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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:吉窪城 (2023/04/22 訪問)

福平城から転戦。「1号古墳」先駐車スペース(36.626474、138.122385)に駐車しました。

小田切氏の始祖は佐久郡臼田小田切郷の氏人で、鎌倉時代に地頭となり小市に移り小市今里等に居館を構え、背面に小市城(吉窪城)を築き戦乱に備えたそうです。
戦国時代、小田切駿河守幸長は、村上義清に属しその後、村上氏と共に上杉方に加わりました。
1557年(弘治3年)葛山城を守った頃は、春日・朝日・長嶺・久保寺・平林・布施・横山等組下七騎衆を率いた武将でしたが、武田方の火攻めにあい、越後勢の援軍到着寸前に落城し、幸長は戦死しました。
1561年(永禄4年)川中島合戦後、武田方の治世になってから、幸長の一子民部少輔は一時武田方より400貫の知行を受けたこともあり、末裔は高井郡に移ったと伝わっているそうです。

吉窪城山頂上に本丸があり、石壇の上に七社が祀られています。
本丸の南と西に石垣の崩れた土塁が残り、抜穴跡の窪みがあります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=旭山城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:福平城 (2023/04/22 訪問)

千見城から転戦。福平城標識(36.689404、138.063750)から狭い道を登ってゆくと今木八幡神社境内に着き、そこに駐車しました。

享禄年間(1528年~1532年)に構築され、文禄年間(1592年~1596年)までこの地を治めていた溝口伯耆守の居城と云われ、溝口城とも呼ばれています。
一説には治承年間(1180年頃)、今井四郎兼平が築いたとの伝説もあるようです。

今木八幡神社裏に土塁が残り、境内西側に空堀が残っています。古びて怖いです。
福平城標識場所から今木八幡神社境内までの道は本当に狭いです。神社に近づくと未舗装になりますので運転には注意が必要です。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=吉窪城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:千見城 (2023/04/22 訪問)

仁科城から転戦。登り口説明板付近(36.603968、137.910899)に路駐し、時間がないので登り口説明板を見て撤退しました。

天文年間(1532年~1555年)村上義清の命により、小川の大日方氏によって築かれたと云われています。
戦国時代に上杉方と武田方、また上杉方と小笠原方の間で、幾度も争奪戦があったそうですが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の命により、信濃に派遣された石川康正の支配下となったようです。
時間の都合で攻城せず入口で撤退です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=福平城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:仁科城 (2023/04/22 訪問)

牧之島城から転戦。説明板付近(36.545942、137.838386)に路駐し、本丸の仁科神社、仁科神社境内の道を進み、安倍神社(36.547128、137.838356)に向かいました。

平安時代後期には仁科氏が安曇郡一帯の国人領主となり、大町周辺の荘園「仁科荘」や「仁科御厨」を支配していたが、市内の舘之内に舘を築くと、この城は後詰めの城としての役割を果たしました。
1221年(承久3年)承久の乱に際し、仁科盛遠は朝廷側に付き鎌倉幕府軍と戦い敗れました。
戦国時代、仁科盛政が甲斐国の武田信玄に切腹させられ仁科氏の嫡流は途絶え、信玄は五男である晴清を仁科五郎盛信と名乗らせ城主に送り込みます。
信玄は越後国の上杉謙信に対する軍事上の重要拠点として盛信を配置し、城郭を改修させました。
1582年(天正10年)織田信長に攻められた武田勝頼は天目山に追い詰められ自刃します。
武田氏滅亡後に、この地を治めた小笠原貞慶も上杉景勝に対する軍事上の拠点として派兵したと記録されているようですが、廃城の時期は不明のようです。

仁科神社境内が本丸で、土塁が残っています。仁科神社には仁科氏や明治時代以降の戦没者が祀られています。境内の一画には仁科盛遠の顕彰碑や古い塚などが残されています。
本丸の北に「阿部神社」があり、仁科氏の祖先とされ大和時代からの古代氏族である阿倍氏が祀られています。
平安時代後期の前九年の役を戦った安倍貞任、宗任親子が祀られているとも伝えられています。
北の阿部神社に行く道の西に二の丸があり、車道となっている空堀の南に、三の丸があり畑になっています。
東には木崎湖があります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=千見城に向かいました。

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朝田 辰兵衛

赤い城さん,神奈川県コンプリート,おめでとうございます!

そろそろかな…とは思っていました。
伊豆,せっかくなんで行っちゃってくださいよ~!

お祝い画像は,ちょっと珍しい復元はね橋でも。
クイズではありませんので,軽く流してください。
わかったら答えていただいても🙆です。

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とっち

漆黒の烏城 (2023/05/14 訪問)

リニューアルが終わったと事で訪問しました。薄曇りの天気でしたが、漆黒の天守が映えますね。

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赤い城

成就院 (2023/05/14 訪問)

京急屏風浦園から徒歩で20分ちょっとですがこの日は野庭関城からの転戦。
徒歩で45分くらいかな。
成就院というお寺が城跡で、山門前の道路が空堀跡。
ピカピカの石碑が説明板になっています。
墓地の奥の方には土塁も残っています。
近くの笹下中央公園に犬走りもあるようですが帰ってから気づいたこと。
見ておきたかった。
北条氏の家臣間宮氏の城、間宮林蔵の祖先のようです。

で、神奈川県の登録城もコンプリートとなりました。
関東は離島が残りますがあそこは伊豆国、関八州コンプリートと言っても良いですかね?

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うさ

上ノ郷城 (2023/05/17 訪問)

蒲郡駅から徒歩で。
蒲郡博物館に御城印を頂いてから向かったので、かなりのお散歩になってしまいました。
畑の隅を通らせて頂き、作業中のお母さんに「お邪魔します」とご挨拶にしました。
これから暑くなるので、みなさん、熱中症には気をつけましょう。

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刑部

ダムを渡ると城址 (2023/05/06 訪問)

増山陣屋という所に車止めてダムへ向かいます、ダムの上を通り城址入口 門と案内板がお出迎え。
そこから結構急な上り坂を歩くこと遺構が所々見えて来ます曲輪が左右にあるので一つずつ攻略、やはり山城は面白いですねワクワクしながら巡りました。

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カズサン

本丸東崖切岸樹木伐採その後・素晴らしい景観です (2023/05/16 訪問)

 3月29日、4月10日と久野城を訪ね本丸東崖切岸の樹木伐採が進行中でしたので1ヶ月ほど経ち、その後の進捗は如何にと訪ねました。
 樹木の大木は伐採されて、小竹の群生も伐採、草等も刈られて、重機、伐採された樹木、小竹、草等は搬出されて奇麗に本丸東側が目視出来ます、また本丸東尾根筋の堀切周りも奇麗に整備されて、南側から北側からと目視確認がよく出来ます。
 今回の本丸東側の樹木等伐採整備は本丸東尾根筋より北に若干入り込んだ辺りで終了の様です。
 
 よく本丸東側の景観が整備されました、後は東の丸の東側北側の小竹の密集した土塁法面、竪堀辺りの伐採整備をお願いしたいところですが?、一昨年昨年当たりに本丸西側した本丸下段側の小竹群生切岸を伐採されましたが、竹の成長は早く、1年も過ぎると小竹の群生密集に成っています。
 袋井市、保存会の方々の努力の効果で見学探訪が出来大変感謝しています。
  

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じゅんじん

山中陣屋 (2023/05/05 訪問)

駐車場がわからずうろうろしちゃいました。国道から入るんですね。公園内に城址碑があります。お社もありました。

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イオ

【かるた】観音寺城の読み札と絵札

総石垣 魁(さきがけ)の城 観音寺城

安土城より20年も前に築かれていた総石垣は感動的でした…。
 

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todo94

国史跡 (2023/04/15 訪問)

奥山荘歴史館の展示を見学してからきれいに整備された城内を散策しました。水濠、土塁、門、北郭となかなか見栄えの良い城ですね。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:牧之島城 (2023/04/22 訪問)

川中島古戦場(長野県長野市)から転戦。丸馬出付近(36.561719、137.999793)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、香坂氏によって築かれたと云われています。
滋野系香坂氏代々の居城でしたが、川中島合戦で上杉氏に通じたため、1561年(永禄4年)武田信玄によって香坂氏は誅され、その名跡は娘婿の春日弾正虎綱が継ぎました。
その後、深志城主馬場信房によって牧之島城は改修され馬場信房が城代となります。
1575年(天正3年)長篠合戦で馬場信房が討死すると、翌年にはその子馬場昌房が城将となり、上尾城主の平林正恒も在城しました。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡すると、上杉景勝が牧之島城を奪い芋川親正を置いた守らせますが、1598年(慶長3年)上杉氏の会津転封により移っていきました。
1603年(慶長8年)松平忠輝が松代城主となると家老を置いて守られせますが、1615年(元和元年)の一国一城令によって廃城となりました。

丸馬出しや三日月堀など、武田流の築城跡が残っています。
遺構が見やすいよう整備されており、説明板も多いです。
小規模ながら素晴らしい史跡公園です。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=仁科城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:川中島古戦場(長野県長野市) (2023/04/22 訪問)

尼厳城から転戦。川中島古戦場史跡公園北駐車場(36.590128、138.186661)に駐車しました。

首塚 武田信玄と上杉謙信の一騎打ち像等を見学しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=牧之島城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:尼厳城 (2023/04/22 訪問)

須田城から転戦。尼厳山奇妙山岩沢登山口(36.569740、138.227723)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、城主は東条氏で1460年(長禄4年)に英多庄中条を東条遠江守が知行していたそうです。
1550年(天文19年)武田氏が村上氏の砥石城を攻めたとき、寺尾城主の寺尾氏は村上氏に叛して武田氏に味方しましたが、東条氏は村上氏に従っており、村上義清と高梨正頼が寺尾城を攻め落としています。
1556年(弘治2年)武田氏は真田幸隆に尼巌城の攻略を命じ、高坂弾正の加勢もあって尼巌城は落城、東条氏は越後上杉氏を頼って落ちていきました。
尼巌城を手に入れた武田氏は西条治部少輔に尼巌城の普請を命じ、武田氏の拠点として海津城ができてるまで重用されました。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡して上杉氏がこの辺りを支配すると、東条遠江守信広が尼巌城主に返り咲きました。
1598年(慶長3年)上杉景勝が会津へ転封となると東条氏もこれに従って移っていきました。

尼巌城は松代町の東の尼巌山に築かれています。

主郭の東側面は急坂で、尾根近くの山腹に畝状竪堀群があります。
下山時、野生のカモシカに遭遇しました。5mくらい先にいたのですが、ビビって写真を撮り忘れました。
山頂まで登り37~38分くらいでした。70歳前のおじさんにはちょっときつかった。
山頂の主郭から西へ伸びた尾根に堀切で区画された曲輪があるようですが、一郭到達で満足したことと&時間の都合で行っていません。
攻城時間は80分くらいでした。次の攻城先=牧之島城に行く途中、川中島古戦場に寄りました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:須田城 (2023/04/22 訪問)

苅田城(大城)(城びと未登録 長野県小布施町)から転戦。臥竜公園駐車場入口(36.640664、138.314608)から進入して駐車後、テニスコート北側の登り口(36.642278、138.314778)に向かいました。

須田城は井上氏の一族である須田氏の居城です。
戦国時代には、須田氏は須田郷須田氏と、日滝大岩郷須田氏にわかれ、武田信玄が北信濃へと勢力を伸ばすと須田郷須田氏はこれに従い、一方の大岩郷須田氏は上杉謙信に従っています。
その後、武田氏滅亡後に起きた「天正壬午の乱」で上杉景勝が北信四郡を手に入れると、須田満親が海津城の城将となり、真田昌幸が上杉方に転じた際には交渉役をつとめています。
その後、1598年(慶長3年)に上杉氏の会津への国替えの命が下ると、これに抵抗し須田氏は海津城で自害して果てました。残された者は上杉氏と伴に会津へ移り、須田城は廃城となりました。

現在、城址は「臥龍公園」として整備されており、土塁や竪堀などの遺構がわずかに残っています。
主郭に向かう途中に堀直虎廟堂がありました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=尼厳城に向かいました。

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にのまる

お花見🌸 (2023/03/29 訪問)

同僚と小田原城公園にお花見に行ってきました。
小田急線でびゅーんと行ってまずは足湯。それからごはん。
御用米曲輪の整備状況が見たかったので北入口から入城しました。御用米曲輪はもう 10年くらい発掘調査と整備を行っていますが、北西土塁の断面図が大きく表示され、柵越しに中を覗いてみると復元もかなりすすんでいて、いよいよ完成間近という段階にきている様子でした。オープンが待ち遠しいです。
久しぶりに天守内にも入り、1時間くらいかけて館内をじっくり見学。再建天守城カードや行けなかった講演会の資料集をゲットしました。お天気もよくて見晴らしも最高でした😄
常盤木門から二の丸を通って銅門へ。住吉橋から馬屋曲輪を通って馬出門から退出し、新しくできた三の丸ホールに隣接する観光交流センターのcafeで休憩。水堀越しに桜と隅櫓と天守のいい感じの写真が撮れました。
最後に幸田口門土塁とういろう屋さんに寄って帰りました。楽しかったです\( ˆoˆ )/

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トク

㊳【関ケ原の26人】(17)本多忠勝 (本多忠勝 陣跡) (2022/12/01 訪問)

(17人目)は「本多忠勝」です。
関ケ原の「本多忠勝 陣跡」を訪れてきました。

東軍随一の勇猛果敢な武将で知られた本多忠勝ですが、兵の数はわずか500、ちょっと少ない気もしましたが、徳川秀忠と行動を共にしている長男の忠政に兵の大部分を預けていたためのようです。忠勝は軍監として参加し(つまり作戦参謀でかつ豊臣恩顧の大名の監視役)そのせいか最初はあまり目立った活躍はありませんでした。次男の忠朝に戦は任せ、自らは家康陣(桃配山)と前線の中間に陣を敷き、前線で戦う福島正則や背後にいる南宮山の毛利軍の監視をしていたようです。現在の忠勝の陣跡は、何やら民家の裏庭みたいな所にあり、見学していたら住民のおじさんらしき人からじーっと見られまれました(勝手に人の庭に入られていい迷惑なのかも?)。静かに見学しましょう。

本多忠勝は今まで57度合戦をし、一度も怪我をした事がなかったようです😲! 腕には死者を弔う大数珠を下げて今回も家康の前方を守りました。14才で大高城の戦いから家康に仕え、大河ドラマでは山田裕貴さんがもうすっかり人気者になっていますよね! 三方ヶ原では叔父の忠真が、「行け平八郎~! おまえはおまえの好きな殿を守れ~!」と叫んで盾となって亡くなっっていったシーンには、ちょっと泣けてしまいました😭~!

忠勝は数々の戦で功を上げましたが、特に「伊賀越え」では家康を最後まで守り抜き、無事岡崎まで帰還させました。家康にとっては最も頼りになるボディガード的な存在だった事でしょう。ここを「どうする家康」ではこの後どのように描かれるのか? 私は楽しみにしています😊!

関ケ原の戦いの終盤、島津義弘が猛スピードで自陣の前を横切ります(島津の退き口)。それを追う井伊直政と松平忠吉も目の前を駆け抜けます。それを見た忠勝は自らもその後を必死で追いかけます。しかし途中で愛馬が撃たれ、それ以上は追うのはやめてしまいました。代わりの馬で追おうと思えば追えたはずです。なのにやめてしまいました。それは何故だったのでしょうか?

私は本多忠勝の陣に立ち、島津義弘が横切ったという目の前の道を眺め、考えてみました。それはきっと、忠勝の心の中にあった「武士の情け」がそうさせたのではないでしょうか?・・・🤔

次は、忠勝の関ケ原後の居城「桑名城」に続きます。
 

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小城小次郎

源頼朝がここにいたのかもしれない (2023/01/03 訪問)

石橋山の合戦で敗れて安房に逃れた源頼朝を最初に庇護した安西景益の居館とされるお城で、それが本当であれば頼朝はこのお城に滞在していたことになる。遺構らしき遺構はないがそれがまた鎌倉時代っぽいと言えば言えなくもない。

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