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チェブ

先に停めさせていただきます! (2018/09/29 訪問)

「お城をさがす」で、埼玉をビヨーンと大きくしたら野本氏館跡。
誰?が最初の印象です。
ナビにまかせて着いたところが御寺さん。車、停める所ないかな?と思い小さなスペースがあったので速攻駐車。
降りてみると看板には「野本将軍古墳」。将軍は足利でしょ、と、突っ込んでいると、さっきから同じ車が停める場所を探している様子。
私も屋敷跡を探さないと、と思い振り向くと御寺さんに看板発見!あちらですか!
土塁が残っているとありますが、まさか古墳じゃないだろうな、と見回すとさっきの車がうろうろ。
ずっーと???。消化不良で退散しました。
うろうろの車の方はお城好きなのでしょうか?古墳好きなのでしょうか?
土塁はどこだったのでしょうか?

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オダリン

三成の盟友 大谷吉継の居城 (2013/10/18 訪問)

敦賀西小学校から真願寺一帯が城址で来迎寺に移築門がある。絵図には三重の天守があった。

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ビールおいちゃん

夜の街の探索ばかりで・・・。 (2018/09/29 訪問)

明るいうちに到着しました。
小雨だったので、人影もまばらで・・・。

ゆっくり散策しながらの、お城訪問は、やっぱりいいですね。

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ビールおいちゃん

2度目の訪問でしたWW (2018/09/29 訪問)

駐車場に車を停めた瞬間・・・
「あれっ???ここ来た事ある」と思いました。
但し、いつ来たのかは、いまだに記憶の扉が開きません。

朝一に伺ったので、スタッフの方とも、ゆっくりお話が出来てよかったです。

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ヒロケン

徳川家康公生誕の地 (2018/03/25 訪問)

1542年城内で徳川家康公(幼名 竹千代)が生まれる。1549年松平広忠(家康公の父親)が家臣の謀反により殺害されると岡崎城は今川家の支城として城代が置かれ、糟屋備前などが城代を務めた。

1560年桶狭間の戦いで今川義元公が敗死すると松平元康(後の家康公)は岡崎城を取り戻し、今川家から独立する。
1570年徳川家康公は本拠を浜松城に移すまでの10年間居城し、浜松城へ移ってからは、家康公の長男の松平信康公が入ったが、謀反の疑いをかけられて自刃。以後石川数正などの重臣が城代を務めた。

1602年以降、家康公が江戸に幕府を開くと岡崎城は譜代大名が歴代の城主を務めた。

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にのまる

清須城から清洲城 (2018/09/22 訪問)

石垣遺構や古城碑が模擬天守のなんかモヤモヤ感を払拭するいい仕事してくれていました。
なんでもありのパワースポットのようですが、信長のパワーは強烈すぎるのでいりませぬ。
新幹線がビュンビュン横を通り過ぎます。
ちょうど日没時に訪れたので西日を浴びた天守のよき写真が撮れるかと思ったのですが、西を向いて建っていたので無理でした。
清洲駅に降り立った時に「清洲城に行くの?」と声を掛けられ、ついに私も巡城人の雰囲気を醸し出せるようになったかとうれしくなりました(* ̄▽ ̄)フフフッ♪

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白山麓一向一揆の軍事拠点 (2018/09/23 訪問)

続日本100名城の鳥越城を訪問致しました!
加賀国白山麓の一向一揆の軍事拠点として、鈴木出羽守重泰が天正年間にかけて鳥越城を築きました!
白山麓門徒宗の徹底抗戦もむなしく、佐久間盛政によって遂に鎮圧され、300人にも及ぶ門徒が磔の刑に処せられた!
本丸を中心に、高低差のある地形を巧みに利用し南北に曲輪を設け、曲輪間には堀切と土橋が配置されていました!
現在、前面を高麗門、後方を櫓門として復元されています!
本丸の南側には、中の丸たと二の丸を配置しています!
さらに堀切をはさんで三の丸が配置されています!
本丸の北側には、薬研堀をはさんで後二の丸、その北西には後三の丸が配置されています!
廃城年代ははっきり分かりませんが、加賀一向一揆の終焉の1582年の後と考えるのが妥当だろう!

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くろもり

肝試しとお墓参り (2011/07/24 訪問)

八王子城主・北条氏照の供養塔が城址に向かう一本道を途中で北側に入るとあります。
供養塔の脇に二つの墓があり、一つは八王子城落城とともに討死にした家臣・中山勘解由家範。
もう一つは中山家範の孫で水戸藩家老・中山備前守信治の墓です。時代的に信治は八王子城落城から30年以上経ってから生まれており、八王子城には縁がないと思いますが、おそらく武名高き祖父の傍にいたいと生前言い伝えていたのでしょうか。ここ八王子城と中山氏の菩提寺である埼玉県飯能市中山の智観寺に墓があるようです。
供養塔の説明文には北条氏照の供養塔は百回忌に建立と書かれており、信治が亡くなったのも丁度その頃なので、信治の遺言で建立されたのかもしれません。
後日、取引先の方が私がお城好きと知って、「八王子城行ったよ!」と言うので、「お城好きなんですか?」と聞くと「いや、だってあそこ肝試しスポットじゃん!滝山城も行ったよ(肝試しで)!」と言われ、苦笑いした記憶があります。チェブさんの言う通り、東京で八王子城は有名な肝試しスポットらしいです。私は肝試しには行きませんが、お墓参りには行きます。お城の楽しみ方も人それぞれということで。

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小城小次郎

横地城

遠州の名門・横地氏と共に栄え、共に滅びた大城郭は、南北朝以来の古い城郭形態を色濃く残す。

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カルビン

藪蚊パーティ (2015/06/13 訪問)

茨城県那珂市周辺に気になるお城が集中していたので、まとめて見学しようと早朝から車で散策。
阿弥陀寺に解説版があり、そこに車を停めさせて頂き、参拝したその足で城域へ。

湿地が大きく深い空堀・水堀となっているので、建築系では無いお城好きの方には満足頂けるお城だと思います。

整備が行き届いていたので、初夏でも草木に邪魔される事はありませんでしたが・・・藪蚊の第一次活発期にぶちあたってしまったらしく、刺されまくりました(痒)
幸い旬だったデング熱にはかかりませんでしたが、スキンケア等しっかり準備して訪問される事をオススメします(汗)

周囲10km圏内に見応えのあるお城が複数ヶ所あるので、まとめて見学がお得です。
(石神・南酒出・多良崎・馬坂・太田等)

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トーマス@

川を背に堅牢そう (2018/08/05 訪問)

登城時は天候に恵まれ、暑かった。三重櫓の中で資料を拝見しました。

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Snakepit

お寺さんになってました (2018/10/01 訪問)

本慶寺さんになってます

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オダリン

金ヶ崎の退き口で有名 (2013/10/18 訪問)

秀吉がまだ木下藤吉郎の時、殿軍の成功で信長軍の周囲から認められる契機の城だったと思う。

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Snakepit

学校内にある説明板 (2018/10/01 訪問)

小学生の通学時間帯にかち合ってしまった…
不審者に見られないよう…
たまたま教師の方が通学のお出迎えに出てこられたので声をかけて撮影(;´Д`)
学校横に郭跡が残ってます

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Snakepit

尾張徳川の支藩 (2018/10/01 訪問)

説明板は公園に最近増えてる関ヶ原バージョンの説明板と少し離れた広場に昔ながらの説明板があります

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チェブ

んんっ!地図もちゃんと見れないのに! (2018/09/29 訪問)

みなさん、吉見百穴を知ってますか?その近くに武蔵松山城があります。ちなみに吉見百穴の駐車場が無料で使えます。
岩肌にたくさんの横穴が空いており古墳なんだそうです。
入口に大きな「吉見百穴」と「武蔵松山城」 の看板。埴輪君が笑顔(?)で迎えてくれます。
が、お城の入口がない!山側を登って右側に小さな看板発見!入口だ、現在地確認!と思ったのですが、なんと地図が逆さまに付いているじゃないですか!
逆さまに付いてなくても地図を見るのは苦手なのに。
まーしょうがない行くかっと思い矢印の方向を見ると草木が生い茂り入れなさそう。冬の方が楽に巡れそうですよ。
ちなみに秀吉が北条征伐の時、このお城、前田利家公や上杉景勝公が囲んだとの事。百穴、気味が悪かっただろうな。

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モト

もっと名所として評価されても良い城跡なのでは?! (2018/09/25 訪問)

各曲輪を大小の空堀が囲んでいます。
空堀達は入り組んでいたり、二重だったりと見応え充分です。
公園としてある程度は整備されていますし、案内板なども随所に設置されておりますので見学もしやすかったです。

入り口の碑の横の階段をあがった小高い山に城跡があります。
空堀に囲まれた曲輪達を土橋を渡りながらまわっていき、その曲輪にある土塁、櫓台跡などの遺構にも大興奮でした。
城跡の全体的な範囲、遺構が把握しやすくウネウネした空堀にさらにワクワクしながらまわりました。

失礼ながらまさかここまでとは。
歴史的な大きい背景があるかないかなんですかね。
なんでもっと有名にならないのかなと思いました。

茨城県に来た際は是非お立ち寄りいただきたい城跡です。
皆さまも小坂城で空堀の妙味を味わってください。

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tsuchinari

山城の魅力の詰まった名城 (2018/09/24 訪問)

城はあくまで「史跡」つまり歴史上の遺物であると思う。しかし城は今も尚変化している。
個人的に月山富田城は今回で3回目になるが、来るたびに新しい顔をみせてくれる。
初めて訪れた3年以上前は、城下に近い曲輪や七曲がりのある急斜面の山裾は自然林が生い茂り、ほぼ整備がなされていなかった。
それが1年半前の前回は七曲がり部分、今回は城下に近い曲輪部分の木々が伐採され往時の城郭の姿がはっきりと観れるようになっていた。月山富田城は今まで「城=天守」といったそれまでの私の固定観念を崩すきっかけをつくった思い出の城でもある。
過去の遺物であるはずの城がそこに携わる人たちの情熱により今も尚変化し進化を遂げている。
もちろんその流れは月山富田城に限った話ではないが、中世に生まれた山城のなかではこの月山富田城がその象徴的な存在になっていることは間違いなさそうだ。城の知識の有無は関係ありません。私自身もまたいつか訪れたいし、興味を少しでも持たれた方にも是非訪れて頂きたい名城の一つです。

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天然の浮島を曲輪としたお城 (2018/09/22 訪問)

この日の最後は、広大な湖沼に浮かんだ多くの曲輪からなる小松城です!
小松城は、濃尾平野を蛇行して流れる梯川が直角に曲がる部分の湿地帯を利用して築かれた平城です!
本丸には、本丸御殿の他に広敷、櫓台、鉄門、火縄土蔵、鎧土蔵、瓦土蔵、綿土蔵、厩、番所などが有りました!
また、小松城の天守は、巨大な天守台の上に寄棟造の屋根を持った数寄屋造の風流なものであった!
本来の天守ではなく、本丸御櫓と言われる数寄屋建築の建物でした!
外観は、二重で有りますが、上重の屋根を寄棟造で城郭建築としては非常に珍しいもので有りました!
この天守櫓は、明治初年に取り壊されたが、壮大な天守台石垣が現存されています!
しかし、保存状態が悪く天守台の上には上がれなくして有りました!
利常の隠居城として築かれた小松城は、利常が小松城で死去するとその役割は終わります!
その後、小松城は、幕末に至るまで、加賀藩によって管理がなされました!
明治維新後の1871年に、加賀藩は小松城の取り壊しを決定しました!
これで廃城になりました!
三の丸跡が芦城公園になっていて、茶室である仙叟屋敷並びに玄庵が有ります!

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にのまる

石垣と天守の行く末は… (2018/09/22 訪問)

未来予想図の岐路に立たされている名古屋城。これだけの規模なので、天守の建て替えもいろんなところにひずみが出て大変なんだろうな、と感じました。
2013年に本丸御殿の一部公開(玄関と表書院)を見て以来で、完成後の姿を楽しみに行ったのですが、三連休の初日、1時間待ちの行列ができていたのであっさり諦めました。すごく寒い平日とかを狙って出直そうと思います。
矢穴や刻印石の写真を適当に撮って、帰ってから見ていたら矢穴が開いていない石があってびっくり(写真8枚目)。現地で気づいていれば絶対触ったのに"(-""-)"

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