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カズサン

中枢部消滅でも遺構がよく残ってます (2022/11/13 訪問)

 一郷山城跡展望台、模擬天守閣風より四方を眺め終えて、東南東方向直線約13~14kmの本庄市雉岡城を目指す。
 昨年の10月群馬県埼玉県未踏の城廻りの時間調整予備として藤岡城と雉岡城をリストアップして居ましたが藤岡城で夕刻時間制限で雉岡城は探訪出来ませんでした、今回の上野、武蔵未踏の城廻りに入れ初登城致しました、でも夕刻近くで写真写りはよく有りません。

 情報源の古城盛衰記さん余湖図コレクションさんグーグルマップで城址公園南東の公園入口に駐車場とトイレが有りここにナビを定めて走行、ぴったりと到着しました。

 到着してまず、土塁の規模にびっくり、大手郭内に突出した塁が有り出構えの様子、南には土塁が残り、東には土塁と水堀、北東部には水堀と伯耆郭が南に突き出てる、大手郭北と北東伯耆郭、西の本丸、本丸南の郭の間に水堀が残ってる、大手郭北側と本丸南郭の間に夜泣き石の有る空堀が在る、大手郭の北側の西に角馬出が残るが近年の改築で石垣は後世の物、角馬出の西に雉岡城縄張推定復元図が掲示して有り、郭の名称はこれを使用しました。
 遺構消滅した部分は、本丸と本丸南郭が児玉中学校、三の丸と二ノ丸が児玉高校として使用されて居ます、南東部だけでも残って居り土塁、空堀、水堀、郭がこれだけの規模でも残り大切に城址公園として整備保存されてる事は大変ありがたい事です。
 尚、グーグルマップの航空写真を見ると北側の三の丸跡北側の堀跡土塁跡塁線が樹木で痕跡が残ってる様に見受けられます。
 
 歴史:城域は東西約270m、南北約430mに及び、山内上杉氏の築城、後北条氏の領有と成り鉢形城の支城、小田原征伐後徳川氏の領有と成り松平家清が1万石で入封し約10年治める、関ヶ原後松平氏は三河吉田城に転封となり廃城。
 後北条氏の大改造で北条流築城、松平氏が10年で改造したのかどうかは?1万石では改造も余り無かったのではと思ったりしたり?

 夕刻迫る登城探訪でしたが2年振りにやっと登城する事が出来、規模の大きい土塁、曲輪、水堀に感嘆しました。
 

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宗春

紀伊半島中央突破シリーズその4 岸和田城 (2022/11/22 訪問)

紀伊半島中央突破シリーズその4
地元の友人と一緒に名古屋から紀伊半島の中央を車で突破してきました。

自分的には初めての大阪府の城です。
外観は良いですね。犬走りも好物です。天守はRC造の外観復元天守ですか。まあそうでしょうね。天守前の「八陣の庭」の印象が強く、天守内部の展示物(?)の記憶がありません。

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todo94

献血後の攻城 (2022/11/12 訪問)

郡山での献血に時間がかかってしまい、遅い昼食をとった後、赴きました。住宅地となってしまっていて遺構はほぼないも同然かと思いますが、大河ドラマ「独眼竜政宗」で三浦友和が演じた伊達成実が陣を敷いた歴史の地であるようです。小さな公園に城址碑と説明板が建っています。

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赤い城

鍋島氏の墓所もある成願寺 (2022/11/20 訪問)

中野坂上駅から徒歩で数分、坂を下ったところにあります。
成願寺が屋敷跡ですが遺構はありません。
中野長者と呼ばれる鈴木九郎の屋敷跡となります。
境内には石碑があり、鈴木九郎のものがたりのパネルが設置されています。
読んでみるとなかなか面白いですよ。
成願寺には鍋島氏の墓所もあり、近くをお散歩する際には立ち寄ってみて下さい。

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第14回)臼杵城(丹生島城)② (2022/09/26 訪問)

(臼杵城①からの続きです)

大友宗麟は、心血を注いで建てた教会・修道院・学校・病院が焼き払われ、臼杵の街が廃墟となったことに相当な怒りを憶えました。そしてこの無念を晴らすべく、このまま籠城せずに何と討って出る事にします!

この時、宗麟にはある秘策がありました。それは秘密兵器「国崩し(フランキ砲)」です(写真①)。ポルトガルから輸入し、日本ではまだ誰も使った事もない見た事もない兵器でした。宗麟は平清水(ひらそうず)に布陣している島津軍めがけ砲撃しました(臼杵城から平清水を眺めた写真②から想像イメージ写真③を作ってみました。こんな感じでしょうか?)。すると、凄まじい爆音とともに着弾し、島津軍はもう度肝を抜かれ大混乱! そして多くの兵が死傷しました。

その隙に、前日から海を渡り隠れていた兵が、平清水(龍原寺付近)(写真④)の島津軍の本陣めがけ果敢に討って出ます。そして、動揺している島津軍へ襲いかかりました。島津兵はさらに驚き退却を始めますが、二王座の切通し(岩を砕いて作った狭い道)(写真⑤)まで退却したところで、同じく前日に海を渡り待ち伏せていた吉岡統増(妙林尼の子)が率いる鉄砲隊が一斉射撃! これに多くの武将が打ち取られてしまいました(またイメージ作ってみました:写真⑥)。

島津義久は、多くの死傷者が出た事と秀吉の大軍が豊前を南下中との知らせを受け、今後の豊臣との決戦に備え、薩摩全軍の体制を立て直すべく、家久へ「もはやこれまで、薩摩へ撤退せよ!」と命令します。念願の宿敵「大友宗麟」の首を討ち取れる寸前あと一歩の所までせまっていた島津家久でしたが、命により無念極まりなく撤退をする事にします。これで、島津の九州制覇の野望は完全に消えてしまいました。そして大友宗麟はこれにより豊後を最後まで守りぬく事ができたのでした!

次は、津久見(大友公園:宗麟墓所)へ続きます。


【余談:臼杵観光】
臼杵城の周辺は、城下町の面影を思わせる街並みがよく残っていて、散策するにはとても良いところでした。城から正面にまっすぐ続く石畳の道は、宗麟が作った道で、突き当りにはかつては教会やセミナリオ(修道院)・病院・学校などがかつてあり、南蛮人も多く、ゾウもここを歩いていたとか?(イメージ写真⑦)。今ではこの石畳の道に、臼杵名物の味噌・醤油の店(フンドーキン・富士甚)やおみやげ屋が並び、教会を模した休憩所などもありました(写真⑧)。またすぐ横の「二王座歴史の道」には、鉄砲を撃ちかけたとされる切通しや、稲葉貞通時代に建てられた寺が多く残っていました(写真⑨)。少し行った所には「臼杵石仏」などもあるので(写真⑩)、臼杵城を訪れた際には、これらも散策される事オススメです!(私もゆっくり歩いてきました😊)。
 

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朝田 辰兵衛

日没ギリギリで。 (2022/11/26 訪問)

日没ギリギリで間に合いましたが,気持ちの焦りからか少しブレてました。ずっと奥のほうが堀跡なのかな…と思いましたが,閉門されたり不審者扱いされても面倒なことになるので,すぐに退散しました。

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ぴーかる

成願寺城 (2022/11/05 訪問)

【成願寺城】
<駐車場他>成願寺ふれあい会館
<交通手段>車

<見所>堀切・切岸・畝状竪堀
<案内>城びと実質登城者初投稿いただきます。昌官忠さんが登山口が見つけられず断念したとのことなので詳細に。私の前投稿の波着寺跡にも投稿していますが、まず波着寺跡を目指します。<36.030677, 136.280050>のポイント岐路に波着寺跡方向の板がありますので北方向に曲がり150m程直進(途中から土の道の民家の間を通る)すると公衆電話BOXを再有効利用した波着寺記帳所と鳥居がありますのでそこが登山口になります。参道はつづら折りを登りますが真ん中を割くように1つづつに竪堀があり見応えあります。この竪堀は波着寺の遺構か焼失後に成願寺城の補強の為に造られたものかは分かりませんが明確に残るいい遺構ですので一見です。25分程度登ると波着寺跡にたどりつきます。ここで先に波着寺跡を一巡り見ておく方がお勧めです。それは波着寺の方が古くからあり、波着寺が一向宗に焼き討ちにあった後に成願寺城が出来たかあるいは時代が重複し相関関係にあったかもしれないので自分の中で考察できると思うからです。
 波着寺跡から山頂の成願寺城跡を目指します。私は本堂跡から直登し連続堀切の尾根上まで出ましたが、鐘楼堂跡の奥に山頂方向へ登る階段があります(階段は途中で無くなると思います)のでそこから成願寺城跡へ向かうことができると思います。帰路で迷ったので尾根の途中で出たら目印を付けておくのが良いと思います。尾根上に出たら左手西方向に尾根(連続堀切になっている)を進んだら主郭切岸下に着きます。波着寺跡から城跡まで15分くらいです。

<感想>成願寺城の詳細はよく分かっていませんが、戦国時代に築城され、主な城主に朝倉氏の重臣で信長に内応した前波吉継(のちの桂田 長俊)がいます。城跡は東西に伸びる細尾根を利用した縄張りで前述の東側の連続堀切を過ぎ主郭の手前に2重堀切があります。主郭とその先に各々ある曲輪の切岸は高く攻略しがいがあります。主郭は狭く土塁囲みで南側のゆるやかな傾斜に畝状竪堀がありますが少し薄くなっています。城跡の西側は南に伸びる尾根とそのまま西へ下っていく尾根が分岐して曲輪になっています。西端には巨石があり城はここまでかなといった感じです。
 山地の西麓付近に城びと未登録の成願寺城下の城があるのですが山頂から少しトライしましたがだいぶ距離があるようなので断念しました。波着寺跡の御清水跡から西方向へ向かうと比較的楽に行けるようです。
 戻り道が尾根から適当に直降りしたものだからロストして迷いまして最後波着寺の鐘楼堂跡に出ることができました。途中ぬかるみにブヒブヒの足跡が無数にあったので確実に居ます(怖)。

<満足度>◆◆◇

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零汰

九州発:佐賀・福岡:3日目

3日目は朝6時前に糸島市にある怡土城登山口に到着。日の出を待って怡土城~高祖城に向けて訪問を開始した。途中には高来寺砦と草野陣砦がある。その後は二丈岳城を経由して佐賀県に向かう。

10月22日(3日目)
1.◆怡土城(福岡)
2. 高来寺砦(福岡)
3. 草野陣砦(福岡)
4.◆高祖城(福岡)・・・・・・1~4、同時訪問:3時間35分:7.9km:累計高低差506m
5.◆二丈岳城(福岡)・・・・1時間30分:2.8km:累計高低差303m
6.◆梶峰城(佐賀)・・・・・・1時間:1.7km:累計高低差184m
7. 龍造寺長信館(佐賀)
8.◆晴気城(佐賀)・・・・・・・相性の悪い城跡。城跡周囲にある林道が複雑かつ迷路の上に悪路、3年前は随分と探したが辿り着けなかった。今回は鬼神・城郭放浪記さんの情報で辿りついて場所は特定出来た。タイトな道路を進まないと行く事が出来ない。夕方4時前から直登はする気が起きずに次回に持ち送りとした。幾つかある相性の悪い城跡の中のひとつ。
◆は城びと登録城。多くは良い城跡なので後日に個別で投稿する予定。

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カズサン

牛伏山展望台は模擬天守閣 (2022/11/13 訪問)

 圧巻の空堀、切岸なる麻場城を充分堪能して、南東へ直線で4~5km程の牛伏山頂に在る、一郷山城模擬天守を目指す。
 5年前の4月平井城初登城時山頂にある天守閣を遠望し、平井城では城廻りされてるご夫妻に遭い山頂の一郷山城登城直後での会話でした、以来気には成って居たのですが昨年の群馬県未踏の城廻りに入れて居たのですが登城失敗続きと夕刻時間制限で未踏に成って居ました、麻場城から近い事も有り山道をくねくね曲がりながら一郷山城展望台駐車場(36°13'13"N 138°59'20"E)に到着。ナビは牛伏山展望台に合わせ走行。

 山中走行は紅葉も綺麗でした、牛伏山展望台と成って居り、模擬天守閣風3階建て、一階は地元産品の展示、二階は吉井町の歴史文化観光資料展示、吉井陣屋の絵図、説明文も展示、三階は回縁で東西南北を見渡せる展望台。
 開発で遺構は無く成ってる様ですが、東の曲輪、広場の東屋下は曲輪か堀が観れるような気がしましたが?東方の眺めは紅葉も有って素晴らしいがやや霞が懸ってる、西方も牛伏山山頂、紅葉とTVアンテナが見えます、南下はゴルフ場、少し西に歩いてトイレが有ります、途中に土塁の跡かな?的な土の高まりも有りましたがどうでしょう?

 歴史:牛伏山は標高491m、永享10年(1438年)関東管領上杉憲実は鎌倉公方足利持氏と争い、鎌倉を退き平井城に拠った、その頃西方の守りとして一郷山城、新堀城を築城した、一郷山城は山頂にある事から、のろし台の機能。
 永禄6年(1563年)武田信玄の上野西部侵攻の緒戦で一郷山城を攻めた、苛烈な戦いの末全焼全滅落城し、ついに新堀城も攻略された。
 平成元年12月に一郷山城跡に「牛伏山展望台」を開設。
 (牛伏山展望台解説板の抜粋)

 結構沢山の方が来られていました、ドライブ、紅葉狩り、山頂からの展望眺望の素晴らしい景観です、車で気楽に来られるのが良いですね⁉
 情報とガイドは何時もの古城盛衰記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依ります。
 
 次に陽の有る内にと本庄市の雉岡城を目指しました。
  

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AJ

虎の血脈④ (2020/08/24 訪問)

「うちの先祖は武田の家臣」ーー。地元の方によると、甲府ではよく聞くそうです。一方で、そういった家伝は当てにならないことが少なくないとも。小さな島国で出自にこだわるなんて、とお思いの方もいらっしゃるでしょう。それもしかり。いずれにせよ、系譜を正確に遡るというのは難しいようです。

恵林寺(山梨県甲州市)は武田家の菩提寺。再建された三門の前に立てば、有名な「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」の扁額が目を引く。信玄に招かれた僧・快川紹喜が信長の焼き討ちで亡くなる際の辞世とされてきましたが、近年は快川と問答した別の僧の言葉を後世の編纂物が快川の逸話にしてしまったという見方も。

さて、自身の出自をめぐり、この寺で“武田ブランド”の価値を実証してみせた人物がいます。板垣退助。土佐の家老だった頃は乾性を名乗っていましたが、幕末に西軍を率いて甲府を占領するにあたり、境内で改姓をアピールしたといいます。

自身が信玄の重臣板垣信方の子孫(*信方の孫・正信が、山内一豊の家臣だった乾家の養子になったという機縁とのこと)であることを喧伝したそうです。天領とはいえ、武田期を懐かしむ風潮が強い甲府。改姓によって進軍を円滑に進めようとした意図はわかるような気もします。

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todo94

説明板、見落としました (2022/11/12 訪問)

畑の中に取り残された小島のような小丘が国神城だろうと見当をつけ、写真を撮影し、三角点まで確認してきましたが、帰ってきてから調べてみて、国神城で間違いないとわかり、ほっとしています。あんな立派な説明板を見落としてしまうとは俄には信じられません。。

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Tokyobay

吉田松陰とか太宰治とかレトロ駅舎とか (2022/10/18 訪問)

追手門前に旧図書館や旧東奥義塾教師館があるが、その裏手に幼稚園に隣接した「松陰堂」という吉田松陰が宮部鼎蔵と共に訪れた屋敷が現存している。ただし、要予約だったので中は見学できず。他には太宰治が旧制高校時代に下宿していた「太宰治まなびの家(旧藤田家住宅)」というのも現存。こちらは当初の建築場所から約100メートル南東に建物の向きを変えることなく移築されたようである(芥川龍之介を真似した写真を撮影したのはここで、部屋がそのまま残っている)。その他、弘南鉄道大鰐線の終点の中央弘前駅もレトロな感じで風情がある。ちなみに北門を出たところにある武家屋敷通りも自転車で走ったが、生垣等はあるものの、建物自体は殆どが普通の住宅なので、そんなに風情があるわけではない。

※「GAIJIN」が差別用語らしく漢字やカタカナではエラーになるので省いて書いてますが、正規名称は写真に記載してある通り旧東奥義塾「GAIJIN」教師館です

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カルビン

近場ではないところ (2022/11/12 訪問)

時を戻そうw

前回の増山城の前の北陸遠征で行った金沢方面で最初に訪問したのは高尾城でした。。。東京都の高尾山だったら小学生時代に年1回遠足で行ってましたが、コチラの高尾はお初です。

たしか高尾城は富樫氏が加賀を統一した際に築いた拠点のお城だったと思います。
当初は順調に統治していたと思われてましたが、徐々に一向宗(主に坊さん)を抑え付け、最後は押さえつけ過ぎて爆発した一向一揆衆に落とされてしまったわけで。。。一向一揆怖いw

お城は教員総合研修センターの裏手になり、以前はその手前から山道がつながってましたが、自分が訪問した時はその参道は通行禁止になっていた為研修センターまで登ってそこから駐車場経由で高尾山城に登った感じです。

高尾城自体の登りもそれなりに疲れましたが、それよりも麓から研修センターの駐車場までの舗装道路の登りのほうが堪えました(ーー;

残念ながら遺構のあると思われるエリアは軒並み立ち入り禁止となっており、解説版のある山上の更に奥の立ち入り禁止エリアの竹林に行きたかったですが、そこは自制しました(汗)
奥が見れれば評価は上がるの間違い無いのですが、肝心なエリアに行けないと充実度も半減です。。。最上段の景色は良かったけど、この日のメインは入れない鳥越城の続100名城スタンプを入手する事だったので、正直もう少しここでは充実感を味わいたかったな~



ジョル〇ンの時刻表やルート案内、及び金沢駅前のバス停にあったルートでは高尾城の麓にあるバス停(高尾南二丁目)を通るハズだったのに、予定していた料金区間になっても一向にそのバス停が現れず・・・運転手さんに聞くとそこは通らないと。。。なんですと!?
・・・まぁ、車窓からの景色であれが高尾城だろう。。。という高地が見えていたのにそちらに進んで無いのを見て多分ルート違うんだろうなぁと薄々感じてはいましたがorz
ま、運転手さんが親切に降りた場所から1kmくらいでその場所に行ける事を教えて頂けたので事無きを得ました(汗)
そもそもバスに表示された行先とバス停横の行先が違っていた時点で悪いのはジョ〇ダンではなくこの運行会社の情報展開不足が原因なんでしょうな・・・
こういう事って稀ですが個人的感覚では年2くらいあるので、皆様も気を付けましょう。

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小城小次郎

古代のロマンが眠っている (2022/05/04 訪問)

運動公園の下になってはいるが、ここには堀に囲まれた広大な空間があった。今も残る横堀などは11世紀の後三年の役の頃まで遡るものという。ここには(陳腐な表現だが)古代のロマンが眠っているようだ。

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赤い城

梅雨どきは紫陽花の名所に (2022/11/13 訪問)

黒羽城址公園として整備されていて駐車場もあります。
駐車場も曲輪の跡で土塁が残っています。
道路を渡って公園に入ると説明板があり、その奥に空堀があります。
堀底道を歩くこともできます。
本丸は大関氏の館跡で広く能舞台がありました。
南側の馬出曲輪との間の堀は深く、梅雨には紫陽花で一杯になります。
三の丸には芭蕉の館が建っていますが背後には土塁、深い堀も残っています。
以前紫陽花のシーズンに訪れたことがありましたが城を見るにはこれからの時季ですかね。
時間があればもっとあるき回れそうな城でした。

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Tokyobay

西の郭から天守が見られるのは大変貴重 (2022/10/18 訪問)

工事で天守が移動中だが、逆に言えば今だからこそ見られる風景がある。特に、西の郭から天守が見られるのは大変貴重で、平山城であることがよくわかる。また、移動中の天守内部は鉄筋補強がモノスゴイので必見。その他、櫓や門も多数あるが見どころが多すぎるせいか現地の案内が少々不親切なので地図を参照しつつ各々を見逃さないようにじっくり巡る必要がある。尚、追手門と南門は工事中で外観は見えず。ちなみに城内はとても広いが、自転車通行可能なのでレンタサイクルが便利。

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ぴーかる

成願寺城攻略前に (2022/11/05 訪問)

【波着寺跡】福井県福井市成願寺町
<駐車場他>成願寺ふれあい会館
<交通手段>車

<見所>竪堀・基壇石列・石垣
<感想>成願寺城跡にたどり着くにはこの波着寺(なみつきでら)跡を通って行かなければならず、この波着寺跡にも見事な遺構が残されていたのでご紹介致します。後の投稿にて内容が少し重複しますが城びと登録のある成願寺城跡を投稿致します。
 
 現地説明板の抜粋紹介をすると波着寺は養老年間(717~723年)に泰澄大師により開かれもとは小波山(現在の新保宮山)の麓にあった。寺は真言宗に属し観音様を安置していたことから観音の霊場として知られていました。1474年、朝倉氏の越前統一の戦いの一つである波着、岡保の合戦では被害を受け、1548年、朝倉孝景が波着寺に参詣し、その帰路にて急死します。1574年、加賀の一向一揆が越前に侵入し波着寺は兵火で焼失したとあります。

 案内は成願寺ふれあい会館の向正面に説明板があります。<36.030677, 136.280050>の岐路に波着寺方向の板がありますので北方向に曲がり150m程直進(途中から土の道の民家の間を通る)すると公衆電話BOXを再有効利用した波着寺記帳所と鳥居がありますのでそこが登山口になります。
 参道はつづら折りを登りますが真ん中を割くように1つづつに竪堀があり見応えあります。25分程度登ると観音堂跡の削平地に着きます。更に少し藪化していますが北に登ると本堂跡があります。本堂跡は虎口に石垣が少し、本堂跡には基壇の石列が残っています。東側に鐘楼堂跡がありここには大きな基壇石列が残っています。鐘楼堂跡の奥に山頂方向へ登る階段がありますのでそこから成願寺城跡へ向かうことができる(私は本堂跡から直登し尾根上まで出たので定かではないです)ようです。階段は途中で無くなると思います。
 参道に残る竪堀は波着寺の遺構か焼失後に成願寺城の補強の為に造られたものかは分かりませんが明確に残るいい遺構です。

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カズサン

【上野・麻場城】群馬県甘楽町 本丸周囲の空堀が圧巻です (2022/11/13 訪問)

 山名城を2年越しの登城を終えて甘楽町の麻場城を目指す、城郭放浪記写真館に昨日のトップ10の欄が有り、毎日未確認の城をチェック確認して居ます、そこに青文字の城郭名で麻場城と有り確認、本丸が空堀に囲まれた素晴らしい城、是非登城したいと脳内確認チェックして居たのですが、昨年10月の群馬県未踏の城廻りに入れ損ね、今回の上野未踏の城廻りにやっと追加し、今回登城する事が出来ました。
 
 住所:群馬県甘楽郡甘楽町大字白倉823/678(地番の間が駐車場)
 駐車場:麻場城東麓に砂利舗装で専用駐車場有、トイレ無し、トイレは二の丸に有ります。

 駐車場に着くと見上げる様な高切岸、案内板と標柱が切岸下に有ります、高切岸を斜めに登城路、笹曲輪に着きます、橋を渡り帯曲輪、登って笹曲輪、チョットくたびれた櫓台が建っている、帯曲輪北面の高切岸も圧巻、本丸は周囲に深い空堀これも素晴らしい、北面中間に橋が架かり虎口を越えて本丸へ平坦な四角形、ぐるっと本丸を廻る、二の丸へは中間に土橋が有り、食違い虎口へ左右は土塁が抑えてる、二の丸にトイレ、少し狭い二の丸南に生け垣が有り区別してる、麻場城想像図が掲示して有り往時の城郭が見て取れる、南に200m程の所が大手門跡、その間は現在農地に成って居る。
 
 細長い丘陵先端を活用した丘城、南北200~300m、東西120~130mを北から笹曲輪、本丸、二の丸、郭内の連郭式城郭です。
 切岸の高さは20m程か?写真館の写真を観てるより実際の高さは高く大きく見える、空堀も深く素晴らしい、発掘調査整備で掘り起こしたのでしょう。素晴らしい整備保存です、丁度草刈りが終わったばかりなのか良く確認出来ました。大変満足な探訪でした。

 歴史:麻場城は戦国時代この地の豪族白倉氏の居城であり、東方約500mに存在する仁井屋城(ニイヤジョウ)と併せて「白倉城」と呼ばれ、典型的な別城一郭(双子城)であると言われている。
 当城は戦国時代初期に築城とされ、豊臣秀吉の小田原征伐時(1590年)に、前田利家を総大将とする東山道軍に攻め落とされるまで約370年間の活躍があった。(麻場城址案内板に由る)

 情報源は何時もの、城郭放浪記さん余湖図コレクションさん古城盛衰記さんグーグルマップに依ります。

 登城を終えて双子城の仁井屋城跡を車で目指すが途中道が狭く成り、駐車場に困り近くで断念して次の一郷山城を目指しました。
  
 

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零汰

九州発:佐賀・福岡 2日目

4年前から遺構ありきの城訪問を始め、サイトの登録城を訪問していた。大半は平城だが、遺構の無い城や案内板のみの城などがやけに多くずっと不思議に思っていた。遺構が無いので足が向かずこの1年程行かなくなった。

今年の春に城の評価や価値は遺構より歴史の裏付や根拠の方が上位に来るという自分の認識が間違えていた事に気が付いた。どうりで諸先輩方の投稿に事細かく歴史の記載があるということを理解した。モヤモヤが晴れて春以降は吹っ切れて以降の無い城も訪問するようになった、が歴史や裏付とかは定着していない。

2日目は長い間ピン付して足が向かなかった城を回収しながら糸島方面に向かった。

10月21日(2日目)

元寇防塁関係
1.◆生の松原地区(福岡市西区)
2. 今津地区(福岡市西区)
3. 西新地区(福岡市早良区)
4. 長垂地区(福岡市西区)
他にも元寇防塁跡は2.3か所あるようです。今回は目的地に向かいながら遺構を見て廻った。長垂地区の防塁のみオリジナルで他は復元の様に見受けられる。

水城関係
5. 上大利水城(福岡県大野城市)
6. 天神山水城(福岡県春日市)
7. 大土居水城(福岡県春日市)
100城にある水城の周辺にある3か所の水城跡で土塁が残っています。上大利は良く整備されていますが、天神山は立入禁止、大土居は土塁というよりも小規模な城の様に思えた。

8.◆大宰府(福岡市大宰府)
9.◆飯盛城(福岡市西区)・・・・・・・・・・・・1時間30分:2.4km:累計高低差329m
10.◆柑子岳城(福岡市西区)・・・・・・・・・・1時間:1.5km:累計高低差174m
11.◆雷山神籠石+旗振嶺城(糸島市)・・・35分:1.2km:累計高低差62m
12. 小倉山城(糸島市)・・・・・・・・・・・・・・25分:0.5km累計高低差76m
9~12は個別で投稿のつもりです。

PK訪問
・筑紫氏館(福岡県筑紫野市)・・・城跡に神社あり
・中牟田城(福岡県朝倉郡)・・・・・小高い丘の敷地に城跡、住宅地化で消滅
・山家郡屋(福岡県筑紫野市)・・・郡屋などの建物が残るが、そもそも城郭の分類に入るか分からない
・米噛城(福岡県筑紫野市)・・・・・小高い敷地に遺構が有りそうなのだが、自衛隊の敷地内で立入禁止
・浦ノ城(福岡県大宰府市)・・・・・住宅地の一角に公園があり、石碑と説明版がある。遺構は見当たらなかった
・福地城(福岡市西区)・・・・・・・・・住宅地になっている。案内板があるはずのだが見つけられなかった
・◆小田部城(福岡市早良区)・・・城跡に神社が建っている
・臼杵端城(福岡市今津)・・・・・・・小高い丘が城跡、周囲が竹藪となってる
・舞岳城(福岡市糸島市)・・・・・・・公園となっていて遺構は探さなかった
・繋城(福岡市糸島市)・・・・・・・・・跡地は糸島高校、夕方で女子高生がいて、中々写真が撮れない。
・◆波多江城(福岡県糸島市)・・・田んぼの真ん中、堀がある情報だが見当たらない。
◆は城びと登録城です

福岡に限らず平城の多くは壊滅的な状況のようです、稀に住宅地の真ん中に樹木の茂った小山の城跡が有る場合が有りますが、その時は遺構が残っているケースが多いようです。

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侍ホリタン

五大老、宇喜多秀家公の居城を訪ねて (2022/11/28 訪問)

前夜に引き続いての訪問です。「鳥城」と呼ばれている様に黒塗りの外壁が美しいお城です。城内の紅葉も美しかったです。

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