きふねじょう

木舟城

富山県高岡市

別名 : 木船城、貴船城、貴布禰城
旧国名 : 越中

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駐車場から南方向へ
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カズサン

田圃の中の微高地が城跡 (2024/04/20 訪問)

 切山城を終えて加賀の国から越中の国へ北陸路13番目北東に約18km程の木舟城を初登城。当初は切山城から近い松根城沿い安養寺城、蓮沼城、木舟城と廻る予定でしたが、切山城へ進行中国道304号線途中に国道359号線(富山方向へ抜ける)が今回の能登沖地震災害で通行止の表記を確認し、駐車してる道すがらの車の運転手に聞きますがはっきりしなく、高速北陸道、能登道(金沢森本IC~福岡IC)を利用してまず間違いない木舟城を先に登城する次第と致しました。

 駐車場:木舟城址公園専用駐車場、バスもOK、トイレ有。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 能登道福岡ICを降りたらすぐに木舟城に着きます500~600m程西、専用駐車場利用、田圃の中に微高地として残ってる本丸跡、解説板を見ると南北に湿田沼状の微高地に本丸、北曲輪、南曲輪、東に東曲輪貴布祢神社鎮座の構、周辺の民家も微高地に夫々建ち周りは水田に成っている、湿田沼地に囲まれた要害だった様子が窺えます。
 
 歴史は、平安末期石黒氏が築城と伝わり約400年国人領主として栄えたが上杉氏に服属、越中一向一揆勢力との抗争、織田氏に服属の中、上杉氏に木船城を追われた。その後織田氏の信頼を失い織田氏に滅ぼされた。
 
 その後越中は前田領となり天正13年(1585年)8月前田利家の弟前田秀継が城主として入るが同年11月の天正大地震で木舟城は倒壊し秀継夫婦は落命した。
 天正大地震の災害では飛騨帰雲城の山塊崩落地すべり山津波崩壊が有名で埋蔵金黄金伝説でも有名、此処木舟城も液状化現象、地滑りが発掘調査で確認されています、長浜城山内一豊城主の時代に災害を受け娘が亡くなって居ましたが?中部圏大きな被害だった様で、戦い中の小牧長久手の戦いもこの地震で終焉を迎えた様でした。

 今年の元旦に能登半島沖地震が発生して大きな被害を受け現在も復旧活動が続いており、お見舞い申し上げます。
 
 

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小城小次郎

地震は何もかもを一瞬で奪い去る (2023/04/22 訪問)

帰雲城が一瞬にして伝説の城と化したあの大地震と同じ地震で木舟城の周辺は数mも陥没し、前田利家の弟の命を奪ったばかりでなく城も城下も全てが潰滅したという。地震とはいつの時代にも一瞬で全てを奪い去っていくものなのか。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:木船城 (2022/07/31 訪問)

道坪野城からの転戦です。木船城址公園駐車場(36.688659、136.914034)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、 石黒荘を本拠とした石黒氏が南北朝時代以前に進出して木舟城を築いて居城とし、木舟石黒氏となったと云われています。
本流福光石黒氏が1481年(文明13年)山田川で一向一揆との戦いで滅亡したのに対し、木舟石黒氏は戦国時代まで続き、石黒左近蔵人の時代には一大勢力を築いていました。
1574年(天正2年)上杉謙信に攻め落とされて臣従しましたが、1578年(天正6年)上杉謙信の死去を契機に成綱は上杉家を離反して織田信長方に付きました。
1580年(天正8年)、1581年(天正9年)と二度にわたって一向一揆勢の重要拠点で、当時上杉方だった越中国安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ち、結果焼亡させていますが、その直後に勝興寺の訴えを聞いた上杉景勝配下の吉江宗信によって木舟城は攻め落とされました。
1581年(天正9年)成綱を始めとする石黒一門30人が信長に近江国佐和山城へと呼び出されますが、その意図が彼らの暗殺である事に気づいた一行は逃走を図るも、近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて皆殺しに遭い、豪族としての石黒氏は滅亡しています(成綱の子は後に加賀藩に仕えています)。
1581年(天正9年)木舟城を手に入れた上杉氏は吉江宗信を城将として守らせていましたが、織田方の圧力に抗し切れず吉江宗信は木舟城から海路を使って退去しました。結果木舟城は織田方の手に落ち、佐々成政の支配下に入り、重臣佐々平左衛門が入りました。
1584年(天正12年)佐々軍1万5千名、能登国末森城攻略のため木舟城を出発するも撤退します(末森城の戦い)。
1585年(天正13年)木舟城主佐々平左衛門が越中国守山城主・神保氏張、越中国井波城主・前野勝長と共に、前田方の越中国今石動城を攻めますが、守将の前田秀継、利秀親子によって撃退されました(今石動合戦)。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による越中平定で佐々成政が降伏すると、前田利家の弟前田秀継が入城したが、同年の大地震によって秀継夫妻は没し、子の利秀は翌1586年(天正14年)に今石動城に居城を移し廃城となりました。

水田の中の微高地(土塁?)に芝が植えられ、「木舟城跡」の石碑と標柱、説明板が建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=二塚城に向かいます。

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釜次郎

主郭の一部が残る戦国時代の平城 (2022/04/09 訪問)

国人領主石黒光弘が築城。現地は周囲よりわずかに微高地となっており、主郭の一部が残っています。駐車場も整備されています。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 石黒光弘
築城年 元暦元年(1184)
主な城主 石黒氏、吉江宗信(上杉氏家臣)、佐々平左衛門(佐々氏家臣)、前田秀継(前田氏家臣)
廃城年 天正14年(1586)
遺構 消滅
指定文化財 県史跡(木舟城)
再建造物 石碑、説明板
住所 富山県高岡市福岡町木舟字西堀
問い合わせ先 富山県埋蔵文化財センター
問い合わせ先電話番号 076-434-2814