(24人目)島津義弘の続き⑯です。最後に義弘の墓所「福昌寺」を訪ねてきました(写真①)。
鹿児島中央駅前から南国交通バスに乗り「玉龍高校前」で下車(写真⑨)、高校の校舎の裏にひっそりとありました。島津義弘は加治木の館で死去した後、父の貴久・兄の義久・弟の歳久が眠る鹿児島市内の内城にほど近いここ福昌寺の墓地に同じく埋葬されました。島津義弘は今でもここに眠っています(写真④貴久⑤義久⑥義弘の墓)。
福昌寺はかつては1500人もの僧がいた大寺院だったようです(写真②③)。江戸時代の島津斉彬や島津久光など歴代藩主の墓も隣接する敷地にありました(写真⑦の中)。明治に入り廃仏毀釈で廃寺となり、現在は墓のみが桜島の灰の中でひっそりと無残に残っていました。足首まで灰がある所があるので白い靴で来るのはやめた方がよさそうです(ここの高校生はよく平気なものだ🤔)。壁には弾痕跡もあり、西南戦争で明治政府に反旗を翻した、旧薩摩藩士や島津家に対する圧力があった事をここでも感じました(写真⑧)。
【義弘辞世の句】
春秋の
花も紅葉もとどまらず
人も空しき
関路なりけり
私は義弘の墓の前に立ちこの辞世の句を読みながら考えてみました。義弘はどんな思いで、加治木での晩年を過ごしていたのでしょうか? 義弘にとっては生涯忘れる事ができぬ、心の痛みとなって残っていた出来事があります。それは、若くして自分の身代わりとなり死んでいった甥の島津豊久、同じく捨て奸で自分の身代わりとなって死んでいった家老の長寿院盛淳、そして自分を逃がすために犠牲となった1500人の家臣たち・・・ この辞世の句には、春の花や紅葉のように人もはかなく散っていく、「関路」とは「関ケ原での退き口」を指しているのではないかと思いました。この時に自分の身代わりとなり、はかなく散ったこの二人と多くの家臣、これらの多くの犠牲のおかげで、本当なら関ケ原で死んでいたはずの自分が、今日まで長生きできた事を、最後に一番感謝して、この句に込めたのではないでしょうか・・・
島津義弘(享年85才)
薩摩で最も慕われ、そして薩摩に伝説を残した男でした。
私はこの島津義弘に、「MIP賞」(最も印象に残った武将賞)をあげたいと思います。
帰りの九州新幹線の中で、義弘を偲びつつ、鹿児島名物「黒豚の駅弁」を食べながら帰りました(写真⑩)。あ~これおいしい・・・
次は(25人目)に続きます。
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