切山城を終えて加賀の国から越中の国へ北陸路13番目北東に約18km程の木舟城を初登城。当初は切山城から近い松根城沿い安養寺城、蓮沼城、木舟城と廻る予定でしたが、切山城へ進行中国道304号線途中に国道359号線(富山方向へ抜ける)が今回の能登沖地震災害で通行止の表記を確認し、駐車してる道すがらの車の運転手に聞きますがはっきりしなく、高速北陸道、能登道(金沢森本IC~福岡IC)を利用してまず間違いない木舟城を先に登城する次第と致しました。
駐車場:木舟城址公園専用駐車場、バスもOK、トイレ有。
参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
能登道福岡ICを降りたらすぐに木舟城に着きます500~600m程西、専用駐車場利用、田圃の中に微高地として残ってる本丸跡、解説板を見ると南北に湿田沼状の微高地に本丸、北曲輪、南曲輪、東に東曲輪貴布祢神社鎮座の構、周辺の民家も微高地に夫々建ち周りは水田に成っている、湿田沼地に囲まれた要害だった様子が窺えます。
歴史は、平安末期石黒氏が築城と伝わり約400年国人領主として栄えたが上杉氏に服属、越中一向一揆勢力との抗争、織田氏に服属の中、上杉氏に木船城を追われた。その後織田氏の信頼を失い織田氏に滅ぼされた。
その後越中は前田領となり天正13年(1585年)8月前田利家の弟前田秀継が城主として入るが同年11月の天正大地震で木舟城は倒壊し秀継夫婦は落命した。
天正大地震の災害では飛騨帰雲城の山塊崩落地すべり山津波崩壊が有名で埋蔵金黄金伝説でも有名、此処木舟城も液状化現象、地滑りが発掘調査で確認されています、長浜城山内一豊城主の時代に災害を受け娘が亡くなって居ましたが?中部圏大きな被害だった様で、戦い中の小牧長久手の戦いもこの地震で終焉を迎えた様でした。
今年の元旦に能登半島沖地震が発生して大きな被害を受け現在も復旧活動が続いており、お見舞い申し上げます。
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