とやじょう

鳥屋城

和歌山県有田郡

別名 : 外屋城、外山城、石垣城
旧国名 : 紀伊

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小城小次郎

西の城まででも結構高かった (2024/11/04 訪問)

16世紀の初め頃から天正13年まで紀州守護の畠山氏が拠っていたお城とされ、羽柴秀吉による紀州攻めの際には畠山式部大輔なる人物がここで討死している。西の城まで行ければいいやと思って登ったがそこまででも結構高かったw

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ぴーかる

鳥屋城 (2024/03/02 訪問)

【鳥屋城】
<駐車場他>鳥屋城山公園公衆トイレ前に3台程駐車できる。<34.063573,135.260068>から狭いが西へ入る。
<交通手段>車

<見所>石垣・堀切・眺望
<感想>日帰り和歌山山城攻め4城目。現地説明板によると鳥屋城の築城年代は明らかではないが、1379年に山名義理が南朝征伐のために石垣城(鳥屋城の別名)を攻めたとあり、南北朝時代には南朝方の城であったことがうかがわれます。室町時代には紀伊国守護の畠山氏が入国し畠山氏や城代の神保氏が治めました。1585年に秀吉の紀州攻めに際して神保氏が内通して城は落城したとあります。
 鳥屋城山公園に城跡碑・説明板・展望台・遊具があります。公園から山頂の城跡まで1300mの登山ですがハイキングコースになっているので苦はなく登れます。登城距離は長いのにもかかわらず現在は登城途中に表面観察できる遺構は特には見られず、いきなり山頂部の城跡に着きます。城跡は東西に長い細尾根を削平しています。登った所の左手が段になって虎口・門跡のようにも見えます。その先の西端に広めの曲輪、尾根の南側全体に帯曲輪(帯曲輪が曲輪で尾根を背後の土塁としている見方もできる)を通しています。城跡の中心部の尾根に堀切を設けていて、堀切から東側の曲輪にはかつて後世に社(現在は倒壊している)があった曲輪壁に石垣、その下の帯曲輪に石列、帯曲輪の斜面に石垣が残されています。ここら一帯が東端になり、その東側は切岸・堀切跡になっています。
 東端の石垣・石列の残る一帯が主要部のようですが比較的に細めの尾根上の削平地で戦国期以降によくみられる広い主郭をもつ城跡ではない。南北朝時代以前に詰め城として築城されて以降、地形の改修を行わず廃城となったのだとしたら、古い縄張り遺構がみれて見所はあった。

<満足度>◆◆◇

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キンヤ

和歌山県の山城で珍しい県指定史跡 (2009/12/12 訪問)

城びとで投稿がお一方のみでしたので、ずいぶん前に行った時のもので恐縮ですが投稿させて頂きます。

金屋中学校の裏側に登山道の案内があり、階段を上ると直に城の説明板があります。
登山道はよく整備されていて30分位歩くと主郭の下に着きます。
そこから東側へ進むと祠へ登る通路があり、祠の背後に土塁と石垣がありますが、ここの石垣は後世のものかと思います。
その土塁の北側は急斜面となっていて天然の要害です。
祠の南側下に石垣があり、こんな山上に石垣があって嬉しかったです。
この先の東側の曲輪に向かおうとしましたが、道の真中に生々しい猪か何かの境域に入るなと言わんばかりの大量のフンがあり危険を感じたので、これ以上進むことを断念しました。
戻って主郭に登ると、割と狭い平坦地で所々に岩がありました。
更に西側の曲輪に向かったのですが、かなりの藪でしたので途中で引き返しました。
でも東西に伸びた尾根筋の山城ということは分かりました。
城からの眺望はとても良かったです。

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todo94

2年越しの攻城 (2016/03/26 訪問)

2014年、登城に時間がかかりそうだったのでパスしてしまった城です。遠くからも非常に良く見えるその見映え通りに登り甲斐がありました。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 湯浅宗基
築城年 南北朝時代
主な城主 湯浅氏、畠山氏、神保氏
廃城年 天正13年(1585)
遺構 曲輪、石垣、土塁、堀切、横堀(空堀)
指定文化財 県史跡(鳥屋城址)
住所 和歌山県有田郡有田川町中井原
問い合わせ先 有田川町商工観光課
問い合わせ先電話番号 0737-52-2111