うちじょう

内城

鹿児島県鹿児島市

別名 : 御内、水上城、大龍寺城
旧国名 : 薩摩

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①	福昌寺墓所
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トク

87【関ケ原の26人】(24)島津義弘 (島津義弘と福昌寺) (2023/10/11 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑯です。最後に義弘の墓所「福昌寺」を訪ねてきました(写真①)。

鹿児島中央駅前から南国交通バスに乗り「玉龍高校前」で下車(写真⑨)、高校の校舎の裏にひっそりとありました。島津義弘は加治木の館で死去した後、父の貴久・兄の義久・弟の歳久が眠る鹿児島市内の内城にほど近いここ福昌寺の墓地に同じく埋葬されました。島津義弘は今でもここに眠っています(写真④貴久⑤義久⑥義弘の墓)。

福昌寺はかつては1500人もの僧がいた大寺院だったようです(写真②③)。江戸時代の島津斉彬や島津久光など歴代藩主の墓も隣接する敷地にありました(写真⑦の中)。明治に入り廃仏毀釈で廃寺となり、現在は墓のみが桜島の灰の中でひっそりと無残に残っていました。足首まで灰がある所があるので白い靴で来るのはやめた方がよさそうです(ここの高校生はよく平気なものだ🤔)。壁には弾痕跡もあり、西南戦争で明治政府に反旗を翻した、旧薩摩藩士や島津家に対する圧力があった事をここでも感じました(写真⑧)。

【義弘辞世の句】
 春秋の
 花も紅葉もとどまらず
 人も空しき
 関路なりけり

私は義弘の墓の前に立ちこの辞世の句を読みながら考えてみました。義弘はどんな思いで、加治木での晩年を過ごしていたのでしょうか? 義弘にとっては生涯忘れる事ができぬ、心の痛みとなって残っていた出来事があります。それは、若くして自分の身代わりとなり死んでいった甥の島津豊久、同じく捨て奸で自分の身代わりとなって死んでいった家老の長寿院盛淳、そして自分を逃がすために犠牲となった1500人の家臣たち・・・ この辞世の句には、春の花や紅葉のように人もはかなく散っていく、「関路」とは「関ケ原での退き口」を指しているのではないかと思いました。この時に自分の身代わりとなり、はかなく散ったこの二人と多くの家臣、これらの多くの犠牲のおかげで、本当なら関ケ原で死んでいたはずの自分が、今日まで長生きできた事を、最後に一番感謝して、この句に込めたのではないでしょうか・・・

島津義弘(享年85才)
薩摩で最も慕われ、そして薩摩に伝説を残した男でした。

私はこの島津義弘に、「MIP賞」(最も印象に残った武将賞)をあげたいと思います。

帰りの九州新幹線の中で、義弘を偲びつつ、鹿児島名物「黒豚の駅弁」を食べながら帰りました(写真⑩)。あ~これおいしい・・・

次は(25人目)に続きます。
 

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トク

73【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津義弘と内城) (2023/10/17 訪問)

(24人目)「島津義弘」の続き④です。
義弘が15才頃から約4年間を過ごした「内城」を訪れてきました。

鹿児島中央駅から南国交通バス「大龍小学校前」で下車、または市電に乗り終点「鹿児島駅」(写真⑨)からでも徒歩6分程の所にあります。私はバスで行き市電で戻りました。

江戸時代に入り鹿児島城が築城されると、この跡地は貴久と義久の菩提を弔う大龍寺となりましたが、寺は明治時代に廃仏毀釈で破却、その後は「大龍小学校」になっています。校庭に内城の碑が残っているようですが校庭の中には許可がないと入れないので、碑を柵の外から撮影しました(写真①すいません)。またその横には旧校門や大龍寺跡の碑もありました(写真②③)。でもこの小学校を見た瞬間ビックリ!😯 西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人」が掲げられていて、西郷の教えが今でも受け継がれているのには感動しました(写真⑦⑧)。今和泉島津家屋敷「篤姫」生誕の地も隣接していて、その向こう道の突きあたりが西郷隆盛の墓所(南洲公園)です(写真⑥)。

この近くにはもともと東福寺城という島津宗本家の城があったようです。しかし伊作島津家である父の貴久が守護であった宗本家の後を継ぎ、1550年に伊集院の一宇治城から鹿児島市内の海に近いこの場所に新たに内城を築城し移り住みます。城といっても屋形のような平城(居館)であったようです。ザビエルに出会ってから南蛮貿易の重要性に気づき、その貿易を盛んにするために海に近い場所に移して港を整備し、また大隅日向の統一を目指すための拠点としてここに居を移したと思われます。そして貴久死後は、長男の義久が後を継ぎ城主となり、江戸時代にその義久の後を継いだ義弘の子で初代薩摩藩主の忠恒が鹿児島城を築城するまでの約50年間、ここ内城が島津の本城となりました。

義弘も父の貴久と共に1550年に移り住み、15才頃から約4年間をここで過ごしたようです。そして18才になった義弘は、いよいよここから初陣を迎えます。

次は、義弘初陣の地で最初に城主となった(平松城)を訪れます。


【余談】さつま焼酎の看板
「さつま白波」は有名な鹿児島の芋焼酎ですが、鹿児島中央駅前でバスを待っていた時、ふとこのでっかい看板が目に止まり、思わず笑ってしまいました(写真⑩)。皆さんにはこの「だいやめで、きばいもんそ。」の意味がわかりますか?🤔(正解はこの下↓です)
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(正解は)
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「今夜は一杯飲んで今日の疲れを癒し、また明日から気合をいれてがんばりましょう!」
の意味でした~!😊
 

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しんちゃん

鹿児島城に移る前の島津氏の本城らしいけど‥。 (2023/01/06 訪問)

内城は天文19年(1550)島津貴久によって築かれ、平安時代より使われている
東福寺城を詰めの城としました。
慶長7年(1602)城主、忠恒の命により島津氏の本城は鹿児島城に移り、跡地には大龍寺が
建てられ、明治時代の廃仏毀釈によって、跡地に大龍小学校が立てられました。
遺構は残ってはいないのですが、手水鉢と庭石がわずかに現存していると言います。

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城好きのメガネ

「内城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
内城は、16代当主・島津貴久によって築かれた。50年間にわたり島津氏の居城であった。東福寺城を詰の城としたため、方形館であったとされる。1602年、島津忠恒が鹿児島城(鶴丸城)へ居城を移したため廃城となった。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
カゴシマ シティビュー 今和泉島津家本邸跡(篤姫誕生地)前下車 徒歩5分

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 島津貴久
築城年 天文19年(1550)
主な城主 島津氏
廃城年 慶長7年(1602)
遺構 消滅
再建造物 石碑、説明板
住所 鹿児島県鹿児島市大龍町(大龍小学校)