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カズサン

見所の本丸大空堀はツツジ満開 (2023/05/02 訪問)

 大島城のもう一つの見所は二の丸と本丸の間にある大空堀です、現在ツツジが植栽されて満開をやや過ぎたところ、今年は桜もツツジも咲が早いようです、5月の時期ですから7年前と同じく鯉のぼりが群れ泳いでいました、本丸跡は明日のツツジ祭りの準備中、藤棚の藤も今盛り、こちらのエリアは大勢に人で賑わっていました。
 本丸、二の丸、二の丸馬出を廻り、新緑若葉樹林に包まれる武田氏築城の城跡を久しぶりに堪能しました。
  
 次は今回の日帰り伊那路城散歩の最終目的城跡高遠城を目指します。
 

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カズサン

見所の丸馬出二重三日月堀周辺 (2023/05/02 訪問)

 日帰り伊那路城散歩6城目、松岡城を終えて6~7km程北上し天竜川西岸の大島城へ、平成28年5月2日から7年振り奇しくも月日が同じ2度目の登城です。
 駐車場は以前から整備されトイレ完備、資料ボックス、資料衝立至れり尽くされています、翌日3日は台城公園のツツジ祭り、混む前日でラッキーでしたが人出は多くて賑わっていました。

 大島城の見所の一つは、大手丸馬出と前面の二重三日月堀、現在丸馬出内は民家が建っており入れませんが、丸馬出の虎口が北と南に、三の丸内部に続く枡形虎口が構えています、丸馬出に続く三の丸南西角に櫓台が控え横矢が掛ります、三の丸の南側には切岸と横堀が天竜川まで伸びています、樹木竹林が伐採されて見やすくなっています、また三の丸の丸馬出裏の外堀も深く広くて見ごたえあり、北西角に小馬出が大手丸馬出を守るように控えています。
 
 もう一つの見所は本丸・二の丸間の大空堀は続きで投稿します。
 

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イオ

【かるた】彦根城の読み札と絵札

比類なく 華麗な天守 彦根城

小ぶりな天守に、あの巨大な姫路城大天守をも上回る数の破風を設け、見る角度によって表情を大きく変える比類なく華麗な天守。さすがは国宝ですね。

足軽も 庭付き戸建て 彦根城

多くの藩では足軽は長屋住まいが一般的なんでしょうけど、彦根藩ともなると庭付き一戸建てなんだなぁ、と感心した覚えがあります。大外堀にあたる芹川沿い、大坂方や西国大名に対する最前線を担わせるだけの待遇をした、ということでしょうか。
 

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー64城目 (2023/04/15 訪問)

猿沢城からの転戦です。桜はほぼ終わっていました。ピクミンブルームのビッグフラワーで櫓や門の名称を確認しながら楽しみました。中世の土の城の部分も今回が一番時間をかけているかとおもいます。9時に合わせておしゃぎり会館にて無事、スタンプをゲットすることができました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:三水城 (2023/04/20 訪問)

狐落城から転戦。車は狐落城攻城での空スペース(36.441950、138.173484)に置いたまま、狐落城から徒歩で転戦。

詳細は不明のようですが、狐楽城とともに村上氏の支城であったと云われています。麓には福沢氏の館があったそうです。

山頂の主郭は大きくはありませんが、堀切は見ごたえがあります。
主郭側面は藪が多くてよくわかりません。
下城は再び、狐楽城経由で戻ります。
下城時、三度、枯葉に足を取られ、滑って転んでしまいました。
リュックを背負っていたので、クッションになってケガはありませんでしたが、下城時の枯葉は恐怖です。
狐落城と三水城の城域がよくわかりませんが、狐落城背後の堀切を境として攻城時間を判断しました。
攻城時間は60分(三水城➡狐落城の下山時間含む)くらいでした。次の攻城先=室賀城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:狐落城 (2023/04/20 訪問)

出浦城から転戦。空スペース(36.441950、138.173484)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、葛尾城主村上氏の支城です。
1553年(天文22年)甲斐の武田信玄が村上氏の葛尾城を攻めに侵攻してきたとき、大須賀久兵衛が武田に味方して狐楽城に居た小島兵庫助、小四郎、与四郎の三兄弟を討ち取っています。

狐楽城は千曲川西岸の標高660m付近に築かれており、北東尾根先には十六夜観月殿、背後の標高789.6mには三水城があります。
狐落城・三水城登山口➡十六夜観月殿➡狐落城➡三水城の順番で巡りました。
十六夜観月殿からしばらくの間、平段が所々残っていて、山道の途中には石段や竪堀が確認できます。
主郭の側面には石積があります。堀切は見ごたえがあります。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=三水城にこのまま徒歩で向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:出浦城 (2023/04/20 訪問)

青柳城から転戦。自在山登山口付近空スペース(36.450771、138.162712)に駐車し、自在山登山口(36.449799、138.161277)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、城主は村上氏一族の出浦氏と云われています。

真田昌幸の家臣として有名な出浦盛清(昌相)が城主を務めたたと伝わるも詳細は不明のようです。
登山道は南東麓の自在神社にあり、山腹の境内を経て山頂まで続いているようですが、時間の都合で自在神社(400m位)で引き返しました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=狐落城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:青柳城 (2023/04/20 訪問)

青柳館(城びと未登録 長野県筑北村)から転戦。青柳城址公園駐車場(36.428504、138.036451)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、建暦年間(1211年〜1213年)頃に青柳氏によって築かれたと云われています。
青柳氏は伊勢神宮の麻績御厨預職としてこの地に根付いた一族と云われています。
青柳氏は信濃守護小笠原氏に従っていましたが、1553年(天文22年)武田氏が苅谷原城を攻略し、川中島方面に侵攻したとき、青柳氏は武田氏に属し、その後、麻績城主となって麻績氏を称します。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡し織田信長が本能寺の変で倒れると、一時越後の上杉景勝に従います。
しかし、徳川家康の援助を受けた小笠原貞慶が松本に復帰すると、青柳氏は再び小笠原氏に従います。
天正11年(1583年)上杉景勝が青柳に侵攻すると、小笠原貞慶とともに上杉軍と戦ったが大敗し青柳城は落城しました。
しかし、景勝は急遽陣払いをして越後へ戻ったため、再び青柳氏が青柳城主となりますが、1587年(天正15年)青柳頼長は小笠原貞慶によって松本城で謀殺され、青柳氏は滅亡します。青柳氏滅亡後は小笠原氏家臣の松林氏が在城しました。

現在は青柳城址公園として整備されています。駐車場からの入口に模擬櫓門が設けられています。
堀切、竪堀、石垣、土塁が確認できます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=出浦城に向かいました。

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にのまる

藤田氏15代の城 (2023/03/15 訪問)

18きっぷ2回目は烏山城(栃木県)へGO!のつもりで出かけたのですが、1本目の私鉄乗車中にきっぷを持って出るのを忘れたことに気づき……。
ただでさえ5回分使い切れるか微妙なところ、JR新宿⇔烏山往復5,000円超の自腹(追加出費)は痛すぎるので、池袋から東武線で行ける花園城に行き先変更しました。烏山城に備えてトレッキングシューズを履いていたので装備も問題ありません。

寄居町下車。鉢形城は駅の反対側です。
Googlemapを見ながら歩いていると途中の正龍寺に「北条氏邦の墓」と「大福御前自刃の地記念碑」の史跡が示されていたので寄ってみました。鉢形城開城の陰にこのような悲しいできごとがあったのかと、初めて知る逸話に、18きっぷ忘れてよかったのかもしれないという気持ちになりました。
藤田善導寺にも寄って、諏訪神社花園城登り口へ。おみやげボックスの地図・縄張り図をいただき、諏訪神社右の登城口から登りました。
カサカサの枯葉が積もる登城路を竪堀を鑑賞しながら登っていきます。途中からロープがあって助かりました。なかったら滑って転んで大変そう。
堀切3に到着し右手の三郭へ。東の曲輪(四郭)にも降りられそうでしたがやっぱり滑りそうなのでやめて二郭へ。……ですが、そう簡単には上がらせてもらえません。写真⑤のように手すりを設置してくださっているのですが、そこまで手が届かない!私がもう少し背が高くて手足も長かったら届くのに(´;ω;`)
ここで無念の敗退かと諦めかけたのですが、特に危険な場所ではないし、あと一歩進んで木の根っこに助けてもらえばきっと行ける!がんばって登りました。ふうっ……。
堀切4から本郭へも狭い崖で、welcome感ゼロ。大勢で攻めても渋滞発生になりそうなところばかりです。
本郭は上下2段に削平されていて、最後まで魅せてくれます。ありがたいことに立派な石碑がありました。ここまで運ぶのたいへんだっただろうな。
ゴールインの感動に暫し浸って下山開始。来た道を引き返すのではなく堀切5から下りました。ここの堀切も大きくてかっこよかったです。そしてやっぱりロープが頼りです。下山用の案内を設置してくださっているおかげで分岐トラップを楽しみ、竪堀鑑賞しながら下りられました。
下山途中で登ってきた道と合流しました。石積みのしっかり残る一画を見て、最後の下りです。
と、そこへ下から登ってこられる方の姿が!まさかこんなところに人がいるなんて思っていないでしょうから、びっくりさせてしまわないようにこちらからご挨拶し、少しお話しました。前回は雨で登りきれなかったのでリベンジに来られたとのこと。諦められないその気持ち、一周してよくわかりました。
諏訪神社に戻って終了です。

花園城は個人の方所有のお城だそうです。真新しい案内や頑丈なロープ、手作りのおみやげ(縄張り図)ボックス、整備等も有志の方のご尽力によるものと思います。ありがとうございます。
18きっぷを家に忘れるというミスが発端ですが、素晴らしいお城に行けてよかったです。

この日行けなかった烏山城は、日を改めて行ってきました。

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キンヤ

今は公園・野球場となっている大野氏の城 (2023/05/05 訪問)

織田信長の命により大野治定(伊賀守)がこの地に移り住み、その後大野定長(佐渡守)等の居城だったと伝わります。
大坂の陣で豊臣方の主将格で戦死した大野治長の出生地の説の一つでもあるようです。
治定が治長の祖父、定長が治長の父にあたります。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの時、羽柴秀吉方の砦として利用されたそうです。

歴史的に興味深い城ですが、遺構は消滅しています。 
城跡は木曽川の河川敷にある大野極楽寺公園となっており、自然に囲まれた気持ちいい所にあります。
野球場の一画に大野城跡の石碑、城の詳しい由来文の石碑が建てられています。

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けむん

久保田城登城 (2023/05/04 訪問)

復興櫓の全景が、木々で、うまく撮影出来ません。佐竹歴史文化博物館が休館中のためか、歴史的な情報が取りづらいのかな。

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飛騨市

飛騨の城跡へ行こう!2023 専門家と巡る山城ツアーを開催!

飛騨市には中世の山城が数多く残っています。
今回のツアーでは、中世の山城や庭園を専門家の解説付きで巡ります。

日時・コース等
Aコース:5月21日(日曜日) 定員20名
行先:傘松城跡・江馬氏館
講師:中井 均氏 (滋賀県立大学名誉教授)

Bコース:5月28日(日曜日) 定員20名
行先:古川城跡・小島城跡 
講師:内堀 信雄氏 (岐阜市ぎふ魅力づくり推進部 文化財保護課 主幹)

Cコース:6月10日(土曜日) 定員20名
行先:小鷹利城跡・野口城跡
講師:加藤 理文氏 (日本城郭協会 理事)


参加費
各コース お一人様2,000円

ご予約
【インターネット】
濃飛バス受付サイト https://www.nouhibus.co.jp/hida_yamashiro/
【電話】
濃飛バス ツアーデスク 0577-33-0131 (土日祝9時00分~17時00分)
トラベルセンター 0577-32-3267 (平日9時00分~18時00分)

※先着順となりますので、お早めにご予約ください。

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カズサン

先端帯曲輪と横堀周辺 (2023/05/02 訪問)

 7年振り2度目の登城で、本曲輪東先端に帯曲輪が有り下を覗くと切岸・横堀が見えるので、1の堀南側から下に降りて本曲輪の南に在る張出帯曲輪、切岸、南から東に流れる横堀・土塁、東の上段帯曲輪、下段帯曲輪を観察探訪しました。
 クヌギ林の新緑若葉が光に輝き木漏れ日の射す土塁・横堀・切岸を観察、まだやぶ蚊も居なく落ち着いての探訪と成りました、いい季節です。
 縄張り図を見ると東尾根筋南、北と多段の帯曲輪が連なって落ち込んで市場口虎口まで連なってる様子ですが本曲輪東の上下二段の帯曲輪と横堀まで、更なる下の帯曲輪には行きませんでした。
 

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駿府城

カラーコーンの案内表示が新しくなりました!

駿府城天守台発掘調査現場マニアの方はお気づきかと思いますが、カラーコーンの案内表示が新しくなりました!
以前は背景が白でしたが、現在は黒になっています。

遠くからでもより見やすく、分かりやすくなったとの声をいただいております。
こちらの案内表示は現場作業員の手作りで、1つ1つ丁寧に心をこめて作られています。

こちらのカラーコーンはどこにどのような遺構があるのか分かるように3色(緑・赤・黄)に色分けされています。
色は時代ごとに分けられており、緑は慶長期(江戸時代)、赤は天正期(戦国時代末期)、黄は今川期を表しています。

発掘調査現場にお越しの際は、カラーコーンの案内表示に注目しながら見学してみてください♪

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カズサン

連郭式で5つの空堀と曲輪が見所 (2023/05/02 訪問)

 日帰り伊那路城散歩の5城目、4城目の阿島陣屋を終えて、松岡城へ天竜川の西岸で岡島陣屋からは直線で約7~8km程、二度目の登城となります。
 前回は平成28年5月2日で奇しくも同じ月日と成りました、前回はNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」放映の前だったと思いましたが、西側の広域農道から入る辺りに松岡城の看板が立ち、松岡城の5の曲輪に建つ松源寺の駐車場はアスファルト舗装され、資料ボックスも設置されて奇麗になっています、勿論「松岡城跡おさんぽマップ」をゲットとしました。

 松岡城は伊那地方特有な天竜川に伸びる舌状段丘で西から5の堀、5の曲輪と始まり曲輪と空堀が東の本曲輪まで4の、3の、2の、本曲輪と連なります、本曲輪から天竜川、伊那郷を見下ろす景観は絶景です、南アルプスの残雪も見物です。

 松源寺には井伊直政の父直親(亀之丞)が今川氏に命を狙われ逃れ松源寺を頼って約10年過ごしたと言われています。松源寺に近い駐車場に「亀之丞(井伊直親公)ゆかりの里」の案内板が設置されてます、これも大河ドラマ直虎効果かも?
 松岡城は南北朝時代松岡氏が築き、小笠原氏、武田氏、徳川氏に地域支配者が変わると夫々に従属し、天正13年徳川方の高遠城を小笠原氏が攻めたとき松岡氏も加担した、天正16年(1588年)家康より改易を命ぜられ、廃城となった模様。
 

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イオ

【かるた】松本城の読み札と絵札

漆黒の 国宝天守 松本城

純粋な黒を漆黒と表現しますが、松本城天守は文字通りの漆による黒。「なぜ城」でも描かれていましたが、あの巨大な天守の漆を全て塗り直し続けているなんて…。そのご苦労あってこその国宝なんだなぁ、と。

アルプスに 天守聳える 松本城

北アルプスを借景に聳える天守も素晴らしいですよね。朝田 辰兵衛さんご所望の北アルプスの冠雪と天守のコラボ画像は、うちにはこの程度のものしかありませんが…。
 

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todo94

4月の新潟 (2023/04/15 訪問)

午後に雨の天気予報だったので国境近くの城はあきらめ、この城から朝駆けいたしました。新潟県は九州の南北の長さに匹敵する海岸線を誇りますので、どうしてもロングドライブになってしまいます。4月の新潟では、坂戸城の実城付近に大量の残雪があったことが今でも記憶に残っていますが、海に近く標高も低い下越の地に雪は全く残っていませんでした。神明宮のすぐ上の居館跡周りの空堀が最も見ごたえがあるのではないかと思われます。福立までは脚を伸ばしてみましたが、サルクロはスルーさせていただきました。冬枯れの時期に機会があったらチャレンジしてみたいと思います。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:青柳館(城びと未登録 長野県筑北村) (2023/04/20 訪問)

麻績氏居館(城びと未登録 長野県麻績村)から転戦。青柳宿駐車場(36.430878、138.024354)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、青柳氏によって築かれたと云われており、青柳城の平時の居館のようです。
清長寺は1573年(天正元年)に青柳伊勢守頼長が父近江守清長の菩提を弔うために建立した寺で、青柳氏滅亡後に現在の位置に移してきたものだそうです。
善光寺街道の名所となっている切通しは、1580年(天正8年)に青柳頼長によって切り開かれたもので、その後三回にわたって切り落とされたそうです。

青柳宿駐車場➡①青柳宿説明板➡②青柳館跡碑付近➡③大切通し➡青柳宿駐車場の順番で巡りました。
 ①青柳宿説明板(36.430816、138.023918)
 ②青柳館跡碑付近(36.430706、138.026774)
 ③大切通し(36.433003、138.024132)
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=青柳城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:麻績氏居館(城びと未登録 長野県麻績村) (2023/04/20 訪問)

麻績古城(城びと未登録 長野県麻績村)から転戦。「麻績(おみ)館跡」碑前(36.459207、138.045241)に着きました。

麻績城主服部氏の居館と伝えられています。

現在は宅地になっていて遺構はなく、麻績氏居館となっている 標柱があるだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=青柳館(城びと未登録 長野県筑北村)に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:麻績古城(城びと未登録 長野県麻績村) (2023/04/20 訪問)

麻績氏居館(城びと未登録 長野県麻績村)から転戦。信濃観月苑第2駐車場(36.462149、138.044407)駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、 鎌倉時代に新補地頭として入部した伊賀氏あるいは服部氏によって築かれたと云われています。

麻績古城は別名=虚空蔵山城といい、麻績城から南へ派生した尾根の先端に築かれています。
出発点で道を間違え、違う方向に登ってしまいました。案内標識がほしい。
主郭下の巨石を確認して撤退です。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=麻績氏居館(城びと未登録 長野県麻績村)に向かいました。

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