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小城小次郎

見上げたら絶対登りたくなる (2022/06/04 訪問)

尼子十旗に数えられる赤穴氏の拠点であり毛利方の猛攻を受け間近に陣城(武名ヶ平城)を構えられた城であり堀尾氏によって近世城郭に大改造された城であり破城痕を明瞭に残す城でもある。実に贅沢なお城ではないか。

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境目の城 (2022/11/10 訪問)

 飛騨国司姉小路氏の一族、向氏(小鷹利氏)の居城と伝わる城です。城内は比較的整備されていて主要な場所は歩きやすくなっています。ここは詰の城ではなく、2019年主郭部分に屋敷跡の礎石が見つかり、恒常的に城内で生活していたと考えられています。主郭の西面に畝状竪堀群があり見どころだと思いますが、藪になっていました。藪こきなどをして近くに行けば竪堀が数本あることがわかりますが、写真にするとさっぱりわかりません。東側は急峻な崖になっています。飛騨市教育委員会の復元イラストを見ると周囲の尾根等にも城域が広がっていることがわかります。すべてを散策したわけではありませんが、周囲の尾根を歩くと堀切がありました。
 飛騨地方は紅葉の真っ盛りできれいだったのですが、紅葉を愛でるために来たわけではありません。もう少し季節が後の方が遺構は見やすかったのだろうと思いました。
城跡へは車で入口の目安となっている岩まで林道を使って行けますが、途中から未舗装でかなりの悪路です。目印の岩の近くは湿地帯らしく地面が緩くなっていました。

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赤い城

和田城 長野県飯田市 (2022/10/10 訪問)

遠山郷土館や龍淵寺のあたりが城跡ですが遺構はありません。
行くのも不便、当初は行くつもりも無かったのですが郷土館でマンホールカードを配布してるとのことでドライブ。
郷土館や龍淵寺は高台に位置していて城があったことは想像できました。

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朝田 辰兵衛

見どころは空堀。 (2022/11/03 訪問)

天栄村ふるさと文化伝承館から国道294号線にかけて,散策道が整備されております。天栄村ふるさと文化伝承館からは下りとなるため,あらかじめどちらから攻城しようか決めてったほうがいいかも…。ちなみに,天栄村ふるさと文化伝承館は入館無料です。
天栄村ふるさと文化伝承館では,城跡散策目的で来館したことを伝えると,手作り感のある資料をいただけます。
この日は,散策道周辺,本丸,二の丸以外ではシダ類植物が足元を確認できないぐらい生い茂っていたため,不用意に立ち入ることは避けました。

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いんげん丸虫

城峰城 群馬県中之条町 (2022/11/06 訪問)

伝承,資料等不明です。町指定史跡となっています。
1辺に土塁を伴った主郭と120m位離れて小さい堀
切と平場があります。
藪化してますね。
近くの街道から小さな看板が出ていて、それに従え
ば城址看板のところまで車で来れます。

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第10回)高崎山城① (2022/09/24 訪問)

「大友館」からの続きです。

高崎山城は、古くは大友家2代目「大友義詮」により大友館の詰城として高崎山の山頂(標高628mの地)に築かれました。南北朝時代には菊池氏との合戦の舞台となったようです。

戸次川の合戦に敗れ大友館をも追われた宗麟の子「大友義統」は、いったんこの高崎山城へ逃げ込みます。そして、島津勢に囲まれますが、隙を見てさらに北の豊前院内の龍王城へ逃げました。豊前には、毛利輝元・黒田官兵衛を主力とする豊臣軍が南下中との知らせを受け、そこに助けを求めに行ったようです。

私は、高崎山城に登城しようと大分駅からバスに乗り「高崎山(うみたまご前)」のバス停で降りました。しかし垂直のように反り立った山頂を下から見上げて(写真①)、この崖のような急角度の斜面をいったいどこから登るのだろうか?(登れるかな?)と思いつつ案内所の人に聞いてみると、こちら側からは登れません。山の反対側の銭瓶峠(ぜにがめとうげ)に登山口があるので、そこから登って下さいとの事(ガ~ン! 山の反対側ですか?)。そしてそこまではバスはないとの事(さらにショック!! 私は泣く泣くタクシーを利用する事にしました。思わぬ出費 片道3,500円×2 )。

でもせっかくここまで来たので、その前に猿と仲良くなり慣れてから行く事にしました(写真②)。ここは野生の猿が自然と集まる「高崎山自然動物園」と水族館「うみたまご」があります。すごい猿の群れを間近で見る事ができました。私の股の下を平気で行ったり来たりする奴もいました(本当におまえは野生なのか? それとも私はなめられているのだろうか? でも食べ物を見ると人格(ではなく猿格)が変わるので要注意だそうです)。ボス猿は確かに恐いですが、子猿はとても可愛いですね!(写真③-⑦:よし!これで大丈夫!)

次は、銭瓶峠の登山口から高崎山城(山頂)を目指します。
 

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りゅう

城と紅葉 (2022/11/06 訪問)

城と青空と紅葉と良く合います。

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ばばよ

遠目に立派な外観復元RC造の天守 (2022/06/26 訪問)

水堀によく映えます。
昔は諏訪湖がすぐ目の前だったようです。
隅櫓や城壁、城門含めて雰囲気出てます。
RC造・柿葺を模した(Wikipediaによると銅板)瓦の天守は近場で見るともうひといき頑張りが欲しい感じもありますが、外観復元されていますし、内部展示も充実しています。

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カズサン

麓より景観整備した恒屋城が良く見えます (2022/10/24 訪問)

 置塩城跡を終えて北東に播磨山地を越えて恒屋城を目指す、ガイド情報は古城盛衰記さんに依ります。
 駐車場(34°56'37"N 134°43'07"E)は古城盛衰記さん案内の様に登城口前に砂利舗装で10~15台可能、祐光寺横少し北です。
 私は集落に入り道が細く北に曲がる道が不安で県道409号線に出て、県道沿いに在る恒屋公民館の道の前山手に駐車可能エリアが有り此処に駐めて登城口に行きました。
 登城口には害獣除けゲートがりますが開閉して出入り可能。登城口横に縄張図付き解説板、各種資料ペーパーが掲示されてる掲示板が有ります。
 比高150m程であり登城しようかと思って居りましたが昼過ぎから黒い雲が走り始め雨も降って来ましたので、景観整備された本丸後城も遠望良く見えましたので山麓で終えました。

 恒屋城は縄張図付解説板を見て頂くと歴史、構造が良く分かります。

 登城のきっかけは城びとの投稿でぴーかるさん、あさん、の内容から私でも登れそうかな?と行って見たい城に登録して今回になった次第です。
 皆さんの投稿写真を眺めて登城した雰囲気を味わいます。
 

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ばばよ

解説石碑あり (2022/05/29 訪問)

宮城氏館同様、神社内石碑、遺構なし、ターミナル駅からアクセス悪いという城跡ですが、こちらは城跡を明記した石碑あり、また解説もあります。

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ばばよ

神社に石碑 (2022/05/29 訪問)

都内によくある、神社内に石碑のみ。
川の中洲にありますが、昔は氾濫などで川の流れがよく変わったので、遺構がないのはやむなしかと。
ターミナル駅からのアクセスもよくなく、案内板もないので、遠方在住の方には推奨度低めです。

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カズサン

置塩城跡山麓公園より眺める (2022/10/24 訪問)

 感状山城跡の山麓、羅漢の里周りを後にして播磨の山中を東方向に走り置塩城跡を目指す。ガイドは古城盛衰記さんとグーグルマップに依り夢前川沿いにある登城口をナビの目的にする。
 登城口前には道沿い川側に10台程の駐車エリア(34°55'05"N 134°40'38"E)が有りました。
 登城口には置塩城跡の解説板、石碑、看板、標識が設置して有り、資料箱には令和4年第27回置塩城まつりのチラシ10月30日が置いて有りました、置塩城まつりの幟が川沿い通りに多数たなびいて居ました、資料箱には置塩城跡ガイドパンフレットは品切れでした、入手出来ず残念です。
 登城口には害獣除けゲートが有り開閉して登城に成って居ります、しかし山頂、本丸への登城体力気力は有りませんので山麓で赤松氏の山城の雰囲気を味わって帰りました。
 また登城口より奥に約150m行きますと櫃蔵神社がありトイレと路肩に3台位は駐車可、神社の隣奥に置塩城跡山麓公園が駐車場と併設されて広く設置されて居ます、山麓公園より置塩城跡の山容が良く眺められました、しかし閉鎖中、何かイベントがあった時に開放するのでしょうか?
 皆さんの山頂、曲輪、堀切など遺構の投稿写真を眺めて登城気分を味わいたいと思います。
 

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イオ

勝竜寺城公園 (2022/10/02 訪問)

京都盆地の南西端、小畑川と犬川の合流点に築かれた平城で、西国街道と久我畷が交差する交通の要衝に位置します。室町期に陣城として活用されていた勝龍寺を戦国後期に三好氏が恒常的な城郭化し、織田信長の上洛により三好氏が追いやられると、細川藤孝が城主となって現在見られる織豊系城郭に改修しました。藤孝の丹後移封に伴い城代が置かれましたが、本能寺の変により明智光秀の支配下となり、山崎の戦いで光秀が敗走した後は廃城となりました。

本丸と沼田丸は勝竜寺城公園として綺麗に整備されていて、本丸の周囲は水堀と土塁がめぐり、土塁の上には土塀、北東隅には模擬隅櫓が建てられています。南側虎口(南門)から本丸に入ると、正面の模擬櫓(管理棟)2階は歴史ミュージアムとして細川藤孝・忠興、明智光秀・玉を中心とする史料等が展示されていました。忠興と玉は勝龍寺城で新婚時代の数年間を過ごしたことから、本丸には細川忠興・玉(ガラシャ)像が建てられており、「ガラシャおもかげの水」と呼ばれる地下水100%の水道水を飲むことができます。本丸内には4か所の井戸が確認されており、川に囲まれた地だけに水は豊富に得られたようです。
本丸北西部の枡形虎口(北門)には石垣が設けられており、積み直しされているものの下段部分には往時の石垣が遺っています。山崎の戦いの後、勝龍寺城に撤退した光秀は坂本城を目指して北門から落ち延びたと伝わります。北門をはじめとして勝龍寺城の石垣には転用石が多く用いられていて、発掘調査で出土した石造物が北門脇に集めて展示されています。本丸西辺の巨大な土塁上には「殿主」があったと考えられ、建物土台とみられる石垣の基底部も発見されています。かつては南に張り出して南門に横矢が掛かるようになっていたようです。

本丸西隣の沼田丸も公園化されており、井戸跡と駐車場(無料・10台ほど)、広場があります。本丸と沼田丸の間には水堀と帯曲輪があったようですが、現在では堀の名残の水路が見られるくらいです。

勝龍寺城には4年半ほど前に登城していますが、当時は(今も?)お城の見どころがわかってなかったこともあり、枡形虎口や西辺土塁なんて全く記憶に残っておらず、再訪ながら思いのほか新鮮な気持ちで見て回ることができました。勝龍寺城は細川藤孝の改修により周辺の集落を含む惣構となっていますので、今回は勝竜寺城公園だけでなく惣構内もめぐってみるとしましょう(続く)。
 

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にのまる

足柄神社から狩川を超えたところの小山 (2022/10/23 訪問)

足柄城からの帰り、「柄沢」バス停で下車しました。地蔵堂~関本(大雄山駅)間は本数があるので途中下車しても大丈夫です。
丸山城は林道に囲まれた小山で、林道をグーグルマップの登城口ポイントあたりまで行ってみましたが登り口も見当たりませんでしたし興味だけで踏み込んでいいところとも思えませんでしたのでそこまでとしました。
踏み込めなかった代わりに遠景を撮ろうとよさげな場所を探していたら狩川沿いにベンチがありました。あたりはのどかな里山で、ここからの眺めがほんとうにすてきでした。石垣や堀跡、土塁などのパーツもいいけれどこうやって少し離れたところで眺めながら想像するのもよいなと思いました。

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赤い城

本丸跡には長姫神社 (2022/10/10 訪問)

東濃の城を廻り力尽きたこともあり、飯田市に宿泊。
ホテルから徒歩で数分のところにあったので早朝に訪問。
まずは水の手御門跡の石垣を見学しました。
結局ここが見どころだったと思いました。
二の丸は整備されていて美術館が建っていました。
橋を渡った先の本丸跡には長姫神社が建っています。
小笠原氏庶流の坂西氏が築城したとされます。
戦国時代には武田氏、織田氏が支配、その後幕末まで存続した城です。
この時期、近くでは松茸シーズン。
物色しましたが手は出ませんでした。

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カズサン

登城口麓を訪ねる (2022/10/24 訪問)

 赤穂城初二之丸庭園鑑賞を終えて播磨の有名な山城「感状山城」を目指す、ガイドは古城盛衰記さんに依り県道44号線を北上し羅漢の里を目指して道沿い川沿いの第一駐車場(34°52'33"N 134°26'46"E)を利用、30台位は可能。
 感状山城山頂まで登る体力気力は無くせめて麓位でも訪ねて赤松氏の感状山城の雰囲気でも感じたいと訪ねました。
 第一駐車場から約100m程進むと、羅漢の里石窯パン工房が有り、前には感状山城案内所しかし月曜日でお休みの様、パンフレット、ガイドマップをゲットしたかったのですが残念です。鍛冶屋川に架かる橋に感状山城跡登山口の案内指示板が有る、また桔梗隼光鍛刀場の案内板も掛かってる、橋を渡り登山口に石柱が左右に建ち、門と成って居る、周囲に感状山城登城ルートが載ってる羅漢渓谷マップ案内板も有る。
 深山幽谷の感状山城麓を堪能しました、素晴らしい渓谷です。
 
 山頂、各曲輪、石垣などは皆さんの投稿写真を眺めて体験を共有したいと思いますのでどうぞよろしくお願いいたします。

 
 

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いんげん丸虫

高野平城 群馬県東吾妻町 (こうやひら) (2022/11/06 訪問)

標高737m、岩櫃城の2.5km北にあり、その砦と伝
わっています。
主に3つの平場に2つの堀切が確認できます。
南の麓にほとんど通行量のない林道があり、そこに
駐車して登城出来ます。藪漕ぎはありません。
雰囲気の良い場所でした。

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第9回)大友館 (2022/09/23 訪問)

(鶴賀城②(戸次川の戦い)からの続きです)

大友館は、源頼朝から豊後の守護を命じられ鎌倉から移り住んだ(初代)大友能直が居としたのが始まりで、典型的な守護館(方形居館)です。それから約400年間大友氏の居館となり、「(21代)大友宗麟」(写真①)と子の「(22代」大友義統」の時に最盛期を迎え、府内も堺や博多と並ぶほどの貿易都市になったといわれています。館もこの時に最大規模になったようで、発掘調査では多くの南蛮の壺や皿などが発見されています。また、館の一角には大友氏の菩提寺である萬寿寺がありましたが、島津との戦いで焼失したため江戸初期の1631年に北へ500mの現在の地に再建されました。再建当時の山門も現存しています。(写真⑥⑦)

大友館では発掘調査の後、2030年までに宗麟時代の館を再現し歴史公園として整備する計画になっています(今からとても楽しみです)(写真③)。遺跡内には、「南蛮BVNGO交流館」(写真②)があり、ここで大友氏の歴史とかつての館の様子などが紹介されていました。

戸次川の戦いで大友・四国連合軍を破った島津家久は、この大友館に迫り館と府内の街に火をかけました。もはや圧倒的な不利な状況であったため、大友義統はさらに高崎山城に逃げ、仙石久秀と長宗我部元親は船で四国に逃げ帰り、ほぼ戦わずして島津家久は大友館と府内の街を制圧する事ができました。


【余談】また私事ですいませんが・・・
実は、この萬寿寺は私の家の菩提寺でもあり、今回は父の命日だった事もあり墓参りも兼ねて訪れました。そしてこの大友館跡は、写真④の看板から左奥は、私が幼いころは祖父の土地(田)であった記憶があります。その後たぶん叔父が相続して売却され、どう回り回って国の土地になったのか、50年も前の事なので私にはわかりませんが、それからここ最近になって大友館の全容が明らかになり、祖父の土地がそのような歴史的な場所の一部だったことを初めて知った次第です。この近くには、私の実家だった場所や、私の出身の小学校・中学校・高校があり、小さい頃よく遊んだりした場所なので、何かとても懐かしく感じました。その話を「南蛮BVNGO交流館」の方々と話していたら、とても盛り上がって話が尽きなくなってしまいました。(でも私は大友氏の末裔ではありませんよ!(笑))。

次は「高崎山城」を目指します。
 

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イオ

恵解山古墳(京都府長岡京市勝竜寺) (2022/10/02 訪問)

恵解山古墳(いげのやまこふん・城びと未登録)は古墳中期に築かれた乙訓地域最大の前方後円墳で、山崎の戦いにおいて明智光秀が本陣として改修したとされ、発掘調査により西側の数か所で堀が検出し、西側くびれ部分からは火縄銃の銃弾が出土していますが、戦国後期に勝龍寺城に籠った松永久秀方を三好三人衆方が攻囲した際のものなどとも考えられるようです。

恵解山古墳の後円部は墓地となっていて墓参者以外の立ち入りが制限されていますが、前方部と周濠は公園として綺麗に整備され、前方部には葺石が、墳丘平坦面や西造り出しには埴輪列が復元されています。陣城としての遺構は(地表面には)見られませんが、三段の墳丘を周濠で囲んだ地域最大の古墳は陣城として好適地でしょうし、墳丘頂部には山崎の戦いの陣が置かれた可能性について記載された説明板が建てられています。

なお、恵解山古墳から南に徒歩8分、サントリー京都ビール工場南東隣の境野一号墳も光秀の本陣とされ、石碑と説明板が建てられています。恵解山古墳のようにわかりやすく整備はされていませんが、説明板によれば境野一号墳も古墳前期の前方後円墳で、発掘調査では堀と火縄銃の銃弾が発見されており、地形的にも本陣にうってつけの地と考えられるとのことで、どちらが光秀の本陣かはともかくも、いずれも山崎の戦いで陣城として活用されたものと思われます。
 

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ニコ・ロビン

スンプー( ・᷄ㅂ・᷅ ) (2018/03/18 訪問)

大御所の城( ・᷄ㅂ・᷅ )スンプー!
行った時は、天守台発掘調査中で、その中は入れず。
でも、家康の石垣だけじゃなく、秀吉時代の石垣とか瓦とかも出てきてんだよねー。凄い話( ・᷄ㅂ・᷅ )!
スンプ城は時代的にも、時代も安定してて江戸初期で再興する必要もないからなぁ。
でもあんなに平らなとこで発掘調査やってて、水害が起きたら水没して、グチャグチャにならないのかな?

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