高砂城と高砂町探訪を済ませたついでに寄ってみました。
個人的には十数年以上ぶりの訪城となりました。
築城年はかなり古く、遅くとも承久3年(1221年)以降には築かれていたようです。
この地は西国街道(山陽道)を監視出来るような立地でした。実際、明治に入るまで防備上の観点から加古川に橋が架けられることはなかったので、街道での防備上それなりに重要な地点だったようです。
加古川の水運も監視できますし、渡し船の船着場の跡もすぐ近くですし。
さて、話を戻しましょう。
どんな城だったかというと、『播磨鑑』によれば五十間(約90m)四方の規模であったらしい。城壁には狭間が空けられ、堀をめぐらして逆茂木を設けて、敵が容易に接近出来ないようにしていたらしい。
『播磨鑑』を真に受けると、城というより方形の居館に近かったようです。
また、江戸時代後期の絵図『播州三木城地図』に「加古糟谷城跡」として書き込まれてるようで、それによると堀と空堀で囲まれた三つの曲輪を持つ城であり、二十間(約36m)四方の一の曲輪、二つの櫓を持つ二の曲輪、それらとは独立した二十間(約31m)×四十間(約72m)の出曲輪から成っており、大手には階段、外周には土塁が作られていたという、『播磨鑑』とはまた違った内容も。
もっとも、『播磨鑑』の古い記述が享保4年(1719)。
んで、廃城が元和元年(1615)。
実に104年も経ってから書かれた文献なので、信憑性としては何とも微妙…。
『播州三木城地図』に至っては時代がさらに下る資料なので、言わずもがな。
発掘調査もされていないようで、はっきり言って実像が謎だらけの加古川城ですが、やはり有名なのは加古川評定でしょう。
詳細は省きますが、別所長治の代理として出席した別所吉親が秀吉を見下して軍議を決裂させたばっかりに、結果的に『三木の干殺し』の憂き目に遭うんですね。そして吉親は一人徹底抗戦の姿勢を貫こうとして開城間際に城兵に殺されちゃうという、何とも因果応報な結果に…。
播州攻めでいち早く秀吉に味方した糟屋氏。武則の代になると賤ヶ岳七本槍で有名となるほどの活躍ぶりで秀吉に大いに貢献。最終的に播州加古川一万二千石の大名に出世するのですが、時流を読み誤って関ヶ原で西軍に与して敗北、改易されてしまいます。
そして元和元年(1615年)6月15日付けで破却。廃城となってしまうのです。
現況ですが、称名寺一帯が城跡とされています。
残念ながら、表立って明確な遺構はほぼ皆無といって良い状況です。
しかし実際に訪れてみると、称名寺周辺に溝や水路など、思わせぶりな痕跡が。
地図を拡大してみると大きめの水路がしっかり書き込まれており、何らかの関係がありそうな??
山門の左右とかも微妙に起伏があります。
…まぁ、公的な調査資料がない以上、ほとんど推測しか出来ない現状です。
車で訪城の際は、称名寺門前の駐車場を利用すると良いでしょう。但し、あくまでお寺の駐車場なので、必要以上の長居は良くないかもです。
ニッケパークタウンの駐車場をお借りして寺家町(商店街が西国街道の加古川宿にあたります)探訪のついでに徒歩での訪城が無難です。
また、称名寺周辺は住宅密集地でもあるので、特に写真撮影などの際はくれぐれも不審者に間違われないようにw
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