ながもりじょう

長森城

岐阜県岐阜市

別名 : (切通陣屋)
旧国名 : 美濃

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しんしんちゃん

かつては土岐氏の守護所  (2024/04/14 訪問)

長森城は美濃国守護・土岐頼貞の次男・頼遠により築かれたとされています。頼遠は南北朝時代に足利幕府方として北畠顕家と青野ヶ原で戦いますが、顕家軍6万余に対して、頼遠の軍は700余騎で一時間ほどで300騎が討たれてしまったそうです。残った頼遠の軍は顕家の弟で2万騎を預かる春日少将(北畠顕信)の軍に駆行って戦ったものの20騎ほどまで激減して長森城に退いたそうです。頼遠はこの戦いで左の目の下から口脇まで斬られてと、散々な目に合ったようです。
頼遠は後に光厳上皇に不敬を働き誅殺され、弟の頼康が美濃・尾張・伊勢の三カ国の守護として跡を継ぎます。頼康が革手城に移った後は頼康の甥・詮直(直詮?)が城主になります。応永6年(1399)大内義弘が起こした応永の乱に呼応した肥田満康らが大森城に入ると、美濃守護・土岐頼益は急ぎ和泉の陣から帰国し、詮直らと戦い詮直は敗死し、満康らもこの時に討たれたものと思われます。

現在は切通観音の脇に切通陣屋の碑と案内板が立っています。切通陣屋は宝暦5年に陸奥国磐城平に移封となった安藤氏が美濃国内に1万8千石の加増を受けた際に領地を支配するために築いたとされています。

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カズサン

美濃南部城廻り長森城は切通陣屋 (2024/03/16 訪問)

 昨年の西美濃未踏の城廻り時間切れとなり今回の伊木山城メイン登城に合わせて登城しました、駐車場が心配でグーグルマップで探し近くの長森南公民館駐車場なら可能かなと挑戦。

 駐車場:岐阜市長森南公民館(岐阜市切通5丁目3-14)(35°23'46"N 136°47'48"E)丁度1台空き有り利用。
 参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップに依ります。

 登城は長森南公園駐車場から北に直線で250m程ですが住宅街で方向が良く分からずスマホのグーグルマップに堀切観音堂をスポットして案内通り進行、旧中山道(県道181号線)を渡って通りに「切通陣屋跡35m」の指示看板あり北に進行し、切通陣屋跡碑、切通観音幟旗が眼前に見えてくる、現在は切通観音堂が鎮座し祀られている。
 城址の遺構は良く分かりません、現在は切通陣屋跡之碑、切通陣屋跡解説板、切通観音は長森城跡の石板碑、切通陣屋跡標柱が在り標柱の横に手作りの「磐城平藩美濃領厚見郡切通陣屋要図」がクリアケースに入り掲示されている、良く分かります。
 
 歴史は美濃源氏土岐氏が南北朝時代の頃、美濃守護職の居城を土岐市から長森城に移り代々土岐氏の居城と成った、手狭に成った為以後土岐氏は川手城を築き本拠地とした。
 時代は下って磐城平藩安藤氏の美濃飛び地1万8千石を治める陣屋を享和3年(1803年)築き明治維新まで続いた。(案内板、古城盛衰記さんによる)

 旧中山道の通りには町屋の家並みが昔の在り日の風情を楽しませてくれます。
 岐阜市長森南公民館さん駐車利用させて頂きありがとうございました。
  

 

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チェブ

渋谷、、、。 (2024/01/03 訪問)

住宅街の細い道、少しカーブしている場所に「長森城」はありました。
遺構はありません。切通観音が少し高い所にお祀りされてました。この辺りがお城跡のようです。

路駐しましたが、1台が通れる位の道でした。
「切通陣屋」の説明板があります。1つの石碑には、土岐氏が居城してた「長森城」と刻まれてあります。
もう1つの石碑には、南北朝やら足利 尊氏やらと達筆な文字で刻まれてました。
達筆過ぎて読めません。

「長森城」は1185年に、渋谷 金王丸さんが築城しました。ほー渋谷?
東京都渋谷区に「渋谷城」があり、金王八幡宮がお城跡と言われてます。
その名の通り、金王丸さんをお祀りしています。
私も一応、東京都民なのでご縁を感じます。東京の端っこですけど。

金王丸さん、どんな功績で こちらに たどり着いたのかが気になる「長森城」攻めでした。

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ぴーかる

長森城・切通陣屋 (2023/07/15 訪問)

【長森城】
<駐車場他>駐車場はなし。陣屋公園前に少しだけ停車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第1弾7城目。長森城は1185年にこの地の地頭の渋谷金王丸が築城したと伝わります。南北朝時代に土岐氏が城郭整備をして本拠地とします。1353年に長森城が手狭になったため、川手城を築城して本拠地を移転しますが城は同族を城主に置きます。斎藤道三の時代に一旦廃城となります。江戸時代にはこの地は加納藩領⇒幕府領⇒大垣藩の預かり地と変わり、1803年に磐城平藩主の安藤信成が老中となり、18000石のこの地が飛び地として加増され長森城跡に切通陣屋を築きます。切通陣屋は明治維新まで残ります。
 現地には遺構が残されておらず、切通観音堂に陣屋跡と長森城の石碑があります。ちなみに切通しの地名は南に位置する境川に一帯の滞留水を落としていたことに由来するそうです。

<満足度>◆◇◇

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城郭情報

分類・構造 平城、(陣屋)
築城主 渋谷金王丸
築城年 文治元年(1185)
主な改修者 土岐頼遠、安藤信成(陣屋)
主な城主 渋谷氏、土岐氏、安藤氏(陣屋)
廃城年 不明
遺構 消滅
指定文化財 市史跡(切通陣屋)
再建造物 石碑、説明板(切通陣屋)
住所 岐阜県岐阜市切通6-12-1