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夏の雪だるま

謙信家臣、色部氏の居城 (2016/05/03 訪問)

新潟県村上市の平林城です。平林城は揚北衆の一人色部氏の居城で、源頼朝からこの地の地頭に任ぜられ大きな勢力をもっていたとされます。戦国時代上杉謙信に従った色部勝長は、本庄繁長が武田信玄に内通反乱を起こすと謙信軍として村上城を包囲。しかし、繁長の夜襲を受け戦死したとされます。色部勝長は関東北条氏との戦いで活躍、武田信玄との川中島の戦いでは上杉軍屈指の勇将柿崎景家の危機を救うなど謙信の信任も厚く、勝長の死に謙信は大いに嘆いたとされます。謙信死後の御館の乱では色部氏は本庄繁長と共に景勝の勝利に大いに貢献したと言われます。上杉氏の会津移封に伴い重臣として同行し平林城は廃城となってます。城は標高281mの要害山を詰めの城した山麓に土塁と堀を廻らした城で国史跡となってます。東西450m南北300mの本丸、二ノ丸、三之丸を有し、北側は滝矢川を自然の堀とし、西と南に幅10m程の堀を作り、東側は詰めの城加護山要害山となってます。写真は城説明板、岩舘曲輪(三之丸)、岩舘と土塁、中曲輪(二ノ丸)、殿堀跡(本丸)、城略図、由来、詰めの城側の土塁、空堀、登口、城入口です。平林城は国道7号線の平林駅近くに平林城の標識がありそれに従い横道を入った千眼寺の先にあります。

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御館の乱、上杉景虎最後の城 (2017/05/02 訪問)

今年続百名城に選定された新潟県妙高市の鮫ケ尾城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、越後守護代長尾氏(のちの上杉氏)が北国街道監視のため1500年代に築いたとされます。謙信の死後勃発した跡目相続の争い「御館の乱」では、鮫ケ尾城主堀江氏は、上杉景虎に味方しました。しかし、景虎は景勝に敗れ、鮫ケ城へ落ち延びますが、堀江氏は景勝に寝返り、城から退去、景虎はわずかな手勢は立て籠もるも落城、自刃したとされます。城は北陸新幹線上越妙高駅南西3㎞付近の矢代川左岸の標高909mの南葉山から東に伸びた尾根の先端標高185mに築かれ、本丸、二の丸、三の丸など配し東西600m南北300mの規模とされ、二の丸からは被熱した陶磁片が、三の丸からは炭化した握り飯が出土したとされ、落城後廃城となったと思われます。城跡には土塁、堀切などが残り往時を偲ばせます。城跡は、上越市から妙高市へ向かう県道63号線から県道85号線に入り斐太歴史の里駐車場へ止め、城跡へ向かいましたが、総合案内所を通る北登城道は工事により平成29年12月末まで通行止めだったため、東登城道で城を目指しまた。城跡手前の中腹に弥生時代の空堀を巡らした住居跡の斐太遺跡があります。

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山の上の石垣の城 (2016/05/03 訪問)

新潟県村上市の村上城です。別名を舞鶴城ともいい、村上市街地の東に築かれた標高150mの山城です。この城は室町時代以降この地の地頭となった本庄氏の根拠地で、揚北衆の一人として戦国時代上杉謙信に対して本庄氏当主繁長は抵抗しました。謙信に従った後も1568年武田信玄に内通し反乱を起こし、村上城に籠城。謙信の攻撃を受けましたが勇猛な繁長はゲリラ戦と夜襲により謙信軍に多大な被害を与え、翌年会津芦名氏の仲介で許されています。1598年景勝の時会津に国替えとなり代わりにこの地に入った村上頼勝が大改造を行い、その後、堀氏、松平氏によって本格的に築造され、三層の天守閣が威容を誇ったとされます。しかし、1667年落雷により天守は焼失。その後1720年内藤氏が城主となり以降幕末まで130年間続いています。戊辰戦争では新政府軍の攻撃受けた村上城は、村上藩兵自らが火を放ち城は焼失、現在は山上の石垣が往時の名残を残すみのです。城は市街地の東の臥牛山の山頂に本丸、二の丸、三の丸を配し、中腹に大小の曲輪を設け、西側麓現在の城山児童公園に城主居館があったとされます。児童公園から歩道を登り約25分程の山頂本丸を目指しますが、公園の駐車場は狭いため、500m離れた市役所駐車場に置いて登りました。

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百名城の新発田城 (2016/05/03 訪問)

新潟県新発田市の百名城の一つ新発田城です。この地に初めて築城したのは鎌倉時代地頭に補任された佐々木氏の末裔新発田氏とされ上杉謙信・景勝時代、揚北衆の重鎮として勢力を固辞していましたが、1581年豪勇の誉れ高き新発田家当主重家は織田信長に内通し、破竹の勢いで周辺領地を占領します。しかし、1582年信長が本能寺の変で亡くなると上杉景勝軍は総攻撃を開始、重家支配下の城を次々に攻略、新発田城に迫ります。これに対し新発田重家は城から出撃、景勝軍に7百騎で突撃し最後は自刃したとされます。その後、上杉氏が会津に転封となり、1598年加賀から6万石で入部した初代藩主溝口秀勝が旧城地に築城を開始、56年後の三代藩主宣直の時に城が完成してます。城は本丸を二の丸が取り囲み、南側に三の丸を配し東西500m南北1000mの規模を有していた平城とされます。本丸は石垣造りでしたが、その他は土塁で作られ天守閣はなく、本丸、二の丸、三の丸に三階櫓を含め11の櫓があったとされます。明治維新により新政府の命で城は取り壊され、本丸表門と石垣、二の丸隅櫓のみが残っています。平成16年に三階櫓と辰巳櫓が復元され、平成18年に日本百名城に認定されています。現在城跡は陸上自衛隊の駐屯地となっていますが、城址公園として本丸の一部に石垣、表門、復元された三階櫓、辰巳櫓、本丸に移築された二ノ丸櫓が遺構として残っています。

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謙信の城 (2016/07/30 訪問)

新潟県上越市の百名城と中世五大山城の一つ春日山城です。城は標高180mの春日山に南北朝時代に築かれ戦国時代長尾為景(謙信の父)、上杉謙信らにより整備拡張され城域は2km四方にわたるとされます。上杉謙信の居城として山頂に本丸を置き周囲に大小200を超える曲輪が配され、重臣の屋敷も山中に建てられています。1578年謙信が49歳の若さで病死すると跡目争いが養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏政の弟)の間で勃発。春日山城の本丸尾根続きに屋敷のあった景勝がいち早く本丸に入り金蔵と兵器蔵を押さえ、本丸下の二の丸から下にある三の丸に屋敷の有った景虎の機先を制します。双方が跡目を譲らず争いが始まり景勝の本丸からの鉄砲などの攻撃に耐え兼ねた景虎が春日山城から脱出、府中の前関東管領上杉憲政の御館へ入り籠城。周辺の上越地方の豪族らが景虎に味方し6千の兵が集まり、これらの兵で景虎は春日山城を攻撃。これに対し景勝に味方したのは新発田氏などの下越地方や実家の上田地方の豪族で春日山城から御館を挟んで遠く離れており、城内の景勝の兵力は少数でしたが、天然の要害である難攻不落の春日山城により景虎の攻撃を撃退しています。しかし、周辺大名の庄内武藤氏、会津芦名氏、小田原北条氏、甲斐武田氏が景虎に味方。特に武田勝頼は2万の兵で越後に侵入してきます。これに対し景勝は信濃北部領地の割譲と本丸金蔵にあった黄金二万両で勝頼との間で和平を締結。これにより勢いをました景勝は次第に景虎方を圧迫。御館は落城し景虎は落ち延びる途中で味方の裏切りにあい自害しています。その後、乱を収束させた景勝は豊臣秀吉に従属。1598年秀吉の命により上杉氏が会津へ転封になると堀氏が春日山城へ入城しますが、1607年不便な山城にかわり直江津湊近くに福島城を築き移ったため廃城となっています。平成28年7月27日までの大雨で春日山城の二の丸・三の丸下方斜面が崩壊したため訪問する前日まで登城禁止でしたが、訪問した7月30日から本丸へ登れるようになりましたが、二の丸三の丸は立入禁止で残念でした。

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天下普請の城 (2016/07/29 訪問)

新潟県上越市の高田城です。1610年60万石でこの地に入封した徳川家康の六男松平忠輝は福島城に入城。徳川幕府は加賀の前田氏、出羽の上杉氏をおさえるため堅固な城を築城することとし、諸大名に国役普請を命じ1614年伊達政宗や上杉景勝など13の大名が工事に参加、大雨などにより難航したとされますがその年のうちに完成させ、福島城を廃して忠輝が入城しています。城は石垣を使用せず天守閣もつくらず本丸西南隅に三重櫓が建てられています。大阪冬の陣の前で工事を急ぎ、付近に石材がなく遠方から集める余裕がなかったためとされます。しかし、忠輝は大阪夏の陣での失態や伊達政宗と陰謀を図った疑いなどから1616年領地没収となり、以降は領主が多数入れ替わり、1742年徳川四天王と言われた榊原康政の子孫の政永が15万石で入城し明治維新まで続いています。城は高田平野の菩提ケ原に築かれ本丸の周囲に土塁と堀、さらに二の丸、南側に三の丸、北側に北の丸を置き、関川と青田川を外堀とし東西1200m南北1000mの規模の平城とされます。現在城は、明治に入り旧陸軍第13師団駐屯のため大規模な土塁撤去・堀の埋め立てが行われ東半分はなくなり、本丸を含めた西側が高田公園となり三重櫓が再建され、公園の桜は三重櫓とお堀に映える様が日本三大夜桜の一つに数えられています。

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ひろべえ

別府湾を望む城 (2017/08/15 訪問)

九州家族旅行の際に朝駆け登城。木下氏3万石の居城として幕末まで改易されることなく存続。細川忠興指導の縄張りで穴太衆が協力して築城しているだけあって期待をもって訪れました。天守台・望海櫓跡石垣の雰囲気がとても素晴らしかったです。鬼門櫓も解体されずによく残ったものです。綺麗に移築されていていい佇まいでした。

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天空の城 (2016/09/22 訪問)

福井県大野市の越前大野城です。この地は越前から美濃に通ずる交通の要衝にあり、1575年織田信長よりこの地を与えられた金森長近により大野盆地の西側に位置する標高250mの亀山に本丸、東側麓に二の丸、内堀、三の丸、外堀を配し平山城として築かれています。本丸には枯れたことがないと言われる金森長近夫人の名を冠したお福池などもあります。1585年金森氏が飛騨高山に転封、その後、青木氏や織田氏が城主となるも、1601年結城秀康が越前国を与えられ、家臣土屋氏が在城。1624年秀康の子松平直政が上総姉崎より5万石で移封となり大野藩が生まれています。1682年松平氏は明石に転封となり、替わって老中土井利房が城主となり明治維新まで続いています。城は本丸には二層三階大天守と二層二階小天守が築かれ、野面積石垣により築かれたとされますが、江戸時代の城下の大火により幾度も類焼し、明治維新により建物は取り壊され、石垣が残るのみでしたが、昭和43年天守閣が再建され、金森長近公像と幕末藩財政を立て直した名君井伊利忠公像が置かれ亀山公園として整備されています。城は東西・南北500mの規模とされ、亀山山頂に本丸、東山麓に二の丸、三の丸を配し二重の堀と川により守っていました。本丸にある自動販売機の写真にある天空の城としても有名で、10月から4月頃に10日程(11月が半分程)雲海に浮かぶ城が見えるそうです。

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朝倉氏の居城 (2016/09/22 訪問)

日本百名城の一つ福井県福井市の一乗谷城がある一乗谷朝倉氏遺跡です。福井市東南部の越前山地から流れる一乗谷川の峡谷に15世紀頃造られたとされます。峡谷には朝倉氏館や家臣屋敷、商人・職人等の城下町が形成され、谷のもっとも狭まった部分に下城戸と呼ばれる土塁と堀、出入口を巨石で固め、上流1.7kmにも上城戸と呼ばれる同様のものが置かれ、右岸側山頂部に詰めの城一乗谷城が置かれています。朝倉氏が越前を平定すると応仁の乱で荒廃した京都から公家や名僧等文化人が下向し、領国支配が安定した孝景の時代になると一乗谷は北陸の小京都と呼ばれたとされます。しかし、1573年浅井氏の小谷城支援のため派兵された朝倉軍2万は刀根坂の合戦に惨敗し織田信長軍3万の追撃を受け、名の有る武将が多数打ち取られ、当主義景は手勢のみで一乗谷に帰還しています。しかし、一乗谷での抵抗をあきらめ、より山間地の大野の寺へ移動。一乗谷城では少数の朝倉兵が抵抗するも織田軍により一乗谷は炎上廃墟となっています。大野へ逃れた義景は一族の景鏡に裏切られ攻撃を受け近習らが奮戦する中、自刃しています。一乗谷城は朝倉館の背後の山頂に本丸、東南の尾根伝いにそれぞれに堀切が設けられた一の丸、二の丸、三の丸が続く連郭式城郭となっています。道路沿いの館郡だけを見るのも1時間程度かかり、当日は雨のうえ、山城は1時間半程度かかるため山城は断念しました。

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日本最古の天守間 (2016/09/22 訪問)

日本百名城の一つ福井県坂井市の丸岡城です。越前朝倉氏が滅んだあと、一向一揆が勢力を盛り返したため1575年織田信長が一向一揆の拠点豊原寺を攻略。柴田勝家を越前守護とし、勝家は養子の勝豊を豊原寺に配し城主としましたが、山間地で交通の不便なことから1576年豊原西方4kmの丸岡城を新たに築城し城下町も移しています。築城後も一向一揆の残党が攻撃を仕掛けることが有り、城にある井戸から大蛇が表れ霧を吐き城の危機を救ったとの伝説から別名霧ヶ城とも呼ばれています。本能寺の変後の清洲会議で琵琶湖東岸の長浜城が柴田勝家のものとなったことから、1582年勝豊は長浜城主へ移り、丸岡城は勝家家臣の不破氏が城主となります。北庄城で勝家が滅亡すると、越前の領主となった丹羽長秀の家臣青山氏が城主となっています。丹羽長秀死後独立大名となった青山氏は1600年関ヶ原の戦いで西軍に味方したため領地没収。新たに越前の領主となった結城秀康の家臣今村氏が城代となりますが、御家騒動により今村氏は失脚。1613年「鬼作左」と呼ばれた本多重次の子成重が城主と成り、現在残る城郭に改修したとされます。本多氏が御家騒動により改易となると、1696年九州延岡より有馬氏が移封となり、明治維新まで続いています。城は福井平野の北東部に位置する独立丘陵に本丸、麓に二の丸・東の丸、西の丸を配し回りを内堀で囲み、外側の三の丸に家臣屋敷を置き外堀を廻らした平山城です。明治維新により堀は埋められ武家屋敷や城門などの建物は取り壊されましたが、国内最古と言われる二重三層天守閣が残り本丸付近の石垣と併せて霧ヶ城公園として整備されています。

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高山右近網張の城 (2016/07/29 訪問)

富山県高岡市の百名城の一つ高岡城です。1609年3月加賀藩初代藩主前田利長の隠居城としていた富山城が城下から出火した火災により炎上、このため一時的に魚津城に避難するとともに関野の地に新たな城を作ることとし、大名であったが切支丹のため追放され前田家の客将となっていた築城の名手高山右近により網張が行われ築城を開始。高岡城と命名し1609年秋に利長が入城。しかし、1614年病のため利長が亡くなり、1615年一国一城令により廃城となっています。その後、本丸の建物などは破却され、穀物などの倉庫が建てられ加賀藩の役人が置かれたとされます。城は本丸、二の丸、三の丸、明丸、鍛冶丸が配され各丸の周囲を水堀で囲み東西500m南北400mの規模とされます。城跡は城としての期間はわずか7年であり建物も残っていないながら現在ほぼ全域が高岡古城公園となり桜が多数植えられさくら名所100選に選定されています。

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佐々成政の城 (2016/07/29 訪問)

富山県の富山城です。1543年神保氏が家臣水越氏に命じてこの地に築城したのが始まりとされます。そして神保氏の居城となり、越後の上杉氏に抵抗する拠点となっています。1576年上杉謙信に富山城は攻略され謙信の家臣が城代となりますが、1578年上杉謙信が亡くなると上杉氏の跡目争いにより混乱するなか、神保氏は織田氏の援助を受け富山城を奪還。しかし、上杉氏に内応した家臣に幽閉され、これを織田氏の家臣佐々成政が攻略54万石で富山城に入城し城を大改修してます。しかし本能寺の変により柴田勝家方であった佐々氏は1585年豊臣秀吉7万の大軍の前に降伏、九州へ転封となり所領は前田氏が掌握。1595年前田利家が加賀・能登・越中三カ国を領有し、1597年利家の子の利長が富山城へ入城。1599年利長は加賀藩主となったことから金沢城へ移城し、富山城へは城代を置いてます。1605年利長が隠居し新川郡22万石を隠居領として再び富山城へ入っています。しかし、1609年城下から火が出て城は類焼したため高岡城を新たに築き利長が居城としています。1639年二男利次に10万石を分封し富山藩が成立、利次は富山城を修復し1661年居城としています。1690年二代藩主正甫は参勤交代で江戸城に登城した時、ある大名が腹痛で苦しんでいたため懐中にあった反魂丹という薬を与えたところたちどころに治り、これを見た多くの諸大名が反魂丹を買い求めたため、正甫の命で諸国に行商させたのが富山の薬売りの始まりとされます。城は神通川を北の守りとし本丸の南に二の丸、東西に出丸、その周りに三の丸を配し、周囲に神通川と水堀が廻り、東西700m南北600mの規模で天守閣は築かれなかったとされます。城跡は現在大部分が市街地に呑み込まれ、本丸と西の丸、二の丸の一部が富山城址公園となり唯一の遺構として千歳御門、千歳御門南側に復元石垣、模擬天守の博物館、三層櫓外観の美術館、水堀などが整備されています。

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天下太平

さすが家康 (2018/01/12 訪問)

始めの門は、なんともデカくて、中の駿府城公園は、すごく広い。
公園の中にある、徳川 家康の銅像は、思っていた以上大きい。
天守も、あの江戸城よりも大きいと言われるほど大きい。
やはり、当時の時の権力者は、徳川 家康だったから、大工も、大きくしなきゃ怒られると思ったのかも。

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五大山城の七尾城 (2016/07/30 訪問)

石川県七尾市の百名城と中世五大山城の一つ七尾城です。能登畠山氏が1428年頃砦を築き、1520年頃七代義総が城として整備拡張したとされます。義総が亡くなると家臣の温井氏ら老臣7人が台頭したため実権を家臣らに握られてしまいます。城はその後も増強と改修が続けられ山麓には城下町千門万戸が一里余りも連なったとされます。1576年能登に侵攻した上杉謙信の大軍に七尾城は包囲されますが一年にわたり持ちこたえ堅城を誇っています。しかし家臣の遊佐氏が謙信に内応、抗戦派の長氏一族を皆殺しにして上杉軍に開城。この城を有名にしたのはこの時、上杉謙信が詠んだ詩「霜は軍営に満ちて秋気清し・・・・」です。しかし、上杉謙信が亡くなると織田氏のものとなり1582年能登国を与えられた前田利家が城主となりますが、すぐに居城を七尾湊に近い小丸山城へ移ります。そして七尾城は前田利政が城主となりますが、1589年廃城となっています。城は、石動山山系の北端に位置し標高300mの尾根に本丸、長屋敷、西の丸、二の丸、三の丸など郭を配し尾根から枝分かれする幾筋の尾根にも無数の砦を配置し東西800m南北800mの規模と言われ七尾の地名は七つの尾根に由来すると言われ五大山城の一つとされます。本丸から三の丸にかけて石垣や土塁、空堀がのこり国指定史跡となっています。当日は本丸駐車場から登り本丸・二の丸・三の丸などを巡り約50分でした。本丸駐車場の城説明板のボックスに七尾城パンフレットがあるので便利です。

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加賀百万石の城 (2016/07/30 訪問)

石川県金沢市の百名城の一つ金沢城です。1546年加賀一向一揆の本拠として金沢御坊という城とも呼べる寺院が建てられたのがはじめとされます。1580年織田信長の柴田勝家軍の攻撃を受け落城、佐久間盛安に与えられ戦国城郭に改修され金沢城と命名されています。その後、賤ヶ岳の戦いで佐久間盛安が討たれると加賀国は前田利家が領し、1592年から金沢城を近世城郭へ改修をはじめ2代利長まで改修が続いています。城は、金沢平野の中央を流れる犀川と浅野川に挟まれた台地の先端に築かれた平山城で、本丸、東の丸、二の丸、鶴の丸、玉泉院丸、三の丸、新丸が配され五重の天守を持ち石垣と櫓が連なる東西500m南北760mの規模と言われ北側の新丸に大手門がありました。しかし1602年落雷により天守閣は焼失しています。かつては城跡に金沢大学がありましたが平成7年に移転し現在は金沢城公園として整備されています。遺構としては石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫があり、菱櫓、橋爪門、五十間長屋、河北門が復元され、かつての加賀百万石の居城を偲ばせます。隣には百閒堀を挟んで日本三大庭園の兼六園があります。

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障子堀の城 (2016/09/18 訪問)

静岡県三島市の百名城の一つ山中城です。小田原の北条氏が1560年代に小田原防備のため築城。1589年豊臣秀吉との間が険悪となると秀吉の小田原攻めに備え、南方台地の岱崎に出丸などを増築し防御態勢を整えます。1590年3月豊臣軍の攻撃が始まると城将松田康長が4千の兵で防備するも17倍の豊臣秀次を総大将とし徳川家康・堀秀政などが率いる豊臣軍7万の攻撃を受け激戦を繰り広げるものの半日で落城、城将松田氏は兵とともに玉砕し廃城となっています。箱根外輪山西斜面標高580mの箱根街道沿いに築かれ、本丸、二の丸、北の丸、西の丸、三の丸、出丸など複数の曲輪を配し東西400m南北800mの規模の堅城とされます。城跡は、各曲輪・土塁・障子堀などが山中城跡公園として整備され北条式中世城郭を体感することができます。

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武田・徳川の争奪の城 (2016/09/19 訪問)

静岡県浜松市の二俣城です。信濃から遠江への入口となる交通の要地であり、天竜川と二俣川が合流する標高90mの台地上の要害の地に1560年頃今川氏家臣の松井氏が築いたとされます。1569年今川氏が滅ぶと徳川氏の城となり以後、武田氏と徳川氏による争奪戦が繰り広げられます。1572年武田信玄が大軍を率い二俣城を包囲、城方の天竜川から水をくみ上げていた櫓に上流から筏を流し破壊、水の手を絶ち2ヶ月後に城は陥落、城は武田氏のものとなります。1575年長篠の戦いで大勝した徳川家康は二俣城を包囲、兵糧攻めを行い7ヶ月後に城は降伏開城しています。城は徳川家臣大久保氏が城主となり、1579年には徳川家康の嫡男信康が織田信長に謀反の嫌疑をかけられこの城で幽閉・自刃しています。1590年徳川氏の関東移封に伴い豊臣家臣の堀尾氏が浜松城に入城し二俣城も支城となりますが、1600年堀尾氏の転封により廃城となっています。城は北から北曲輪、本丸、二の丸、蔵屋敷、南曲輪が一直線上に並び、本丸西側には野面積石垣の小規模な天守台があります。城跡は現在城山公園として整備され天守台や本丸石垣、堀切などが残っています。

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戦国の家康の居城 (2016/09/19 訪問)

静岡県浜松市の浜松城です。築城者は不明ですが15世紀頃築城され当時は曳馬城と呼ばれ16世紀前半には今川氏家臣飯尾氏が城主を勤めていたとされます。今川氏滅亡後1570年徳川家康が遠江攻略の拠点として改修、岡崎城より移り浜松城と改名17年間居城とし、二代将軍秀忠もこの城で誕生しています。1572年武田信玄が大軍を率い上洛のため侵攻、家康方の二俣城を攻略後、浜松城へ籠城する家康の前を素通りし岡崎方面へ向かったことから、家康は追撃背後を襲い三方ヶ原の戦いが勃発、武田軍3万に対して徳川軍8千・援軍の織田軍3千の1万1千が戦い徳川・織田軍が大敗し家康は浜松城に逃げ帰ったとされ、その直後自戒のため有名な「しかみ像」の絵を描かせたとされます。1590年家康が関東移封となると秀吉家臣堀尾氏が城主となり三層四階の天守閣や現在に残る野面積石垣を築いたとされます。関ヶ原の戦い後、城主は代々徳川の譜代大名が勤め、歴代の城主により城は随時改修されています。城は西から天守台、本丸、二の丸、三の丸と東へ連なり、城の南を走る東海道側へ大手門があり、東西600m南北650mの規模とされます。城跡は現在天守台・本丸などが浜松城公園として整備され、二の丸には市役所・小学校などが建ち、三の丸は市街地となっています。

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玉石造りの石垣の城 (2016/09/19 訪問)

静岡県掛川市の横須賀城です。高天神城を武田勝頼に攻略された徳川家康が、1575年長篠の戦いでの大勝後、大須賀氏に命じて高天神城奪還のための前哨基地として1578年築かせたとされます。1582年武田氏滅亡後に城下町や港の建設が行われ、大須賀氏から最後の城主西尾氏2万5千石まで8家20代の城主を数え明治維新を迎えています。城は、築城当時の小笠山から張り出した尾根に造られた本丸の山城と、近世以降拡張された二の丸・三の丸の平城部分の周囲を堀で囲み、大手門が東西2か所あることや天竜川より運ばれた玉石を石垣に用い、1707年の宝永地震までは城内に船着き場があったなど特徴のある造りで、東西650m南北350mの規模とされ、本丸には三層四階の天守閣がそびえていたとされます。城は現在、本丸・西の丸・北の丸などが横須賀城跡公園として整備され、遺構としては玉石造の石垣や土塁、堀が残り、城門の不開門が近くの撰要寺に残っています。

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夏の雪だるま

徳川・武田の攻防の城 (2016/09/18 訪問)

静岡県掛川市の高天神城です。室町時代駿河の今川氏が遠江への侵攻の拠点として築いたとされ、戦国時代には遠江をめぐる武田・徳川の激しい攻防の舞台となりました。1571年武田信玄が徳川方の城であった高天神城を攻めますが攻略できず、信玄亡き後1574年武田勝頼が攻撃、徳川家康は援軍を出せず1ケ月の攻防の末城主小笠原氏は降伏開城、信玄でも攻略できなかった高天神城を落としたことから勝頼の武名を上げたとされます。その後、武田方となった高天神城は徳川の攻撃をたびたび受けるようになり、1575年長篠の戦で大敗し勢力が衰えた武田氏は、1580年9月の徳川氏の攻撃に対して籠城した高天神城8百の兵に対し援軍を送ることができず高天神城は兵糧も絶え1581年3月陥落、廃城となっています。城は、信州へ向かう街道と浜街道を押さえる交通の要衝である標高130mの山上に築かれ、東の峰に本丸、西の峰に西の丸・二の丸、その間の鞍部に井戸曲輪、南側の尾根に三の丸を置き、山全体が急斜面で難攻不落の城とされます。城跡は現在山頂に高天神社が祭られ、北側山麓の搦手門側の参道に大きい駐車場があり、南側追手門側にも小さい駐車場があります。

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