帰雲城が一瞬にして伝説の城と化したあの大地震と同じ地震で木舟城の周辺は数mも陥没し、前田利家の弟の命を奪ったばかりでなく城も城下も全てが潰滅したという。地震とはいつの時代にも一瞬で全てを奪い去っていくものなのか。
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2024/01/16 22:21
2022/08/31 07:11
2022夏の青春18キップ12日目:木船城 (2022/07/31 訪問)
道坪野城からの転戦です。木船城址公園駐車場(36.688659、136.914034)に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、 石黒荘を本拠とした石黒氏が南北朝時代以前に進出して木舟城を築いて居城とし、木舟石黒氏となったと云われています。
本流福光石黒氏が1481年(文明13年)山田川で一向一揆との戦いで滅亡したのに対し、木舟石黒氏は戦国時代まで続き、石黒左近蔵人の時代には一大勢力を築いていました。
1574年(天正2年)上杉謙信に攻め落とされて臣従しましたが、1578年(天正6年)上杉謙信の死去を契機に成綱は上杉家を離反して織田信長方に付きました。
1580年(天正8年)、1581年(天正9年)と二度にわたって一向一揆勢の重要拠点で、当時上杉方だった越中国安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ち、結果焼亡させていますが、その直後に勝興寺の訴えを聞いた上杉景勝配下の吉江宗信によって木舟城は攻め落とされました。
1581年(天正9年)成綱を始めとする石黒一門30人が信長に近江国佐和山城へと呼び出されますが、その意図が彼らの暗殺である事に気づいた一行は逃走を図るも、近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて皆殺しに遭い、豪族としての石黒氏は滅亡しています(成綱の子は後に加賀藩に仕えています)。
1581年(天正9年)木舟城を手に入れた上杉氏は吉江宗信を城将として守らせていましたが、織田方の圧力に抗し切れず吉江宗信は木舟城から海路を使って退去しました。結果木舟城は織田方の手に落ち、佐々成政の支配下に入り、重臣佐々平左衛門が入りました。
1584年(天正12年)佐々軍1万5千名、能登国末森城攻略のため木舟城を出発するも撤退します(末森城の戦い)。
1585年(天正13年)木舟城主佐々平左衛門が越中国守山城主・神保氏張、越中国井波城主・前野勝長と共に、前田方の越中国今石動城を攻めますが、守将の前田秀継、利秀親子によって撃退されました(今石動合戦)。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による越中平定で佐々成政が降伏すると、前田利家の弟前田秀継が入城したが、同年の大地震によって秀継夫妻は没し、子の利秀は翌1586年(天正14年)に今石動城に居城を移し廃城となりました。
水田の中の微高地(土塁?)に芝が植えられ、「木舟城跡」の石碑と標柱、説明板が建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=二塚城に向かいます。
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2022/04/12 06:23
2021/01/19 07:33
夜の木舟城 (2020/10/10 訪問)
https://youtu.be/zoXGWlWYp18
↑この動画が参考になります。日が落ちて到着したので、辺りは真っ暗。看板を見て帰りました( ^ω^)・・・。
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分類・構造 | 平城 |
---|---|
築城主 | 石黒光弘 |
築城年 | 元暦元年(1184) |
主な城主 | 石黒氏、吉江宗信(上杉氏家臣)、佐々平左衛門(佐々氏家臣)、前田秀継(前田氏家臣) |
廃城年 | 天正14年(1586) |
遺構 | 消滅 |
指定文化財 | 県史跡(木舟城) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 富山県高岡市福岡町木舟字西堀 |
問い合わせ先 | 富山県埋蔵文化財センター |
問い合わせ先電話番号 | 076-434-2814 |