小早川隆景が城主の城で唯一新幹線による破壊の無い城です。
(三原城は新幹線・山陽本線により分断。高山城と新高山城はトンネルにより真下を新幹線が通過)
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2020/11/29 20:33
2020/03/02 21:50
竹原小早川家本城 (2020/02/09 訪問)
【木村城】
<駐車場他>駐車場はないが、登城口に空き地みたいなところ(空き地ではないと思うが)に駐車しました。
<交通手段>車
<見所>社跡・畝状竪掘り(見ていないので断定できません)
<感想>日帰り小早川家攻城の旅3城目。登城口の説明板によるとこの城は、「正嘉2年(1258)都宇竹原荘の地頭職として、竹原小早川家の初代である政景(沼田小早川家茂平の子)がこの城を構えた。天文19年(1550)毛利氏から養子として迎えられていた14代隆景が沼田小早川家を相続して本郷の高山城に移るまでの約300年間、竹原小早川家の本拠であった山城である。」隆景が竹原小早川家を相続したのが12歳の時、高山城に移るまでの約7年間この城に居城したのだろうか。
登城口に説明板と縄張り図があり撮影しましたが、反射がきつくて自分の顔姿がくっきり写ってしまい掲載を憚られる為ご了承ください。縄張り図は役立ちます。
城跡は典型的な中世山城で規模は小さい。登山道を登って行くとまず馬返しの段という広い曲輪に入る。その上の若宮社跡・兵糧の段が高い位置にあり切岸が高くそびえて見える。若宮社跡は石垣台の遺構が見応えある。兵糧の段の曲輪にもわずかに石積みが崩れた跡が見られる。そこから上は主郭を中心に2・3段の帯曲輪と数個の腰曲輪が円形に囲んでいる。主郭は山頂をわずかに削った感じで極々小さい。
主郭の東側に広がる畝状竪掘り群は帯曲輪との間に切岸を挟んでいるようで、上からの確認ができなかった。樹木の斜面を少し降りると見られることができると思います。私は新高山城・高山城攻めのあとだったので、体力残っておらず断念した。
この城にてこの旅終了。今回の攻城の旅は小早川隆景の居城を逆に追っていった形となったが、若かりし彼が各城で何を考え、どういう理由で居城を移していったか色々考えられて興味深い旅でした。630㎞無事走破。
<満足度>◆◆◇
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2019/06/15 17:36
若き隆景在城の木村城 (2019/06/09 訪問)
東広島市西条の鏡山城探訪を終えて国道2号線を東進、国道432号線を南進、竹原方面へ国道沿いに木村城の看板、導入標識が有りますそれに従い川沿いの細い道を数百m、木村城の標柱と解説板が道脇に有ります、そこが登城路、駐車場数台ほど、眼前に木々に覆われた城山標高140m程。
道からの登城口から城山麓迄約百mは草刈り後の伸び放題で膝までの草、若干の湿地地には背丈ほどの葦が伸び入城を拒んでるが勇気を持って突入、その後は登城路を上がる暗く欝蒼とした坂道、落ち葉が積もり雨水で更に深くつもり足場悪し、余湖図コレクションさんの縄張り図に依る8郭に15分程で到着し後は見通しよし日も射しこんで来ます、中の丸エリア、本丸エリアは各曲輪良く残ってます、環境、見える化景観整備、導入路を今一整備されれば小早川隆景公が竹原小早川氏に若かりし頃養子に入り在城の城跡として注目を浴びると思うのですが。
明日の新高山城登城の前勉強、トレイルランニングです、村内の方に道が狭く不安に成り道を訪ね気持ち良く教えて頂きました、ありがとうございました。
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分類・構造 | 山城 |
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築城主 | 小早川政景 |
築城年 | 正嘉2年(1258) |
主な改修者 | 小早川隆景 |
主な城主 | 小早川氏 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 曲輪、石垣、堀切、竪堀、畝状竪堀、櫓台 |
指定文化財 | 県史跡(木村城跡) |
再建造物 | 碑、説明板 |
住所 | 広島県竹原市新庄町城ノ本 |
問い合わせ先 | 竹原市まちづくり推進課文化生涯学習室 |
問い合わせ先電話番号 | 0846-22-7757 |