山鹿城からの転戦です。入口付近の駐車スペース(33.045344、130.674281)に駐車しました。説明板があります。
築城年代は定かではないようです。 菊地氏の家臣城氏の居城といわれています。
1550年(天文19年)熊本古城の鹿子木寂心が菊地義武を助けて大友氏に叛いて没落すると、城親冬は城村城から熊本古城へ移り、一時廃城となっていました。
その後、隈部城に入った隈部親永の子親安が城村城に入ったと云われています。
豊臣秀吉の九州征伐の後、肥後国に入部した佐々成政は秀吉によって禁止されていた検地を実施すると、隈部城の隈部親永はそれに反発、佐々成政によって隈部城を攻められ落城し逃れました。
その後、隈部親安を中心とした国人一揆衆が城村城に籠城して佐々成政に対抗します。成政は付城を設けて城村城を包囲しますが、居城の熊本古城が国人一揆衆によって攻められ引き上げました。
秀吉は小早川秀秋や立花宗茂に成政救済を命じ、結局は城村城を明け渡す事で和議が成立しました。
台地の北東端を本丸とし、南に二の丸、三の丸などを配していたそうです。
本丸は公園で石碑と説明板が設置されており、南の二の丸との間にわずかに低くなった堀切跡が残っていましたが、城跡全体が草に覆われいました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=猫尾城に向かいます。
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