粟住山城から車で30分ちょっとで、登城口付近(35.387858、133.806180)に着きました。
1182年(寿永元年)小鴨氏によって築かれたと云われています。
小鴨氏は古代の律令制時代に国庁の在庁官人の家柄と考えられ、平安時代末期の1182年(寿永元年)には小鴨基保(もとやす)が西伯耆の豪族紀氏と争っていた記録があるようです。
1331年(元弘3年)後醍醐天皇を奉じた名和長年が船上山で挙兵すると、小鴨城(岩倉城)は名和勢によって攻略されたという記事があるようです。
応仁の乱(1467年~1477年)の後は伯耆国守護の山名氏は次第に衰え、出雲の尼子氏の介入を受けるようになりました。
1524年(大永4年)尼子経久が出雲より伯耆へ侵攻し、伯耆のすべての城が陥落し、小鴨氏の岩倉城も落城の憂き目にあいました。
1561年(永禄4年)安芸の毛利氏が勢力を伸ばした際、羽衣石城の南条氏と共に毛利氏に加担して尼子氏に反攻します。
1566年(永禄9年)尼子氏は毛利氏に降伏し、小鴨氏は南條氏と共に吉川元春の配下となりました。
1570年(元亀元年)山中鹿助の配下に一時奪われましたが、因幡の湯原氏の応援を得て奪還しました。
1579年(天正7年)小鴨元清は兄南条元続とともに毛利氏を離反して織田氏に通じました。
毛利氏は吉川元長を大将に岩倉城を攻め、1582年(天正10年)落城し小鴨元清は羽衣石城へ逃れました。
毛利氏はさらに羽衣石城も落としましたが、同年羽柴秀吉との和睦がなり、東伯耆三郡を南条氏に返還し、小鴨氏も岩倉城に戻りました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で羽衣石城主南条元続は西軍に属して改易となり、南条氏に従っていた小鴨氏もまた没落しました。
比較的緩やかな登城道を登って行くと、岩倉城二の丸下の曲輪に着きます。
頂上手前に頂上まで80mの標識がありましたが、右ふくらはぎが痛いせいか、もっと距離があった気がします。
この曲輪から二の丸への虎口付近に僅かですが、石垣(写投稿真はピンボケです)が積まれています。
山頂は南に本丸、北に二の丸があります。眺望はよくありません。
登城口の案内標識は見落としてしまいそうな小さなものです。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=河口城に向かいました。
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