【山下城】
<駐車場他>駐車場はなし。川西市郷土館(入館料有料)駐車場が利便よし。
<交通手段>車
<見所>石垣跡・曲輪・大堀切
<感想>山下城はかつて書物に一蔵城・獅子山城とも書かれてありました。築城年代は定かではなく、平安時代・南北朝時代・戦国時代と3説ほどあるがいづれも塩川氏の築城によるもので、その塩川氏も出自が定かではないが代々多田院の有力御家人の筆頭として多田庄・能勢郡一帯に勢力を持っていました。戦国時代には塩川国満が北にいる能勢頼次と領土争いを行い、1584年能勢頼次が秀吉の九州征伐軍の遠征中に能勢氏の城(地黄城は陣屋なので丸山城か?)に勝手に戦をしかけ落城させた。帰国後秀吉は激怒し、池田輝政に討伐を命じ山下城は包囲落城した。塩川国満は切腹してその時城は廃城となりました。国満の首が大手門前にさらされたことから現在も大手門跡に首供養地蔵があります。
登城口は<34.898480, 135.408523>のポイントでかつての大手門跡です。山に入るとすぐ畑になった段曲輪が両サイドにありますが改変したものか判別は難しいところ。まっすぐ奥に進むと神社手前にかつて石垣のあった一文字土居の遺構があります。その先に𠮷秀大神の神社があります。ここから右に折れ斜面を登ると愛宕神社のある曲輪に出ます(主郭から7段目の曲輪だそうです)。ここから川西市山下町が一望できます。次に三日月状の腰曲輪がありその上が主郭から3段目の大きい曲輪があります。ここから主郭まで害獣よけの超音波の出る装置が設置されていてやたら耳障りです。
主郭は南北にやや長い長方形で東側に大土居、北側にも一段低い土居があった感じがします。北東隅に櫓台跡があり土居と櫓台はすべて石垣造りであった模様。櫓台外側にも回り込んでみましたら石垣跡が残っていました。主郭南側以外の3方はすべて切岸になっており、櫓台のある北東先に大堀切と堀切の2重堀切があります。堀切の先から東に向かって尾根道になっていて、ずっと先に単郭の曲輪があるそうですが行きませんでした。そこを合わせて二山一城と言われているそうです。
主郭の石垣はかなり崩落してはいるが主郭内に大石が転がっていたりしてかなりの面積が石垣造りになっていたように感じました。予想より見応えのある城跡でした。
<満足度>◆◆◇
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