しんしんちゃんさん、ありがとうございます。
洲本城です、説明不足ですみません。
東登り石垣は横からでしたが、上からも見てみたかったです。
山の斜面にあれだけの石垣を詰む職人さんには感嘆します。
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2024/06/26 21:45
2024/06/26 21:30
「エクセル江田」奥から眺望👀 (2024/04/29 訪問)
小黒谷戸バス停前の「エクセル江田」奥から近づき,眺望を撮影して終わりにしました。たぶん,チェブさん,赤い城さんの撮影ポイントもココではないかと思います。
余談ですが,チャキチャキの江戸っ子や越後人は「い」と「え」の発音が逆転します。道案内でそんな人に遭遇してしまうと,川崎の「井田城」を紹介される可能性があります。また,その逆もあり得るでしょう。予備知識として頭の片隅にでも入れておいて損はないかと思います。
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2024/06/26 21:10
むじるし河後森城 (2018/01/06 訪問)
河後森城は渡辺氏の城とされており、長宗我部氏の調略を受けた家臣の裏切りによって城を奪われたようです。風呂ヶ谷を囲うように曲輪が配され遺構が良好に残って(再現されて)います。西端にあたる西第十曲輪には虎口に門が復元されていて、土塁と建物も復元されています。城跡を訪問して最初に見る曲輪になりますが、城内では本城・古城と並んで大きな曲輪で見せ場の一つでもあります。河後森城は続百名城の中ではマイナーな部類に入ると思いますが、城域を散策しながら遺構を確認することが出来、本丸虎口には石垣も残っています。土の城好きであれば十分楽しめる良い城だと思います。
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2024/06/26 20:40
赤須城 (2024/04/20 訪問)
【赤須城】
<駐車場他>駐車場あり<35.725319,137.958682>
<交通手段>車
<見所>堀切・石積み跡
<感想>日帰り飯田・伊那地方河岸段丘平山城の旅ラスト9城目。現地説明板によると赤須城は船山城を拠点に発展した片切氏の分流で片切孫三郎為幸がこの地に居城を構え赤須氏と称したとされます。赤須城も1582年に織田信長の進攻により滅びたようです。
城跡のど真ん中を道路が縦断していて、だいぶ遺構が改変されているのが残念です。この城も天竜川によって削られ残った河岸段丘の城で、東の突端部に主要部を置いています。西側の平坦部は畑地になっていて遺構はよく分かりません。二郭跡の土塁が明瞭に残っていてなかなかの見応え、駐車場のある曲輪と二郭を隔てる堀切が深く、ジグザグに曲がる谷道には礫石が相当な数が落ちています。礫石は窪地に溜まっているのではなく、土塁の上に密集しているので、折れ曲がりの虎口か櫓台かの遺構が崩れたものであるかもしれません。一帯はかつての想像を膨らませる雰囲気を漂わせる見応えがありました。城跡を見終え、西に見える残雪の木曽山脈が素敵でした。
これにてこの旅終了。640㎞無事走破。
<満足度>◆◆◇
<あとがき>山城シーズンを終え、伊那地方の天竜川沿いに並んでいる城びとフラッグに着目していました。城跡の中身を詳しく調べず、公園が多かったので、平城のちょこ城ばかりだと思い込み、駐車ポイントだけ10城程調べて出発しました。1城目の鈴岡城跡から「あれ?ここは河岸段丘のなかな見応えある平山城だな」と思い、巡るうちにどんどん「全部河岸段丘の凄い城跡ばっかりやん!」となりました。ちょこ城先入観で行ったので、フェイント、逆によく新鮮で大満足の1日でした。気候的にもちょうどよかった。
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2024/06/26 20:38
石垣山城の石垣 (2024/01/26 訪問)
石垣山城の石垣は崩落している箇所が多いです。一部破城の跡もあると思いますが、大正12年の関東大震災が追い打ちをかけて崩落が進んだみたいですね。震災前の石垣山城の写真って無いのかな? 破城といえば最近訪問した美濃金山城もだいぶ崩されていました。近くにある小里城の天守台の石垣がキレイな状態で残っているのとは対照的でしたね。小里城の本丸石垣にも破城の痕跡はありますが、天守台はそのままの形で残っています。やはり規模の大きい近世山城は一揆などに利用される可能性があったということですか。
石垣山城は本丸の石垣、特に二の丸側と西曲輪あたりの石垣の崩れが大きいです。二の丸側は近年でもじわじわ崩れてきているみたいですね。破城を受けた山城は修復や保存も難しいと思うので、やはりできるだけ今のうちに訪問して見ておいた方が良さそうです。
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2024/06/26 19:08
チャルコロフィナチャシ:お勧め・残念・必見 (2024/05/11 訪問)
チャシを5か所廻りたいのだけどお勧めは?と聞かれたら間違いなく選択するチャシです。ですが評価が芳しくないです。
残念な事にこちらは年中海沿い全体が熊笹まみれで整備はなされておらず、駐車スペースも見当たらないようで敬遠されるようです。種類はほぼ熊笹で低く高さも揃っているので濠のウェーブを綺麗に見る事が出来るのでこれはこれで美しく思えますがどうでしょう。
根室半島チャシの中で最大面積で、隣接して1号2号が配置されています。立地と配置を考えると祭祀用が主な目的だと思います。1号については海に向かって濠で区画する一般な構造です(写真2~4)。必見のポイントは2号です(写真5~10)。今回お題で廻ったチャシで唯一土塁にて区画をしている構造です。高さが大体1m~1.5mで出入りの為の開口が幾つか設けられています。他に道内全体で考えると同じ様な構造があるのかもしれません。そう考えると見て良かったと思っています。
5か所の訪問でチャシを味わうのなら外せないチャシの一つだと思います。
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2024/06/26 11:41
前九年合戦安倍貞任の陣城2/2 (2024/05/24 訪問)
前九年合戦安倍貞任の陣城2/2からの続きです。
城びとでは花山館、案内板は渕牛館(崋山城)、城郭放浪記さんでは渕牛館、余湖図コレクションさんでは渕牛館と呼ばれてる城郭ですが素晴らしい遺構が残ってる山城です、ただし樹木、杉の植林で遺構がよくは見えません、私は中に踏み込めず遊歩道、人踏道からの探訪で写真を見返しても、余湖図コレクションさんの俯瞰図に在る様な縦横無尽の周囲の横堀更に二段を明確に見る事は出来ませんでしたが俯瞰図を対比しながら訪ね想像を膨らませての探訪も良いものです。
東屋から北へ延びる尾根曲輪道を進み、樹間の西、東の横堀、土塁を木々の間から良く観えないが確認、2郭に登り、東の1郭方向を見るが木々が多く茂り人踏道も確認できず樹間眺めるだけ、2郭に北へ2段の階段が降りている、その間に横堀、土塁を確認できる、その道は北西尾根に伸びてるが眺めて、元の戻る、東屋の南西にダム湖に添った尾根の道が伸びて居る。
木々がよく茂り良く郭、横堀、横土塁、二重の横堀がよく観察できませんでしたが、木々の伐採景観整備、観察道など整備頂けると大変ありがたい。
しかし良い山城、安倍氏に関わる城を探訪させて頂けて大変感謝です。大きな駐車場が有るということは多くの人が季節によって賑わうと言いう事なのでしょうか?
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2024/06/26 11:00
前九年合戦安倍貞任の陣城1/2 (2024/05/24 訪問)
東北城探訪5日目宮城県1日目の第1城目、花山館へ初登城、別称に渕牛館、華山館とも呼ばれてる。
駐車場:東麓の広大な駐車場(38°47'04"N 140°51'52"E h=190m)
参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
今回の東北城探訪の主目的は三内丸山遺跡と安倍安藤氏の未踏の城探訪であり宮城県の花山館が今回最後の探訪と成ります。
案内解説板には築城者安倍頼時と有り貞任の父、記載に安倍頼時・安倍貞任、源頼義・義家の名前を見ると胸躍り感激です。
花山館・渕牛館へは長年遠回りして訪ねたようで、昨年は津久毛橋城まで来てパス、その以前も姫松館、鶴丸城、仙台の北は涌谷城の桜と、登米の佐沼城、岩出山城、千石城と近くまで来てやっと退職後10数年超で初トライでした。
駐車場から登城路遊歩道を進み、撮った写真順二つに分けて投稿します。 熊注意の看板は無し、先ずは安心しても熊除けのベルを鳴らし鳴らし進行、遊歩道は舗装されて草の茂りは無し、尾根までの登りが私にはキツイ、尾根に着くと東に張り出した尾根曲輪の南下の道、切岸沿いに進行、平坦な道から花山ダム湖沿いの崖尾根道を物見の東屋まで丸太階段が続き東屋へ、途中にダム湖の眺望が安らぎです、途中に樹間越しに曲輪岸、堀を見る事が出来るが良くは判らない。
次に物見から尾根曲輪道、横堀、2郭1郭へ続く。
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2024/06/26 07:23
相模川橋脚 神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目 (2024/01/26 訪問)
相模川橋脚は大正12年(1923)の関東大震災により地中より出現した鎌倉時代の橋の遺構です。今見えているのは精巧な複製品で、実物は腐敗が進まないよう、地下2m65cmの場所で保存されています。
建久9年(1198)源頼朝がこの橋の竣工式に出席した帰りに、馬から落ち川に落ち、翌年1月に死亡したとされる説もあるようです。
弁慶塚と御霊神社は近くにあったので寄って、その写真を載せています。御霊神社は源義経と鎌倉五郎景正を祭神として祀っています。
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2024/06/26 07:09
石橋山合戦 (2024/01/26 訪問)
天徳寺が城跡とされ、周囲より高台になっています。眞田與一義忠は三浦義継の四男・岡崎城主の岡崎四郎義実の嫡子とされ、その居城とされています。義忠公は治承4年(1180)8月23日夜、石橋山の合戦で俣野五郎家臣・長尾新五・新六のために25の若さで討死したようです。天徳寺は義忠公の菩提を弔うために天正年間に岐阜の天徳寺七世義翁盛訓禅師によって建立されたと案内板に記載があります。
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2024/06/26 07:07
田井城・八栗城 香川県高松市 (2024/06/09 訪問)
牟礼ゴルフセンター(打ちっぱなし)の敷地が城跡です。
駐車場に少し高くなっているところがあり、標柱と祠があります。
駐車場入口は虎口にも見えますが果たして・・?
南西は蓮池が守り、北と東には外堀が廻っていたそうです。
美濃から入った中村氏の居城でしたが火災に遭い、その後八栗城に移りました。
で、八栗城に転戦です。
85番札所の八栗寺が城跡です。
ケーブルカー駐車場から徒歩で登ります。
急坂ですが整備されているので楽に登れます。
この日は雨でしたがお遍路さんも多く参拝されていました。
お迎え大師から参道に向かうところに墓地があり、この辺りに主郭があったようです。
参道は二の門あたりが少し狭くなっているように見えます。
堀切の名残と信じたい。
せっかくなので八栗寺を参拝し下山しました。
下山後、この日も朝うどん、近くの人気店へ。
行列でしたがつるもち麺で美味しくいただきました。
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2024/06/26 06:42
2024/06/25 23:35
大三島 大山祇神社 鶴姫公園 (2018/01/06 訪問)
愛媛県今治市の大三島に鎮座する大山祇神社は旧国幣大社であり伊予国一宮でもある由緒正しい神社であります。日本総鎮守とも称され武将や武人。軍人からも崇敬の篤い神社でもあります。源平の時代から多くの武将が武具を奉納しており国宝8件、重要文化財76件を有しています(建造物含む)。
鶴姫は昭和41年の小説「海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク」で認知されるようになり、「村上海賊の娘」の中でも主人公・景の憧れの存在として、度々名前があがってきたので、ご存じの方も多いと思います。鶴姫は大山祇神社の大宮司の娘とされ、大内氏の侵攻を受け、兄の大祝安房を失うも、大薙刀を振るい味方を奮起させ敵を撃退したとされます。
天文10年(1541)10月、再び大内軍の侵攻を受けますが、またしてもこれを撃退し兄・安房の跡を継ぎ陣代となったとされます。またこの頃に一族の越智安成と恋仲になったようです。天文12年(1543)大内義隆は、陶隆房の水軍を派遣し、大祝氏の主筋の河野氏はこれを迎え撃つも一門の多くが討死し、越智安成もこの戦いで討死してしまいます。鶴姫は残存勢力を集め、夜襲を決行し大内軍を大三島から追い出しますが、その後 越智安成の後を追い入水したとのことです。
大山祇神社から西の鶴姫公園までの道は鶴姫ロードと呼ばれ、公園には鶴姫と越智安成の像が向かい合って立っています。『大祝家記』以外に鶴姫に関する記述が無いことから、伝承の域を出てはいないようですが、それはそれで良いのかも。
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2024/06/25 22:48
征夷大将軍坂上田村麻呂の要塞 (2024/05/23 訪問)
東北城探訪4日目岩手県2日目金沢城(朝日舘)を終えて同じ町内の南西に約3km程8城目の二桜城を初登城。
駐車場:特に無し、特養下の清水公民館に1,2台は可能?
参考資料:余湖図コレクショングーグルマップに依る。
鳥居の前に一時路駐し解説板、かさこじぞう、鳥居、標柱を撮影し、交通量が多く駐められないので特養寿光荘の駐車場奥に2、3台空きが有ったので一時駐めて、3郭の階段、切岸土塁、2郭の鳥居を撮影して早々に撤退、主郭まで登れませんでしたが致し方ありません。
通り沿いに「かさこじぞう」6体の地蔵と民話の解説板が有り、地元の方々に慕われて大事にされてる様子がうかがえます。
二桜城の解説板には最初の征夷大将軍坂上田村麻呂の記載が、名前だけで大感激です、平安初期蝦夷征伐以来、坂上田村麻呂の要塞、城郭として知られてるようです。奥州藤原氏の時代は家臣の照井太郎高春が居城、葛西氏の時代には葛西氏の一族が姓を清水に改めて280年居城、秀吉の奥州仕置きで葛西氏は改易、翌年の葛西・大崎一揆では清水氏も加担し敗れて滅亡した。その後は伊達氏の家臣が居城するも程なく廃城と成った。
岩手県2日目は夕刻で予定全て終了し宮城県古川市泊りへ。
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2024/06/25 22:28
大手が付け替えられた意味を考える (2023/12/10 訪問)
松浦党の新旧有田氏が本拠としたお城で南から北に大手が付け替えられている。大手が仮想敵を向いているとすれば敵は松浦党自体に変わったと理解できそうだが有田氏最後の城主は事実、松浦宗家と死闘を展開している。
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2024/06/25 20:24
再始動:樺木岳城(宮崎県五ヶ瀬町) (2024/04/25 訪問)
登り口に着いた途端に後悔しました。高低差が少ない城跡をチョイスしたつもりが山頂までの高さがある。岳と名前に入っているので当然ですよね。観念して訪問しましたが結構キツかったです。
標高922mの山頂に主郭と3つの曲輪を中心に中腹に幾つかの曲輪が配置しています。主郭東には櫓台ではないかと思われる高まりが有り、西側の堀切や土塁を確認する事が出来ます。藪の中に入る事は避けていたので斜面の竪堀の有無は確認していません。報告書では現在確認出来る範囲では南北280m・東西300mの中に納まるが今後の調査によってはは大きく城域が広がる可能性もあるとの事です。それに景観が良かったです、遠くに阿蘇の外輪山を外から眺める事が出来ます。
大作トクさん、大野城でもキャンプ出来るんですね。城廻人が城キャンプ出来るなんて良い環境だと思います。それに良い記事ですよ、一息ついた緩い記事からでもまだ見ぬ多くの方々の投稿が増えていくと良いと思います。
大作トクさんと爽やかトモさんも一之岳城行かれたのですね。私も一昨年の10月に行きました。しっかりウネウネと隅角石積を見逃して投稿はボツになりました。
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2024/06/25 19:58
石垣でお腹いっぱい (2024/02/17 訪問)
松坂城は松ヶ島城に変わる新たな拠点支配の城として、潮田長助の砦跡である四五百森(宵の森)に蒲生氏郷によって築かれました。江戸時代には松坂は紀州藩の藩領となり城代が置かれています。明治時代に破却され、建造物は全く残っていませんが、往時の見事な石垣が主要部を構成しており、初見から圧倒されます。近世城郭の先駆けともいえる城とされ、蒲生氏が当時の築城(石垣造り)技術の粋を凝らして築いた城だと思います。独自の形状をした二の丸の石垣、きたい丸・本丸上段・天守台・本丸と複数の曲輪を持つ本丸など実に見応えがあり、石垣だけでお腹がいっぱいになりました。
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2024/06/25 19:39
清須?清洲? (2024/05/22 訪問)
愛知の城を巡る旅、最後を飾るのは清州城。
清洲駅に降り立ち、まずは清洲古城跡公園を目指す。携帯で地図を見ながらなんとか到着。途中、あまり案内がなく結構迷ってしまった・・古城跡と謳っているが、完全に公園として整備されてしまっており、少しの石垣跡と信長&濃姫の像しか見ることができなかった。ちょっと残念。
公園側から赤い橋を渡ると大手門があり、その先には天主閣が!門から天主閣までの間には、小さいながらも日本庭園がある。朝から係の方が丁寧に手入れをしており、とても綺麗だ。信長塀なるものもある。天主閣の中にも様々な展示物があり、なかなか興味深い。
清須vs清洲問題。
ずっと気になっていたこの問題、清洲城のパンフレットに小さく以下のように記載があった。
慶長15年(1610年)の「清須越」以前に登場する場合は「清須城」「天守閣」と表記。家康の行った「清須越」以降、平成17年(2005年)清須市誕生以前の町村名は「清洲」と表記。当施設の名称は「清洲城」「天主閣」とする。
うーん、やっぱりややこしい・・
旅の最後のグルメは#居酒屋新幹線を真似して車内で。天むす(2種類)と味噌カツ、そしてビール!完璧!
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2024/06/25 19:23
記念館三笠 (2014/01/29 訪問)
記念館三笠の写真の残りです。戦闘艦ではありますが、当時の連合艦隊の旗艦だけあって、内装は豪華でどこかノスタルジックな雰囲気を漂わせています。艦橋も後の大和などの城郭然としたごついものと比べると簡素ではありますが、これはこれで良いと思います。
ワシントン海軍軍縮条約で廃艦となりますが、多くの人の努力で保存され、記念館となりました。戦後も米軍の娯楽施設となるなど惨澹たる有様でしたが、日米英の多くの人の尽力で再び記念館となり今に至ります。こういった経緯はどこか明治維新の後の城郭と通じるものがあるような気がします。
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2024/06/25 07:17
梶原景時 (2024/01/26 訪問)
梶原景時はかつて一宮を所領していて当地に館を築いたとされています。一之宮天満宮は館の一角とされ、そこに石碑が建っています。北側の宅地が土塁や堀跡の伝承地とされています。残存土塁が有ると案内板の地図に記載がありますが確認できていません。
源頼朝の死後、多くの家臣から反感を買っていた景時は正治元年(1199)11月、鎌倉を追放され、一族郎党を率い一宮館に引き揚げ、翌年正月20日午前二時ごろ秘かに館を出発したと案内板に記されています。景時一行はその日のうちに駿河国清見関近くで地元武士団と戦闘になり、生き残った者は山に引いて戦うも全滅したとのことです。
館の留守居役の家臣は翌年尾張に移ったとされますが、これは羽黒城に移ったということになるのでしょうか。
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