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todo94

日本遺産「鮭の聖地」 (2024/08/09 訪問)

ヲンネモトチャシから100kmを遥かに超える道のりを運転して到達。標津遺跡群伊茶仁カリカリウス遺跡の中にあるチャシです。有料区域の中にありますが、330円を支払う価値はあります。零汰さんも投稿されている通り、湿原をはじめとして見どころがたくさんありますから。肝腎のチャシは、いただいた案内地図では円弧を描く遊歩道の外側のテラス、近くの案内板では遊歩道の内側にある「村長さんの家?」のくぼみになっています。とりあえず両方の写真を投稿しておきました。標津遺跡群伊茶仁カリカリウス遺跡は日本遺産「鮭の聖地」の構成資産になっています。ここに来る前に郷土料理の店で三代漬け丼を昼食としていただいたのはベストチョイスだったと思います。

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しんちゃん

諸行無常で御座い (2024/02/25 訪問)

秋月城は太田党の支城としての役割を持っていたとされ、天正13年の豊臣秀吉の紀州攻めの際に廃城となったようです。かつては「城の内」と呼ばれる畑とみかん畑で、曲輪や堀が残っていたようですが、今では御立派な工場に御成りで遊ばされます。
堀はどうなった? なんとなく周囲の道路が不自然にまがっているので、これがその名残でしょうか?柵の内側の側溝も喰い違いになっています。しかし、こんな感じにカキカキにする必要があったのかな‥? 何かのこだわりですかね。

尺が余ったので、以前「ゆるキャン」を参考に造ったダムカレーを紹介します。ただ途中で方向性が変わってしまって「第一次信州上田城攻め 神川堤防決壊DE徳川軍急襲オムハヤシ」と相成りました。すでにカレーですらない‥。
ちなみに柿の種が真田軍、ピーナツが徳川軍です。
とりあえず配置して堤防を決壊してみたんだけど、夏の水難事故が多発する今の時期、これはまずいんじゃないか?‥‥徳川ピーナッツ軍の皆さんは泳ぎが上手で全員助かったことにしておこう‥‥。
写真を撮ったらあとはまとめて胃の腑の中です。

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しんちゃん

佐和山城遺構 (2023/04/09 訪問)

滋賀県彦根市の石田三成の居城・佐和山城は関ヶ原の合戦の後、徹底的に破壊され、遺構はほぼ残っておらず一部の石垣を残すのみです。しかし、東麓には大手門跡が残り、土塁らしきものも残っています。琵琶湖に流れ込む矢倉川から引いた水路が佐和山城の東側を流れていて、これがかつての堀跡であるようです。井戸跡とされる場所もあり、今でもそこは水が染み出していました。
肝心の城跡の写真はロストしてしまったので、またいずれ登城しなくてはいけませんが、それはそれで楽しみでもあります。

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三浦の晃ちゃん

円城寺門 (2024/08/11 訪問)

南部氏の家臣、北氏の居城です。市役所などが、敷地に含まれています。藩政期からの遺構として、円城寺門があります。

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しんちゃん

村上海賊の娘 (2024/02/25 訪問)

真鍋城は和田竜氏の小説「村上海賊の娘」で重要な役割を果たす七五三兵衛(しめのひょうえ)こと真鍋貞友の居城とされています。
松岡山・南溟寺の境内が城址とされ伯太藩渡辺家墓所もあります。
貞友は信長の命で淡輪より当地に拠点を移し真鍋城主になったとのことです。真鍋水軍を率いて第一次木津川口の戦いで毛利水軍と戦いますが討死を遂げました。家督は嫡男の貞成が継ぎ、関ヶ原の合戦では西軍に付いたと見られ、一時没落するも徳川秀忠の命で、紀州藩主・徳川頼宣の家臣となったそうです。

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T-Shionoya

西尾城の丸馬出・障子堀・転用石 (2024/08/10 訪問)

昨日は西尾市資料館の企画展「西尾城跡発掘調査40年のあゆみ」の展示解説を聴いてきました。

西尾城は一般に西条城が起源とされるが、鎌倉・室町時代の遺構・遺物はほとんどなく、当時の居館は吉良氏菩提寺の実相寺がある上町エリアにあったとする説が有力とのこと。

発掘される遺構・遺物は戦国時代以降のもので、個人的に興味深いのは小牧長久手の戦いの頃の改修とされる丸馬出と障子堀。
昨年の訪問時は見逃した丸馬出の二重の堀。現在は枯山水で表現されています。
二重堀は一方の堀が築かれた直後、もう一方に作り替えられた可能性もありますが、発掘結果では二重で存在したと考えられている模様。
また障子堀の独特な形状の障壁は、元の堀を更に深く広くしたためとのことで納得。

そして本丸表門の石垣には墓石が転用されているとのこと。
知らないと気付かないものですが、探すと真四角の石材が2~3個使われていました。

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零汰

猫派?犬派?それとも・・・。 (2019/08/03 訪問)

福岡県八女市に猫尾城という名の城跡があります。綺麗に整備され主郭の神社周りには立派な薄い石の石垣も残っており雰囲気の良い城跡です。城ひとの登録城で数名の先輩方が投稿されています、気になる方はそちらを参照ください。そこから西に犬尾城という名の城跡もあります。5年前の同日に訪問しました。猫尾城は黒川氏が在城しており、犬尾城はその黒川氏の長男が築城したそうです。
「さては黒川氏は親子で生き物の尻尾フェチなのか?」

すみません。昨日に続き動物の名前つながりの投稿です。サブカル好きの私としては歴史云々よりもこんなくだらない事柄の方に興味が湧くのです。しかし今回はもう少し続きます。

2年程経ち、福岡の未登録城の侵攻を始めようとしていた頃に福岡県の調査報告書で情報収集していました。すると八女の辺りで鷹尾城なる名前が飛び込んできました。「近くに似たような・・・」調べていくうちに犬尾城の支城とあります。「やっぱ動物の尻尾フェチの家系じゃん、だけどここでなぜ鷹?虎とかの方がしっくりくるけど」
さらに調べていくと近くに兎城もある。残念ながら築城者の記載は無かったし尾が付かないがおそらく同じでしょう。兎と付くからには確信犯じゃ、と妙に親近感が湧き楽しくなり記憶に焼き付いています。次の福岡侵攻の際はぜひ鷹尾城には訪れたいと思っています。

犬尾城は南北に長い主郭を持つ城で、主郭の両端には土塁が途切れながらも残っています。比較的に小規模なのですが南東にしっかりとした空堀も残存していて目を楽しませてくれます。この頃は城廻りを始めて3カ月くらいの時期で畝堀の存在を知りませんでしたが縄張り図と写真を照らし合わせてみたところ写真7は畝堀の中の1本だったようです。


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零汰

城とバイク

先月大分侵攻に行った際に、岐部城でバイクで城巡りをしている人と遭遇しました。
自分は見終えた後、彼は北陸ナンバー、歳はひと廻り程若い方でした。
荷物は満載、でもデント類は積んでいなかったのでホテル泊なんでしょう。
車の中から眺めていてとてもシンパシーを感じて思わず声を掛けたくなりました。
と同時に寂しさと羨ましさの混じる複雑な気持ちが襲ってきます。

昨日の投稿で北海道シリースは一区切り、実際はもう少々続くのですが区切りもいいので。

本格的に城廻りを始めたのは5年前、19年の春だったと思います。それ以来9割以上をバイクと共に訪問しました。
山城の魅力に取りつかれて19年に九州本土内登録城の8割を勢いだけでバイクと共に訪問しつくしました。
登録城以外の城に行くようになってからも、西日本の正続100城廻りもずっとバイクが一緒でした。
数年前には自分が日本中を走り廻るなど想像していませんでした。
逆に言うと沖縄を除く都道府県をバイクで走破出来たのも城の存在があったからで城とバイクがが自身の世界を広げてくれました。

加齢により山城を廻りながらバイクを運転する事を繰り返すのが徐々にきつくなって来たのは当然の成り行きだったと思っています。それに昨年のバイク事故も何かのメッセージだったのかもしれない。今回の北海道行はバイクで行く最後の城廻りで出かけました。予想以上の成果だったのでバイクと城の良い終わり方が出来て本当に良かった。今は車で城廻りをしています。

城廻りをされている若い方々はまだまだ時間があります、是非自分のスタイルで沢山の城を廻って直に見て欲しいなと思います。

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しんちゃん

和泉砂岩と桃色花崗岩 (2024/02/24 訪問)

岸和田城はかつて周囲を三~四重の堀で囲まれていました。今でも本丸の周囲と二の丸周辺に見事な水堀が残っています。石垣の部材の中でも最も脆い「和泉砂岩」を用いており、当然のように崩れてくるので延宝(1675)以降、花崗岩を用いて修復し続けてきた結果、複数の色が混在する石垣になっています。江戸時代の修復跡はそれほど目立たないですね。さすがに石垣が主体の時代の人達なので上手にまとめています。主郭北側に上側がうっすらと赤い石垣がみられますが、そのあたりですね。
問題なのが南東部分でモザイクみたいになってしまっています。地元ボランティア曰く「お金がないから」だそうです。違和感しかない。
「じゃあ、お金ちょーだい」と言われましたが‥返事は「出ません~」 こんな掛け合いが出来るのも大阪ならではです。
いろいろ地元自治体なりの事情があるようです。

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しんちゃん

鎌刃城 (2017/05/20 訪問)

少し古い写真ですが、鎌刃城の投稿です。標高384mの高所に築かれ、南東に伸びる尾根は細く「鎌刃城」の名の由来になっています。
案内板によると応仁の乱の頃にはすでに存在していたようで、城主掘氏は当初浅井氏の家臣でしたが元亀元年(1570)織田信長に与したとされています。天正2年(1574)堀氏は改易され鎌刃城は廃城になってしまいます。少しもったいないですが、近江を信長が完全に支配し、湖北地域を秀吉に与えたことで当城の必要性が無くなってしまったみたいです。
主郭の枡形虎口は石垣で固められ、この城の見どころの一つになっています。

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小城小次郎

存分に役割を果たしたお城 (2024/02/10 訪問)

宇佐山城の戦いの舞台となり、和議の条件として破却されたという解釈が正しければ極めて短命なお城なのだが、京~近江の往来を制限し朝倉・浅井に存分に脅威を与えた点では存分にその役割を果たしたと言えるのだろう。

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しんちゃん

西伊豆の海岸は険しく、海は美しい (2024/07/14 訪問)

安良里城は城というよりも、安良里港を監視する砦の様な感じで、自然歩道から延びる尾根上にはいくつか見張りを置けそうな場所が有りました。途中後世のものらしい石垣もありました。
この日は晴れ間も見え、西伊豆から見た海が美しかったので、一緒に載せます。駿河から見た時より綺麗な青色に見えるのは光の加減でしょうか?

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しんちゃん

土々累々 (2024/02/25 訪問)

淡輪城というよりは館の跡のように見受けられます。道路に面して南側に土塁に囲まれた一角があるのでわかりやすい。
淡輪氏の祖先は義経に仕えた佐藤忠信らしきことが案内板に記載が有ります。別の辞典には橘兼重なる人物が淡輪荘の下司職を源頼朝に認められ、これが淡輪氏にあたるようです。
戦国時代には淡輪微斎の娘「おこよ」が豊臣秀次の妾となり小督の局と呼ばれたが、三条河原で斬首されたとのこと。微斎の次男六郎兵衛重政は大坂夏の陣の前哨戦「樫井川の合戦」で塙直之(団右衛門)とともに壮絶な討死を遂げたとのことです。

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モト

一度は行く価値のある城跡ではないかと思いました (2024/07/28 訪問)

波多氏から代わり、寺田氏の時代に石垣の城への変貌を遂げたとの事です。
城跡ではその見事な石垣を見る事ができました。
城跡へ車である程度近くまでは行く事ができます。
駐車場と登城口が2箇所ありいずれも城跡までの距離はほぼ同じくらいで行けます。
そこからは往復1時間ほどのまずまずの登山となります。
遺構を眺めながら進むとおよそ2時間を過ぎるくらいの往復になるかと思います。

登城して、最初の旗竿石との分岐点以外は城の縄張りは尾根を三の丸から本丸、その先にある姫落としの岩まで順に見学できます。
三の丸前の堀切も素晴らしいのですが、二の丸との間の二の堀切には見事な石垣が残ってました。
石垣には苔のような物も付いていて、なんとも言えない雰囲気です。
本丸の石垣にも感動させられながら先に進むと、三左衛門殿丸石垣の登場です。
これもまた素晴らしいです。
所々抜けてしまった崩れそうな石垣も一見の価値ありだと思います。
その先には、抜け穴と伝わる穴や姫落としの岩もありました。

ここはよく心霊スポットとして載っているのを見ました。
秀吉から受けた波多氏の無念の怨念が残るのも理解できるので少々怖い気もしましたが、訪れてみると怖さを凌駕する素晴らしい城跡でした。
佐賀の城跡では10本の指に入る城跡だと思いますので、皆様もぜひぜひ訪れてみてください。

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todo94

4度目のヲンネモトチャシ (2024/08/09 訪問)

根室半島チャシ跡群へ行ったと言うには、スタンプのデザインになっているヲンネモトチャシは外せません。3回スタンプラリーを完遂しているのでこれが4度目のヲンネモトチャシです。階段が設置されていて、他の観光客が複数いました。観光客の流入により、漁港のガードは厳しくなっています。初めて訪れた2007年7月に撮影したような海越しの遠望の写真は撮るのが少しずつ困難になってきています。

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外堀とその周辺 (2024/08/10 訪問)

 名古屋城は周囲にも遺構が多くあります。正門から三の丸外堀とその周辺を名城公園近くまで散策しました。見事な外堀の他にも石垣や土塁が残っています。この季節は生い茂っている草木で見づらいですね。2年前に2月にも散策したときとは全く違いました。やはり城の遺構を見るには秋冬がいいです。それなりに楽しんで散策しました。

(余談)
 以前にも投稿しましたが、自分が高校の頃まで外堀の中を電車が走っていました。今の名鉄瀬戸線は城の東側から南側へと巡っていき、名古屋市の中心街を流れる堀川の近くまでつながっていました。お堀を通っていたのは、東大手駅から堀川駅の区間で、「お堀電車」とも呼ばれていました。瀬戸物を堀川で舟に載せ替えて名古屋港まで運び輸出していたようです。1976年名古屋市の中心地である栄へ路線が変更されるまで走っていました。当時、自分も乗ったことがありましたが、堀の中を走るのかと興味津々でした。

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名古屋城夏まつり (2024/08/10 訪問)

 今年も名古屋城夏まつりが今日から開催されています。昨年も行ったのですが、今年も行って来ました。といってもイベント等に参加するわけではなく公開されている西南隅櫓を見学して城内と周囲を散策してきました。天守閣は耐震性に問題があり入館できません。ただ外観は昭和実測図に基づき正確に再現されていますので外観だけでも楽しむことができます。本丸御殿が復元されていますが、いつも混んでいます。何回か見学しているので今回もスルーしました。櫓も3基現存しています。西南隅櫓と東南隅櫓はときどき公開されています。自分が好きなのは石垣と堀で、比較的良好に残っています。小学生のときから何回か来て、人生で一番多く登城している城址です。
開門前10分前に行ったのですが、券売機の前には多くの方が待ってみえました。

 昼飯は矢場とん金シャチ横丁店さんでみそかつ丼御膳をいただきました。超久しぶりの矢場とんでした。

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しんちゃん

故郷は遠いねぇ (2024/02/25 訪問)

永禄5年(1562)の「久米田の戦い」の際に貝吹山古墳の上に三好実休が本陣を敷いたとされています。実休はこの戦で討死し、長慶の実弟であり右腕ともいえる実休を失ったことで三好氏は大きな痛手を受けたとされています。この時、実休を討取ったとされるのが根来衆徒の往来右京という人物であったとされています。
城址は現状・古墳で遺構らしきものは残っていません。
草カラス霜又今日ノ日ニ消テ因果ハ爰(ココ)ニメクリ来ニケリ とは実休が前日に読んだ辞世の句とされています。
自らが阿波国主・細川持隆(氏之)を殺害したことを気にかけていたようで、自身を草を枯らす霜に例えたようです。後世の創作ととらえる向きもあるようですが、実際のところはどうなんでしょう?
弟・安宅冬康の返しの歌が 
因果トハ遙車ノ輪ノ外ニメグルモ遠キ三芳ノ原
とのことですが‥しんちゃん流に直訳してみると
「因果なんて知ったこっちゃねーけど故郷は遠いよなー」になりました。ひどいポンコツ直訳ですがこれでいいんでしょうか?

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零汰

獅子と猫と頴娃氏 (2024/08/08 訪問)

日本の南端のその中でも南の開聞岳の見える地域にネームバリューもさほど無い頴娃氏が築城した頴娃城が有ります。城ひとにも登録されて数名の先輩が投稿もされている城跡です。別名は獅子城と言い長らく頴娃城と獅子城は別の城と言われていたそうで「体系」では別の城と案内もされています。過去の謎は解決して今で同じ城だと認識しているみたいです。

5年前に訪問しましたが高低差の少ない連郭式でだいぶ大人しい城です。そして主郭には獅子城の石碑が残っています。

その近くに猫城がある事は以前から知ってはいましたが行く機会は有りませんでした。ひとつ目当ての城跡を見つけたのでそちらの訪問と合わせて猫城に行きました。事前に調べてみると築城者は頴娃氏とあります。「頴娃氏って頴娃城だよね、アレっ頴娃城って獅子城じゃないっけ」「獅子と猫?さては頴娃氏は動物好きか?」

すみません、今回は単に築城者が同じで城名が動物つながりなだけの投稿です。

猫城は標高100m地点に直径15m程度の一段高い円型を主郭とし、主郭には360°帯曲輪を配置しています。当初石碑のある場所を主郭と思っていましたが歩き回りながら縄張りを考えてみるとしっくりきませんでした。そこで一旦引き返して再度探していくと主郭に行き着きました。石碑の場所は城域の北側で物見の役目があったと思われる場所でした。その地点から北側に付け尾根がが有ったので進んで行きました。きっと堀切が有って城域は終了と考えていましたが堀切は無い。代わりに写真7の様に垂直岩が堀切の代用となっているようです。

全体的に自然石が多く石積が多く見られます、と同時に植林に伴う耕作も多いので大半は後年の石積でしょう。植林が杉の木から広葉樹に変わった辺りが曲輪跡かと思いますがそう広くは有りません。石積写真は現地で考えるに当時の物だと思われました。

こちらは不思議な事に堀切や自信をもって答えられる空堀等一切ありません。頴娃城は空堀が多いのにちょっと意外です。

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しんちゃん

高井城  根来衆と高井村の人々が立て籠もった城 (2024/02/24 訪問)

大阪府貝塚市の高井城は城びとの城ではないし、名のある城主がいるわけでもないし、特に遺構が残っているわけでも‥ないですが、天正13年の紀州攻めの際には根来衆の出城として、秀吉軍の攻撃を受けています。近木川の東に位置し、川を挟んで千石堀城と対になる城とされ、城が築かれる以前は「高井天神寺」という寺院があったと推定されています。
現在は高台が公園となって案内板が設置されていますが、解放されているエリアはそれほど広くありません。豊臣秀吉の紀州攻めの際には、根来衆や高井村の人々・約200人が籠って福島正則の軍勢と戦いますが落城しています。
紀州攻めというと千石堀城から語られることが多いですが、その前哨戦となった城です。

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