みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

chacha

やっと晴れた日に! (2018/10/07 訪問)

3度めでやっと晴れわたった日に行けました。岐阜城が見えました。でもここも、天守に入るまで30分並びました。

+ 続きを読む

勝野武士

ご存知、忠臣蔵ゆかりの海城。

まずは大石神社に車を止めて参拝…からの大石邸と源八長屋を見学…からの大手門から再入場。
外堀と隅櫓のセットを眺めてから、復元された大手門の枡形石垣の豪壮さにまず目を奪われます。外観復元された番所の内部は休憩所。雰囲気出てます。
そのまま二之丸に至る道を歩く。大石邸や大石神社境内などがあるのは三之丸。家臣達の屋敷が整然と建ち並んでいた。忠臣蔵の登場人物の屋敷跡の石碑もあちらこちらにあります。
二之丸の北半分は庭園整備が一段落し一部公開されています。十分美しいのですが、全面公開されている頃にはどうなっているのか…。二之丸御門の枡形石垣も一部完成してました。門そのものの復元も計画されているようですし、これからも楽しみですね。
南半分は中仕切門が復元されていたり、発掘調査で明らかになった遊水池や米倉風の休憩所(といっても、結構本格的な建て方)、そして何と言っても、当時は海に直接面していた水手門と波止場遺構は超必見!
本丸は、本丸御門や庭園が復元され、御殿の平面表示や配水施設、さらに巨大な天守台があります。
外周の石垣も、さすが実戦を意識した山鹿流兵法に則って幾重にも巧みに折り曲げられた横矢掛や要所要所に設けられた櫓台…城域が広大ですし、本当にこれが最大石高五万石の城なんだろうかと思ってしまいます(笑)。
何度来ても飽きない、とても良いお城です。

+ 続きを読む

再訪▪城廻りvol.2 大洲城③ (1987/08/01 訪問)



(1987.8.1訪問▪2018.8.31再訪)

37年前の下台所と整備修繕された現在の様子です。

大洲城には、二の丸に下台所という、食糧庫として使われていたた当時の建物が現存しています。

大洲城には、重要文化財の4つの櫓が現存してますが、この下台所は指定されていなかったためか、当時最初訪れた時には写真のようにあれ放題。
屋根は草ボウボウ、外壁に張られた板も方々で外れて隙間だらけ。
よく見ると、右上に高欄櫓の二階の屋根がみえています。

現在では、修繕整備され、保護のためおおっていた下見板も取り外され、綺麗な漆喰の外壁の元の姿に戻っています。


昔と今の写真をよく見てみると、下台所のある二の丸と、本丸の間の中段にあった数件の民家がなくなっています。高欄櫓の右側には復元された天守の4重目が写っています。
城跡整備のため、城内にあった民家が、城外に移転されたのでしょう。赤穂城でも、この様なことを感じました。たぶん、他のお城でもあるんでしょうね。

このような方々の協力のお陰で、現在では自分達が綺麗に整備された城趾公園を訪れることができているんだなと感じた大洲城の訪問でした。

+ 続きを読む

小城小次郎

上田城

徳川軍を二度に亘って撃退した真田の武勇とともにいつまでも語り継がれること間違いなし

+ 続きを読む

にのまる

山と川に挟まれた防御に適した地 (2018/10/21 訪問)

戦国期の甲斐国は武田氏が直接支配していた「国中」、一門の穴山武田氏が支配していた「河内」、小山田氏が支配していた「郡内」の三地域に分かれており、谷村は「郡内」の中心地でした。「真田丸」の時代考証のおひとりでもあった丸島和洋氏の『郡内小山田氏』(戎光祥出版)がとても詳しく、お勧めしたい本です。小山田氏というとどうしても小山田信茂が脳裏に浮かび、最初は読むのが辛かったのですが、あと味スッキリです。
谷村城は現在、小学校の片隅に石碑が建っているのみ…という情報はもっていましたが、おそらく行かれた方みなさんがそうであるように、勝山城のついでに寄りました(^_^;) が、なんか石像のようなものも見える!もしかして小山田信有?と思って近づいてみたら、薪を背負ったニノ像でした。今の時代、この格好で歩きスマホしてたらセンセに怒られるぞ…。
小学校の斜向かいには「谷村陣屋跡」の石碑。天領時代の陣屋跡だそうです。
谷村駅近くの「ミュージアム都留」は有料(300円)ですが、見応えのある博物館です。勝山城の模型もあるし、谷村城址の石碑だけでは絶対にものたりないので寄られるといいかと思います。
松尾芭蕉の俳諧の旅のきっかけとなったのもこの地を訪れたことだったそうです。そのあたりも「ミュージアム都留」で。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カルビン

三国同盟の地とは少し離れてます (2015/05/30 訪問)

実は太原雪斎と山本勘助が互いの利益を考えて、北条を含めた同盟を主君に勧めたとされる三国同盟
善徳寺城はその場所・・・と思われがちですが、実際三国同盟が取り交わされた場所は善徳寺であって善徳寺城では無かった
(実際に善徳寺城と善徳寺は少し離れてます)
確かに今川のお城に武田・北条共に主君含め小人数で入るのはちょっと信用できないでしょうからねw

善徳寺城を見学するには車を停める場所が見つからなかった為(自分は無理やり車の中から周辺撮影した)、ゆっくり見学するなら岳南鉄道線吉原本町駅から行くのが良いでしょう

で、そこから三国同盟が取り交わされた善徳寺跡地は1kmくらい東北東に離れた場所にあり、こちらは公園化していて、車も2、3台止められる駐車場があります

周辺は住宅地になっていて道が狭いので、もし車で訪れる場合はご注意を

(善徳寺城の写真は最初の3枚で、残りは善徳寺跡(公園)のものです)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぽんたっく土佐守

ビジホの貸自転車は役に立つ! (2018/10/21 訪問)

名鉄豊田市駅から自転車で約10分。
豊田市美術館(現在閉館中)の敷地内にあります。
七つの州を見渡せたことから「七州城」ともいうそうです。
これといった遺構はありませんが、
復元された隅櫓と移築された又日亭がありました。
この日の朝の気温は11℃。
冬が近づいていると感じたことでした。
余談ですが、
宿泊を伴う城攻めをする際に私がよく利用するのが
宿泊先の貸自転車です。
早めにチェックインして自転車を借りたり、
遅めにチェックアウトして自転車を借りたりすることで
行動範囲がグンと広がります。
時間を気にすることなく、
しかも無料で借りることができるので
重宝しています。
公共交通機関利用派の方にはおすすめです。
(みなさんご存じかもしれませんが…)


+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

勝野武士

復元された建物群の迫力。

水堀と石垣、復元された長屋と櫓門、そして移築復元された数少ない現存物見櫓が立ち並ぶその威容たるや、かなりの迫力があります。
隣接する烈祖神社境内もかつての陣屋敷地。庭園の跡でしょうか、かなり大きな立石が立ち並んでいます。
そして最近、お寺に移築されていた大手門が100年以上ぶりに里帰り。そして周辺の整備とともに当時の姿に復元されました。
また一つ、新たに陣屋の魅力が加わりました。
次は陣屋敷地内の整備でしょうか。ますます楽しみです。

+ 続きを読む

勝野武士

近江屈指の水城。

野面積みの天守台がポツンと残っていて、その周辺はいかにも堀の跡といった感じ。乙女が池とセットで訪れてみれば水城らしさがイメージできるかも。
江戸時代には跡地が大溝陣屋として転用され、長屋門の他、城下町の遺構として水路や武家屋敷の跡なども残されている。

なお、大溝城とは関係ないが、乙女が池の周辺は奈良時代に勃発した藤原仲麻呂の乱の最後の激戦地だったようで、仲麻呂は乙女が池の辺りで討ち取られたとか。
また、30分程湖岸道路を南に歩くと、湖上の鳥居で有名な白髭神社があります。時間に余裕があれば是非。

+ 続きを読む

チェブ

私有地の中のお城。 (2018/10/06 訪問)

三田氏といえば、辛垣城主、青梅一帯を支配していた三田氏?国立(くにたち)はちょっと離れているので、本当かなぁ?と疑りながら説明板を見たら、やはり不明との事です。
ただ、城跡だったのは確かです。
私は坂を下って着いたので土塁?自然地形?という感じでした。みなさんなら分かると思います。
散策できるように公園になってますが、私有地の所もありますので注意が必要です。
古民家の柳沢家住宅があり駐車場も少しあります。
三田氏は山城のイメージです。この場所、背は低い山、前は平野。山の暮らしは疲れたのでしょうか?

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

オダリン

城下町杵築 (2009/11/10 訪問)

評判の良い武家屋敷は見れなかった。何故かというとどしゃ降りの雨と遠距離を車で帰る日だったから。

+ 続きを読む

勝野武士

現在は何も残ってない…。

今は住宅地と小さい公園になっているのですね。
20年以上前に一回だけ行ったことがあります。
当時は海から近い、草が生い茂った小さい丘って感じでした。
この頃の状況も、古い説明板があるだけで本当に何もなかった…。
ただ、海に近いだけあって、三木城への海路による物資輸送の拠点となったのもなるほど納得の立地でしたね。

+ 続きを読む

勝野武士

蘇る天守。

明治の廃城以来取り壊しが進み、市街地化の波に晒され、ついにはかつて外堀として利用されていた庄下川が残るのみとなってしまった尼崎城。
そんな城跡に、尼崎の新たなランドマークとして天守が再建されつつあります。
大きさや高さ、おおよその外観は当時のものを忠実に再現しているのだとか。
しかし場所は全然違い、当時の二の丸北西隅あたりに建てられています。
本丸跡は現在学校の敷地…それならば致し方無しか。
ついこの間までは桜井神社にある天守の鬼瓦と伝わる戸田氏の九曜紋入りの大きい瓦と石碑があるぐらいでしたから…。
なおこの天守、地元出身であるエディオンの創始者が私財を以て市に寄付という形で再現されているとのこと。すげぇ。

+ 続きを読む

モト

曲輪がありました (2018/10/10 訪問)

城址はお寺が建っています。
裏に曲輪跡が見られるとのことでしたので少々気が引けましたがお墓を通って裏へ。
ほんとだ曲輪だとわかるような場所がありました。
この曲輪で城址の雰囲気をたっぷり味わえました。
曲輪はかなり急な斜面のようになっています。
ここは切り通しなのかは不明ですが、ここも遺構の1つなのでしょうか。

お墓を通ってきたせいか、出会った曲輪に思わずありがたや〜と手を合わせてしまった私でした。

+ 続きを読む

todo94

続日本100名城スタンプ58個目 (2018/10/20 訪問)

10年前も10月に訪れたが、その時は夕刻で秋祭りとかぶってしまっていて、山頂の本丸まで辿り着いた後、そそくさと引き上げてしまった。今回はじっくりと攻城。灯台もめぐり、東二の丸、北二の丸、北曲輪と一通り巡ることができた。見どころである北二の丸の石垣も初めて拝むことができた。残念ながら上部の石垣は崩落の危険があるとのことでシートがかけられていた。

+ 続きを読む

勝野武士

『清須越し』ならぬ『船上越し』?!

高山右近によって近世城郭として整備された船上城。
しかし、手狭な上に長らく豊臣秀吉の直轄地となっていたこともあった為に、新たに徳川譜代としての西国街道の押さえの城として人丸山に明石城を築くにあたって、一国一城令で廃城が決まった城からリサイクル用材が集められたが、船上城も例外ではなく、城の建物や石垣などにとどまらず家臣屋敷の建物なども移築されたという。
明石城の南側、堀沿いにある『旧織田家長屋門』もそのときのものなんだとか。
現在本丸跡の土壇は私有地の為立ち入りが容易でない。しかしすぐそばを流れる溝は内濠の名残なのだとか。
『古城』『古波戸』の旧地名も残る。

+ 続きを読む

勝野武士

珍しい陣屋庭園遺構。

現在は大歳神社境内となっており、多少荒れてはいますが池泉回遊式庭園(雪見灯籠や築山もあるよ)は必見!
あと、よく見ると外周の土居の跡や排水溝の跡もあったりで見所ありです。

+ 続きを読む

勝野武士

愛称『志方の城山』。

頂上が平たく削られたような山容で、遠くからでも目立ちすぎなぐらいに目立ってる。
本丸跡からの見晴らしも良く、かなり広い範囲に睨みを利かせられたであろう。山城を築くにはうってつけといえる。
別所方に組した山城で、縄張図を見てみると尾根づたいに幾つも曲輪が作られ、さながら山全体が要塞の様相。所々に石積や土塁の遺構もみられる。
地元の伝承によると、斜面に竹の皮を敷き詰めたりして羽柴秀吉の軍勢を苦しめたが、火攻めにあって落城し、今でも焼け米が出てくるとか(当然ですが掘らないでね)。
また埋蔵金伝説もあり、「朝日照る、夕日輝く木の下に、瓦千枚、金千枚」と暗号らしき歌が伝わるが、今も見つかっていないそうな(きっと危険だから探さないでね)。
登山道は整備されてるが、夏は草ボーボーで藪蚊も凄い為、冬場に訪れるのがオススメです。

+ 続きを読む

dougen

2015.3.7登城 (2015/03/07 訪問)

沖縄北ICから海中道路方面に行く途中に勝連城址があります。
城址は一部整備中の所もありましたが、良く整備されており、問題なく散策できました。
他の世界遺産の沖縄のグスクと異なり、山城を総石垣にした様な縄張りで、石垣は美しい曲線です。
訪城時、100名城に選定されてもおかしくない城と思いましたが、後日目出度く、続100名城に選定されました。
山上の石垣が美しく、圧巻ですので、非常にオススメの城址です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

勝野武士

小野藩の中心。

神戸電鉄粟生線小野駅から歩いて数分、現在は小野小学校および小野市立好古館の敷地となっており、特に目立った遺構はないが、段丘上に築かれており、周囲を囲むようにため池があり堀の役割を果たしていた。
今もその地形や痕跡が残っている。
好古館では小野藩関連の展示あり。

+ 続きを読む

ページ1751