(24人目)島津義弘の続き⑮です。義弘が晩年を過ごした「加治木城」を訪れようと思いましたが・・・
JR日豊本線「加治木駅」で下車、しかし加治木城はここからまだ徒歩50分のところにある山城です。しかしここで改札口を見ると、本日最終19:20発の特急「きりしま」が、何とトラブルで運休との貼り紙が😱~! 今夜は宮崎市に宿をとっていたので、加治木城を訪れた後、今日中に宮崎市まで行く予定でしたが、その前は16:43発、これが本日の最終となりもうあと90分しかない。せっかくここまで来たがこれではもう無理。よって登城は断念しました(すいません)。
でも(ん?待てよ🤔)しかしここで駅の観光案内板をよーく見ると、義弘は山上の加治木城に住んでいたのではなく、どうやらここから西へ徒歩10分の所の平地に館を構えて住んでいたようです。何とこれはラッキ~! 10分なら行ける、またもや義弘様のお導きか!
関ケ原から7年後の1607年、義弘は帖佐からここ加治木の地を与えられ、加治木へ居を移します。しかし、山城は不便なため、麓に館を構えていました。現在その館跡は加治木高校の敷地の一角にあり(写真⑤)、護国神社になっていました(写真①②)。島津義弘は晩年をここで過ごし、そしてここで亡くなったそうです(写真③義弘死去の碑)。ここで亡くなったのか~と思うと、ちょっと感慨深くなってしまいました。また神社の中には、西南戦争で亡くなった別府隊の碑もありました(写真④)。隊長の別府晋介といえば、城山で自刃した西郷隆盛を介錯した男です。ここ加治木の出身だったようですね。
また駅に戻り再度観光案内板を再度見ていると、加治木駅から反対の東へ徒歩10分の所にある精矛神社(くわしほこじんじゃ)には、義弘が祀られていると書いてあり、まだ時間があるので、そこまで行ってみました(写真⑥⑦)。義弘が朝鮮から持ち帰った石臼(写真⑧)や、大河ドラマ「西郷どん」の撮影がここであったらしく、その時の写真などがありました(写真⑩)。そしてここに来て初めて知ったのですが、この神社の宮司(島津義秀さん)は、なな何と・・・義弘の直系の末裔だそうです😯!
最後に義弘の墓所(福昌寺)を訪れます。
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