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イオ

とことん駿府城(天守台発掘調査現場) (2023/08/06 訪問)

(続き)

開場ほどなくして天守台発掘調査現場に入場。発掘調査現場では徳川家康が大御所として改修した慶長期天守台だけでなく、天正期に築かれた天守台のほか、今川期の薬研堀や中国製の磁器などが発掘されており、カラーコーンで各時期の遺構を色分けして表示されています(慶長期は緑、天正期は赤、今川期は黄)。

入場してまず発掘調査現場の広さに驚きましたが、慶長期天守台の巨大さは開いた口が塞がらないレベルで、一辺60m超と知識では知っていても、実際に目の当たりにすると両端が視界に収まりきらず、唖然とさせられました。さすがにこの天守台に直接天守が建っていたわけではなく、多聞櫓で囲んだ中に建てられていたようですが、いずれにせよ大御所の比類なき権勢を実感させられました。天守台を取り巻く本丸堀も深く幅広く、天守台北東部には天守台下御門跡の木橋の痕跡や枡形虎口も確認されています。天守台南部には小天守台が接続し、絵図によれば天守台に続く階段が設けられていたようです。

慶長期天守台の南東部では天正期天守台が重なり合うように確認されています。一辺30m超と慶長期の4分の1の規模ながら、普通に考えれば充分すぎるほどの大きさで、慶長期が規格外すぎるんですよね。慶長期の打込接に対して天正期の石垣は野面積みで積まれており、天守台付近で金箔瓦が多数出土しています。

発掘調査の成果は場内の発掘情報館きゃっしるで紹介されていて、写真や説明パネル、出土した金箔瓦などが展示されています。また、天守台跡を野外展示施設として整備・活用する計画が進められているようなので、完成したらぜひまた訪れたいものです。

…ということで、遠征2日目の予定を変更してまで訪れた天守台発掘調査現場でしたが、この世に二つとない規模の天守台が見られましたので、その甲斐は充分すぎるほどにありました。満足満足。

(最後にもう一回続く)
 

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todo94

淡路国の山城 (2023/10/29 訪問)

炬口城からの転戦です。炬口城もコンパクトな山城でしたが、港に隣接しているので海賊の根城といったテイストでした。ここは本格的な山城です。しかし車であれば、延々と林道を運転しなくてはならないとはいえ、駐車場に乗り付けて簡単に攻城することができます。道路の案内表示もあるので迷うことはないでしょう。土塁、郭、堀切といった土の城のパーツをきっちりと確認することができました。東の丸からの眺望も素晴らしかったです。洲本城に次ぐ淡路のお薦めの城といえそうです。

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小城小次郎

前田利家の生誕地には諸説あるが (2023/04/15 訪問)

前田利家の父・利昌が入って以来、利家系前田家の本拠地であったお城。肝心の利家がどこで生まれたのかには諸説あるものの、利家の嫡男・前田利長が荒子城で生まれたのはほぼ間違いない。それだけでもすごい歴史ではないか。

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しんちゃん

200年間、断層の上にあったプチ陣屋。 (2023/11/12 訪問)

飯島陣屋は天領を治めるために江戸幕府によって作られた出張陣屋で、通常3人程度の人数で運営されていたようです。目の前に断崖が迫っており、その上に住宅地があります。河岸段丘と思われていた時期もあったようですが、今では断層であることがはっきりしており(田切断層というらしい)寛文12年(1672)の創設から江戸時代の終了まで200年ほど断層上にあったようです。江戸末期には天狗党の残党がこの周辺を通過しており、飯島陣屋は門をかたく閉ざして貝殻のようにじっとして天狗党が通過するのをやり過ごしたようです。実質三人では戦闘力は無いに等しいので、それ以外に方法は無かったようです。こんな小さな陣屋ですが明治初期には伊奈県32万石相当を管轄していたようです。

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しんちゃん

主郭西の五連続堀切が見事 (2023/11/11 訪問)

駒場城は阿智公園として整備が進んでいます。今でも多くの工事関係者の方が来ていて木々を伐採しているようです。主郭に立つ大きな松の木も、いずれ伐採されるようで、少し勿体ないようですが痛みが進んでいるようでやむを得ないみたいです。城址まで林道が続いていますが轍の跡がすこし深いので、通常の車であれば底をすってしまいます。四駆車であれば、何の問題も無いと思いますが、できればこちらの方も整備してくれると有り難いです。駐車場から西に向かって進むと東屋のある郭があって、その西に主郭があります。見所はさらに西にあって大小5つの堀切が続いていて、見るものを楽しませてくれます。駐車場の東にも城域があり東の郭には社が奉ってあり、東には堀切が残っています。

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しんちゃん

長岳寺 武田信玄公供養塔(灰塚) (2023/11/11 訪問)

長岳寺は長野県阿知村駒場馬場にある寺で武田信玄公の灰塚供養塔が建ち、武田信玄の最期の地とされています。当時は信玄公は輿に乗って移動していたので体調を崩し(負傷して)死亡が確認されたのがこの周辺とされているようです。長岳寺に秘かに運び込まれ、近くの山中で火葬され、遺灰を納めた供養塔が建立されたとされています。遺灰が収められているのであれば立派な墓とも言えるのではないでしょうか。拝観料を納めれば貴重な仏像や高名な画家の描いた襖絵を拝観することが出来ます。

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しんちゃん

伝説の蛤石が鎮座。目立った遺構は無いが容姿の美しい城。 (2023/11/05 訪問)

古川城は古川氏によって築かれたとされ、一時期三木氏の手にあったようです。三木自綱を討った金森長近によって養子の可重が入りますが、長近が蛤模様の奇妙な石を見て、かつての古川城から名を蛤城(古川城の別名)に改めたとされています。県道471号線を北上して吉城コンボという採石場らしき施設のある道を左折して西側へ登っていくと古川城の登城道の標柱が見えてきます。登城道を進んでいくと出丸らしき郭があり、そこから東側の郭に続く道があるので進むと蛤石のある郭にたどり着きます。かつては野ざらしだったようですが、今では大切に祠のような建物に囲まれています。郭の南東側には内枡形虎口という虎口が残り、かつては石垣で補強されていたようです。主郭へ通じる道の周辺にも石垣の跡があり、主郭周辺の側面全体に石垣の跡らしき石が散らばっています。主郭には土塁が残り、浅いですが周囲には竪堀が残っているようですが、全体的に遺構はあまり残っていません。土塁や堀切は少ないのですが郭や山容が山城らしい美しさを持った城だと感じました。

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刑部

福山城 (2023/10/08 訪問)

やっと来ました福山城、旧幕府軍に数時間でおとされたとは思えない縄張り。しっかり整備された城址です桜の時期に来れたら良かったのですがここまで来るのになかなか時間が取れずやっとここに!感動。
探索の後はやはりグルメ、マグロを食べに!

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いんげん丸虫

大平城 (おおだいら) 岐阜県恵那市 (2023/11/04 訪問)

標高525mの山城です。
岩場を伴った32m x 13mの主郭を中心に
東に2段、西に大きな2段の曲輪があります。
曲輪の段差が10m位ありますね。
しっかりした遺構で見応えがあります。
東の曲輪は杉の丸太で柵のように囲って整備
されてます。戦国当時の状況が想像できて
とても良い整備の方法だと思います。
登城口には看板があり、その付近に路駐も
可能です。

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かつじ

桜の名所 (2019/04/30 訪問)

多くのお城は桜が植えられていますが、ここ五稜郭も桜の名所として知られています。
写真は4年前の4月30日。今年は5月に入る頃には散ってしまったようで、年々、見ごろが早くなっているのかもしれません。
車で行く場合は観光駐車場が便利ですが、桜の時期は早朝に行かないと渋滞します。

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シェル

東京文化財ウィーク2023の一般公開 (2023/11/03 訪問)

西武池袋線 石神井公園駅南口から徒歩20分
(石神井公園内の西側のエリアが石神井城跡のため、公園の中の移動でけっこう時間がかかりました)
三宝寺池にかかる橋を渡ると、正面の階段手前に石神井城の案内板、左手に石神井城址碑があります。
橋の正面の階段を登ると、左側のフェンスの奥に主郭跡があります。
普段は、主郭内は立ち入り禁止ですが、東京文化財ウィーク2023という企画で、期間限定で主郭内に入ることができました。
入口を入ると、すぐ空堀と土塁を見ることができます。
主郭内でも立ち入れるのは一部でしたが、あちこちに遺構の説明や発掘調査の内容が書かれたパネルが展示されていました。また一部ではありましたが、土塁の上を歩くこともできました。

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駿府城

「駿府おさんぽスマホdeスタンプラリー」を開催しています!

スマホ片手に静岡市の家康公ゆかりの場所やお店を巡る「駿府おさんぽスマホdeスタンプラリー」を開催しています。開催期間は2024年1月28日(日)までです。

まずは下記QRコードからエントリー!登録完了するとスタンプラリーに参加できます。

GPSを利用してラリーポイントを訪れると、名所や名店を紹介する音声ガイドが自動で流れます。音声ガイドを最後まで聴くとスタンプが貯まります。集めたスタンプは賞品に応募できます。
詳細は下記チラシをご覧ください。

発掘調査現場内に併設されている「発掘情報館きゃっしる」もラリーポイントになっています。

発掘調査現場の音声ガイドは、きゃっしるに駐在している文化財サポーターが担当しています!
発掘調査の成果や発掘調査現場の見どころなどを紹介していますので、ぜひ発掘調査現場で聴いてみてください!

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トク

79【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (根白坂(1/2) 島津VS豊臣:決戦の地) (2023/11/05 訪問)

高城から念願の根白坂まで歩きます(いざ出陣!)。

高城川(現:小丸川)を渡り坂の入口に着きました。このあたりが高城川合戦の地で、島津の釣り野伏せにあった大友軍の将兵が多く討死した場所です。その供養でしょうか? 無名の塚や神社がありました(写真①②③)。

ここから坂を登ります。意外とトラックが突然来るので、注意して登ります。坂というよりここははっきり言って山ですね。標高差は麓から200m以上はありそうです(写真④)。傾斜も急で結構きついです。当時は今のような舗装された道などないので、昔の人は獣道や崖を鎧を着て槍や鉄砲をかついだまま、よくまあ登ったものだと感心します。

途中で急に開けた場所がありました。ここからさっきまでいた高城が見えました(写真⑤)。わかりにくいと思うので拡大した望遠写真です(写真⑥)。畝状竪堀や温泉館や秀長陣跡も見えました。左には小早川隆景の陣もあり、写真には映っていませんが右側手前には黒田官兵衛や藤堂高虎の陣もありました。総勢8万の軍勢が高城を取り囲んでいる姿は、いったいどんな光景だったのでしょうか? そして義弘には、助けに行こうとしている山田有信が守るあの高城がここから見えたのでしょうか?

そしていよいよ根白坂の頂上へ着きました。ここまで高城から2時間もかかりました(ああ汗が止まらない、登り坂はきつくだんだんと足にくる)。ここには根白坂に関する看板が立っていました(フムフム・・なるほど🤔)。なぜ島津は豊臣に敗れてしまったのでしょうか? ここでヒントが少し見えてきました(写真⑦⑧)。

実際に合戦が行われたのは、ここから反対側の南へ下った場所です。では今から、その理由を探りに、今度は南へ下ります。( (2/2)へ続く)
 

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イオ

とことん駿府城(二ノ丸堀) (2023/08/06 訪問)

(続き)

四足御門を抜けて北に進むと、水堀越しに端正な坤櫓が目に飛び込んできます。いつか再訪するぞ…。中堀にあたる二ノ丸堀はごく一部に改変はあるものの完存していますので、南西隅に設けられた駿府古絵図の石碑を起点として時計回りに堀めぐりスタートです。

病院、税務署、裁判所が建ち並ぶ三ノ丸を堀沿いに北に向かい、西門橋を渡ると清水御門です。往時の木橋や門、枡形石垣は失われていますが、発掘調査地のフェンスに設けられた窓から発掘された石垣を見ることができました。二ノ丸堀北西隅で東に折れると北御門に至ります。門や門内部の枡形は失われているものの、高麗門跡の石垣は遺っています。北東隅で南に折れてしばらく進むと、対岸に二ノ丸水門が見えました。ここから本丸堀まで二ノ丸水路が続いているんですね。

東御門を過ぎ、巽櫓で西に折れたところには府中 弥次喜多像が建てられています。弥次さん喜多さんでお馴染みの「東海道中膝栗毛」の名前くらいは知っていましたが、作者の十返舎一九が駿府の出身(喜多さんは江尻出身の設定)だったとは知りませんでした。二ノ丸堀南辺を西に進み、二之丸橋を過ぎたところに二ノ丸御門跡の説明板があり、対岸の石垣を見てみると、なるほど確かにかつての門をふさいだ痕跡が見られます。そのつもりで見なければ見落としたかもしれませんが、明らかに積まれた石の大きさが違いますね。往時はここに木橋が架かり、昨日見学した枡形へと続いていた、と。

そして坤櫓で二ノ丸堀をひとめぐり。三ノ丸堀に比べて走行距離は3分の2くらいでしょうか。さて、いったん宿に戻ってチェックアウトすると、いよいよ念願の天守台発掘調査現場に向かいます(続く)。

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todo94

洲本市ホームページ (2023/10/29 訪問)

洲本城のほど近くですので一度は攻城を試みたことはあるのですが、果たせずにいました。とある煩悩の登城目録さんの投稿の通り、炬口北交差点の近くの戎神社(事代主神社)から登城できます。洲本市ホームページに炬口城への行き方が載っていました。
https://www.city.sumoto.lg.jp/uploaded/attachment/8815.pdf
洲本市、グッジョブです。登城路の途中、桝形虎口らしき遺構がありました。主郭より、見ごたえあるかも。

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ペドロ

名古屋城外堀を初めて巡りました。 (2023/04/22 訪問)

 天下の名城名古屋城、過去5回ほど訪れましたが、外堀を巡るのは初めてでした。外堀に老木1本を発見、倒れないよう支えられていますが、何故、この木だけが1本残ったのでしょう。理由がありそうで調べてみる価値はありそうです。
外堀からの石垣は天下普請たる威容を誇っており、櫓や塀があった往時の姿が壮観だったろうなと思います。
勿論天守や現存櫓も素晴らしいですが、今回は視線を変えて外から城をクローズアップしてみました。

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chiroru

城主気分で旧城下町を見渡せます (2023/11/12 訪問)

ロープウェイ駅に置いてある「八幡山山頂ガイド」に豊臣秀次公がタイトルコールをしてくださっています。

絵図を片手に、色づく紅葉のトンネルを通ってるみたい。

真近で見る野面積の石垣には、「わー」って声が出てしまうほど、残っていることにお手入れしてくださっている

「八幡山の景観を良くする会」の皆様に感謝です。

西の丸から東側を見れば、安土城や観音寺城も目にすることができて、近江にいるんですって実感しました。

近江ちゃんぽんも旅のお供におすすめです。

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ぴーかる

丹波亀山城 (2023/10/21 訪問)

【亀山城】
<駐車場他>大本みろく会館前駐車場
<交通手段>車

<見所>石垣・堀
<感想>丹波亀山城の築城は1578年に明智光秀によって築城されました。江戸時代には天下普請で藤堂高虎によって大改修を行って五重の層塔型天守が建てられます。明治に新宗教「大本」の指導者が荒廃していた城を購入し整備しますが明治政府から弾圧を受け城跡が爆破されます。現在見られる城跡の石垣は復元された箇所も多いそうです。
 会館内の受付で初穂料300円で城跡内を散策できます。城跡内は非常に美しく整備されており、当時の縄張りの雰囲気を良く感じ取ることが出来ます。大本万祥殿のある曲輪と北古世の曲輪との堀切石垣は美しく復元されており、刻印のある石も見られます。本丸南面の高石垣も見事で上方部は復元されているようですが見応えがあります。本丸南面の空堀は深さがあり、見られる細かい石の石積みは当時のものかとも思われます。1時間程度ゆっくり気持ちよく散策でき記憶に残る城跡でした。市立千代川小学校の校門に現存移築長屋門が残されているのでそこも見に行きました。

<満足度>◆◆◇

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こげら

秋の唐沢山城跡 (2023/11/13 訪問)

藤原秀郷が築いたとの伝承のある唐沢山城跡を訪れました。
秋日和のなか、愛犬とともに城攻めです。
北関東の山並みと関東平野の境にあるこの城は、広大な関東平野が臨める絶妙な場所にあり、関東の山城には珍しく立派な石垣も見ることができました。

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WEST

吉田郡山城探訪 (2023/11/09 訪問)

郡山城を訪問しました。広島からの公共交通機関でのアクセスはバスが便利ですが、最寄りのバス停まで1時間30分程度かかります。
ここは毛利元就の本拠地であり、あの有名な「三矢の訓え」、「百万一心」等の石碑があり、登城途中に見ることができます。
山城ですので、登りは本丸まで30分程度かかりますが、歩行路は整備されており歩き易かった思います。
廃城となったために石垣が破壊されており、バラバラになった石垣を見ると寂しさを感じますね。
郡山城には270もの曲輪があると聞いていましたが、いろいろ回っていると時間があっといまに過ぎてしまいました。日中での帰りのバスは1時間に1本ですので注意が必要です。
行きは気が付きませんでしたが、登城後に帰りのバス停から山を見ると、毛利家の家紋がはっきりと見えます。

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