みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

しんちゃん

大草城  長野県上伊那郡中川村大草 (2023/11/12 訪問)

大草城は南に天竜川の支流が流れる丘陵地(河岸段丘?)に築かれており現在は城址公園として地元の人によって整備されており、三郭(外郭)が駐車場になっていて、すぐに主郭にたどり着くことが出来ます。大鹿村の大河原城主香坂高宗の支城と見られ、香坂氏は後醍醐天皇の第八皇子、宗良親王を大河原に迎えていますので、南朝方の重要な拠点と見られます。南朝方の城らしく高低差をうまく活用していて各郭は急峻な斜面で守られています。二郭の西側の斜面は特に急峻です。構造としては主郭が最高所にあり、西に二郭、北に三郭を配しています。主郭にはその高低差を生かした滑り台が取り付けられていて、下から見上げるとなかなかの迫力でありました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぎりょう

落ち込む気持ちを海鮮丼で! (2023/11/06 訪問)

鶴岡・酒田の旅、二日目は酒田方面に。庄内藩の本城鶴ヶ岡城の他に城として認められていた亀ヶ崎城跡を訪れた。この城は、最上川が現在より東側を流れていた時代、新井田川との合流地点に三重の堀と土塁によって築かれた平城。本丸と二の丸が並んで配置され(かつては一つの曲輪とも)、その外側を三の丸が囲む珍しい縄張だったようだ。中世から「東禅寺城」として国人領主の拠点としての歴史があるようだが詳細は不明のようだ。天正以降は上杉氏、最上氏の支配となるが、最上氏改易後に酒井氏が庄内に入部すると城代が置かれ、幕末まで続いたという。
明治五年の全国城郭存廃調査記録である「陸軍省城絵図」には「亀崎城絵図」として本丸・二の丸・三の丸の堀と土塁、本丸御殿、二の丸城代屋敷、土蔵、長屋、三ノ丸には内舛形の大手門、各曲輪をつなぐ橋と門が描かれており、廃城前の有様が判る。また、現在は旧二の丸跡西外側に位置する八幡宮が往時は二の丸内の東北隅に祀られていたようだ。
城址は現在酒田東高校の敷地となり、旧二の丸には校舎が建ち、旧本丸はグランドとして使われている。旧三の丸もすべて住宅が建ち並び堀はすべて埋め立てられている。ただ、旧二の丸西側に土塁が一部残っており往時を偲ばせてくれる。また、酒田市吉田伊勢塚の円通寺に廃城時に移設された旧搦手門が残っている。ただし、市街地からはずれ、城址から車で15分6.5kmほどの距離。
訪問前に見た亀ヶ崎城の投稿写真が皆さん同じだったので、なにか目新らしい場所をと意気込んでいたのだが、場所が学校で登校日であり、周囲を一回りするにも個人宅が取り囲んでいるため断念。残念でしたが早々に退散、「さかた海鮮市場」に向かい鮮度のよい海鮮丼に舌鼓でした(笑)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

秋の陽が傾く頃に散策しました (2023/10/06 訪問)

 備中高松城の新しい資料館が出来上がったとの情報も有り、造山古墳/造山城、亀山城を終えて、次の登城先冠山城の登城口、駐車場確認をして、まだ陽も有り冠山城山林部は明日に回し、平城ならば暗くなっても大丈夫と新資料館の確認に出掛けました、当然高松城城域も何度目に成るか分かりませんが、秋の夕日に照らされた備中高松城をぶらり散策しました。
 新しい備中高松城資料館が奇麗に完成していました、ただ時間的に遅く着きましたので入館できず、以前のナマコ壁土蔵造りの資料館も残って居ました。
 近くの方か犬を連れての散歩、夫婦での散歩、女学生グループのダンスの練習?など良く活用されてる備中高松城でした。

 駐車所:三の丸駐車場利用、北にも駐車場とトイレ有、資料館南部に閉館時でも利用できるトイレ有

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

造山古墳の近く寄ってみました (2023/10/06 訪問)

 造山城/造山古墳を終えて、城びと登録の「亀山城」が西へ約2km程にあり、城びと投稿者「あ」さんの投稿写真も有り、最初の投稿写真を頼りに寄ってみました。
 グーグルマップには亀山城の史跡マークが無く、備中国分寺88ヶ所.68,69の史跡マークが有り、ナビをそこに合わせて走行、あさんの写真と同じ構図の風景、此処なのだと確認。
 しかし駐車する所が無い、アスファルト舗装の農道、林道は有るが対向車が来た時に避ける幅が無い、駐車も儘ならず、北側の農道を走って様子を窺うだけにとどめる。(この間10分程、他車の通行はありませんでしたが?)
 あさんの進入ルートの畦道から入れば遺構が確認できたでしょうが駐車問題で諦め周辺を眺めるだけとしました。

 次に冠山城の駐車場の確認、近くの高松城を陽の有る内に探訪へと向かいました。
  

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

とことん駿府城(城下町めぐり) (2023/08/06 訪問)

(続き)

天守台発掘調査現場の見学を終えると駿府城を後にしたんですが、最後に、前日とこの日の早朝にめぐった城下町の史跡などについて少々…。

静岡駅の北口を出て左手すぐに竹千代君像と今川義元公像が、その70mほど西に徳川家康公之像が建てられています。人質時代の駿府で義元や太原雪斎から受けた薫陶が後の天下人・家康の基礎になったことを象徴するような像だなぁ、と。

静岡駅から西に約200mの料亭・浮月楼は、謹慎を解かれた徳川慶喜が宝台院から移り住んだ屋敷跡で、北側と西側の入口脇に徳川慶喜公屋敷跡の石碑が建てられています。その後、慶喜は東海道線の静岡開通に伴って駿府城北西の西深草に転居しており、西深草ポケットパークに屋敷跡の石碑が建てられています。

駿府城下のあちこちに町名由来の石碑と説明板が設けられていますが、札之辻󠄀町は東海道沿いに設けられた高札場に由来し、両替町には京の伏見に次ぐ銀座が設けられていました。十返舎一九の生家も両替町にあったようです(標柱と説明板があるようですが…見落としました)。またブラタモリでも紹介されていましたが、銀座だけでなく金座も設けられており、町名が今に残るほか、金座当主・後藤庄三郎光次の屋敷跡とされる金座稲荷神社や日本銀行静岡支店も金座町にあります。日銀の東は静岡銀行本店、北は清水銀行静岡支店と、400年を経た今なお金融の中心地なんですね。

…ということで、取りこぼしもいくつかありますが、今回のとことん駿府城はこんなところで。現存の建物はないものの、堀や石垣はしっかり遺っていて、天守台発掘調査現場も見応えがあり、今川期以降の史跡も数多く、駿府城と城下を存分に堪能させていただきました。

なお、宿はホテルオーレ インに宿泊しました。ビジネスホテルとしてはやや高めですが、駐車料金は無料で、朝食ビュッフェに加えて夕食のカレーも無料、最上階の天然温泉大浴場はチェックイン時間内はいつでも入れるなど、内容から考えると決して高くありません。温泉では長時間運転と城めぐりの疲れを癒せましたし、朝食ビュッフェは質・量ともに充実していて、朝からつい食べ過ぎて苦しくなるほどでした。次に静岡市内で宿泊する機会があればぜひまたお世話になりたいと思っています。おすすめです。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

別名・絵島ヶ丘城 (2029/10/29 訪問)

淡路SAにて玉ねぎ御膳の昼食をとった後、インターチェンジを降りて向かいました。岩屋ポートパーキングに駐車しましたが、20分以内でしたら駐車料金は無料です。恵比須神社の奥にある岩樟神社の洞窟があいている山が岩屋城のようですね。そこからは登城路がないので裏手に回って攻めてみました。あまりよく遺構はわかりませんでした。絵島ヶ丘城の別名がある通り、目の前の海には絵島があります。せっかくですので立ち寄って参りました。最後にパーキングの屋上からの遠景を撮影してみました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

北側の三重堀切は圧巻 (2023/11/12 訪問)

殿島城は天竜川に面する河岸段丘に築かれているようです。本丸の周囲を土塁が囲みその外側は幾重にも堀切が巡らされています。南側の二の丸は宅地化が進んでいるようで、本丸の西側は藪がきつくて見に行ってないですが切岸になっているようです。天文年間初めに春日城から分家した殿島大和守が築いたとされ、大和守は武田信玄の伊那侵攻に最後まで抗い狐島で磔にされ黒河内(長谷)の八人塚に葬られたそうです。本丸の北東側に門が再現され、本丸の北側は三重の堀切を良く確認することが出来ます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

主郭南の堀切が大きい。巨大土橋をトンネルが通る。 (2023/11/12 訪問)

福与城は天竜川の東岸の河岸段丘に築かれているようです。天文年間(1532~1555)に藤沢頼親が城主の時、武田信玄に攻められ人質を出して講和し城は放火されたとのことです。城址のすぐ近くまで車で行くことが出来、駐車スペースも確保されていて助かります。南城周辺は広大な畑地になっていて、大きな堀切を越えるとすぐに主郭にたどり着きます。主郭から北城と二の郭を俯瞰することが出来ますが、北郭は一部沼化しているように見えます。二の郭には主郭南のトンネルを通っていけばすぐにたどり着けます。訪問時すでに4時半を過ぎていたので周囲はすでに暗くなりかけています。トンネルの中はなかなか不気味に感じますが、正直すでに今さらな感じがしますので、サクサク通過して確認して帰りました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

名子城 長野県松川町元大島名子字城山 (2023/11/12 訪問)

名子城は長野県伊那郡松川町にある丘陵上に築かれています。主郭は広く周囲に土塁が残り、四方に入口が開いていますが、中世の虎口はいずれかは不明です。主郭の背後に堀切があり西側の老人福祉センター周辺が第二の郭のようで主郭の北側には帯郭が残っています。主郭の西端には社が祀られていて東側の比高50mほどの石段を一気に登ることもできますが、さすがにしんどいので福祉センター周辺の駐車場を利用させていただきました。東側の展望は良く、赤い鳥居のあたりから周囲を一望することができます。少し古めの案内板によると平安末期に片桐景重が名子に分知し、名子氏を称して城を築いたとされています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

前田家の本家とは (2023/04/15 訪問)

加賀前田家の「苗字」の地には前田家の本家筋とされる与十郎家(後の対馬守家)が住んでいた。この家と荒子城の前田利昌・利家親子との関係は不明瞭なのだが実際のところどっちの方が格上だったのかもよくわからないみたい。

+ 続きを読む

しんちゃん

飯田城城門 長野県飯田市 (2023/11/11 訪問)

長野県飯田市の周辺には飯田城の城門が複数移築されています。飯田城そのものは遺構は少ないのですが、合同庁舎の前に残された赤門など、なかなか立派な城門が残されています。城門の情報は城郭放浪記さんを参考にさせていただいています。周辺の民家には二の丸の八間門が移築されていて、飯田市上郷別府にある経蔵寺には赤門が建つ前の桜丸の門が残されていますが、現在工事中ですので内側から拝見させていただいています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

城址一帯が飯田市の中心として活用されている。 (2023/11/11 訪問)

飯田城は坂西氏によって築かれ、江戸時代は小笠原氏、脇坂氏が入り寛文2年(1642)堀親昌が2万石で入り明治まで続きました。天竜川の支流の松川と、その支流の野底川に挟まれた河岸段丘の先端部に築かれた城で本丸周辺は長姫神社と駐車場、山伏丸は宿泊施設、二の丸周辺は美術博物館になっているようです。遺構はあまり残っていないようですが、本丸と二の丸の間に堀切の跡があり見学が可能です。長姫神社の背後の石積と土塁がかつての遺構とされているようです。他にもかつての赤門や八間門などがが周辺の民家や合同庁舎の近くに移築されています。城址一帯は北側から見ると全体がコンクリで補強されていて、いかにもな雰囲気を漂わせています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

主郭の周辺にも遺構が残っている。帰り道の方向に注意。 (2023/11/04 訪問)

小鷹利城は姉小路一族の小鷹利氏の城とされています。飛騨市河合町の湯峰峠から分岐する林道を通っていくしかないのですが、グーグルマップやカーナビには載っていないようです。国土地理院の地図には記載はありますが林道の南側から回り込むルートは道がひどすぎて使えません。北側の林道から東へ進んでいくのですが途中から舗装路でなくなる上に、段差がきつくて普通車では底をすってしまいますので駐車可能な場所に車を停めて、あとは歩いていくのが良いでしょう。登城道の入り口などは「まとめ」を参照していただければと思います。城域に入ってすぐに馬場があり南西の郭から南腰郭に到達すれば、すぐに主郭に入れます。南腰郭と北腰郭は主郭の西側でつながっていますが、主郭を経由して北腰郭から北西に降りていきます。長大な竪堀が通路の役割をしているのでそこを下りていけば畝状竪堀群があり、さらに尾根を絶つ空堀があります。空堀を越えて北西の尾根を登れば出丸のような郭にたどり着き、その北側は空堀で断ち切られ土橋がかかっています。そこから元来た方向へ戻っていくのですが、南腰郭から南郭に抜け虎口を進むと尾根を東側に進んでいきます。空堀など遺構は残っているのですが、登城道と反対方向に進んでしまうので南郭の南側を西に回り込んで馬場を抜けて戻りました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

余部城 (2023/10/21 訪問)

【余部城】
<駐車場他>西岸寺の駐車場を利用(御城印購入したので)しました。
<交通手段>車

<感想>余部城の築城時期は定かではありませんが、応仁の乱の頃東軍方の野田泰忠という武士の軍忠状に「余部之城」という記述が残されています。戦国時代には波多野氏の傘下である福井貞政が城主となります。天正年間の初めころ明智光秀の丹波攻略によって落城しました。光秀は亀山城築城までの期間はこの余部を拠点としていたようです。
 城跡は西側の台地状から東方向へ一部が長く突き出た、西側以外からは東西に長い丘陵地のようになっています。最東の西岸寺辺りが本丸跡で西岸寺さんで御城印を購入した際に非常に丁寧にご説明いただきました。パンフレットも頂けます。説明によると、本丸跡の東側は数メートルの切岸の名残が見られます。二の丸と三の丸の堀切跡が僅かではありますが宅地の下に残っているそうで、地図と照し合せながらこれかと思うポイントを見つけました。三の丸跡の北側の畑が弓場跡だそうです。西岸寺さんの庭から丹波富士、その奥に愛宕山を望むことができます。たぶん説明を受けなかったら、ちゃちゃっと流し見終わっていたと思います。説明後散策して残る遺構は少ないですが城跡の地形を認識して楽しむことができました。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

いんげん丸虫

柿畑城 岐阜県恵那市 (2023/11/04 訪問)

標高593mの山城です。
千畳敷と呼ばれる単郭の城で、東西に
明確な虎口があり、東は大きな堀切で
断ち切ってます。
遺構の残り状態は良いですね。
搦手である南の林道に登城口があり、
看板もあります。路駐も可能です。

+ 続きを読む

カズサン

【備中千足古墳】岡山市北区 造山古墳陪塚第5古墳石室公開 (2023/10/06 訪問)

 千足古墳は造山古墳群の陪塚で造山古墳第5古墳で唯一石室が公開されています。

 住所:岡山県岡山市北区新庄下1271
 駐車場:岡山県岡山市北区新庄下789、造山古墳ビジターセンター
 参考資料:グーグルマップ、ビジターセンター入手造山古墳ガイドマップに依る。

 盗掘に依る穴から石室を公開できるようになっています、閉館時間が16時と言うことで、ビジターセンターの係りの方から見学を薦めらられました、ビジターセンターから望む事が出来、訪ねる事しました、直線では約400m程南側です、復元されて居り良く見分けがつきました、造山古墳麓沿いに南に歩くのですが集落の道を1本東にとり、遠回りとなり少し時間は掛かりましたが目的地は見えて居り到着。
 全体復元されて居り後円部、前方部は土盛りされて奇麗、周辺部には埴輪の列で飾ってあります、後円部南上段に公開の入口が有り、盗掘穴上部から石室を覗く事が出来ます、前面より石室が見えるものと思っていたのですが、上から覗く見学でした。
 前方後円墳ですが前方部が台形でなく四角く、ホタテ型古墳の様です。
 この後に造山古墳/造山城を探訪しました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

【備中造山古墳】岡山市北区 全国4位規模の古墳 (2023/10/06 訪問)

 造山古墳は吉備国一番の古墳で全国では仁徳天皇陵、応神天皇陵、履中天皇陵に次ぐ全国4位の巨大古墳です、また唯一古墳に登れる古墳では1番の大きさです。規模は全長350m、後円部の高さ32m。

 住所:岡山県岡山市北区新庄下
 駐車場:岡山県岡山市北区新庄下789、造山古墳ビジターセンター、トイレ完備
 参考資料:グーグルマップに依る。

 12年前の平成23年7月に吉備路を訪ねた時には訪ねて居なかった古墳でしたので今回是非にと組み込みました、この古墳群はじめ吉備路の古墳群を眺めると、古代吉備の国の大きさが分かります、宮内庁が天皇陵と指定して居ないので、古墳に登り探訪散策する事が出来ます、やっと願いが叶ったことに感激でした。
 まだ祀られてる石室の発掘調査はされて居なく、今後の期待が大きい古墳です、埋葬者は誰なのか、歴史が変わるかもしれない巨大古墳です。ロマンが広がりますね!
 
 千足古墳の石室公開時間に間に合い、その後南東の登り口より進入、三段の段丘を登り荒神社の鎮座する前方部高台、境内には石棺が露出展示されてる、前方部と後円部の間には桜が植栽されて春はさぞ華やかでしょう!平地に成っています、後円部は備中高松城水攻め攻防戦で毛利方の陣城に利用されています、後円部南下に造山古墳の整備計画パエルが展示解説されて居り、発掘調査の継続と、表面の葺石と埴輪列の復元計画が載っていました、復元後は、また訪ねたい造山古墳でした。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

【備中造山城】岡山市北区 備中高松城水攻め毛利方陣城 (2023/10/06 訪問)

 造山城は備中高松城水攻めで有名な毛利方の陣城で、全国4番目の規模である造山古墳の後円部を利用した城郭です。

 住所:岡山県岡山市北区新庄下
 駐車場:岡山県岡山市北区新庄下789、造山古墳ビジターセンター
 参考資料:城郭放浪記さん、グーグルマップに依る。

 60年目の中学卒業合同同級会後、3泊4日で因幡、出雲、備後、安芸と廻り3日目の五龍城、鈴尾城を終えて、中国道、尾道道、山陽道経由し倉敷ICを降りて、吉備路備中国分寺を見ながら、造山古墳ビジターセンターへ、駐車場、トイレ完備、造山古墳の東麓に在ります。
 ビジターセンターを見学し造山城に関する資料は?と探すが無し、展示パネルに発掘調査写真が有り下段の二枚が城跡発掘調査写真、土塁跡と建物柱跡の写真のみ、古墳のパンフレットを入手した。
 係りの方には陪塚である千足古墳の石室公開時間が16時に終わるのでと先に千足古墳を薦められた。(千足古墳は後程投稿します)

 造山城には千足古墳見学後、千足古墳の後円部より眺めて、南東角の登り口より進入、前方部は荒神社鎮座、城跡は後円部に残って居ます、土塁跡、建物跡は発掘後埋め戻されて平地のみ、後円部南の段丘は3段曲輪跡の様ですが草に覆われて良く分からず、竪堀も東側に有るようですが草に覆われて良く分からず、土塁は後円部の東側、南北続きに残って居ます。
 高松城水攻めの布陣図に毛利方の城として造山古墳/造山城、この後訪ねる冠山城とも記載があります。
 見晴らしは良好なのですが高松城方向は良く分からず。

 以前から訪ねたいと思っていた城跡です、また全国4番目の規模を誇る古墳でもあり、訪ねる事が出来て大変ありがたい。
 
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

とことん駿府城(天守台発掘調査現場) (2023/08/06 訪問)

(続き)

開場ほどなくして天守台発掘調査現場に入場。発掘調査現場では徳川家康が大御所として改修した慶長期天守台だけでなく、天正期に築かれた天守台のほか、今川期の薬研堀や中国製の磁器などが発掘されており、カラーコーンで各時期の遺構を色分けして表示されています(慶長期は緑、天正期は赤、今川期は黄)。

入場してまず発掘調査現場の広さに驚きましたが、慶長期天守台の巨大さは開いた口が塞がらないレベルで、一辺60m超と知識では知っていても、実際に目の当たりにすると両端が視界に収まりきらず、唖然とさせられました。さすがにこの天守台に直接天守が建っていたわけではなく、多聞櫓で囲んだ中に建てられていたようですが、いずれにせよ大御所の比類なき権勢を実感させられました。天守台を取り巻く本丸堀も深く幅広く、天守台北東部には天守台下御門跡の木橋の痕跡や枡形虎口も確認されています。天守台南部には小天守台が接続し、絵図によれば天守台に続く階段が設けられていたようです。

慶長期天守台の南東部では天正期天守台が重なり合うように確認されています。一辺30m超と慶長期の4分の1の規模ながら、普通に考えれば充分すぎるほどの大きさで、慶長期が規格外すぎるんですよね。慶長期の打込接に対して天正期の石垣は野面積みで積まれており、天守台付近で金箔瓦が多数出土しています。

発掘調査の成果は場内の発掘情報館きゃっしるで紹介されていて、写真や説明パネル、出土した金箔瓦などが展示されています。また、天守台跡を野外展示施設として整備・活用する計画が進められているようなので、完成したらぜひまた訪れたいものです。

…ということで、遠征2日目の予定を変更してまで訪れた天守台発掘調査現場でしたが、この世に二つとない規模の天守台が見られましたので、その甲斐は充分すぎるほどにありました。満足満足。

(最後にもう一回続く)
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

淡路国の山城 (2023/10/29 訪問)

炬口城からの転戦です。炬口城もコンパクトな山城でしたが、港に隣接しているので海賊の根城といったテイストでした。ここは本格的な山城です。しかし車であれば、延々と林道を運転しなくてはならないとはいえ、駐車場に乗り付けて簡単に攻城することができます。道路の案内表示もあるので迷うことはないでしょう。土塁、郭、堀切といった土の城のパーツをきっちりと確認することができました。東の丸からの眺望も素晴らしかったです。洲本城に次ぐ淡路のお薦めの城といえそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ376