かんばいじょう

神梅城

群馬県桐生市

別名 : 深沢城、阿久沢城
旧国名 : 上野

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チェブ

本丸は下。 (2023/12/06 訪問)

阿久沢氏により1558年~1570年に築城された「神梅城」。説明板には「深沢城」と表記されてました。
「神梅城」は北条家の滅亡と運命を共にし廃城しました。阿久沢氏は帰農します。

『正円寺』の駐車場に到着。いつもなら高い所を目指しますが、御寺を背にして覗き込むと本丸の石碑がありました。
しかも、かなり下の方。そして、大きな空堀がありました。説明板の所から堀底に降りられます。
もう、世が世なら殺られっぱなしですが、堀の端っこまで歩くと、崖っぷちです。
この堀から本丸には上がれません。
「神梅城」が活躍してた時代より、堀は浅くなっていると思います。当時の強固さがうかがえます。

「神梅城」の活躍した時期は短いですが、帰納した阿久沢氏の想いは、長い時間 大切にされてました。

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赤い城

正円寺より低いところに本丸が。 (2022/02/26 訪問)

正円寺に駐車場があります。
お寺一帯が城域となります。
駐車場より下の位置に本丸があります。
案内板が立っていて曲輪とその間の深い堀があります。
手が入った感じですが堀は深くて広いです。
本丸南側に登城口があり、虎口のようです。
二郭の東側は岩盤の崖になっていました。
人の手も入っているのでしょうか。
正円寺の背後にも堀が残っていました。
別名は深沢城で地元ではこちらの名で通っているようで説明板にも深沢城と記載されていました。
阿久沢氏の居城と言われ、戦国期には北条氏か由良氏によって改修されたと言われています。

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カズサン

本丸南は圧巻の高切岸 (2021/10/11 訪問)

 群馬県埼玉県未踏の城廻りチョイ寄り登城の3日目、本日前橋IC近くのホテルから遠い神梅城/深沢城からの攻城、ナビで約40km超の距離、渡良瀬川渓谷の道を北上県道70号線、日光、足尾の道路標示が続きます、わたらせ渓谷鉄道本宿駅を過ぎて宿廻信号機を左折し後にキックスする県道335号線山道を約800m程登りと深沢城、正圓寺の案内看板が有る右に曲がり約200m程で正圓寺駐車場に着く、駐車場の南が堀を挟んで低い所に本丸が有る。駐車場は8~10台程可能(36°29'06"N 139°15'16"E)

 探訪ルートは草が刈られて居り良く曲輪が分かる、駐車場から二の丸、二の丸南の傾斜路から本丸二の丸間の広い堀に出る、二の丸南、本丸南は広い帯曲輪、本丸南から本丸を見上げると圧巻の切岸、約10メートルは有るのではないか、二の丸もほぼ同じ、二の丸南下帯曲輪の東は木々が多く良く観えなかったが崖で崩れて居り足がすくみそうな崖、本丸の下帯曲輪の西は樹木が茂り良く分からないが南側は急峻な谷に成って落ち込んでる。
 本丸は北と東に幅広の空堀、本丸、二の丸の北に三の丸で正圓寺境内、三の丸北は高土塁と深い堀で護られ東側から南にカギ型に落ち込み二の丸東の堀に続いてる、二の丸には中間に南崖に落ち込む空堀が有り、東端に続く土塁が二の丸南北中間に残ってる。
 本丸は三の丸、二の丸からは低く約50m方形でわらび、ゼンマイの自然畑か?良く茂って居り周囲の端は草刈りされて居り歩き易く成ってました。
 案内解説板は経年変化が激しく表示の絵から文字の面がひび割れ状態で良く判明出来ませんが草刈りの整備は抜群の保全です。
 
 正圓寺西は墓地に成って居りその中に城主一族阿久沢氏の墓石がまとまって祀られてる。
 阿久沢氏は古くからの歴史が有る様で康平5年(1062年)源家から深沢郷を与えられ、建武年間に築城したと、小田原の戦いでは小田原に籠城し敗戦後当地に帰農し廃城と成った、帰農した方々が良く城域を守って居たのでしょう遺構の保全状態が素晴らしく残って居ます。
 ガイド案内と情報は古城盛衰記さん余湖図コレクションさんに由ります。
 

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pascal

今も阿久沢氏の末裔が守る  (2014/10/25 訪問)

群馬東部の山間で、今も城主一族の末裔が大切に守り続けている神梅(阿久沢or深沢)城です。

【アクセス(車)】
 渡良瀬川沿いにR122を遡り、渓谷鉄道の『本宿駅』を過ぎた宿廻の交差点を左後方に大きく回り込む形で県道335に入り、登り坂を約1km登ると『➡深沢城』の看板があるので、右折して行くと『正圓寺』という寺があり、この境内が神梅城址です。
城名がいろいろ有ってややこしいのですが、地元では『深沢城』で統一されてる様ですね。

 本堂前の道路沿いにお寺の広い駐車場が有るので停めさせて貰います。
日曜日の朝、ちょうど地元の方(檀家さん?)が総出で周囲の草刈りをしていたので、『城址を見学させてもらいます』と挨拶して、探訪に入りました。

【城の歴史】
築城は意外に新しく、永禄年間(1558~70)の阿久沢彦次郎に依る…とされています。
阿久沢氏は黒川谷(渡良瀬渓谷)に土着する“黒川郷士”の一人でしたが、当時の一番の有力者だった様ですね。
 この頃、上野は上杉謙信と北条氏康が攻防を繰り広げる戦場になっていましたが、赤城山西麓の利根川沿いは北条氏が多くの城砦で固めていたので、謙信は東麓に間道を拓き、この黒川谷に出て来て南下していた様です。
おそらく謙信が土地の郷士達に命じて、築城し守らせた城なのでしょう。

その後北条方となった阿久沢氏は金山の由良氏の傘下となり、小田原征伐では籠城のため41名の郷士が小田原城に向かいましたが、小田原開城降伏後は神梅城も廃城となり、みな近郷で帰農したそうです。

【見どころ】
 南向き斜面に築城された城は、50m四方ほどの本丸を広い堀が囲い、南の裾に小曲輪を幾つか重ねており、南からの攻撃に備えています。
背後の北側も本丸を取り囲む様に広い郭が造られて、大外を空堀が走っています。
つまり、本丸は北の外郭から見下ろす低地にあるのです。
三島の山中城は有名ですが、敵の攻め口が特定できる場合、こんな城の選地と縄張りも有り得る訳ですね。

 しかし、一番凄いと思うのは、公的な史跡指定のないこの城址が、綺麗な状態で維持されている事です。
本丸は約750坪の平坦地ですが、住宅にも耕地にもならずにそのまま維持されています。
帰農した阿久沢氏の末裔の人達は、北の郭に移してきた正圓寺とともに、“先祖の遺産”として大切に守ってるが故の事でしょうね。

【感想】
 阿久沢氏は蝦夷の末裔という伝承があります。
前九年の役で勝利した源義家は、捕縛した安倍宗任を京に連れ帰りますが、宗任を慕う蝦夷の人達は、その後ろからゾロゾロ付いて来て、その数は700人に上りました。
困った義家は、この地で蝦夷を説得し、『此処に連絡役として数十名を住まわせ、京での宗任の動静は彼らに伝えるから、安心して帰れ!』と蝦夷達を帰らせました。
その連絡役として残ったのが、阿久沢氏および黒川郷士だと言うのです。

 真偽の程はともかく、此処の人達が、より先祖を崇め尊ぶ、文化的なDNAを持っているのだとすれば、有り得る事かな?…と思ったりしました。 

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城郭情報

分類・構造 丘城
築城主 阿久沢氏
築城年 建武年間(1334〜1338)
主な城主 阿久沢氏
廃城年 天正18年(1590)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 碑、説明板
住所 群馬県桐生市黒保根町宿廻(正円寺)