ちょうじゃやまじょう

長者山城

茨城県水戸市

別名 : 長者屋敷
旧国名 : 常陸

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主郭 空堀
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江戸氏と佐竹氏の境目の城 (2025/01/16 訪問)

 JR常磐線 赤塚駅から徒歩40分。JR水戸駅北口7番のりば 渡里ゴルフセンター行のバスで「新谷」のバス停で下車し、徒歩5分。
 一盛長者伝説地の碑から続く砂利道がお城の入口です。最近の城あるあるで、城跡の広範囲に太陽光パネルが設置されていました。砂利道を進むと、西側の太陽光パネルが敷かれたエリアに土塁があるのが見えます。パネル越しだからなのか、かなり高さのある土塁のように感じられました。砂利道の奥まで進んで行くと主郭跡に至ります。現在は民家になっていて主郭跡の内部には入れませんが、民家の手前には、みごとな空堀と土塁が残されていました。
 長者山城は、中世に江戸氏(水戸城主)の家臣 春秋氏が築城したと考えられています。北側には那珂西城(城里町)、戸村城(那珂市)という佐竹氏の城があることから、江戸領と佐竹領との「境目の城」だったと考えられているようです。

 周辺の八幡神社の南側には台渡里官衙遺跡群の説明板が設置されています。説明板によると、この地域は、奈良・平安時代の常陸国那賀郡の中心地で官衙(役所)と台渡里廃寺があったようです。台渡里廃寺は飛鳥時代に建てられた寺院みたいです。歴史の古さに驚きましたが、説明板の地図をよくみると、長者山城の主郭もしれっと載っています。これは長者山城の見学者としては嬉しかったですね!!

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カズサン

那珂川北東に突出た崖城 (2024/06/07 訪問)

 多良埼城跡を終えて西に地道を約14km程の長者山城へ初登城。

 駐車場:無し、一盛長者伝説地石碑の奥の民有地砂利道横に路駐(36°24'38"N 140°26'03"E h=40m)
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 私有地内と言うことで、主郭まで北に伸びてる砂利道範囲内で遺構を観察見学、手前の石碑「一盛長者伝説地」側文も読み撮影、3郭、2郭の南切岸、2郭の西側の土塁跡、主郭の空堀と土塁、此処がよく残って居る、私有地である事、持ち主が現れたら声掛けして見学を頼もうと思っていましたが人影も無く、空堀の奥、土塁の奥には踏み込みませんでした。
 砂利道から西は太陽光発電のパネルが並び金網フェンスで囲まていて入り込めず、西側の点在してる土塁の撮影は金網フェンス越し。

 立地は那珂川に北東突出た丘陵崖に曲輪と堀、土塁で3郭連郭式、西に側郭4の構造の様です。主郭の土塁、堀は良く残って居ます。

 歴史的には石碑側文によると
 長者山は源義家によって滅ぼされたと言う一盛長者伝説地である。後三年の役の前後の豪勢な歓待に富豪の実力を恐れて後日の災いを恐れて滅ばしたとの伝説ですが、実際はどうなのか?義家も奥州の前九年、後三年の役で奥州豪族の実力に恐れていたのでしょう、その直後でしたから関東の豪族に恐れたのかも?

 ただ城郭の土木作業は平安末期ではなく、戦国期江戸氏の頃の遺構だそうです。
 
 良い空堀に土塁を観察見学させて頂きました。
 

 

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todo94

八幡太郎 (2023/12/09 訪問)

水戸城からの転戦です。ソーラーパネルの奥には踏み込みませんでしたが、隣接する林の中に踏み入ってみると、空堀や土塁が見られました。一盛長者伝説地の石碑の側面の説明には愕然としてしまいました。歓待を受けた有力者を危険視して滅ぼしてしまうなんて何たる非道。八幡太郎義家のイメージが地に落ちてしまいました。

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じゅんじん

地方有力者 (2022/01/15 訪問)

太陽光の奥に土塁があります。そして大きな堀も。現在でも城主のご子孫が住まわれております。
歴史は平安時代に源義家が奥州討伐の後に襲撃して討ち取ったのと事。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 常葉義政
築城年 承暦4年(1080)
主な城主 常葉義政(一盛〈一守〉長者)、春秋氏(江戸氏家臣)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 石碑(一盛長者伝説地)
住所 茨城県水戸市渡里町