長森城は美濃国守護・土岐頼貞の次男・頼遠により築かれたとされています。頼遠は南北朝時代に足利幕府方として北畠顕家と青野ヶ原で戦いますが、顕家軍6万余に対して、頼遠の軍は700余騎で一時間ほどで300騎が討たれてしまったそうです。残った頼遠の軍は顕家の弟で2万騎を預かる春日少将(北畠顕信)の軍に駆行って戦ったものの20騎ほどまで激減して長森城に退いたそうです。頼遠はこの戦いで左の目の下から口脇まで斬られてと、散々な目に合ったようです。
頼遠は後に光厳上皇に不敬を働き誅殺され、弟の頼康が美濃・尾張・伊勢の三カ国の守護として跡を継ぎます。頼康が革手城に移った後は頼康の甥・詮直(直詮?)が城主になります。応永6年(1399)大内義弘が起こした応永の乱に呼応した肥田満康らが大森城に入ると、美濃守護・土岐頼益は急ぎ和泉の陣から帰国し、詮直らと戦い詮直は敗死し、満康らもこの時に討たれたものと思われます。
現在は切通観音の脇に切通陣屋の碑と案内板が立っています。切通陣屋は宝暦5年に陸奥国磐城平に移封となった安藤氏が美濃国内に1万8千石の加増を受けた際に領地を支配するために築いたとされています。
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