河和田城は建武3年、大掾氏の家臣・鍛冶貞国によって築かれ、水戸城の支城として機能しました。嘉吉元年(1387)の難題山合戦の際、大掾氏の当主は幼かったため、大きな働きが無く、鎌倉公方の命で合戦で大きな働きのあった江戸道高に河和田城は与えられました。
後に、大掾氏が水戸城を留守にすると、機を伺っていた江戸道房は水戸城を占拠し、河和田城には家臣の春秋氏を入れて防御を固めました。これにより大掾氏は石岡地方の一勢力に衰退しますが、天正18年(1590)佐竹義重・義宣父子による水戸城攻略の際に河和田城も落城し城郭は破壊されました。
城域は広く、天徳寺には立派な土塁や堀跡が残っています。南の中城幼稚園から河和田小学校のあたりが本丸跡で、小学校に城址碑が立ち、道路脇にも大きな堀跡を見ることが出来ます。各所に堀跡や土塁が残っていて、水戸市動物愛護センターの脇にも土塁が残っています。
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