岐阜恵那城巡り 明知城→岩村城
高取城・備中松山城に並ぶ、日本三大山城の一つで、
標高717mと、日本一高い場所に築かれた岩村城に行ってきました‼
《遠山時代》
全国山城サミットの時に登城したこの城は、
源頼朝が守護・地頭を設置した1185年に頼朝により地頭として、
加藤景廉が岩村に来て、その息子の景朝が1221年(承久3年)に岩村城を築城しました。
そして、その景朝が「遠山」を名乗り、以後岩村は遠山氏が
1221年~1572年(1571年とも)の351年間、岩村を治めることになったのです。
さらに、1570年の武田軍の信濃伊那群代秋山虎繁が東美濃に侵攻した際も
最初は上村での戦に負けるも、織田家武将・明智光廉が小田子で撃退した。
しかし1572年に遠山景任が死去すると、景任の妻で織田信長の叔母である
おつやの方に関係があるのか、織田信長の5男の御坊丸(後の織田源三郎信房)を養子にとり、
幼少である御坊丸のかわり、おつやの方が政治を行うこととなる。(女城主・おつやの方の始まり)
《武田時代》
しかし、1572年10月 武田信玄による西方侵略作戦により、
岩村城は、また秋山虎繁に攻められ、包囲され、織田軍の援軍が間に合わず、
おつやの方と秋山虎繁との結婚する条件で降伏した。
そして1573年2月末、秋山虎繁とおつやの方は結婚したこれにより、岩村城は武田氏の手に回った。
そして御坊丸は甲府におくられた。
しかしそのすぐ後に、織田信長が1万人の軍勢を率いて岩村城周辺に布陣する。
そして3月15日、馬場信春が800人で織田勢を攻め、後退した織田勢を岡部正綱他110騎の中の
若者30騎が追いかけ足軽雑兵27人をうち取った。そして岩村城は落城し信長配下の武者35騎がうち取られた
その後は武田氏が支配していたが、1575年長篠の戦いで武田軍の配下が次々と討ち死にし、武田軍が弱体化すると、
信長は嫡男・信忠に総攻撃を命じ、5ヶ月の籠城戦のすえ、武田勝頼の後詰めがこず、
落城し秋山虎繁の助命を条件に降伏。しかし秋山虎繁夫妻ら5人は逆磔(さかさはりつけ)となり、処刑された。
そして岩村城は織田信長の手に渡った。
《織田時代》
岩村城が織田の手にわたると、河尻秀隆が城主となり、岩村城の工事を開始し、今の岩村城に近い形へと作り直される。
そして1582年2月に甲州征伐が始まると、織田信長は、
信濃に近いこの岩村城に滞在し、戦争の状況を聞いた。
そして天目山で3月11日午前11時頃に勝頼ら親族が自害すると、
戦後の論功行賞により岩村城主・河尻秀隆は甲斐一国及び諏訪郡に
移封となり、その代わりに団忠正が城主となった。
しかし、武田滅亡の三ヶ月後、本能寺の変で織田信長と
織田信忠が殺されると団忠正も織田信忠と共に二条御所で戦死する。
《森時代》
その後は森長可が岩村城を接収する。
1584年、小牧長久手の戦いにより、長可は戦死してしまう
その時に岩村城は、徳川氏に身を寄せていた明知遠山氏の遠山利景により
攻められてしまうが、各務元正により退けられている
その後は、早死にしてしまった兄たちに代わり
森忠政(森長可の弟)が城主となり、その森家の家老である各務元正が城代となり、17年を費やして城を改修し、今の岩村城に作り替えた。
《田丸時代》
その後の豊臣秀吉が死亡すると1599年に森忠政が信濃松代に移封となり、田丸直昌が入城した。
しかしその田丸直昌が関ヶ原の戦いで東軍の小山評定の時、徳川家康が石田三成につくなら帰国すべしとはなし、
田丸直昌は帰国したいと申し出たところ、さすが北畠氏流と家康にほめられ、帰国を許されたため帰国した
そのため田丸は、東美濃の諸大名を味方につけるべく、郡上八幡城主と作戦を立て、尾張犬山城主(木曽代官でもある)を
味方につけたことにより、東美濃の諸大名は西軍についたのである。
その諸大名に対抗すべく、徳川家康は東美濃の豊臣氏に領地を奪われた、遠山氏をはじめ
小里氏、妻木氏、山村氏、馬場氏を派遣した。
そして西軍についていた城を次々と落とし、ついに岩村城を包囲した。
しかし関ヶ原にて西軍が敗北したと報が入ると開城し田丸直昌は夜に紛れて立ち去り、戦後の処理で、田丸氏は改易となった
《松平、丹羽時代》
田丸氏が改易となると、大給松平氏の家乗が城主となった。
家乗は城主の御殿を山頂から北西山麓に移った。
家乗が上州館林に移封となると、丹羽氏信が城主となった。
丹羽氏は五代続いたが、お家騒動で、越後高柳に移封となる。
次に入城したのは、松平乗紀で、全国で三番目の藩校である知新館を開いた。
その後は、代々大給松平氏が城主となった。
《その後》
明治維新を迎えると、岩村城の建築物は解体となり、石垣だけとなった。
藩主邸は残されていたのだが、1881年に火事で焼失した。
【城情報】
・形式 ❙山城(日本で一番標高が高い城といわれている)
・築城年 ❙1185年?
・廃城年 ❙1873年
・築城者 ❙加藤景廉?遠山景朝
・最後の城主 ❙大給松平氏
・廃城理由 ❙明治維新を迎えたため
・主な城主 ❙加藤氏→遠山氏→織田信房→秋山虎繁→河尻秀隆→団忠正
|→森氏→各務元正→田丸直昌→松平家乗→丹羽氏→大給松平氏
・遺構 ❙ 掘、土塁、石垣
・主な建築物 ❙太鼓櫓、平重門、表御門、御殿の一部
・説明看板、石碑 ❙あり
・駐車場、トイレ ❙あり
・天守 ❙なし(三の丸の三重櫓が代用か?)
・保存状態(自身判断)❙やはり六段石垣は圧巻であり、石垣がとても良い状態で残る
・城レベル |4、(詳しくは新ろくべえのプロフィールへ)
・備考 ❙・井戸がとても多く、水が豊富だった
❙・場所によって石垣の積み方が違い、おもしろい
❙・VRがある、昔の様子がよく分かる。
|・六段壁の横には道があり、通ることが出来る
|・霧が井は、昔、戦になったとき秘蔵の蛇骨を入れたら、
|霧が立ちこめてきたという。(蔵の収蔵品の記録に蛇骨が記載されていた)
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