宮城県大崎市の古川城です。室町時代大崎氏7代教兼の子がこの地に居館を構えたのが始まりと伝えられ、その後子孫は古川氏を名乗っています。1534年泉沢城主新井田氏が主君大崎義直に叛くと古川城主持忠も叛乱に荷担、1536年6月叛乱鎮圧のため大崎義直は伊達稙宗に救援を求め、それに応じた稙宗は3,000騎をもって大崎領に侵攻、古川城は兵1千で籠城するも伊達・大崎連合軍4千騎に攻められ落城、古川持忠は自害しています。その後、一族の古川弾正忠隆が城主となりますが、1590年豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏は滅亡、大崎・葛西領は木村伊勢守吉清に与えられ、古川城には吉清の子である清久が入城しますが、木村氏は葛西・大崎一揆により失脚。木村氏の後、この地は伊達政宗に与えられ、古川城は家臣鈴木氏が城主と成り、鈴木氏はその後3代続きますが1645年、桃生郡深谷に転封となり古川城は廃城となっています。古川城は大崎平野の中心部に位置し、本丸(古館)と南側に二の丸・三の丸(西館)、北西に外郭を配し、東側を流れる緒絶川を堀とし、周囲が土塁と堀に囲まれた東西200m南北600mの規模で、大崎地方の平城では大規模な城であったとされます。本丸は古館とも呼ばれ、現在は古川第一小学校、二の丸・三の丸は住宅地、外郭は古川中学校となっていて戦前は土塁や堀が残っていたそうですが、現在遺稿は残っておらず、小学校正門脇に古川城址の説明板があるのみです。また、近くの瑞川寺に鈴木氏が移築したとされる搦手門が山門として残っています。緒絶川に藤棚が造られ、5月には藤まつりが開かれています。
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