八条原城は南に関川が流れ周囲を山に囲まれた、三つ掛山の山麓に築かれています。幕末の動乱期に広島藩が高間多衛を軍事奉行に任命して築かせた城で、藩士の子弟を以て組織した八旗隊の修練の場所という名目になりますが実情は有事に備えた広島藩の隠し城のようです。
かつては周囲を石垣で囲まれていて東南側に本門を設け兵営舎・炊事場・風呂場・道場などが建て並んでいたようですが今は何も残っていないようです。現状神社の境内になっており東側と北側に土塁が残り、本丸は周囲より微高地にあり、西側の一帯がさらに微妙に高所になっています。かつては城内に米蔵が有り、志和盆地八千石の年貢米が入れられていたそうです。
案内板には軍事奉行は高間多須衛とあり内容は城郭大系と若干異なります。内村越・小原峠・御堂原・榎山峠・湯坂峠・関川口の六か所の関門を設け軍監・木原秀三郎率いる神機隊留守隊が守備し志和盆地を要塞化できるようにしていたようなので、その際には八千石の年貢米が重要な籠城のための兵糧になったと思われます。
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