広い平城 評価★★★☆☆ (2022/11/03 訪問)

竹田城の訪問を終えたあと、車で1時間くらいかけて篠山城に行ってきました。車の中では結構寝てました。かなり寝不足だったので。詳しくは竹田城の投稿をご覧ください。
篠山城の駐車場は篠山城のすぐ前にありますが、意外と混んでましたね。部活をしている学生さんたちが結構いたのと、バイクが結構止められてました。
篠山城は徳川家康が藤堂高虎に命令して築城されました。なのでこの城はまっすぐとした石垣が多いですね。加藤清正とは違って斜面が直線になっています。
早速城へ向かいますが、もう初めっからすごかったですね。やっぱり家康さんのお城は最初っから恐ろしいものを見せてきますね。表門跡からいくのですが、城自体が水堀に囲まれていて、高石垣が立ちはだかっていました。そこを通ると枡形虎口になっていて、中之門跡に続いていました。その後は復元大書院の中に入って、御城印とスタンプを押して見学させて頂きました。中では資料映像や模型甲冑が結構置いてありました。やはり丹波なので明智光秀の情報も結構載ってました。
大書院を終えたあと、二の丸に行きました。二の丸にはかつて御殿が広がっていたようです。二の丸には荒々しい石垣が多かったです。二の丸には寺もあってお参りしました。

さあ次は天守台へ向かいます。

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刑部

鷲之巣城 (2023/11/04 訪問)

駐車場とトイレ完備で整備された城址。近くにコスモス畑があり丁度満開でした、ここから遠目で久野城が見えます! ここは遠州グルメなら鰻!

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トク

87【関ケ原の26人】(24)島津義弘 (島津義弘と福昌寺) (2023/10/11 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑯です。最後に義弘の墓所「福昌寺」を訪ねてきました(写真①)。

鹿児島中央駅前から南国交通バスに乗り「玉龍高校前」で下車(写真⑨)、高校の校舎の裏にひっそりとありました。島津義弘は加治木の館で死去した後、父の貴久・兄の義久・弟の歳久が眠る鹿児島市内の内城にほど近いここ福昌寺の墓地に同じく埋葬されました。島津義弘は今でもここに眠っています(写真④貴久⑤義久⑥義弘の墓)。

福昌寺はかつては1500人もの僧がいた大寺院だったようです(写真②③)。江戸時代の島津斉彬や島津久光など歴代藩主の墓も隣接する敷地にありました(写真⑦の中)。明治に入り廃仏毀釈で廃寺となり、現在は墓のみが桜島の灰の中でひっそりと無残に残っていました。足首まで灰がある所があるので白い靴で来るのはやめた方がよさそうです(ここの高校生はよく平気なものだ🤔)。壁には弾痕跡もあり、西南戦争で明治政府に反旗を翻した、旧薩摩藩士や島津家に対する圧力があった事をここでも感じました(写真⑧)。

【義弘辞世の句】
 春秋の
 花も紅葉もとどまらず
 人も空しき
 関路なりけり

私は義弘の墓の前に立ちこの辞世の句を読みながら考えてみました。義弘はどんな思いで、加治木での晩年を過ごしていたのでしょうか? 義弘にとっては生涯忘れる事ができぬ、心の痛みとなって残っていた出来事があります。それは、若くして自分の身代わりとなり死んでいった甥の島津豊久、同じく捨て奸で自分の身代わりとなって死んでいった家老の長寿院盛淳、そして自分を逃がすために犠牲となった1500人の家臣たち・・・ この辞世の句には、春の花や紅葉のように人もはかなく散っていく、「関路」とは「関ケ原での退き口」を指しているのではないかと思いました。この時に自分の身代わりとなり、はかなく散ったこの二人と多くの家臣、これらの多くの犠牲のおかげで、本当なら関ケ原で死んでいたはずの自分が、今日まで長生きできた事を、最後に一番感謝して、この句に込めたのではないでしょうか・・・

島津義弘(享年85才)
薩摩で最も慕われ、そして薩摩に伝説を残した男でした。

私はこの島津義弘に、「MIP賞」(最も印象に残った武将賞)をあげたいと思います。

帰りの九州新幹線の中で、義弘を偲びつつ、鹿児島名物「黒豚の駅弁」を食べながら帰りました(写真⑩)。あ~これおいしい・・・

次は(25人目)に続きます。
 

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しんちゃん

土岐氏庶流・揖斐氏の山城。非常に散策しやすい。 (2019/11/10 訪問)

揖斐城は揖斐川の北に位置する城台山に築かれており濃尾平野を眼下に収めることが出来ます。一心寺から登城道が続いていて南の丸から本丸にたどり着きます。本丸の北東部に枡形を残し大きな竪堀が目を引きます。尾根上に沿って郭が続き、折れ曲がりながら北東に続きます。曲輪→二の丸→三の丸→太鼓曲輪・出丸→北の丸→搦手曲輪→堀切と尾根上を進むだけで次々と遺構を見ることが出来、気が付いたら最後の堀切まで来ていました。
土岐頼清の子・揖斐出羽守頼雄による築城とされ後に斎藤道三に攻められ消失し廃城となったようです。

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HKISD

勝山城跡散策 (2023/12/25 訪問)

茶色の石垣が見事でした。
又、整備もキチンとされており良い散策でした。

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しんちゃん

武田氏に改修された駿河の本格的山城 (2019/05/11 訪問)

丸子城は今川氏に属する斎藤氏歴代の居城とされ駿府の支城として位置づけられていたようです。武田の侵略後は山県昌景が入り永禄13年(1570)諸賀兵部大輔・関甚五兵衛が在番として入り今の形に増築が行われたようです。
主郭は時代によって異なり北の主郭・南の千畳敷はともに標高136mの高所にあり、現地の立札は南の郭を本丸としています。南の郭は馬出郭・枡形虎口を備えており少なくとも武田期にはここが本丸の役割を果たしていたものと思われます。

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赤い城

鷺森神社 (2023/12/15 訪問)

国道196号線から少し入ったところの鷺森神社が城趾です。
鳥居の脇に石碑が立っています。
河野氏が家臣の桑原氏に命じて築かせた城ですが豊臣秀吉の四国攻めで小早川隆景により落城しました。
境内が主郭で周囲を土塁と水堀が囲んでいたようです。
神社裏手には微かに残る土塁、その外側には水堀があります。
鳥居前、北側の堀は瀬戸内海につながっていて航路としての役割もあったようです。
今でも小舟が係留されています。
出張の際にちょっとだけ、と立ち寄りました。

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しんちゃん

キリストの里 青森県三戸郡新郷村 (2021/05/08 訪問)

最近は邪馬台国論争に四国の徳島まで参戦してきて、ちょっとした話題になっています。四国かあ‥たしかに淡路には国造り神話にまつわる神社やらいろいろあるけど狗奴国とかどこになるんだろう。
九州、近畿につづいて四国とにぎやかになってきました。本州の北端・青森県には邪馬台国の伝承はありませんがイエス様にまつわる伝承があります。伝承によるとイエスはゴルゴダの丘で死なず(弟のイスキリが身代わりになった)みちのくの山村に渡って106歳まで生きたそうです。イスキリ‥誰ですか?。いろいろな”?”が浮かんできますがキリストとイスキリの墓が向かい合って立っています。近くには伝承館もあってキリスト渡来の伝承を説明してくれます。イスラエル国家の公認のようですね。
今の状況からは想像もつかないですが、このときはイスラエルも余裕があったようです。ウクライナ・パレスチナ・イスラエルに早く平穏が訪れることを願います。ちなみに近くにある売店はキリストっぷというらしいですよ。それではみなさんメリークリスマス

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くうくう

江戸期代官屋敷の格式を伝える長屋門

永禄年間(1558-69)に黒田義則が移り住んだ。義則は8代目で、現在も黒田家当主は小笠町(2005年菊川市へ)町長をするなど健在で22代目を数える。中世居館の雰囲気ある水堀が囲み、主屋や長屋門が現存する。主屋は安政東海地震(1854)後に再建、長屋門はそれ以前の18世紀中頃築と考えられている。代官として約2千石を治めていた。

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シェル

太田道灌の陣城と勝海舟邸の長屋門 (2023/10/10 訪問)

 石神井城跡から南に進み、徒歩15分ほどで到着。
 石神井川のほとりにある早稲田高等学院が愛宕山砦の跡みたいです。太田道灌が石神井城を攻める際に築いたとされており、そのため石神井城にかなり近い場所に立地しています。
 砦の遺構は残念ながら残っていないようです。
 石神井城から愛宕山砦の道中には、徳川家光の狩猟の際に休憩所だった三宝寺があります。
 境内には、家光ゆかりの御成門や勝海舟邸の屋敷門であった長屋門が移築されているので、登城の際はセットで巡るのがおすすめです!!

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POYO58

江戸城2 (2023/08/13 訪問)

天守台を満喫した後は富士見櫓を見に行きましたが、富士見櫓を写真に取っているときに大雨が降ってきました。本丸まで歩いただけで靴下がびちょぬれになってしまいました。ただまだあまり見ていないと思ったので、大変でしたが外堀を廻ってみました。大手門から出て、桜田を通って、北桔梗門を通ってから、車に戻りました。大変でしたが、とりあえず有名な二重橋と桜田門は見れたのでよかったです。

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