かじきじょう

加治木城

鹿児島県姶良市

別名 : 本城、古城、龍門ヶ城、大蔵城
旧国名 : 大隅

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①	加治木館跡(石垣の上の表示)
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トク

86【関ケ原の26人】(24)島津義弘 (島津義弘と加治木城) (2023/10/10 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑮です。義弘が晩年を過ごした「加治木城」を訪れようと思いましたが・・・

JR日豊本線「加治木駅」で下車、しかし加治木城はここからまだ徒歩50分のところにある山城です。しかしここで改札口を見ると、本日最終19:20発の特急「きりしま」が、何とトラブルで運休との貼り紙が😱~! 今夜は宮崎市に宿をとっていたので、加治木城を訪れた後、今日中に宮崎市まで行く予定でしたが、その前は16:43発、これが本日の最終となりもうあと90分しかない。せっかくここまで来たがこれではもう無理。よって登城は断念しました(すいません)。

でも(ん?待てよ🤔)しかしここで駅の観光案内板をよーく見ると、義弘は山上の加治木城に住んでいたのではなく、どうやらここから西へ徒歩10分の所の平地に館を構えて住んでいたようです。何とこれはラッキ~! 10分なら行ける、またもや義弘様のお導きか!

関ケ原から7年後の1607年、義弘は帖佐からここ加治木の地を与えられ、加治木へ居を移します。しかし、山城は不便なため、麓に館を構えていました。現在その館跡は加治木高校の敷地の一角にあり(写真⑤)、護国神社になっていました(写真①②)。島津義弘は晩年をここで過ごし、そしてここで亡くなったそうです(写真③義弘死去の碑)。ここで亡くなったのか~と思うと、ちょっと感慨深くなってしまいました。また神社の中には、西南戦争で亡くなった別府隊の碑もありました(写真④)。隊長の別府晋介といえば、城山で自刃した西郷隆盛を介錯した男です。ここ加治木の出身だったようですね。

また駅に戻り再度観光案内板を再度見ていると、加治木駅から反対の東へ徒歩10分の所にある精矛神社(くわしほこじんじゃ)には、義弘が祀られていると書いてあり、まだ時間があるので、そこまで行ってみました(写真⑥⑦)。義弘が朝鮮から持ち帰った石臼(写真⑧)や、大河ドラマ「西郷どん」の撮影がここであったらしく、その時の写真などがありました(写真⑩)。そしてここに来て初めて知ったのですが、この神社の宮司(島津義秀さん)は、なな何と・・・義弘の直系の末裔だそうです😯!

最後に義弘の墓所(福昌寺)を訪れます。
 

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しんしんちゃん

島津義弘最後の居館と詰めの城。鉄砲を最初に使用した伝説が残る。 (2023/01/06 訪問)

加治木城は天文18年(1549)日本で初めて種子島銃が実戦で使われたと伝わります。(諸説あり)
城主肝付氏は島津氏に降伏し重臣となります。
その後、豊臣秀吉の蔵入り地となり、慶長12年(1607)島津義弘がこの地に入ります。
加治木城を詰めの城として、義弘は麓の居館に居住し、元和5年(1619)生涯を終えます。
だいぶ藪がひどいのですが、入れそうなところは拝見させていただこうと思います。
本丸は家屋があるので簡単に確認し撤収、二の丸は畑地になっていたと思います。
お馬場は急な斜面を登れば現状を一望できます(藪ですが)。
北側の通路を進みながらかつての馬場(犬馬場?)と高城を確認します。
これでだいたい城跡は確認できました。島津義弘の居館跡は加治木高等学校や
柁小学校になっており、近くに郷土館もあります。


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カズサン

急峻なシラス台地の上が城跡 (2020/11/23 訪問)

 大口城を終えて夕刻迫る中加治木城を目指す、今回の鶴丸城御楼門と九州未踏の城廻り15城目、九州道栗野ICから加治木JCT同ICを降りて、ガイドの城郭放浪記さん余湖図コレクションさん古城盛衰記さんの駐車場情報が城内駐られない唯一入口の加治木城案内板俯瞰図の有る所と有り登り切った同エリアにナビを合わせる。(鹿児島県姶良市加治木反土、ナビの地図で微調整)
 加治木ICより県道55号線鹿児島空港方面、17時を過ぎて渋滞、1km弱ほど城域の崖は目前、逆方向に曲がり急坂を登り切ると左手にゴミ集積場、目的の加治木城俯瞰図発見、一台ギリギリ駐車可能、暗く成り俯瞰図はストロボ撮影、周辺を撮影して撤収、残念ですが仕方ありません限られた時間の中で探訪ですから仕方ありません。
 
 加治木城廃城後の義弘の建てた加治木館は資料館と共に見学してましたので、城域の雰囲気だけでも十分です。

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くろもり

鉄砲を初めて実戦で使用 (2014/12/30 訪問)

加治木城は日本で初めて鉄砲が実戦で使われたとされる加治木城の戦いの舞台です。鉄砲伝来から6年後の1549年のことで、種子島の領主・種子島時尭から鉄砲を贈られた島津軍が使用したそうです。

加治木城は、比高70~80m程のシラス台地上に築かれ、各曲輪を堀切で区切った連郭式の縄張りの城でした。切岸や曲輪跡等ははっきりと分かるのですが、手入れがされていないので、散策は少し苦労しました。本丸跡は私有地、西ノ丸の方へ向かうと「ザボン畑」になっていたので散策を諦めました。

車での訪問の場合、県道から長い坂を登った所に車一台分のスペースがあり、そこに縄張図もありました。

城びとさんに未登録ですが、加治木高校に加治木館跡があり、こちらが「鬼島津」と恐れられた島津義弘公が晩年を過ごした所と伝わります。石垣があるのですが、亀甲積みなのに石に穴がぼこぼこあいた軽石のような素材なので、ちょっと不思議な感じがしました。

1~5枚目が加治木城、6~9枚目が加治木館の写真です。

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城郭情報

分類・構造 連郭式山城
築城主 大蔵氏
築城年 平安時代
主な城主 大蔵氏、加治木氏、伊地知氏、肝付氏、島津氏
廃城年 文禄4年(1595)
遺構 曲輪、土塁、堀切
再建造物 石碑、説明板
住所 鹿児島県姶良市加治木町反土城