千葉県野田市の関宿城です。室町時代に利根川と江戸川の分岐点の関東の水運を押さえる地に古河公方家臣簗田氏により築かれたとされ、戦国時代に入ると関東の制圧を目指す北条氏康より「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」とまで評された関東中心部における重要拠点と言われます。簗田氏が守る関宿城を1565年から北条氏は再三攻撃、しかし、簗田氏は城の堅固な守りや上杉謙信などと結ぶことで抵抗、何度か撃退しています。しかし、1574年3万余の北条の軍勢の攻撃を受け籠城の末、矢玉・兵糧が乏しくなり城を開け渡します。その後は、北条方の城となりますが、1590年豊臣秀吉の北条攻めにより無血開城したとされます。北条氏滅亡後、関東に徳川家康が入ると関宿城には松平康元が2万石で入城。以降、譜代大名が次々と城主となり1705年久世氏が城主となると明治維新まで続いています。城は、利根川・江戸川・逆川に挟まれた微高地に築かれ、北・東・西が河川で守られ、本丸、二の丸、三の丸、発端曲輪、天神曲輪などを配し、河川以外に各曲輪に土塁・築地塀、水堀を回し、武家屋敷などが配された外郭部も水堀が回された堅牢な守りの東西800m南北1300の規模の平城とされます。現在城跡は、河川改修により半分以上が河川や堤防の下となり、その他は市街化により、遺構はほとんど残っておらず、河川改修後の河川分岐点に関宿城博物館が建てられ、本来の本丸跡に城址碑と、水堀跡に説明板があるのみです。移設された遺構では、本丸御殿の一部が博物館から南1km半の実相寺に、埋門が博物館から南3km半に、大手門が栃木県下野市に、薬医門が茨城県坂東市の逆井城にあります。
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