一郷山城跡展望台、模擬天守閣風より四方を眺め終えて、東南東方向直線約13~14kmの本庄市雉岡城を目指す。
昨年の10月群馬県埼玉県未踏の城廻りの時間調整予備として藤岡城と雉岡城をリストアップして居ましたが藤岡城で夕刻時間制限で雉岡城は探訪出来ませんでした、今回の上野、武蔵未踏の城廻りに入れ初登城致しました、でも夕刻近くで写真写りはよく有りません。
情報源の古城盛衰記さん余湖図コレクションさんグーグルマップで城址公園南東の公園入口に駐車場とトイレが有りここにナビを定めて走行、ぴったりと到着しました。
到着してまず、土塁の規模にびっくり、大手郭内に突出した塁が有り出構えの様子、南には土塁が残り、東には土塁と水堀、北東部には水堀と伯耆郭が南に突き出てる、大手郭北と北東伯耆郭、西の本丸、本丸南の郭の間に水堀が残ってる、大手郭北側と本丸南郭の間に夜泣き石の有る空堀が在る、大手郭の北側の西に角馬出が残るが近年の改築で石垣は後世の物、角馬出の西に雉岡城縄張推定復元図が掲示して有り、郭の名称はこれを使用しました。
遺構消滅した部分は、本丸と本丸南郭が児玉中学校、三の丸と二ノ丸が児玉高校として使用されて居ます、南東部だけでも残って居り土塁、空堀、水堀、郭がこれだけの規模でも残り大切に城址公園として整備保存されてる事は大変ありがたい事です。
尚、グーグルマップの航空写真を見ると北側の三の丸跡北側の堀跡土塁跡塁線が樹木で痕跡が残ってる様に見受けられます。
歴史:城域は東西約270m、南北約430mに及び、山内上杉氏の築城、後北条氏の領有と成り鉢形城の支城、小田原征伐後徳川氏の領有と成り松平家清が1万石で入封し約10年治める、関ヶ原後松平氏は三河吉田城に転封となり廃城。
後北条氏の大改造で北条流築城、松平氏が10年で改造したのかどうかは?1万石では改造も余り無かったのではと思ったりしたり?
夕刻迫る登城探訪でしたが2年振りにやっと登城する事が出来、規模の大きい土塁、曲輪、水堀に感嘆しました。
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