北条からの養子というだけあって,小田原征伐のシナリオが変わっていたことでしょう。登城に関しては,斐太歴史の里総合案内所から,東登城道を徒歩約20分で本丸跡。上信越自動車道の4車線化工事が完了するまでは,北登城道は通行止め。他に南登城道があります。
ランチのおすすめは,R292沿いにある“とん汁のたちばな”。とん汁ラーメンにしようか迷いましたが,とん汁定食(大盛)で。全国を食べ歩いている方は,ここのご飯のおいしさに気づくでしょう。
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2019/01/19 01:37
ここで景虎が没していなければ… (2018/04/07 訪問)
北条からの養子というだけあって,小田原征伐のシナリオが変わっていたことでしょう。登城に関しては,斐太歴史の里総合案内所から,東登城道を徒歩約20分で本丸跡。上信越自動車道の4車線化工事が完了するまでは,北登城道は通行止め。他に南登城道があります。
ランチのおすすめは,R292沿いにある“とん汁のたちばな”。とん汁ラーメンにしようか迷いましたが,とん汁定食(大盛)で。全国を食べ歩いている方は,ここのご飯のおいしさに気づくでしょう。
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2019/01/19 01:26
金山要害山城 (2017/03/30 訪問)
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2019/01/19 01:19
玉造要害山城 (2015/10/28 訪問)
玉造温泉にある玉作湯神社の隣にあります。
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2019/01/19 00:28
徳島県最大規模の山城 (2019/01/14 訪問)
続100名城は、名前くらいは知っている、あるいは名前自体初耳のお城も数多くあり、先入観がないフラットな状態で臨めるのが楽しいです。この一宮城も阿波九城の一つで名前くらいは…というレベルの知識でした。標高は本丸部分が約144mで、麓からの比高は約120m、秀吉の四国平定により阿波を与えられた蜂須賀家政が、徳島に築城する前、最初はここに入り本拠にしたそうで、その際に石垣造りなどの改修をしたそうです。朝イチで向かいましたが登城口至近の一宮神社の駐車場(と思わしき狭小な空き地)には先客1台あり、後続車に変な停め方をされて身動きできなくなるのも嫌なので(実際他でありました、怒!)ちょっと離れますが、安全策で併せて参拝予定の大日寺駐車場にお世話になりました。おかげで10分ほどロスしましたが、登城口から少し上るとすぐに石段道になります。道はよく整備されており途中いくつか平坦地もありますが、基本 本丸到達までは延々と石段が続くので、それなりの心構えで臨んでください。倉庫跡や明神丸、才蔵丸といった曲輪跡を見たため、約30分くらいでメインの本丸に到着です。徳島城同様、「阿波の青石」を用いた野面積みの巨大な石垣遺構が残っていました。城跡の維持管理は一宮城跡保勝会という団体の皆さんのおかげだそうで、感謝です!
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2019/01/19 00:09
未来の森ミュージアムは3月末まで休館。 (2019/01/03 訪問)
一国二城を許されていた肥後の麦島城が地震で倒壊後、少し北に再建された八代城。内堀に囲まれた本丸はカドケシみたいな形です。各隅部にある櫓台跡に登ってみました。全部同じような感じでした(^_^;)
小天守と大天守跡も行ってみましたが、月見櫓跡から続く石垣の上の道は狭くてヤバかったです。強風の時はやめといた方がいいです。歩きスマホも危険です。水堀が待ち構えています。が、たどり着いた先の小天守と大天守跡の石垣、素敵でした!凝ってます。ここの四角い空間の真ん中に天守がすっぽりはまっていた?いろんな角度から眺めたかったけれどコーナーにまわるのはやっぱりちょっと怖かったです。大天守が再建されなかった諸事情のひとつに、「怖かったから。」というのがあるのではないかと推測します。
博物館でいただいたパンフレットを今頃になって見ていたら、熊本地震で被災した廊下橋門石垣隅角部の修復が昨年夏に終了したとありました。手当たり次第撮った写真の中にあるかもしれないと思って確認してみたらありました。10枚目の写真です。「白いから石灰岩?」と思って撮った写真でした。とりあえずパシャパシャ撮っておくといいこともある、と思いました。
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2019/01/18 23:51
尼子十旗 高瀬城 (2019/01/14 訪問)
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2019/01/18 22:38
郭 (2008/05/05 訪問)
図書館裏にあります
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2019/01/18 22:29
石垣に松 (2009/02/28 訪問)
ここの石垣は素晴らしかった。萌え萌えです。
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2019/01/18 22:25
IC近く (2009/07/16 訪問)
浄願寺前に立派な城址碑があります。
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2019/01/18 20:52
この年の初被弾は山上城でした(時期早くない?) (2014/05/28 訪問)
以前群馬県前橋駅から中央前橋駅に移動し、上毛鉄道上毛線沿いのお城を攻略しに行った際、膳城の後に訪問したのが山上城。
漫画「花の慶次」で関ヶ原合戦前に上杉家に加わった浪人衆の中にいた山上道及が城主だった場所です。
・・・あの人が城主?イメージ浮かばないわ~ww
城域は城址公園になっており、奥の主郭と思われる場所には朽ちる寸前の錆びついた遊具が・・・なんか哀愁漂ってましたorz
遺構の派手さ・大きさは先に見た膳城には及ばないものの、形の良い土塁や堀、虎口等が見られました。
南側にある芝生の場所は木々が無く明るいイメージなのですが、遺構の残る北側は木々が生い茂っている為、暗いイメージがしました。。。陰と陽が備わったお城ですな(汗)
どうしても遺構を見るには日影メインになっていた訳ですが、この時期にして早くも蚊に刺されまして・・・
この年初被弾となりましたorz
ちなみに膳駅から徒歩15分くらいで到着出来ます。
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2019/01/18 18:58
楠公さんから言われては… (2019/01/13 訪問)
楠木正成公つながりの〆は下赤坂城。
上赤坂城からの道中、消防署の隣に駐車場の案内があるのが見えましたが、上赤坂城をじっくり堪能しすぎて日没も間近なため、中学校を抜けて現地の駐車場まで行こう、と思いきや、中学校の門が閉まっていました…。やむなく先ほど見掛けた駐車場まで戻って、そこから徒歩約10分で城址に到着。すっかり薄暗くなった中、城址碑と説明板を眺め、棚田を見渡し、遺構も特に無いし帰ろうかと思った時に目に入ったのが、楠公さんの肖像の案内板。そして…
「歩いてまいろうではないか 自動車の乗り入れは禁止である」
あらら、そうなんですか!? 駐車場だったと思しきスペースはありますが、乗り入れ禁止になっていたとは。帰宅してから確認してみると、確かに千早赤阪村のホームページでその旨案内されていました(http://www.vill.chihayaakasaka.osaka.jp/images/stories/kakuka/kankosangyoushinkou-ka/tanada/H3011-tanadaaccess.pdf)。ただ、道路沿いの下赤坂城址の案内表示はそのまま残っているので、そちらを早く何とかしないと中学校に迷い込む人が続出すると思うんですが…。
ともあれ、楠公さんから言われては従うしかありませんが、棚田のついでならともかく、城址碑と説明板だけのために往復20分歩く価値があるかと考えると…微妙ですね。
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2019/01/18 18:48
河内平野を睥睨す (2019/01/13 訪問)
千早城に続いては、楠木正成公つながりで上赤坂城へ。
登城口から少し登ると一の木戸。そこから先は尾根筋を掘削した切通道が続き、途中、喰い違い的に折れ曲がった箇所もあったりで、城塞感を満喫しながら登ることができました。国史跡だけあって整備状態も良く、そろばん橋付近の堀切や竪堀、二の丸周辺の横堀と竪堀、本丸を取り巻く帯曲輪など、見応えのある遺構が数多くありましたが、私が一番気に入ったのは、本丸からの河内平野一帯を見晴るかす絶景! 近くはPLの塔、遠くはあべのハルカス、彼方には淡路島まで見通すことができ、ここが赤坂城塞群の中心であることを実感しました。
…それにしても、苗木城や岐阜城など、山城からの眺望に強く惹かれるのは、元登山部の習性ゆえかもしれません。
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2019/01/18 18:02
小寺氏の城 (2018/05/04 訪問)
ここは、黒田官兵衛ゆかりの城址。運動公園としても整備されていてとても見学しやすい城址です!
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2019/01/18 10:37
2019消防出初式 (2019/01/06 訪問)
本丸と内堀で放水ありました。
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2019/01/18 10:26
2019新年明けまして米子城! (2019/01/01 訪問)
元旦初日の出は雲ってて拝めず。
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2019/01/18 07:19
唯一の現存する建築物 (2019/01/13 訪問)
大変立派な薬医門です、さすが 御三家。
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2019/01/18 06:38
3度目の日本100名城スタンプラリー94城目 (2019/01/13 訪問)
2010年以来、9年ぶりの吉野ヶ里は小雨の降る中の散策となりました。園内を広く俯瞰できる展望スポットが増えているように感じました。にのまるさんも投稿されているイノシシの親子、私も思わず撮影してしまいました。展示室や北墳丘墓の中もしっかりと見て回りました。今回が少なくとも7回目になる吉野ヶ里、初めて訪れたのは前世紀中でその時はまだ国立の歴史公園にはなっておらず、入園料はかかりませんでしたが、寄付金を支払っていただいた立派な有柄銅剣のペーパーナイフ、今でも大切に保管しています。
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2019/01/18 06:35
蒲生氏郷築城の城 (2016/09/21 訪問)
日本百名城の一つ三重県松坂市の松坂城です。この地方を治めていた北畠氏が1567年からの織田信長の伊勢侵攻に屈服、信長次男信雄に家督を譲り、信雄が南伊勢の領主となります。信長亡き後、豊臣秀吉に信雄は伊勢から追われ、替わって158年蒲生氏郷が入封。それまでの松ヶ島城から南2.5kmの四五百森と呼ばれるこの地に1588年新たに築城したのが松坂城です。阪内川南、標高35mの独立丘陵に本丸を中心として東に二の丸、南に隠居丸、西にきたい丸を石垣造りとし、麓の三の丸を水堀で囲み、東西600m南北850mの規模で、松ヶ島城下から寺社や商家を移住させ城下町も新たに整備しています。氏郷が会津へ移封となると1591年服部氏、1595年古田氏が城主となり、1619年徳川頼宣が和歌山藩主となるとこの地は和歌山藩領となり、以後、藩内勢州18万石を統轄する城代が置かれ明治維新まで続いています。現在城跡は、三の丸や堀は大部分が市街地となっていますが、裏門側に御城番屋敷が残り、本丸・二の丸・隠居丸・きいた丸が松坂公園として、城址公園には建物は残っていないものの、高い石垣が往時を偲ばせます。
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2019/01/18 06:32
将軍上洛時の宿泊用御殿のあった城 (2016/09/21 訪問)
三重県亀山市の亀山城です。1265年関氏が隣接する亀山市若山町の亀山古城跡へ築城したのが始まりとされ、現在の地にも戦国期の空堀が確認されていることから、この地に関氏時代に移った可能性もあります。1573年織田信長により関氏が追放されるまで関氏の居城となっています。1590年岡本氏がこの地に封じられると旧城を母体に築城を行い、本丸、二の丸、三の丸を配し天守も建てられたとされます。1636年本多俊次が城主になると城の大改修が行われ本丸、二の丸、東三の丸、西の丸、西出丸を整備、外周に堀を廻らし、本丸に将軍上洛時の宿泊所用本丸御殿、二の丸に藩主居館と政庁を兼ねた二の丸御殿が造られ、東西700m南北500mの規模とされます。城下は東海道が通り東海道53次の亀山宿として栄えています。城主はその後めまぐるしく替わり1744年石川氏が城主となると明治維新まで続いています。明治になると城の建物は取り壊され、現在は多聞櫓と石垣、土塁、堀の一部が残るのみで、本丸付近が亀山神社・ますみ児童公園、二の丸が亀山西小学校・市役所、西の丸が亀山中学校や住宅地、東三の丸が市街地となっています。
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2019/01/18 06:27
織田信孝の城 (2016/09/20 訪問)
三重県鈴鹿市の神戸城です。1550年頃伊勢平氏子孫の関氏一族神戸氏が築いたとされます。神戸氏は北伊勢に勢力を持っていましたが、織田信長の伊勢侵攻により信長に屈服、1568年信長三男信孝を養子に迎え和睦します。神戸氏当主具盛はのちに強制的に蟄居幽閉され、信孝が神戸氏を継ぎ城を改修するとともに1580年金箔の瓦を用いた五重の天守閣を築き、城下は伊勢街道の宿場町として大いに栄えたとされます。本能寺の変で信長が亡くなると信孝は岐阜城に移り、跡目相続で豊臣秀吉と対立、1583年柴田勝家とともに秀吉と戦い、勝家が賤ヶ岳・北ノ庄城で敗れると、岐阜城で降伏開城、後に切腹となっています。1595年神戸城の天守は桑名城へ移された後、神戸城は江戸時代に城主が次々替わる中、天守は再建されず、1732年本多忠統が2万石で城主となり明治維新まで続いています。城は本丸、二の丸、三の丸の周囲を堀が囲む平城で、現在は堀が埋められ城跡のほとんどが神戸高校敷地や住宅地となり、僅かに本丸部分が神戸公園となり石垣や堀が残っています。
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