春もうららな行楽日和の日曜日、中央線と青梅線を乗り継いで奥多摩へ出かけました。
山小屋風の駅舎がとても素敵なJR奥多摩駅は東京都最西端の駅です。
駅前の観光案内所で散策マップを数種類いただき西東京バスに乗り込みます。臨時便も出るほどの混雑ぶりでしたが奥多摩の大自然に吸い込まれるようにみなさん下車していかれました。ハイキングコースや観光スポットが沿線にはいくつもあるようです。
車窓を彩る雄大な自然や奥多摩湖を眺めながら約30分間のバス旅を楽しみ、奥多摩駅から36駅目の「留浦(とずら)」停留所で下車しました。
「留浦」は東京都最西端のバス停です。終点ではないので次のバス停は山梨県。県境越えのバスなんて太川さん大喜びしそう(*^▽^*)
ここまで来たらもちろん歩いて“ぴょ~ん”と都県境越えをしたいところですが、その前に湖畔に下りてみました。「秩父多摩甲斐国立公園」の構成要素である奥多摩湖は正式名称を小河内貯水池という戦前から戦後にかけて造られた人造湖です。
お目当てのひとつだった留浦浮橋(麦山浮橋も)は水位低下のため通行止めで橋も外されていましたが、周辺には渇水によって湖底から姿を現したか上流から流れついたかと思われる年代物の“ママレモン”の容器や動物の頭骨(熊かも?)など、人々の暮らしや自然界の生き物たちの痕跡が見られました。
いつか水位が戻ったら浮橋を渡りにまた来ることとし、鴨沢橋を渡って山梨県丹波山村にぴょ~んと入りました。城びとらしく言うと甲武国境越えです。青梅街道が塩山や甲府まで通じていますが、境目に立つとなかなかディープな場所に来たものだと感慨深かったです。
ここからが本題なのですが、国境における戦国時代末期の甲州側の守将は小菅の川久保に館をもつ武田氏の家臣小菅遠江守信景、武州側は小河内の川野に館を構える杉田入道重長とその一党で、表題の【杉田屋敷】は杉田入道重長の屋敷跡のことのようです。城びとには未登録ですが、“ニッポン城めぐり”に登録されていたので今回レポートさせていただきました。しかし、屋敷跡と推定される場所は奥多摩湖の湖底。ダム建設の際に小河内村と共に沈んでしまっています。
※帰りに寄った「水と緑のふれあい館」に戦国期の資料や解説、中世文書の展示があり、私の乏しい知識を補ってくれました。
街道沿いの雲取山登山口に向かうあたり(山梨県)でお食事できるところをさがしたのですがあいにく開いていなかったので、東京都に戻って深山橋の手打ち蕎麦「陣屋」さんへ行きました。いただいたのは「そば定食(ご飯なし)」。この素朴さが最高の贅沢なんだなーと思いながらおいしくいただきました。
その後再びバスに乗って、小河内ダムの見学に行きました。
どこを切り取っても美しい、いつまでも見ていたい(でも夜は怖いかな)景色が目の前に広がります。都心の桜は既に見頃を過ぎていましたがここでは山桜がまだ山々を彩っています。都会のアスファルトに散る花びらには花のいのちの儚さを思いますが、風に吹かれ空を舞う花びらに寂しさなどは少しもありませんでした。
今でも鮮やかにそれらの景色が目に浮かんでくるのですが、合わせて読んだ『日蔭の村』(石川達三著)を思い返すと、山の中腹に立つ民家はダム建設にあたって高台に移転を余儀なくされた人たちの家なのかもしれませんし、観光客としての視点では見えてこない歴史があることを思います。
ダムに沈んだ村のこと、家や仕事や将来の希望も失った人のこと、建設工事で命を落とした人たちのことも記憶していたいと思いました。
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