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しんちゃん

佐久間盛重以下、全員討死 (2024/03/30 訪問)

丸根砦は大高城が今川方の手に落ちた後、織田信長によって永禄2年(1559)に築かれました。鳴海から延びる丘陵の先端部に築かれており、桶狭間の戦いの時には佐久間盛重が守将を務めていました。その際に松平元康率いる今川軍に攻められ全滅したそうです。
佐久間盛重は佐久間信盛と同族で、もともとは信長の弟・織田信行に仕えていましたが、信長と信行が対立した際に信長に味方し、名塚砦に入って稲生の戦いで信行方の橋本十蔵を討ち取ったとのことです。

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にのまる

府中競馬場日本庭園に移築石を見に行きました。

いつでも行けると思いきや、馬券を販売している土日しか日本庭園にも入れないようなので、電話で確認してから行きました。

競馬場に入ったのは初めてです。馬🏇目的で行くことは今後もないと思いますが、お散歩する分にはきれいで広々、ゆったりした環境でした。

『江戸城の石』はパドックのちょうど裏側あたりにありました。
最初に目に入ったのは石灯籠です。四代家綱公の供養のために諸大名から上野寛永寺に寄進されたものが当地に譲渡されたのだそうです。
ここから二段に積まれた石垣がスタートします。かなりの長さがあり、見ごたえも充分です。
馬事公苑(世田谷区)の移築石と同じく、昭和40年に日本中央競馬会本部ビル工事の際に発見された江戸城外郭(虎の門の東)の石で、矢穴や刻印石もたくさんです。外堀時代とは配列も違うでしょうから、これらの刻印や矢穴を見せてくれるように築いたのだろうなと思うとまさに江戸城の石垣展示場、眼福でした。

ただ、説明板には〈臼杵城主稲葉一通〉〈延岡城主有馬直純〉〈佐伯城主毛利髙直〉の記号があると書かれていたのですが、毛利氏の矢筈は、絶対これだと確信が持てるものは見つけられませんでした。

最寄駅は京王線の「府中競馬正門前」ですが、「東府中」や「府中」からも徒歩圏です。府中市のコミュニティバス「ちゅうバス」を使うと<調布飛行場のお台場の石>と容易にセット訪問できます。
帰りはJR線の「府中本町」を利用しました。“フジビューウォーク”を通るので富士山を眺められるかと期待したのですが曇天のせいか黄砂のせいか、残念ながら心の目を持ってしても見ることはできませんでした(>_<)


…かるた新情報がΣ੧(❛□❛✿)

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海賊の城 (2024/03/30 訪問)

呉市の大和ミュージアム、鉄のクジラ館を訪問するのに合わせて、城跡をものいろ👀 倉橋島の丸子山城が城びとに登録されてました。下調べすると、大薮とあるのと整備されているとあるのと。
実態は、昭和63年に県指定遺跡になって整備されたあと、激しく薮化しておりました。イバラ、つるも繁茂しているので手強いです。藪を越えても本丸はフェンスに囲われています。本丸進入は断念。
本丸の北〜西を中心に低い石垣が多段に巡ります。本丸背後の尾根を掘り切っています。
城びと先達が、入口が分かりにくい、とレポートされていてので、城に近づいたと思われた辺りのお宅で道を尋ねました。今回は、google mapが良い線をいってました。
「火山から派生した尾根の先端に築城されている」と紹介する記事あり、はてな?でしたが、「火山(ひやま)」であり、山頂が花崗岩の巨石の特徴的な山でした。海からの目印にも良いかも。
城主の多賀谷氏は、伊予から進出した(細川氏に追われたとも)水軍(海賊)。丸子山は海に近い標高50mの丘城です。倉橋島は、潮待ち港、また遣唐使船を作った場所だということで、海路の重要ポイントだったようです。

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イタさん

大倉砦 山梨県上野原市 (2024/04/02 訪問)

要害山と呼ばれる大倉砦跡。山頂の案内板に詳細は載っていない。甲斐・相模・武蔵の国境の砦とされ、地域最大の規模を誇る史跡で戦国時代末期の築城と推測、と記載がある。

ハイキングコースになっている要害山東の大曽根地区から。鶴川に架かる鏡渡橋(キョウドバシ)辺りからは三角錐に見える。幅狭な生活道路の終点に山神社が建つ。社殿裏からが山道になり登りがきつくなる。山頂手前から遺構が現れる。幾つかの堀跡はかなり浅くなっている。土塁は主郭の土塁と、最西の土塁が分かる高さで残る。

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イタさん

中央高速と住宅地に変貌 (2024/04/02 訪問)

ハイキング帰りの途中に上野原城跡に寄ってみました。諸先人方の内容から遺構の無いのは承知だったが、本当に見当たらなかった。かろうじて神社境内に案内があるので分かる。図では距離感が掴めなかったですが、東側に整地し建てたと思うが、一段低くスーパーがあり、その東側と奥は一段高くなり台地に見え、境辺りは当時の谷だったのかと勝手に想像しました。

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トク

「福岡城さくらまつり」と「幻の天守閣」 (2024/04/02 訪問)

「福岡城さくらまつり」が開催されている、満開の桜咲く福岡城を訪れてきました。1月に梅の花が例年より2週間早く咲いたので、このまま行くと桜もどうなるか心配でしたが、結局は私の心配をよそに、昨年より1週間程遅い開花となってしまいました。

私の好きな散策スポット、下之橋御門と伝潮見櫓(写真①⑥)の登城口から入り、大天守台の西側には現存する多聞櫓(写真②)、その周辺には黒田長政公が築いた野面積の石垣が今でも数多く残り、その石垣と桜とのコントラスト(写真③④⑤)を楽しみながら散策しました。

期間中、大天守台の上に夜間限定で「幻の天守閣」をLEDでライトアップして浮かび上がらせるというイベントが開催されています(写真⑦⑧⑨)。この日は平日にもかかわらず、大変多くの方々がこのイベントを訪れていました。見た目は日本人っぽい外国人の方々がとても多く、聞こえてくるのは韓国語や中国語ばかり。ここはいったいどこの国?といった感じでした。福岡は外国人観光客が今とても多いです。

そのせいか、このイベントを機に、また福岡城天守論争が再熱しています。インバウンド観光の目玉として一日でも早く模擬天守または復元的天守という形で天守を建てたいという福岡市と、天守が確かにあった事を示す明確な根拠となる資料とそれに基づく忠実な再現整備計画がない限り認めないという文化庁。「福岡市VS文化庁」の熱いバトルがいよいよ本格的に始まりそうです。しかし現時点では両者の隔たりがあまりにも大きく、簡単に決着がつきそうな気配は全くありません。今後どのような展開になって行くのか、注目しながらこの行方を見守って行きたいと思います。 地元新聞にも詳しく取り上げられた記事があるので、興味のある方は読まれて下さい(写真⑩)。
 

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天守無しがアツい

今は旧城寺 (2024/04/02 訪問)

(URL)https://kojodan.jp/castle/1242/#section-access-info

榎下城(えのしたじょう)…横浜市緑区にあった丘城。恩田川の南の舌状台地上に位置する。現在は旧城寺の境内で本堂裏手の高まりを本丸とし、南側の虎口の土塁と東側・西側にそれぞれ空堀跡を残す。近世の軍記物などでは上杉憲直を武州榎下城主と記し、憲直は永享十年(一四三八)の永享の乱で鎌倉公方足利持氏に味方して称名寺(金沢区)で自害したという。戦国期には北条氏家臣の山田右京進が居城したと伝わるが詳細は不明である

横浜市歴史博物館のミュージアムショップに、(榎下城など)数ヶ所の横浜市内にある城跡の御城印が販売されており、その全てを購入。それから一ヶ所ずつ…その城跡を巡ることにしました(^∇^)

中山駅から15-20分ほど歩いて、細い藪の道を抜けると城内…というか境内へ。そう…ここは城跡と言っても現在はお寺なのです。旧城寺という場所…どうやら私は反対側から来てしまったようで、入口としての役割を果たしてる門(1枚目)まで回り、まずそこを撮影してからお地蔵さんに参拝

2枚目がここの案内板…上記の城に関する説明文は、御城印に同封されてる説明書に書いてありそれを見ながら入力したのですが、それとほぼ同じ内容が画像右の黄色いプレートにも書かれてます。

本堂裏の小高い丘が土塁の跡…空堀も少し残ってるとも書かれていた気がしますが(ソースは他の案内板もしくはURL)、見た目における城の痕跡を示すのは、この案内板なだけがします

3枚目は本堂の裏手にある記念碑。辺りは墓地となっており、その左側にある階段を上った先にあります。城が機能していた頃(室町時代)ではなく、昭和に建てられたもの…だそうです

この近くには弓道場もあり、そこを少しチラ見してみたら…何と人がいて…しかも稽古中でした…🎯 お疲れ様です(^∇^)

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todo94

京阪の城めぐり⑤ (2024/02/24 訪問)

普門寺城からの転戦です。イオさんが訪れた時には山門が閉ざされていたとのことですが、私は山門の修復工事にあたってしまいました。駐車場の脇から写真撮影をさせていただきました。

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しんちゃん

実は歴戦の城。 昭和が懐かしい‥ (2024/03/30 訪問)

竹ヶ鼻城は応仁年間(1467~1469)の築城とされています。小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉の水攻めにより開城したとされています。当時の城主は不破広綱とされています。関ヶ原の合戦では織田秀信の重臣・杉浦重勝が城主を務め8月22日に東軍に包囲され降伏を勧められるも拒否し、大身槍を奮って奮闘し城に火を放って自害したと有ります。翌日には岐阜城は陥落し、織田信秀は高野山に送られた後、慶長10年5月27日(1605.7.13)に高野山から下山させられ山麓にて死去と伝わります。享年は25とされ自害とも伝わっています。怪しすぎますね。
本丸と二の丸の中間あたりに城郭風の歴史民俗資料館及び映画資料館が立っています。定期的に昭和の名作映画を上映しているようです。入館料は300円くらいなので格安です。メチャうらやましい‥。昭和の時代はメチャクチャでしたが、歪んだ綺麗ごとをむりやり押し付けられる今の時代は正直息苦しくてたまりません。たまらなく昭和の時代が懐かしくなったりするのも齢をとってきたせいなのでしょうか。多少理不尽であろうと範を通そうとするものがいなくなってしまったのは残念ではあります。

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しんちゃん

名古屋藩といわれたこともありました。(尾張藩) (2024/03/30 訪問)

八神城は毛利氏の城とされています。現在は土塁の一部とされているものが残り、城址碑が立っています。真福寺には八神城の城門が移築されています。毛利氏は土岐氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏と仕え江戸時代には尾張徳川家に仕えていたようです。案内板には名古屋藩と書かれています。まあ、そんなに間違っても無いですね。今でも名古屋県とか言われますからね。

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ぴーかる

直鳥城 (2024/02/11 訪問)

【直鳥城】
<駐車場他>直鳥クリーク公園駐車場
<交通手段>車

<見所>水濠
<感想>1泊2日久留米・佐賀の旅6城目。現地説明板によると、この地は弥生時代から人々が定住を始め、中世には現在に近い形の集落が形成されていたそうです。直鳥城は永正年間(1504~1520年)に犬塚家久によって築城され、要塞化された環濠集落として発展していったそうです。犬塚氏は当初大友氏に味方します。3代目城主犬塚鎮家は鎌田江城に居住し龍造寺氏を攻めますが、逆に1571年、龍造寺隆信に鎌田江城を攻め取られ逃げ落ち、直鳥城は打ち捨てられたようです。
 城跡の主要部中心地は広い曲輪になっていて現在は貸畑地になっています。畑地以外の曲輪跡は藪化している所が多く、現地説明板には竹藪化している場所には土塁が残っているそうですが、濠を隔てては見えません。奈良県の環濠集落は見ましたが、中世平城でこれ程水濠と曲輪が明瞭に残っている遺構は初めて見るし、初めて見るこれまでと違った城郭構造に興奮しました。いびつな形がまたいい感じ。水壕と藪化した場所は現在は水鳥たちの楽園になっています。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

多くの将兵が討死。 (2024/03/30 訪問)

加賀野井城は田んぼの端っこに、ぽつんと標柱と案内板が立っています。下の土盛りは土塁の跡でしょうか?
案内板によると、天正年間(1573~1591)には加賀野井弥八郎秀望が織田信雄の臣下となり、四百十五貫文(1万石)を領して城主となったそうです。小牧・長久手の戦いの後、天正13年5月豊臣十万の大軍の攻撃を受けたそうです。織田信雄の援軍2千も一緒に籠城しましたが、防ぎきれず講和を申し入れるも受け入れてもらえなかったので、5日に夜陰に乗じて大手より打って出るも、多くの城兵が討死し城主秀望は関東に逃れ落城したとのことです。
この場合城主が切腹を申し入れれば降伏は受け入れてもらえたかもしれませんが、自分がやれと言われると、なんとも言えませんな。やだやだ。

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しんちゃん

南北朝のころの城 (2024/03/30 訪問)

日比津城は南北朝の時代に築かれたとされ、大円寺北隣一帯が城址とされています。小ぶりだが堅固な城で、堀は水で満たされ、正門と裏門の橋の橋板はいつでも取り外せるようになっていたそうです。城主は野尻氏で境内に残る二つの石塔の左の五輪塔地輪には「貞治4年(1365)」「三月十八日」、右の宝篋印塔の基部には「為道誓禅門」「一周忌故也」「応永十七年(1410)二月十二日」と刻まれているそうです。中央に立つ石碑には「日比津城主碑誌」の文字がはっきりと刻まれています。

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しんちゃん

城主・簗田政綱は桶狭間合戦で活躍。 (2024/03/30 訪問)

九之坪城は「ふれあいの家」の周辺に築かれていたようで、駐車場に立派な城址碑が立っています。尾張国守護斯波氏の家臣・簗田政綱は斯波氏の衰退後は織田信長に仕え、九之坪城を与えられたと案内板には書かれています。
桶狭間の戦いでは大きな功績を挙げ、「太閤記」には、この合戦の功で三千貫の知行と沓掛城を与えられたとされているようです。それ以外の合戦でどれだけの功績を挙げたのかはわかっていません。

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POYO58

アングルベストは?

犬山城はどのアングルが1番いいのでしょうか?
まず犬山橋から撮るとなると伊木山をセットに撮ることができ、綺麗な写真が撮れます。ただ欠点としては犬山城から少し離れるのでドアップしないと天守が小さくなってしまいます。
次に木曽川から。これは遊覧船に乗れば撮れます。木曽川から撮ると結構綺麗ですよ。多分これがベストアングルだと思うのですが、お金がかかりますね。
最後に岐阜県側から撮ると、これも結構綺麗に撮れます。春には桜と一緒に撮ることもできます。

アングルはこんな感じです。よかったら参考にしてください…

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todo94

京阪の城めぐり④ (2024/02/24 訪問)

寺戸城からの転戦です。今回の京阪の城めぐりにおけるメインターゲットの城です。前もって普門寺に拝観予約の電話を入れておきました。拝観料は500円です。1時間20分に及ぶ長いお話を拝聴させていただきました。等持院に足利義栄の木像がないこと、徳島で見たことなど話をしてしまって話が弾んだせいかもしれませんが、大変勉強になりました。

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赤い城

時の流れは・・・ (2024/03/24 訪問)

国道2号線沿い、姫路市東出張所周辺が城趾です。
播磨三大城の一つですが遺構はほぼなくなっています。
大河ドラマ軍師官兵衛では初期の舞台でしたね。
その名残の顔出しパネルは半分消失、ボロボロに。
時の流れは時に残酷です。

本丸には天守風の公会堂が建っている他、黒田家の墓所や石碑があります。

向かいのグラウンドが二の丸、その間の道路が堀跡のようです。
北側の天川橋がかかる下の窪みが僅かに遺構として残っています。

公会堂は地域のイベント会場になっているようでこの日は親子連れも多く見られました。
遺構は少なくても地域に密着した良い城かと思います。

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ぴーかる

蓮池城 (2024/02/11 訪問)

【蓮池城】
<駐車場他>蓮池公園駐車場20台分程あり。
<交通手段>車

<感想>1泊2日久留米・佐賀の旅5城目。蓮池城は応永年間(1394~1428年)に小田直光によって築かれたとされたとされます。戦国時代後期に小田氏は龍造寺氏に臣従し、近世は鍋島氏佐賀藩の支藩として分地され蓮池藩5万2千石、陣屋が設けられます。
 城跡は佐賀江川の北側にあり、方形の堀跡が残ります。城跡にあった蓮池神社も老朽化してなくなっています。陣屋跡は川の南側にあるようで、現在は公園化されています。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

鞍掛合戦古戦場 (2024/01/01 訪問)

鞍掛山城は鞍掛山(240m)の山頂部に本丸が築かれ、そこから北に降っていった先に二の丸があり古戦場址の石碑が建っています。さらにそこから北にのびる尾根上に三の丸が配されているようです。弘治元年(1555)厳島の合戦で陶晴賢を滅ぼした毛利元就が防長二国に侵攻した際に最初の合戦場になったとされています。
大内氏の奉行三家老の一人で玖珂盆地の領主であった治部大輔杉隆泰は2600の兵を率いて毛利軍7000を迎え撃ちましたが、将兵1370とともに討死し落城したそうです。城の近くまで車道が通じていて駐車場にトイレも整備されています。ありがたいですね。

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しんちゃん

神社の方が城址っぽい。 (2024/01/03 訪問)

枝ノ城は枝宮八幡神社の東約100mの位置に築かれていました。神社の宮司・森脇氏に関わる城とされています。丘陵の上に築かれ、背後を堀切で区切り、頂部を一辺20mの方形と15m×6mの三角形の郭に分けているようです。南方約10m下方の□40mの郭も城址になるようです。枝宮八幡神社には森脇氏の主筋にあたる吉川元春公の坐像が据えられています。
最初、どこにあるのかわからず地元の人に聞いてようやくわかりました。

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