つまごじょう

妻籠城

長野県木曽郡


旧国名 : 信濃

投稿する
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

しんしんちゃん

街道を押える城 (2019/03/10 訪問)

妻籠城は室町時代にはその存在が確認できていて天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに際には木曽義昌の家臣・山本甚兵衛良勝が入り徳川勢の菅沼・保科の軍勢と戦ったとあります。
土橋を渡っていくと右手に東郭、左手に主郭があり間に堀切がかかっています。主郭の周囲には帯郭がいくつか残っていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)11日目:妻籠城 (2023/04/28 訪問)

阿木城からの転戦です。登り口付近(35.583744、137.597357)に路駐しました。

16世紀中期に木曽氏は甲斐の武田氏に従い、木曽義昌は信玄の三女真理姫を娶り姻戚関係にあったそうです。
しかし義兄の武田勝頼による新府城造営の賦役増大と重税に不満を募らせた義昌は、1582年(天正10年)遠山友忠を仲介役として織田信長と盟約を結んで、妻籠城等の支城を改築し、勝頼に対し反旗を翻し、織田信長の甲州征伐のきっかけとなりました。
武田勝頼軍が新府城を出発する前の2月2日、人質として送られていた70歳の母、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女・岩姫が新府城にて処刑されました。
武田勝頼は武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に向けて派遣しますが、義昌は地の利を得た戦術と織田信忠の援軍を得て鳥居峠にて撃退しました。
1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いにおいて、木曾義昌は最初徳川家康側に付いていましたが、圧力により羽柴秀吉側に寝返ります。妻籠城に木曽義昌の家臣・山村甚兵衛良勝が入り、徳川家康方の菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らと戦い退けました。
山村良勝は1590年(天正18年)義昌が下総へ移封となると家督を継いだ義昌の子・義利に仕えました。
1600年(慶長5年)木曽義利が不行状により改易されると、良勝は徳川家康の家臣となりました。
1616年(元和2年)の一国一城令により、廃城になりました。

登り口(石碑と説明板があります)から迷うことなく本丸までたどり着けます。登って行くと土橋があります。
本丸跡には土塁が残り、「御嶽山大権現」「八海山神社」「木曽谷恩賜金由来之碑」「林君記念乃碑」の石碑がありました。(よく見ないと読めません)
本丸からは妻籠宿の家並が見えます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=須原城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

妻籠宿 (2020/10/22 訪問)

 中山道42番目の宿場町で、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された古い街並みが残されて当時の風情を保っています。ここにも桝形が残っています。
久しぶりに行きましたが、多くの観光客がみえていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

徳川秀忠 (2022/10/22 訪問)

 関ヶ原の戦いの時、上田城攻めで遅れていた徳川秀忠が、東軍勝利の報告を聞いた城として伝わっています。    
 妻籠宿から徒歩にて登城しました。主要部は整備してあり、概ね歩きやすかった。途中にある長い土橋はいい感じです。堀切、土塁、帯曲輪等見ることができます。主郭の南西部に降りて行くと小さいですが堀切がありました。ただ藪になっている所も多く遺構が十分に見えない場所もありました。入口付近にも曲輪があるのですが藪になっていて侵入は断念しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 山城
築城主 木曽氏?
築城年 室町時代中期
主な城主 遠山氏、山村良勝(木曽氏家臣)
廃城年 元和2年(1616)
遺構 曲輪、帯曲輪、土塁、堀切
指定文化財 県史跡(妻籠城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 長野県木曽郡南木曽町吾妻218-7
問い合わせ先 南木曽町教育委員会文化財町並係
問い合わせ先電話番号 0264-57-3335