霊山城の周囲には幾つもの出城がありますが東の出城にある巨岩・宝寿台の上からは周囲を良く見渡すことが出来ます。梯子がかけてあって上まで登れますが高所恐怖症の人には少し厳しいかもしれません。霊山城自体が玄武岩質の絶壁に囲まれた天然の要塞になっています。
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2024/01/11 23:06
2024/01/11 22:59
陸奥の国府が置かれた山岳寺院。奇岩がそびえる堅固な山城でもあった。 (2019/08/12 訪問)
霊山城は玄武岩の奇岩がそびえ立つ霊山山頂部に築かれています。貞観元年(859)に慈覚大師円仁によって築かれた南岳山山王院霊山寺が置かれていましたが堅固な山城でもありました。本城や国司館を中心に周囲に出城を配し、東の最高所には宝寿台と呼ばれる展望所があります。奇岩が造りだす絶景は迫力満点で攻め手の兵士はさぞかし肝が冷えたことと思います。
建武4年、北畠顕家が幼少の義良親王を連れて霊山の山頂寺院に入りこの場所に陸奥国府を移したとあります。顕家は霊山入城後8ヶ月で親王を奉じて西に向かい転戦の末に和泉国石津で一族と共に憤死したとされています。
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2024/01/11 22:58
塩川氏の城 (2024/01/11 訪問)
古城山の山頂部から派生する2本の尾根に曲輪を配置し、背後を2重の堀切で守られた城です。東側の尾根に登城路が設けられています。西側の尾根にも階段状の曲輪が展開していることは主郭近くから見るとわかりました。主郭背後の堀切と竪堀は良好に残っています。自分的には一番の見どころだと思います。さらに尾根を歩いていると浅くなっていますが、堀切とおもわれる地形を見ることができます。
主郭等に設置してある機器から出る獣除けの音は気になりますね。
向山に出城があります。尾根を介して行こうとしたのですが、途中藪になっている所があり、丁寧に道を探せばあったかもしれませんが断念しました。
能勢電鉄山下駅から徒歩10分くらいで登城口に着きます。
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2024/01/11 22:26
梁川城と並ぶ伊達氏の本拠。 (2019/08/12 訪問)
桑折西山城は西方を除く三方を産ヶ沢に囲まれた高館山に築かれています。大手門から本丸に至り、西に二の丸、その先に中館・西館があるようで広大な城域を持っています。
文治5年(1189)源頼朝と藤原泰衡が衝突した奥州合戦にて功のあった中村常陸介朝宗が伊達郡を与えられ伊達氏を名乗ったとされます。その後、官道の要衝たる伊達郡桑折の近くに赤館を築いて移ったとあります。天文元年(1532)に梁川城から西山城に移ったとする記述もあるようで柳川城と桑折西山城は伊達氏の本拠とされているようです。伊達稙宗・晴宗父子における親子の争乱(天文の乱)では戦場となり周囲の豪族の仲介と将軍足利義輝の命により和睦が成り、その条件の一つとして西山城は廃城となり晴宗は家督を継ぎ米沢に移っていったそうです。
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2024/01/11 21:47
小川城 (2023/11/25 訪問)
【小川城】
<駐車場他>城跡前歩道奥に3台分ほどあり。
<交通手段>車
<見所>空堀
<感想>2泊3日松本・佐久・吾妻の山城攻めの旅3日目ラストの13城目。現地説明板によると小川城は1492年に沼田荘田城主沼田景久が築城したとあります。景久は2男の景秋を住まわせ小川城初代城主となります。その後4代目が戦死して断絶しますが播磨の赤松則村の末裔と称する浪人が後家と婚姻して上杉謙信の後ろ盾を得て小川可遊齊と名乗ります。真田昌幸が名胡桃城進攻時には協力して戦います。武田氏滅亡後は可遊齊は越後に浪人し、門葉の北能登守が居城します。秀吉の北条攻めの前には北条氏の家臣が城代として入ります。江戸時代には上野沼田藩4代当主の真田信澄(信利)が三の丸陣屋に沼田城主になるまでの18年間過ごしたとされます。
本丸と本丸周囲の堀が残っており、二の丸跡・三の丸跡は国道や畑に変わってしまっています。本丸部分は利根川の河川丘陵の断崖部分に造られ北と南側に深い大堀切を備えています。構造的には名胡桃城とよく似ています。二の丸跡と本丸跡を仕切る空堀は深く見応えがあります。本丸の東側土居やささ曲輪との曲輪壁には一部石積みが残っています。丸っこいので利根川河岸からの物と思われます。
これにてこの旅終了、松本市にある行きたかった山城群に大満足、また小諸城・名胡桃城、この小川城のような河岸段丘に築造された、関西ではあまり見慣れない城跡に触れられてまた1つ勉強になりました。走行距離1200㎞無事走破。
<満足度>◆◆◇
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2024/01/11 21:20
未完の城。 (2019/08/12 訪問)
神指城は阿賀野川の東側に位置しています。会津に移封になった上杉景勝が慶長5年に直江兼続に工事を命じ、兼続が普請奉行を務めました。上杉領内から人工を集め、その数8~12万人とも言われかなり大規模な工事だったようです。徳川家康の会津攻めにより工事は中断となり結局は完成には至らず景勝が米沢に移封となった後は放棄されたようです。
城域の北東端に国天然記念物の高瀬の大木があり、その周囲に土塁が良好に残っていました。南西が二の丸跡で水田が広がっています。
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2024/01/11 20:14
南奥羽支配の拠点の一つ。 (2019/08/11 訪問)
三春城は永正元年(1504)に田村義顕がこの地に本拠を移したとされ、その後三代続きますが天正14年(1586)に清顕が急死すると娘婿の伊達政宗の後見で清顕の甥、宗顕が城主になりました。田村氏は豊臣秀吉の小田原征伐に参加しなかったため改易となり、桃山時代から江戸時代の動乱期に城主は次々と変わりますが寛永5年(1628)加藤嘉昭の娘の子である松下長綱が三万石で入り近世城郭として整備がなされたとのことです。
現在は平山城の形態をしていて最高所一帯に本丸と奥跡(御座の間)が配され、北西に二の丸跡、南東に三の丸跡があり南側一帯に重臣屋敷が配されていたようです。
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2024/01/11 19:10
常在戦場。 (2023/12/06 訪問)
右手に「大胡城」の石碑があり、車がすれ違いできない位のトンネルを抜けると、いきなり二ノ丸に到着しました。
ちょっと、暗めな四角いトンネルです。まさか、こんなに広い「大胡城」に着くとは思いませんでした。
大胡氏が築いた「大胡城」。
横瀬家に奪われ増田氏。
上杉家に奪われ北条氏。
武田家が侵攻し大胡氏。
武田家が滅亡すると織田家の滝川氏。
本能寺の変が起こり北条家。
北条家討伐され徳川家の、牧野 康成さんが城主を勤めました。
二ノ丸には何台か車が駐車してました。
郭は、高い土塁が守っています。
虎口から幅広い土橋を渡ると、両側に深い空堀。水の手門近くには石積みもあります。
これだけ、取った取られたを繰返した「大胡城」ですから改修も、深~く 高~く 広~くしたに違いありません。
牧野氏の家訓でもある『常在戦場』。
常に戦場にいるような心持ちでいると、「大胡城」のようなお城が出来上がるのでしょう。
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2024/01/11 16:13
安祥城探訪 (2024/01/05 訪問)
安祥城を訪問しました。ここは安城松平家の居所であり、あの徳川家康とゆかりのあるお城となります。
城址を含めて歴史博物館、埋蔵文化センターとが一体に整備されており、安城市の歴史を含めて知ることができます。
駐車場も広く、自動車でのアクセスもし易いです。
昨年は大河ドラマの放送の影響か、企画展の開催やパンフレットの整備などが充実していました。訪問する側ではありがたい取り組みですね。
現在は、本丸跡には大乗寺、二の丸跡は八幡社となっています。散策途中に安城城の縄張りの案内図がありましたが、原図:千田嘉博先生との記載がありました。
岡崎城のある岡崎市とは隣接しており、是非訪問してみてください。
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2024/01/11 16:06
刈谷城探訪 (2024/01/05 訪問)
刈谷城を訪問しました。刈谷城は別名亀城と呼ばれており、徳川家康の生母である於大の方がいらした水野家のお城です。現在は亀城公園となっています。駐車場も広く、自動車での訪問をお勧めします。
近くに刈谷市歴史博物館があり、刈谷城の立地、縄張等がジオラマ等で分かります。登城の前に立ち寄ってみるのも良いと思います。
刈谷城は明治時代にほとんどの建造物が解体されましたが、現在は公園として整備され、本丸跡、帯曲輪跡、水堀の一部を見ることができます。
また、ここでは刈谷城ARを実施しており、4箇所のスポットにて往時の姿をCGで再現してくれます。スマホにて確認してみましょう。
なお、刈谷城は隅櫓や石垣、城門他を復元計画がありますが、残念ながら現在は停滞しているようです。
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2024/01/11 15:59
名古屋城探訪 (2024/01/04 訪問)
新年、名古屋城を訪問しました。6年振りの訪問です。
今回の訪問では、タイミングが良く重要文化財の西南隅櫓が内部見学できました。今年は1月上旬のみの期間限定のようです。
西南隅櫓は、現存する3基の隅櫓の一つとなります。二層三階の櫓で内堀越しからみるとなかなか立派なものです。
三階は荷重制限にて上がるのは人数限定となり、少々並び待ちましたが内部見学ができて良かったと思います。
ところで、城内から望む天守閣は威厳と風格がありますね。何度訪問しても良いお城かと思います。
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2024/01/11 08:06
陣跡めぐり(伝堀秀政陣) (2023/11/04 訪問)
(続き)
伝滝川一益陣から下った先に堀切があり、その先が伝堀秀政陣です。櫓台状の円墳をはさんでまた堀切。さらに円墳をはさんで今度は横堀と竪堀が設けられています。横堀を見下ろす位置には礎石建物があったようで、高床建物の一部がベンチとして復元されています。礎石建物跡から堀切をはさんで伝堀秀政陣の主郭があり、円墳を改修した主郭には石碑が立てられていました。主郭の西側には帯曲輪、小郭、犬走りが取り巻いています。
伝堀秀政陣は円墳を活用して幾重にも堀を設けた陣跡で、一気に城郭らしくなってきました(続く)。
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2024/01/11 07:17
空堀土塁を見落とした (2023/12/09 訪問)
館跡ということで油断していました。空堀、土塁があったとは。皆さんの投稿をチェックしておけばこんなことにはならなかったのに。いつか再訪したいと思います。「妙」の字が付く寺はたいてい日蓮宗で、妙徳寺には、日蓮の銅像がありました。
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2024/01/10 22:36
各郭を隔てる巨大な堀切に幾つもの橋が架かっている。 (2019/11/03 訪問)
小山城は藤原秀郷の子孫である小山政光によって平安時代末期に築かれたとされています。かつては鷲城の支城でしたが、小山氏が足利氏満と対立して敗れ、嫡子若犬丸も会津で自害し小山氏が滅ぶと同門の結城氏が小山氏を継ぎ戦国期には小山城を本城としたようです。
小山城は思川の東にある台地上に築かれ、駐車場となった中久保郭から橋を介して城域に入り込みます。現在表示されている郭名は城郭体系に記載のあるものとは異なっており 本丸(大系)⇒中田曲輪・馬出(現在) 二の丸(大系)⇒本丸・二の丸(現在)と変わっています。特にかつて本丸とされていた部分が馬出に修正されている部分は興味深いものであり、時代が進んで研究が進んだ成果だと思います。各郭を隔てる堀切は橋を架けなければ渡れないほど大きく深い物であり公園化してはいるものの小山氏の本城のスケールを感じ取ることが出来ます。
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2024/01/10 22:17
国宝・勝興寺の故地だという (2023/04/22 訪問)
越中一向一揆の一大拠点であったが焼き討ちされて移転したという。古図には堀跡も記載されるが圃場整備によって遺構は消滅した。ちなみに移転した寺とは古国府城の跡に建ち国宝の本堂を擁する大伽藍・勝興寺なのだそうだ。
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2024/01/10 21:49
結城合戦の舞台となった結城氏の本城。 (2019/11/03 訪問)
結城城は治承年間(1177~1180)に結城家初代・結城朝光が築いたとされていますが確証はないようです。北西から南東に至るまで田川に囲まれた低丘陵地に築かれていて実城(主郭)は城址公園になっていて東側は切岸になっています。西館との境目あたりに聰敏神社が鎮座し水野家初代水野勝成公を祭神として祀っています。実城の南に中館・東館が配され、結城家御廟のある慈眼院周辺が東館になるようです。実城から南西1kmほどの場所に結城家初代・朝光の墓所のある稱名寺(称名寺)があります。
結城城は結城秀康の越前への移封後に一時廃城となりましたが、元禄13年(1700)水野勝長が一万八千石で入り明治維新まで水野氏の居城となりました。
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2024/01/10 21:09
三度に渡る激戦の地。 (2019/11/03 訪問)
皆川城築城に関する伝承はいくつかあり、古くは長沼淡路守宗政の孫・宗員が築いたとされています。宗員は皆川荘に居を構え皆川氏を名乗り、その子孫は元亨3年(1323)に断絶したか、この地を放棄したと考えられています。
もう一つは応永23年(1416)~永享12年(1440)ごろに築かれたとされ、長沼惣領家の秀宗かその父・憲秀によるものと思われています。主郭を中心に周囲に幾重にも郭が連なり西には二郭が配され南西に竪堀が走ります。とにかく郭の多い城で主郭にある展望台からは周囲や郭を見渡すことができます。激戦の記録が幾つも残る城で、大永3年(1523)の宇都宮忠綱との合戦(川原田合戦)では城主宗成が流れ矢で死亡し弟の平川城主・成明も討死しています。天正12年(1584)には北条氏政・氏直父子の一万八千の大軍が来襲し(草倉合戦)三カ月にも及ぶ戦いの末和議を結んで休戦しますが皆川氏は北条氏に従うことになります。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際に上杉景勝・浅野長政ら一万五千余騎に攻められ降伏・落城したとされています。
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2024/01/10 20:14
なんだか評判のよくない国の史跡。 (2019/11/03 訪問)
写真が古くてゴメンなんだけど中久喜城の投稿です。城址はJR水戸線によって分断されており本丸は線路の南に位置し土塁らしきものが残るのですが主要部は畑地になっていて、その他は藪になっています。国の史跡なのに藪なんですね。
城址碑は線路の北側にあり、北西部は西城と呼ばれていたようです。かつては泥田、湿地に囲まれた要害の地であり小山政光が先祖藤原秀郷の由緒のある当地に築いたとされています。天正18年(1590)には結城秀康に家督を譲って隠居した結城晴朝が越前に移るまで居城としたとされています。
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2024/01/10 20:13
姫路城4(最後) (2023/11/03 訪問)
備前門を通った後は太鼓櫓へ向かいました。残念ながら太鼓櫓をちゃんと写真に撮れていませんでした泣。ちなみに太鼓櫓はなんと、池田輝政以前の建物と伝えられていて結構貴重なものですよ。江戸時代以前の建物が残っているのは興味深かったです。
太鼓櫓と繋がっているりの門を通って二の丸へ出ると扇の勾配と呼ばれる武者返しのような石垣を見ることができます。藤堂高虎のような直線のような石垣ではなく、上へ行くほど急になっていく勾配の石垣です。
この時点でちょうど16時を過ぎ、営業が終了間近だったので、急いでスタンプを押して夕陽に染まった姫路城天守閣を写真に取りながらホテルへと向かいました。
夜は姫路の大通りにあるガブリチキンで夕食を食べました🎵お酒はまだ未成年なので飲めませんが、久しぶりに贅沢なご馳走をしました。ちなみにガブリチキンは名古屋発祥なのになんで姫路で行ってんだか…
夕食後は宿に戻る前に少し散歩がてら姫路駅に行ってみました。兵庫の都市といえば神戸ですが、姫路もなかなか栄えている場所でした。新幹線が通っているのとJRの終点の駅でもあるため、駅周辺は人が多かったですね。どうやら家から姫路までは電車の本数も少なく行けそうな気がしました。姫路駅の踊り場に出てみるとライトアップした姫路城が見えましたよ。写真では全然綺麗じゃないですけど肉眼では綺麗に見えました。
ここでとりあえず兵庫旅行の1日目が終了しました。竹田城、篠山城、姫路城と1日に3箇所の名城に行くという充実した1日を送りました。
2日目は明石城に行きました。では次の投稿では明石城について紹介します。長々とありがとうございました。
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