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勝野武士

加古川評定の舞台。吉親ェ… (2019/01/19 訪問)

高砂城と高砂町探訪を済ませたついでに寄ってみました。
個人的には十数年以上ぶりの訪城となりました。

築城年はかなり古く、遅くとも承久3年(1221年)以降には築かれていたようです。
この地は西国街道(山陽道)を監視出来るような立地でした。実際、明治に入るまで防備上の観点から加古川に橋が架けられることはなかったので、街道での防備上それなりに重要な地点だったようです。
加古川の水運も監視できますし、渡し船の船着場の跡もすぐ近くですし。

さて、話を戻しましょう。
どんな城だったかというと、『播磨鑑』によれば五十間(約90m)四方の規模であったらしい。城壁には狭間が空けられ、堀をめぐらして逆茂木を設けて、敵が容易に接近出来ないようにしていたらしい。
『播磨鑑』を真に受けると、城というより方形の居館に近かったようです。

また、江戸時代後期の絵図『播州三木城地図』に「加古糟谷城跡」として書き込まれてるようで、それによると堀と空堀で囲まれた三つの曲輪を持つ城であり、二十間(約36m)四方の一の曲輪、二つの櫓を持つ二の曲輪、それらとは独立した二十間(約31m)×四十間(約72m)の出曲輪から成っており、大手には階段、外周には土塁が作られていたという、『播磨鑑』とはまた違った内容も。

もっとも、『播磨鑑』の古い記述が享保4年(1719)。
んで、廃城が元和元年(1615)。
実に104年も経ってから書かれた文献なので、信憑性としては何とも微妙…。
『播州三木城地図』に至っては時代がさらに下る資料なので、言わずもがな。

発掘調査もされていないようで、はっきり言って実像が謎だらけの加古川城ですが、やはり有名なのは加古川評定でしょう。
詳細は省きますが、別所長治の代理として出席した別所吉親が秀吉を見下して軍議を決裂させたばっかりに、結果的に『三木の干殺し』の憂き目に遭うんですね。そして吉親は一人徹底抗戦の姿勢を貫こうとして開城間際に城兵に殺されちゃうという、何とも因果応報な結果に…。

播州攻めでいち早く秀吉に味方した糟屋氏。武則の代になると賤ヶ岳七本槍で有名となるほどの活躍ぶりで秀吉に大いに貢献。最終的に播州加古川一万二千石の大名に出世するのですが、時流を読み誤って関ヶ原で西軍に与して敗北、改易されてしまいます。
そして元和元年(1615年)6月15日付けで破却。廃城となってしまうのです。

現況ですが、称名寺一帯が城跡とされています。
残念ながら、表立って明確な遺構はほぼ皆無といって良い状況です。
しかし実際に訪れてみると、称名寺周辺に溝や水路など、思わせぶりな痕跡が。
地図を拡大してみると大きめの水路がしっかり書き込まれており、何らかの関係がありそうな??
山門の左右とかも微妙に起伏があります。
…まぁ、公的な調査資料がない以上、ほとんど推測しか出来ない現状です。

車で訪城の際は、称名寺門前の駐車場を利用すると良いでしょう。但し、あくまでお寺の駐車場なので、必要以上の長居は良くないかもです。
ニッケパークタウンの駐車場をお借りして寺家町(商店街が西国街道の加古川宿にあたります)探訪のついでに徒歩での訪城が無難です。
また、称名寺周辺は住宅密集地でもあるので、特に写真撮影などの際はくれぐれも不審者に間違われないようにw

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todo94

続日本100名城スタンプ87個目 (2019/01/13 訪問)

本当は吉野ヶ里から太宰府展示館に向かって大野城のスタンプをゲットしたかったのですが、太宰府天満宮に向かう車で大渋滞が発生していて太宰府展示館に行くことは諦めました。センター試験の前の週で参拝者が多かったのでしょうか。渋滞を避けて水城館にアクセス。昨年7月、豪雨のための休館で入れなかった水城館に入ることができました。リーフレット類もたくさんいただきました。

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曲輪姫

福山散歩 (2019/01/19 訪問)

2度目の参城です。本日も晴天なり。青空にお城がよく映えます。
いつ行っても駅裏ってことを忘れる閑静な城内。
居心地最高です。
前回見なかった城主・水野勝成公の寿碑もしっかり見ました。木々に覆われてひっそりと立つ寿碑。
これは見逃してしまう、、

1日4回、鐘櫓の鐘が鳴るとのことで、正午にその音を聞くぞ!と思っていたのに、お腹がすいてレストランに吸い込まれたので聞けず。。
またリベンジします!

そして今日は福山城に関係する神社、お寺も巡り御朱印をいただきました。(三蔵稲荷神社、阿部神社、備後護国神社、福山八幡宮、聡敏神社、艮神社、賢忠寺、草戸稲荷神社、明王院)
お城を守り、城下町繁栄を祈る神社やお寺がその時代から今まで続いているんだなぁ~心が洗われます。

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勝野武士

港町高砂の繁栄の礎?? (2019/01/19 訪問)

縁結びとか播州の秋祭りで有名な高砂神社。この境内一帯が高砂城の本丸跡といわれています。

元々の高砂城は羽柴秀吉の播州攻めで別所方に与し落城の憂き目にあっています。
その後、池田輝政によって大改修された(その際古くから現在地に鎮座していた高砂神社は北西に遷座させられ、その地に本丸が築かれた…ていうことは、天正期の高砂城は別のところにあった??)。
しかし、徳川幕府の一国一城令によって廃城。
本丸跡には、当時の姫路城主本多忠政によって再び高砂神社が遷座され、その周辺は港町・高砂町として発展してゆくことになります。

過去にも何度か訪れたことのある高砂神社…もとい高砂城。今回は高砂町の街並み探訪も兼ねて再訪してみました。
城跡としての面影は、平城の宿命か、それとも江戸時代以来の港町の繁栄に埋もれてか、ほぼ皆無に近いです。境内には石碑が建っています。
神社の外周を歩いてみると、玉垣の下や塀の下の基礎などに大振りな石材が使われています。なんと高砂城の石材が使われているのだそう。いわれてみればそう見えてくるからフッシギー。流石に当時の場所そのままってことはないかもしれませんが、訪れた際は是非探してみて下さい。
高砂神社の北には南堀川(運河、船着場)がありますが、高砂城の堀をそのまま利用したものでしょうか?
町内の案内板を見ても、なんとなく城の縄張っぽい感じがしますね。実際のところは詳細な構造は不明なままなんですが、果たして??

なお、高砂町一帯には格子やうだつのある建物があちこちに残っています。中でも工楽松右衛門旧宅とその周辺の蔵や発掘された南堀川の雁木や石敷きなど、港町としての繁栄を物語る見所がいっぱいで、歩いていてとても楽しかったですね。

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くろもり

慶長出羽合戦を疑似体験 (2013/12/07 訪問)

山形駅から徒歩で長谷堂城へ。片道7kmで2時間弱と少々距離はあったのですが、山形駅は山形城に近いので(江戸時代だと山形城三ノ丸に位置)、山形城主・最上氏視点での山形城から長谷堂城救援の行軍を体験できました。

長谷堂城に着いたので、今度は上杉軍視点に切り替えます。長谷堂城は、山形平野の南にポコンと突き出た小山で、愛知県の小牧山城くらいの規模に見えました。「こんな小山の城、落とすのに造作ないのでは?」と思って登城しましたが、実際に城山の縄張を歩いてみるとその考えははっきり打ち砕かれました。とにかく、帯曲輪・曲輪の数がべらぼうに多く、虎口で敵を防ぐ・帯曲輪から攻撃・その上の帯曲輪から攻撃・そのさらに上の帯曲輪からも攻撃可のような構造になっている所が至所にあり、こんな構造の城を力攻めで落としても、被害甚大で山形城の攻略に影響が出ていただろうなと恐怖しました。

城下に下りて、上杉軍の上泉泰綱(かみいずみ やすつな・通称 主水)公の討死の地へ。泰綱公は「剣聖」と呼ばれた上泉信綱公の孫と言われている方で、慶長出羽合戦の直前に上杉家に召し抱えられましたが、ここで討死したそうです。現在は一帯に田園が広がっているので、todo94さんのコメントにあるようにこの辺りは湿地だったのかもしれません。湿地に水堀にあの縄張のやべー城山に、山形城の最上軍と伊達氏の援軍の後詰まであると、直江兼続公も容易には手が出せなかったのかと思いました。

この後、山形城へ徒歩で向かうのですが、今度は上杉軍が長谷堂城を攻め落とした設定に切り替えます。山形城まで約2時間、甲冑具足をつけていても半日あれば、城下に殺到できる距離です。山形城に着いて、改めて長谷堂城主・志村光安公と鮭延秀綱公と城兵達が見せた武者振りに心から天晴れと思いました。長谷堂城が落ちていたら、最上氏は山形城を追われることになっていたと思います。

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ひろべえ

阿波九城の一つ (2018/04/01 訪問)

阿波国最南端の阿波九城の一つ、海部城へ。登城口がわからず小学校に行ったり、中学校に行ったりと右往左往しました。登城口は津波避難口を兼ねていました。未整備ながら小曲輪・石垣と予想以上の山城でした。整備して欲しいと願っていたましたが、有志の方々が整備にあたったいう内容が最近地元の徳島新聞で報じられていました。高速道路と連結していないので交通の便が悪いのですが、もう一度再訪してみたいと思います。

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ひろべえ

阿波九城の一つ (2017/05/27 訪問)

うだつの町並みで有名な脇町。阿波国のちょうど中間地点とも言える要衝の地。脇城とはどんな城か興味を持って攻城。案内がわかりにくいため、少し道に迷いました。何とか城址南麓の秋葉神社に到着。ここからの攻城だと車の置き場所に困りますが、短期駐車と腹を括って山道へ。山道を進んでいくので山城の雰囲気は味わえると思います。進んでいくと「脇城跡」の看板へ。一の郭と二の郭を分ける堀切の規模が竹藪だらけで未整備ですが、かなり大規模でした。一の郭は荒れ地で藪だらけですが無理やり入っていくと小規模な横堀あり。井戸を捜索しましたが見つからなかったので、たまたま二の郭付近でたけのこを取っていた方に聞くと平たいところ(一の郭の北側)にあるということで再捜索。藪の中からそれは突然現れました。囲っていないので、気をつける必要あり。たけのこ堀りの方に伺うと、私有地だから整備されていないとのこと。城跡として整備されたらもっと再評価されると思います。

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散歩 (2019/01/19 訪問)

 早朝、ホテルから散歩がてら行って来ました。遺構がもう少し残っていれば海に面した見ごたえのある城址だったのでしょうか。

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石垣の曲線美 (2019/01/18 訪問)

 沖縄の城壁に特徴でもある曲線が美しい城跡です。

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かっこいい城址 (2019/01/18 訪問)

 外からの見た目だけで言えば沖縄県の中では最もかっこいい城址ではないでしょうか。眺望もすばらしい。東の曲輪などを合わせた縄張りがどうなっていたのか、気になるところです。

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じんじゃー

中山道を抑える境目の城 (2019/01/12 訪問)

妻籠宿の北にあり、城跡東南側の旧中山道が重なるY字路部分に登城口がある。
立派な登山道がついているのですぐに城域まで到達できる。出城部分の堀切を通り、谷戸部分に作られた土橋を越えると二郭と三郭の間の大堀切に出る。右側が三郭だが笹薮であまりよくわからない。左に進むと二郭、堀切・土橋を越えると小さな段郭があり主郭へと通じている。主郭は土塁で囲まれていたようだが今ではかなり低くなってしまっている、出入り口にあたる部分が数か所空いている。
徳川秀忠が関ヶ原の戦いの終了の知らせを聞いた城としても有名ですね。

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再訪▪城廻りvol.3 津山城 (1981/03/07 訪問)

津山城の今と昔(昭和56年3月7日訪問、平成30年12月21日再訪)

津山城は春は桜の名所として、秋には紅葉の名所として岡山県内外から多くの観光客が訪れる鶴山公園として今は私たちの憩いの場となっています。

城内も備中櫓などの建造物も復元されたり、発掘調査に基づき少しずつ整備されてきています。

津山市による、昭和63年よりの保存基本計画により、石垣修復や本丸内の民家の撤去などがまず行われました。
さらに平成10年度から20年計画で史跡津山城跡保存整備計画が第1期事業としてスタート。
城内を順次発掘調査し、石垣修理をはじめ、石垣を破壊しそうな樹木や景観を損ねる樹木や地下に埋もれた遺跡を破壊しそうな樹木などの整理。また明治の廃城後に設置された占有物の撤去。虎口整備(往時の通路の復元)。建造物の復元(備中櫓が平成17年に完成し公開)。
と順次整備が続行中で、現在は本丸北側の二の丸一帯が整備中のため立入禁止になっています。

38年前の写真と比べてみると、本丸内の樹木やトイレや土産物店などが撤去されスッキリとしています。
城内各所には、発掘調査時の写真や、当時の絵図面と一緒に解説文のタイルが設置されており、往時の津山城を歩いて回るだけで知ることができるようになっています。

第1期事業が終了したあと、第2期事業がどんなものになっていくのかとても楽しみな津山城です。

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刑部

世界遺産の城 (2018/05/03 訪問)

前夜、人が少ない時に訪問と次日に天守の上まで行きましたが 昔みたいに自由に見れない規制が多いのが残念! 蟻の行列で良く見られない。
昭和の改修から数年後と平成の改修中 そして平成の改修後に今回訪問です。 綺麗過ぎる城は・・・戦国時代の面影がある方が好きですね私は。

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夏の雪だるま

千葉氏の居城 (2017/09/30 訪問)

千葉県佐倉市と酒々井町にまたがる本佐倉城です。平成29年4月続日本100名城に選ばれています。下総を治めた千葉氏が15世紀後半に築いたとされ、以降、千葉氏の本拠となっています。1590年の北条征伐後、北条方の千葉氏は改易となり廃城、城下に陣屋が置かれましたが、1610年小笠原氏が本佐倉城に入り佐倉藩の藩庁が置かれています。佐倉城が完成すると1616年藩庁は佐倉城へ移転、再び廃城となっています。城は、佐倉市と酒々井町にまたがる将門山に築かれ、城域は内郭群・外郭群の10の郭と衛星状に配した城下町を含む総構えの三重の同心円で構成され東西1km南北2kmの大城郭と言われています。内郭は南側に谷がある丘陵にあり、三方を湿地帯に囲まれた要害であったとされ、外郭は内郭からつながる丘陵に空堀を持つ家臣屋敷が配されたとされます。現在でも、土塁や空堀などが残り、国の史跡となっており、東山馬場に駐車場が整備され、各郭に説明板が立てられています。城跡南側100mにある本佐倉城跡根古谷の館から城地全景が良く見えます。

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夏の雪だるま

土岐氏の城 (2017/09/30 訪問)

千葉県いすみ市の万木城です。築城については不明ですが、15世紀後半には里見三羽ガラスの一将として剛勇をはせた土岐氏が万喜城主と言われます。しかし、1564年第二次国府台合戦で里見氏が北条氏に敗れると、北条氏に従い里見氏から離反。以降、里見氏や上総武田氏から攻撃を受けるようになりますが、剛勇をはせる土岐氏は寡兵ながら撃退しています。土岐氏家臣には、後に徳川将軍剣術指南役となる御子神典膳もおり1589年の里見氏との戦いでは里見軍の関八州に名声が高い豪傑正木大膳時堯と互角に戦ったことから一躍名を馳せたとされます。しかし1590年の北条攻めで、北条方の土岐氏は本多忠勝率いる徳川軍に攻め落とされ、一時、本多忠勝が大多喜城に移る前に居城としたとされますが、1591年、廃城となっています。城は、東・西・北の三方が夷隅川の急峻な崖に囲まれた要害の地の標高50mの山頂部分に一の郭、二の郭、三の郭が配された東西500m南北800mの規模の山城です。現在、城は万木城跡公園となっていて山頂に上る道路は車1台分の幅しかないため信号機の交互通行となっていて、山頂の三の郭に駐車場、妙見台と呼ばれる見張台跡に天守閣風の展望塔が整備され、二の郭に井戸跡があり、その先の台地の杉林が一の郭とされます。

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カルビン

次期100名城あれば選ばれなければおかしい場所 (2014/12/06 訪問)

静岡県のお城巡りしてきた際に二俣スタートで東京方面に戻りながら5番目に立ち寄ったのが丸子城。
静岡県にある武田式の名城のうちの1ヶ所で、個人的には高天神や諏訪原に劣らないお城だと思ってます。

誓願寺の駐車場に車を停めさせて頂き、そこから登山道へ。

遺構が素晴らしいのは噂に聞いていたものの、その急斜面はキイテナイヨ~(涙)

登り序盤はそのキツさに、途中からは急角度と道の細さの怖さに大変でした。。。足が疲労と怖さでリアルに震えましたから・・・個人的に山城攻略した中では岩殿城以上に怖かったのがここ丸子城の誓願寺側からの登山道でした(怖)


やっと登り切ったところはいきなり主郭附近・・・やはりこっちは搦手だったか(汗)
そこから緩やかに下りながらダイナミックな遺構だらけの山城を見学。。。やはり一番すごかったのは複数あった三日月堀・土塁でした。。。よくこんな高い所に設けたもんですよw

逆側から登れば凄く効率良く見学できると思います。。。自分は車を停めた方向の都合で戻る際にまた登って再度恐怖の急坂を下りる事になりましたが(;Д;)


ちなみに誓願寺には片桐且元と横山城城主(名前が検索しても引っかからずに不明)のお墓があります。
片桐且元は徳川と豊臣の手切れの原因となった方広寺大仏鐘銘事件弁明の際にここに滞在されたとされております。

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夏の雪だるま

本多忠勝の城 (2017/09/30 訪問)

千葉県大多喜町の大多喜城です。H29年4月に続日本100名城に選ばれています。1521年上総武田氏の一族武田信清が築いたと伝えられ、武田一族の内紛により1544年安房里見氏の武将正木氏に攻められ落城、以降、正木氏が城主となっています。1578年里見氏当主義弘が亡くなると、正木氏は反乱を起こすも、義弘の跡を継いだ里見義頼の攻撃を受け城内の内通者により正木氏は殺害され、城は義頼の次男時堯が城主となり支配下に置かれます。1590年豊臣秀吉の北条攻めの際、里見氏は秀吉の許しもえず、三浦半島へ攻め込んだため秀吉の怒りを買い上総を没収され、大多喜城には徳川家臣の本多忠勝が入城。大多喜藩10万石が成立し三層四階の天守閣を持つ近代城郭に改築、城下町も整備したとされます。1617年阿部氏に城主が変わるも1619年相模小田原に転封となり城主がいなくなり城は荒廃。その後1671年阿部氏が1万2千石で城主として入り、その後も、稲垣氏、松平氏など譜代大名が城主となりますが小藩のため城は整備がいきとどかないまま、明治維新を迎えたとされます。城は、夷隅川が屈曲する部分に西から東に張り出す丘陵上に築かれ、西と北側は深い谷に、南側を夷隅川の崖と急流で守られ、東側に向かって本丸、二の丸、三の丸、堀を配した東西500m南北800mの規模の平山城とされます。本丸には三層四階の天守閣があったとされますが、1843年焼失し、その後、神殿と称する建物が建てられたとされますが、定かではありません。明治維新により城は取り壊され、本丸は削平された伝えられます。現在城跡は県史跡に指定され、本丸跡に天守が再建され博物館となっています。遺構としては、本丸に土塁、二の丸跡の大多喜高校に薬医門・日本一と言われる大井戸が残っています。また、大手門跡は駅裏の山側ですが、大多喜駅前に観光用大手門があり、県道172号との角に、城から数えて4番目の門で城に向かう最初の門である馬に乗った武士が通過できる大きな冠木門跡の石碑が建つ四ツ門公園があります。

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夏の雪だるま

上総武田氏の居城 (2017/09/30 訪問)

千葉県木更津市の真里谷城です。1456年上杉政憲が支配する上総国へ敵対する古河公方足利成氏の命を受けた武田氏が築いたとされます。ここを拠点に武田氏は周辺の地域へ進出、佐貫城・久留里城・大多喜城の支城を築き上総支配を進めていきます。上総武田氏五代信保が1534年亡くなると、庶子の信隆が当主となったことから、嫡子・信応との間で跡目争いが起こり武田氏は衰退する中、支城を里見氏などに奪われ、武田氏は北条氏の支配下となってゆき、1590年秀吉の北条征伐により、武田氏は滅亡、廃城になったとされます。城は、街道や集落、耕作地なども周辺にない山中にあるため、攻めにくく、房総半島の中央にあるため各地に進出しやすいという利点があり、千畳敷と呼ばれる主郭、二の郭、三の郭、四の郭を配し、東西400m、南北700m程の規模とされ、遺構としては、土塁や堀切などが残っています。
現在城跡は、城山神社や千畳敷のある主郭などが木更津市立少年自然の家キャンプ場として利用され、7月から9月のキャンプ場営業日は開放されていますが、それ以外の日はキャンプ場へ入る道路のゲートが閉ざされ入場禁止となります。

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夏の雪だるま

関東攻防の城 (2017/09/29 訪問)

千葉県松戸市の小金城です。千葉氏の家老原氏の重臣であった高城氏により1537年築かれたとされ、関東に侵攻した上杉謙信に備え拡張が行われ、1566年上杉方に攻撃・包囲を受けるも籠城、守り切ったとされます。1590年の豊臣秀吉の北条征伐では、北条氏方であったため浅野長政らに攻められ開城。その後、徳川家康の関東移封に伴い、家康五男武田信吉が入城、信吉は1592年下総国佐倉城主に転封、小金城は1593年廃城となっています。城は、標高20m程の丘陵地帯に築かれ、古利根川・中川・荒川流域の低地帯を望み関東平野を一望できる、東西800m南北700mの規模とされ、北に金杉口、南に大谷口、東に達摩口、西に横須賀口など12の郭を備えて、東西に家臣屋敷、南北に寺社を配し当時の下総国北西部において最大規模を誇った平山城とされます。江戸川の水運により城下は市が立ち並び、周辺の本土寺や東漸寺が領主高城氏の保護を受けて城下は栄えていたとされます。現在城跡は、ほぼ全域が住宅地に開発され、城の北側金杉口が大谷口歴史公園として障子堀・畝堀・土塁などの遺構が、公園東側の達磨口跡が残るのみで、本丸跡の北小金住宅団地付近の交差点角に本丸城址碑が置かれています。公園の障子堀などはほとんど埋まってしまっていて残念な状態となっています。城跡は、流鉄流山線小金城址駅と常磐線北小金駅の北側に広がる丘陵地にあり、公園に駐車場がないため北小金駅北口パーキングに駐車し城域を歩くと、丘陵住宅地特有の坂が多く、狭い曲がりや行き止まりが多く迷路のような道路が続き、要害であったことを感じさせる地形となっています。

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夏の雪だるま

戦国期の里見氏居城 (2017/09/30 訪問)

千葉県富津市の佐貫城です。15世紀中頃総州長尾氏が築いたとも上総武田氏が築いたとも伝えられますが、上総武田氏の城として武田氏家臣の加藤氏が城代を務めていた1537年、里見氏の攻撃により里見氏の城となります。以降、北条氏と里見氏の攻防の場となり、数度、北条氏の城となったり里見氏が奪還したりしますが、1563年里見義弘が北条氏より奪還以降、里見義弘の本拠となっています。1590年秀吉の北条征伐で里見氏が上総を減封となると、、関東を与えられた徳川家康の家臣である内藤家長が入城、以降、数々の城主が入れ替わったり、廃藩廃城となったりしましたが、1688年五代将軍徳川綱吉の側用人として重用された柳沢吉保が一万五千石で立藩、1694年柳沢氏が武蔵川越へ転封となると再度廃城。1710年阿部氏が三河刈谷から移封され、佐貫城を再興し、明治維新まで続いています。城は、北上川と染川に挟まれた丘陵に深い谷が入り込んだ地形となっており、丘陵の尾根に本丸、二の丸、三の丸を配し、本丸と二の丸の間に大きな空堀と、幅4m高さ3.3m長さ10mの土橋が架けられ、城は東西400m南北500mの規模であり、佐貫は古くから複数の街道が交わる交通の要衝であり港町があったことから経済・交通の中心となっていたとされます。遺構としては、土塁や空堀、井戸等が残り、また、上総国では珍しい大手櫓門跡の石垣も残っています。佐貫中学を過ぎ県道を東に進むとカーブ付近に案内板が立ち、大手門跡へ上がる階段があり、大手櫓門跡の見所の石垣があります。

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