みんなの投稿

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生駒王子

GW (2023/05/06 訪問)

人が…多かったので、あまりゆっくり見学できず、
人が写らないように写真撮るのに苦労しました。

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三浦の晃ちゃん

伊達騒動の城 (2023/05/08 訪問)

山本周五郎さんの小説、「樅ノ木は残った」の関係のお城です。以前に、読んていたのですが、ここに来るまで、気が付きませんでした。
大きな建物は、最近の建築物ですが、隣に、江戸時代からの、隅櫓があります。

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三浦の晃ちゃん

ちょっと、がけ崩れがありました。 (2023/05/08 訪問)

伊達政宗公が、仙台に城を築く前、12年間の居城です。たぶん、豊臣秀吉公が天下人だった時期だと思います。現在は、城山公園になっています。本丸まで、車で登れます。ただ、何らかの災害の影響らしく、がけ崩れのようなところがあって、立ち入り禁止に、なっているところがありました。
また、本丸跡には、銅像が立っていますが、これは、元々、青葉城址(仙台城址)に、あったものが、現在の銅像と入れ替えで、移ったものです。

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びーこ

花巻城と神楽と大谷くん (2023/04/29 訪問)

イトーヨーカドーの目の前にある鳥谷ケ崎公園から橋を渡って登城開始。すぐに本丸公園に辿り着く。公園というだけに綺麗に整備されているが、城を連想させるのは復元された西御門と御台所前御門跡の石碑くらいか。案内図には堀跡や土塁、門跡が書かれていたが、素人目にはちょっと見分けがつかなかった。

花巻小学校の周りを歩いていると、どこからか太鼓の音が・・どうやら島谷崎神社からのようだ。鳥居をくぐって中に入っていくと、神楽奉納が行われていた。生で神楽を観るのは初めてで、しばし足を止めて見入ってしまった。ちょっと感動!

神社から坂を下って、野生のつつじを堪能しながらまた坂を登っていくと、大手門跡が出現した。傍らには「時鐘 南部盛岡城楼鐘」が厳かに鎮座していた。岩手県指定有形固定資産で、現在の鐘楼は昭和54年8月に新築したものだとか。

大手門跡のすぐ隣に花巻市役所があり、大谷くんや佐々木郎希くんの垂れ幕が!本日2回目のちょっと感動!

最後は、大谷くんが学生時代に通ったという食堂へ。最近の昭和レトロブームも手伝って、食堂は大いに賑わっていた。なんだか懐かしい見た目と味のプリンパフェを頂いた。大谷くんも食べてたのかな〜?
なんだか城以外で楽しんでしまった、花巻城の登城だった。

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キンヤ

市街地に土塁と空堀が良く残された大変貴重な城 (2023/05/04 訪問)

鎌倉時代の1218年に小坂光善が築城したとされます。
その後、小坂光善は近江へ移り住みましたが、子孫の林重之の代に上条城に戻り、名字を「小坂」から「林」と改姓したと云われます。
1584年 小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉軍に付き、池田恒興らが三河中入りの足掛かりとして上条城へ入城したとされます。
その後、1586年に廃城となりましたが、林重登が上条城跡に屋敷を構え、林金兵衛の代まで大庄屋として務めたそうです。

現在、本丸は月極駐車場となっており、南側に林金兵衛の碑があります。
周囲は立入り禁止となっていますが、駐車場や周りの道から土塁と空堀を見ることができます。
草ボーボーでしたが、土塁が南西から北西角の櫓台で曲がり北東にかけて残り、その土塁に沿って外側に空堀が巡っています。
本丸以外は市街地となっていますが、かつては本丸の周りを二の丸・三ノ丸の土塁・空堀で三重に巡らされた大規模な城だったようです。

尾張の平城では市街地に遺構が良く残された大変貴重な城だと思います。

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AIAI

松本城行ってきた (2023/05/06 訪問)

長野にある国宝現存十二天守にやっと行けた。


月見櫓の中は順路の一番最後でした。


小天守は順路外。隣接してても入り口分からず。


太鼓櫓の桝形、圧巻。階段が急勾配なので横向きして登る。


良い城であ~る。

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ぴーかる

続百名城 増山城の支城「孫次山砦」 (2023/04/02 訪問)

【孫次山砦】富山県砺波市増山
<駐車場他>道路脇<36.655271, 137.046604>に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>堀切・竪堀・曲輪
<感想>1泊2日北陸山城攻めの旅2日目7城目。城びと未登録の孫次山砦は続百名城の増山城跡の最北東部に位置し、増山城の北側を守る出城としての役割があったようです。後で行った増山城があまりに巨大だった為となかなかの見所ある出城だったので、ここは別途投稿させていただきます。
 孫次山砦の築城は定かではありませんが、増山城の北の守りとして神保氏が築城したものと思われます。上記ポイントの山側に登れそうな踏み跡(添付写真)がありますのでここから登りました。または右手の谷から登り易そうな場所を見つけて直登してもよさそうです。写真の通り進むと左手に竪堀が表れますので、竪堀の堀底を登って後は北に向いて山を直登します。登りきった所が南北に伸びる尾根曲輪に出ます。北まで進むとやや広めの曲輪にあたり、こんどは東西に尾根曲輪堀切が伸びていて所々堀切で仕切っています。この場所から東へは少しだけ、西方向に尾根曲輪が続き、深い堀切の先にさらに7~8m高くなった削平地らしきものが見えますので頑張って堀切渡りをして登った所が主要部と思われます。少し鬱蒼とした中に城跡の説明板があります。主要部から更に西の尾根スロープを下って進み着いた先の南側が増山城のもう一つの出城の亀山城と繋がります。繋がりますが、接続曲輪が長方形にかなり深く削って低く、普通では降りられない造りになっています。亀山城からはもっと急な切岸になっています。この場所は相当削って手が入れられていて見応えあります。
 個人サイトの方の長大な竪堀がどうも見つけられなかったようです。経年落葉で埋まってしまったのかもですが、除いてもなかなかの見応えある出城で充分1城分の規模です。

<満足度>◆◆◇

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宗春

田峯城 (2023/05/02 訪問)

愛知県に帰省するにあたり、地元の友人と城攻めしてきました。その②田峯城です。

主郭には御殿がありますが、当時の物ではなく模擬御殿だそうです。物見櫓や門も模擬再建された物との事。若干の残念さはありますが、よく整備されています。

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朝田 辰兵衛

長野市立博物館/川中島古戦場(長野県長野市) (2023/05/07 訪問)

川中島古戦場史跡公園内にある,長野市立博物館で『特別展示 川中島の戦い』が開催中です。
展示室では,甲冑や書物などが集められていました。
にのまるさん,勝頼公の直筆書状も展示されていましたョ!
甲陽軍鑑に基づいた,川中島の戦いのパネル展示があり,第4次川中島の戦いのビデオも流されておりました。パネル展示はちょい武田寄りと感じました。
アクセスは,長野駅前3番乗り場から,30番松代行の路線バスに乗り,川中島古戦場バス停下車。片道料金は,480円(全国交通系IC不可)。所要時間は,約30分。休日は,およそ30分に1本の割合で運行されています。この系統をさらに乗れば,松代城にもアクセスします。

そうそう,にのまるさんの小山城の投稿にあった,御坂西小学校前を通過する路線バスですが,私が御坂城攻城に利用したバス路線です。
復路にて,御坂西小学校前で下車して(ローソンから曲がって)小山城を攻城するパターンは第2案で用意しておりました。
決行した第1案は,甲府駅で乗り換え,山梨県立美術館でミレー展を鑑賞すること。人生2度目のミレー展でした。
次回,このエリアを攻めるプランは考えてあります。
甲府駅⇒(路線バス)⇒小瀬スポーツ公園⇒(徒歩)⇒勝山城⇒(徒歩)⇒小山城⇒(徒歩)⇒御坂西小学校前⇒(路線バス)⇒山梨県立博物館or八田家御朱印屋敷⇒(路線バスor徒歩)⇒石和温泉駅⇒(JR)⇒甲府駅
というループです。
甲府駅⇒(路線バス)⇒小瀬スポーツ公園間は,本数が少ないので,朝勝負でここからスタートかな…と。
もっと楽しいルート設定ってあります?
例えば,桔梗信玄餅工場テーマパークに寄るとか…。

赤い城さんへ。
真壁城,当たって良かったです。
にのまるさんの書き込みを見ると,筑波山ではないようにも受け取れますが…。
行ったことがないので,ここから眺望する方角が特定できません。
ま,結果オーライでしたね。
次回コンプも楽しみにしております。

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刑部

本丸が崩れたまま (2023/05/05 訪問)

本丸の土塁・切岸が崩れたままでしたが全体に見所のある城址でした!

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トク

㉞【関ケ原の26人】(16)黒田長政 (中津城:黒田官兵衛資料館) (2023/01/05 訪問)

(16人目)黒田長政の続きです。

中津城の天守入口前には「黒田官兵衛資料館」があります。ここには官兵衛に関する資料や、黒田家が豊前に入った時の様子、また九州の関ケ原での官兵衛の様子などが説明展示されています。ここにおもしろいエピソードが書かれてあったので皆さんに御紹介します。

これは、長政が関ケ原の後に中津へ凱旋し、父の官兵衛へ戦勝を報告した時の会話です。

【長政】
父上、喜んで下され。家康様はこたびの私の働きを、私の手を握ってよくやったとほめて下さいました。
【官兵衛】
その握った手は、右であったか左であったか?
【長政】
右手でございます。
【官兵衛】
ならばその時、そなたの左手はいったい何をしておったのじゃ!
【長政】
・・・・・・?

官兵衛は空いている左手でなぜ家康を殺さなかったのか! と長政に言いたかったようです。実はこの時、官兵衛にはある野望がありました。よって、家康にほめられて浮かれている長政を戒めたようです。
(何と厳しい父親!さすが官兵衛🤔)

次は、(中津城:黒田の石垣)に続きます。
 

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城好きのメガネ

「松尾山城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★★
松尾山城は浅井氏の家臣・樋口直房が境目の城として入る。堀氏・樋口直房が竹中半兵衛の調略によって織田氏に降ると、不破光治が城主となる。織田信長が近江を掌握すると廃城となる。関ヶ原の戦いでは小早川秀秋が陣を敷く。関ヶ原の戦い後は再び廃城となる。現在、曲輪、土塁、堀切、竪堀等が遺されている。

<アクセス>
JR関ヶ原駅 徒歩50分

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城好きのメガネ

「太尾山城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
太尾山城は近江の守護であった佐々木氏が中山道・北陸道を監視するために築いたとされる。南北朝時代には京極氏と六角氏の境目の城として利用された。戦国時代には織田信長に攻められ廃城となる。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
JR米原駅 徒歩15分

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カズサン

【信濃・阿島陣屋】長野県喬木村 旗本知久氏陣屋 (2023/05/02 訪問)

 住所:長野県下伊那郡喬木村阿島3292(現-喬木北保育園と特老喬木荘)
 駐車場:長野県下伊那郡喬木村阿島3292(現-喬木村公民館と茶室曙月庵の間の駐車場)

 ここの阿島陣屋も城びと会員の肉球さんが4月30日に「阿島陣屋」を投稿され初認識しました、調べると城郭放浪記さんに写真入りで登録されており、飯田市に近く天竜川の東岸地域、今回の日帰り伊那路城散歩の経路に当たり訪ねる事にしました。

 歴史は、慶長6年(1601年)知久則直によって阿島3000石の旗本としてここに陣屋を築き、以来267年この地を領知し11代継承し明治を迎える、知久氏はこの地の豪族で武田に敗れ衰退するも家康に仕えて戦功をあげ関ケ原後阿島陣屋を構えた。(案内板による)

 現状は、元喬木小学校が移転して喬木北保育園、特別養護老人ホーム喬木荘と成っている、明治維新後陣屋建物は取り壊されて現存するのは陣屋時代の同じ場所に知久氏陣屋御殿茶室曙月庵が残って居る。曙月庵の屋根は銅板引きで緑青に覆われて庭園の植栽ともマッチし良い雰囲気を醸しています。
 また南側の通りに陣屋時代の石垣が残っており、「切込接乱積のすだれ仕上げ」の造りで石面に飾りが付けられており見事な石垣です、南面に模擬冠木門、石垣上に白塀を設け、同面側に案内板、石碑が設置されてる。
 
 阿島陣屋へは山本陣屋を終えて経路の効率上先に鈴岡城に寄り、天竜川を渡り東岸の喬木村へ鈴岡城からは直線距離約6~7km程、新緑若葉の伊那路、晴天で気持ちいドライブでした、久しぶりに伊那路の天竜川を見ました。

 情報ガイドは、城郭放浪記さん、グーグルマップ。と勿論城びと会員肉球さん投稿に触発されての登城です、肉球さんありがとうございました。
 

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イオ

【かるた】会津若松城の読み札と絵札

赤瓦 燦(さん)と輝く 会津若松城

訪れた日は雲一つない快晴で、抜けるような青空に赤瓦が燦然と輝いていたのが印象的でした。

なよ竹の 覚悟哀しき 鶴ヶ城

会津びいきとしては、白虎隊自刃の飯盛山だけでなく、一族自刃の悲劇の地となった西郷頼母邸阯や娘子隊隊長・中野竹子の墓所なども訪れています。西郷千重子の辞世「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそ知れ」と、中野竹子の辞世「もののふの猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬわが身ながらも」をあわせて詠んでみました。彼女たちを詠むに会津若松城ではどうも違和感があるので、城名はあえて鶴ヶ城で。
 

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:麻績城 (2023/04/20 訪問)

屋代城から転戦。搦手の北山口付近空スペース(36.469533、138.041515)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、服部氏によって築かれたと云われています。
服部氏が虚空蔵山城(麻績古城)の守りを固めるために、背後の山に築いたのが始まりだそうです。
服部氏の後は、武田氏に属した青柳城主青柳清長が麻績氏を称して麻績城主となりました。
武田氏滅亡後、上杉景勝と小笠原貞慶によって争奪戦が繰り広げられ、最終的には小笠原氏の所領となりました。

狭い尾根の登り下りはちょっと怖く、へびにも遭遇しビビりました。
遺構として堀切、空堀、竪堀を確認しました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=麻績古城(城びと未登録 長野県麻績村)に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:屋代城 (2023/04/20 訪問)

松田家館から転戦。成田山不動尊石段前(36.538653、138.128837)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、屋代氏によって築かれたと云われています。 屋代氏は村上氏の一族で屋代家盛より始まるようです。
1553年(天文22年)武田氏が侵攻してくると屋代正国は塩崎城主の塩崎氏とともに武田氏にいち早く降伏し、村上義清は葛尾城を失って越後の長尾氏を頼って落ちていきました。武田氏に属した屋代正国は荒砥城主となります。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡すると織田信長の家臣森長可がこの辺りを支配しますが、信長が本能寺の変に倒れたため森氏は撤退、越後の上杉氏の勢力が伸びてきます。
上杉氏は村上義清の子村上国清を海津城主に任命すると屋代秀正を副将として二の丸に配しますが、1584年(天正12年)秀正は上杉氏を離反して荒砥城に籠もりました。
しかし、荒砥城で上杉氏の攻撃に対抗できず、秀正は家康を頼って落ちていきました。
その後、屋代氏は秀正の子忠正が安房国北条に10,000石を領して大名となりますが、三代忠位の時に改易となり、子孫は旗本として存続しました。

屋代城は屋代駅の東の一重山に築かれ、現在は一重山公園として整備されており、北端の成田山不動尊から尾根伝いに遊歩道があります。
主郭から北へ伸びた尾根に堀切で遮断されたた曲輪群が先端の成田山不動尊まで連なっています。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=麻績城に向かう前にホテルに戻って朝食をとります。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:松田家館 (2023/04/20 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に、武水別神社駐車場(36.517733、138.103005)に駐車し、松田家館跡(36.519004、138.101852)に向かいました。

松田氏は藤原姓で鎮府将軍藤原秀郷の子孫が相模郡松田郷におり、その子孫が松田氏を称しその子孫が当地に来て八幡七郷を領し八幡宮に仕え「八幡の松田氏」となりました。
村上氏が滅んだ後、武田氏につかえ、その後上杉に仕えました(民部助と名乗る⇒織部佐)。1598年(慶長3年)上杉景勝が会津に移封した際、織部佐は随い神職は弟縫殿助に譲りました。
以後神主にて人民を支配するを停められ、神領200石を社僧等分して受領、明治維新まで続きます。明治6年以後は神宮寺の関与がなくなり、松田家と社家により神社の運営がなされているそうです。

朝早いので、松田家館は開いていませんでした。
武水別神社に「川中島の戦い初戦の地」の碑がありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=屋代城に向かいました。

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はるる

本丸からの景色が最高 (2023/05/05 訪問)

「斐太歴史の里」に行き、職員?の気さくなご年配の女性から、東登山道から、北側に降りるルートが良いと教えてもらう。
他の口コミで東登山道から南に抜けるルートを見たので、そのように行きたいと言うと、南に降りたら駐車場が遠いよ!と言われ、確かに!
東登山道から、二ノ丸跡、三ノ丸跡がオススメの鑑賞スポットとのことでした。
オススメ通り東登山道から、北側に降りて来たら「無事に帰って来たね」と声を掛けてもらい、私たちの事を心配してくれていた様子でした。

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にのまる

天正壬午の乱と鳥居元忠 (2023/03/11 訪問)

田野の勝頼公廟所、景徳院を訪れたあと、甲斐大和から石和温泉に電車移動。
路線バスで御坂西小学校前下車、徒歩15分くらいでした。そこかしこに見る“御坂”の二文字に思い当たる節があり、バス路線検索。どうやら朝田さんが甲府から御坂城へ向かわれた路線の真ん中あたりを切り取った区間のようでした。
初見での印象は少し広めの居館跡でしたが、現地説明板の「天正10年の甲斐国争乱の時、御坂城の北条勢に対峙する徳川家康は、鳥居彦右衛門にこの城を修築させ、騎馬130、雑兵600をもって守らせたと伝えられる」の文言にようやく黒駒合戦と結びつき、桜の開花を待つグラウンドに緊張感を感じました。
高さのある土塁の上を一周。説明板にあった東屋(櫓台)の礎石は写真⑥。ごんぱち塚はお隣の敷地っぽかったので遠目に見るだけにとどめました。
御坂城……行きたい。

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