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夏の雪だるま

家康の隠居城 (2016/09/18 訪問)

静岡県静岡市の百名城の一つ駿府城です。城がある駿河の地は室町時代今川氏が守護に任じられ駿府館が置かれ、海道一の弓取りと言われた今川義元の時代、徳川家康も7歳から18歳の間、人質として暮らしています。1560年義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれて以降、今川氏は衰退、1568年武田氏により駿府を奪われています。1582年武田氏が滅亡すると徳川家康は1585年駿府城の築城を開始、浜松城から移っています。1590年秀吉の小田原征伐により北条氏が亡ぶと家康は関東に移封となり、中川一氏が城主となりますが、関ヶ原の戦いで家康が勝利し徳川幕府を開き、1605年秀忠に将軍職を譲り駿府城が家康の隠居城となると、天下普請により駿府城は拡張整備されています。家康の死後1624年秀忠の二男忠長が城主となり3代将軍職を家光と争いますが改易、それ以降は城代が置かれ、明治維新を迎え廃藩置県により廃城となっています。城は、本丸、その周囲を二の丸、さらに三の丸が取り囲む輪郭式の平城で、各丸は水堀で囲まれ東西600m南北650mの規模とされます。明治維新後、城内に陸軍連隊が置かれたため本丸の堀は埋められ天守台も解体されて城はかなり改変されています。現在は、本丸・二の丸が駿府城公園として整備され三の丸は官公庁や学校となっています。遺構は二の丸堀、三の丸堀の一部、石垣や土塁が残り、東御門、巽櫓、坤櫓が復元され、平成28年から天守台が発掘調査されています。

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山内一豊の城 (2016/09/18 訪問)

静岡県掛川市の百名城の一つ掛川城です。城は1467年頃今川氏の命により重臣朝比奈氏が築いたのが始まりとされます(掛川古城)。その後、古城から少し南東の現在の位置に1513年頃移ったとされます。今川義元亡き後、武田信玄に駿河を奪われた今川氏真が掛川城主朝比奈氏に迎えられますが、優勢な徳川家康の攻撃に対して兵3千で半年間防戦後、城を明け渡し北条氏を頼っています。掛川城には徳川家臣石川家成が城主として入りますが、家康の関東移封に伴い秀吉配下の山内一豊が5万石で城主となり、大改修し現在の形になったとされます。関ヶ原の戦いの功により山内氏は土佐20万石に移封となり、その後は徳川譜代大名11家26代が城主となり、最後は1746年太田氏が城主となり明治維新まで続いています。城は逆川北岸の龍頭山に築かれた平山城で本丸を中心に北に天守のある天守丸・竹之丸、東に二の丸・三の丸、西に中の丸、南に松尾曲輪を配したとされます。現在は本丸、天守丸、二の丸・三の丸の一部などが掛川城公園として整備され、遺構としては1861年再建された二の丸御殿・移築された太鼓櫓、石垣・土塁・堀の一部、平成に入り再建された木造天守・城門などがあり、公園から逆川を渡った大手門駐車場傍に再建された大手門と1859年に建てられた大手門番所があります。

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長篠の戦いの城 (2016/09/19 訪問)

愛知県新城市の百名城の一つ長篠城です。1508年頃今川氏方の武将菅沼氏が築城したとされます。今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれた後、1561年菅沼氏は徳川家康に従いますが、1571年武田信玄軍に攻められ降伏、武田氏に属します。1573年信玄が亡くなると家康は長篠城を攻略、奥平氏を城主に任命。1575年武田勝頼は長篠城奪還のため1万5千の兵を率い城兵5百が鉄砲200挺で守る長篠城を包囲。しかし、武田軍の激しい攻撃に兵糧蔵が焼かれるなどしたため落城必須となり、奥平家臣鳥居強右衛門が密使として城の麓を流れる豊川の急流を泳ぎ渡り岡崎城へ援軍要請、城へ引き返す途中武田軍に捕縛され、援軍は来ないと言えば助けると強要されるも、城兵の前に立つと鳥居は「援軍が出立した」と叫んだため武田軍により殺害。しかし、これにより気力を持ち直した城兵が城を守りきる間に、織田・徳川軍3万8千が援軍として約4km離れた設楽原に着陣。馬防柵を設置し兵を窪地に隠し兵力を少なく見せたため、武田軍は城の囲みを解き織田・徳川軍に突撃を敢行するも数千挺の鉄砲の銃撃にさらされ歴戦の将士の多くを失い敗走、これにより武田氏は大きく衰退、1582年の武田氏滅亡を招いたとされます。1576年奥平氏は新城城を築き移ったため長篠城は廃城となっています。城は、南が宇連川、西は豊川に面した50mの断崖で、西北は矢沢の険しい谷が有り、平地に面した側に郭に水堀と土居、外郭に柵などを配した堅城とされます。城跡は現在国史跡となり本丸付近は比較的遺稿が残っていますが、本丸外側の郭はほとんど遺構が残っていません。また二の丸跡に史跡保存館が建てられています。

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池田輝政改修の城 (2016/09/19 訪問)

愛知県豊橋市の吉田城です。城は1505年頃国人領主の牧野氏が東海道の交通の拠点であったこの地に築き当初は今橋城と呼ばれていたとされます。この当時東三河は、駿河から遠江に進出した今川氏、東三河宝飯郡の牧野氏、東三河渥美半島の戸田氏、西三河の松平氏が覇権を争い、今橋城は激しい争奪戦が繰り広げられ、四氏が城主としてめまぐるしく入れ替わり名称も吉田城に替わっています。今川氏が三河を平定するも、今川義元が桶狭間で討ち死にすると、松平氏(徳川家康)が独立、三河を平定するため1564年吉田城を攻略、城主に酒井忠次を置きます。1568年今川氏が武田・徳川により駿河・遠江を奪われると武田・徳川の覇権争いが激しくなり、吉田城も1571年武田信玄の攻撃を受けるようになります。しかし、武田氏が滅亡すると三河・遠江・駿河は徳川氏の領地となり、北条氏滅亡により徳川家康が関東に移封すると、池田輝政が1590年15万2千石で城主となり城を近世城郭に大々的に改修・城下町を整備しています。1600年関ヶ原の戦いの功績により池田氏は姫路城へ52万石で転封となり、徳川幕府成立後は譜代大名が代々城主を務め、1749年大河内松平氏が城主となると明治維新まで続いています。城は豊川と朝倉川の合流部南側に築かれ、川に面した本丸の周囲に二の丸、三の丸を配し各丸に土塁・堀を巡らしています。さらにその外側に武家屋敷を置き外堀を巡らし、東西1400m南北600mの規模とされます。石垣は主に本丸に使用され、野面積みの本丸鉄櫓下北側と西側は池田氏時代のものとされ、その他の石垣刻印が見られる部分は、天下普請による名古屋城築城の際参加した大名等の印入りの石材の残りを利用したものと見られています。城は現在本丸と二の丸・三の丸の一部が豊橋公園として整備され、遺稿として石垣と土塁・堀の一部が残り、本丸に模擬鉄櫓が展示館として造られています。

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家康誕生の城 (2016/09/19 訪問)

愛知県岡崎市の百名城の一つ岡崎城です。15世紀中頃三河国守護代西郷氏が築いた竜頭山城が始まりとされ、岡崎の地から北東の山地にある松平郷の豪族松平氏が勢力を拡大し、1530年代前半徳川家康の祖父の松平清康の代に城を奪い岡崎城と名付け本格的な城に改修したとされます。清康は北・東三河を勢力下に置き、1535年尾張攻めを行いますが陣中で家臣に刺殺され、子の広忠は幼かったことから一族で内紛が起き衰退、駿河の今川氏に従属しています。1542年家康がこの城で誕生し、駿河に送られ人質時代を過ごしています。桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、家康は独立、今川氏滅亡後は武田氏と争い、大大名となっていきます。のちに家康が関東移封後は、田中吉政が城を大きく改修し天守閣と総構の堀を築いています。江戸時代になるとこの城は神君出生の城として神聖化され、譜代大名が城主となり5万石と石高は少ないものの岡崎城主となることが誇りだったとされます。城は乙川北岸丘陵に築かれ本丸、二の丸、三の丸の外複数の曲輪や堀を配し、東西1km南北900mの規模とされます。現在の天守閣は昭和34年に復興されたもので、鉄筋コンクリート三層五階建ての展示・展望室となっていて、ほかに大手門や東隅櫓、城壁、石垣なども復元され、遺構としては石垣・堀などが残っています。現在城跡は本丸と二の丸などが城址公園となり、三の丸や他の曲輪は市街地となっています。

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徳川御三家の城 (2016/09/19 訪問)

愛知県名古屋市の百名城の一つ名古屋城です。16世紀前半今川氏の一族那古野氏が築城しています。1538年頃織田信秀(信長の父)が奪取、居城とし那古野城と名付け1546年頃信長に与え、自身は古渡城を築き移っています。1554年信長は清須城の守護代織田信友を殺害し城を奪い清須城へ移り、城は廃城となったとされます。1603年家康が徳川幕府を開き1609年那古野城の跡地に天下普請で築城を決定、翌年から加藤清正など西国20大名が参加し築城が開始され、1612年天守や各櫓が完成、1615年本丸御殿、1617年二の丸御殿などが完成、天下の名城として名をはせます。徳川御三家尾張藩の居城として、家康の九男義直が初代藩主となり明治維新まで続いています。御三家は徳川宗家に跡継ぎがない場合、将軍をだす立場にありましたが、御三家筆頭の尾張藩からはついに将軍はでていません。明治維新後は陸軍省の所管となり、明治26年宮内庁所管となり名古屋離宮となっています。昭和5年名古屋市に下賜され国宝に指定。昭和20年5月第二次大戦の空襲により天守外24棟が焼失、空襲を免れたのは本丸の2つの櫓と御深井丸の1つの櫓、本丸の表二之門と二之丸東二之門(本丸東二之門跡に移設)、二之丸大手二之門で、昭和34年鉄筋コンクリートの天守と正門が再建、平成21年本丸御殿の再建が始められ、平成30年完成を目指しています。最近のニュースで天守の耐震強度が不足のため、立入禁止・木造での建替を検討しているそうです。城は本丸の南東に二之丸、南西に西の丸、北西に御深井丸が配され、さらな南から東側に三の丸がある平城で、三の丸は現在官庁街となっています。

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悲劇の女城主の城 (2016/09/23 訪問)

日本の百名城の一つ岐阜県恵那市の岩村城です。比高日本一の高取城(奈良県)、天守閣が残る城として標高日本一の備中松山城(岡山県)と並び江戸諸藩の府城の中で最も標高が高い日本三大山城の一つともなっています。鎌倉時代、源頼朝の重臣加藤景廉がこの地の地頭に任ぜられ遠山氏を名乗り城館を築いたのが始まりとされ、その後、鎌倉から戦国時代まで美濃遠山氏の居城となっています。戦国時代になると、この地は信濃・美濃勢力の接点に位置したため、各勢力の抗争が激しくなると本格的な城に改修されます。1550年代前半武田信玄は信濃小笠原氏を攻略・木曽氏を従属させ、中信地方を支配下に置き、東美濃の岩村城遠山氏も武田氏に従わせます。しかし、遠山氏は台頭してきた織田信長とも好みを結び信長の叔母のおつやの方と遠山景任が婚姻。1571年景任が病没すると信長は幼少の五男坊丸を遠山氏の養子に入れ、おつやの方が後見人として城主となり、岩村城は実質織田氏の支配下となります。1572年武田信玄が西上作戦で徳川家康の遠江へ侵攻すると、別働隊で秋山信友が東美濃の岩村城へ侵攻。おつやの方へ使者を送り調略し、信友とおつやの方が婚姻することで岩村城は無血開城します。信玄亡き後、1575年長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れると信長は嫡子信忠の軍勢で岩村城攻撃を開始。織田軍は大軍で攻め立てますが城兵は頑強に抵抗、籠城5ヶ月秋山信友は助命を条件に降伏。しかし信長は信友・おつやの方をとらえると処刑し、城兵も殺害されたとされます。その後、岩村城は信長家臣川尻氏が城主となり改修、現在の城郭に近いものとなったとされます。本能寺の変で信長が亡くなると森氏が城主となり17年の歳月をかけ近世城郭に改修。その後、小牧長久手の戦いや関ヶ原の戦いで、城は戦いに巻き込まれますが、1601年松平氏が城主となり城主居館を山頂から山麓に移し城下町を整備。その後、丹羽氏、松平氏など譜代大名が城主となって明治維新を迎えています。城は最高所の標高が717mの本丸、二の丸、三の丸、八幡曲輪、東曲輪、帯曲輪、出丸、南曲輪などを配し、石垣で固められ多数の井戸がある要塞堅固な城で、明治維新により建物は壊されましたが、6段石垣などが有名な山城となっています。山麓の藩主邸跡に太鼓櫓、表御門、平重門が復元され、藩校知新館正門が移築されています。訪問日は麓の藩主邸跡では小雨でしたが、本丸付近は豪雨で、6段石垣が撮れず本丸付近の写真が非常に悪くすみません。再訪ができることを祈りながら退散しました。

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巨石が絶景の天空の城 (2016/09/23 訪問)

岐阜県中津川市の苗木城です。恵那峡の木曽川右岸の標高432mの城山にある苗木城は、岩村城の遠山氏の同族、遠山景村が1334年頃築いたとされます。戦国時代、東美濃は武田氏と織田氏の境目にあり武田信玄が中信濃を勢力下に置くと武田氏に従い、織田信長が美濃を攻略すると織田氏に従っています。1574年武田勝頼が東美濃に侵攻、岩村城周辺の苗木城・明智城などを攻略。しかし、1575年長篠の戦で武田氏が大敗すると織田氏は東美濃攻略に動き岩村城は落城、苗木城も支配下に置かれます。1582年本能寺の変で信長が亡くなると、各地の豪族が蜂起するなど混乱状態となり、越後攻めを行っていた信長家臣森長可が旧領美濃へ撤退し東美濃を押さえるべく攻撃を開始。苗木城も落城し城主遠山友政は徳川家康を頼って落ち延びたとされます。その後、森氏は信濃へ転封となり、苗木城は豊臣秀吉の家臣川尻直次に与えられます。しかし直次が1600年関ヶ原の戦いで西軍方になると、家康の元に居た遠山友政が城を奪還、苗木城は再び友政に与えられ苗木藩1万5百石として明治維新まで続いています。明治維新により城の建物はすべて破却されましたが石垣だけが山中に残り往時を偲ばせます。城は本丸、二の丸、三の丸が石垣造りで自然の巨石が利用され、山にそびえる絶景は天空の城と呼ばれています。三の丸風吹門跡の手前に無料パンフレット箱がありますので、訪れた方は利用ください。また、城跡の麓には苗木遠山資料館があります。

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関ヶ原の戦い西軍の城 (2016/09/20 訪問)

岐阜県大垣市の大垣城です。城は1535年宮川氏が築城したとも1500年竹腰氏が築城したとも言われ築城時は牛屋城と呼ばれ、本丸・二の丸に土居と堀を築いた平城とされます。尾張との国境に近く激しい攻防のため城主もめまぐるしく替わり、それとともに城は拡大改修されています。1595年伊藤祐盛が城主の時天守閣が築かれています。1600年関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成が大軍を持って城の明け渡しを迫り、伊藤氏を退城させ西軍の本陣としています。三成は東軍の徳川軍が迫ると大垣城を出て関ヶ原に布陣。一方大垣城は福原長堯を守将とし熊谷、相良、秋月などの将が7千5百の兵で守備、これを東軍の水野勝成、松平、津軽など諸将が攻撃。三の丸を攻め落としたものの、15日に関ヶ原で勝敗が付いた後も、福原らが籠城を続けたため、水野氏は相良氏などへ裏切りを誘い、これに乗った相良氏らは福原氏を除く将達を軍議を名目に呼びたし謀殺。しかし、福原は本丸に籠城を続けたため、家康は長期戦を嫌い城兵の命を助ける条件により23日に城は降伏開城しています。しかし、守将の福原氏は剃髪となるものちに切腹となっています。その後も大垣城主は次々に替わり1635年戸田氏が10万石で城主となると明治維新まで続いています。四層四階建の天守閣は明治維新後も残り昭和11年には国宝に指名されますが、太平洋戦争の空襲で焼失、現在の天守閣は昭和34年に復元されたものです。城は本丸の南に二の丸、周囲に三の丸を配し、西は水門川、東は牛尾川を利用した外堀で城下町を包み、東西1.4km南北1kmの規模とされます。現在城は、大半が市街地となり、本丸・二の丸が大垣公園として整備され復元された天守閣、艮隅櫓、乾隅櫓などがあり、初代大垣藩主戸田氏鉄公騎馬像もあります。

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現存天守の城 (2016/09/20 訪問)

愛知県犬山市の百名城の一つ犬山城です。1537年織田信長の叔父信康が築城。その後、城主は次々に替わり1584年豊臣秀吉と徳川家康の小牧長久手合戦では、秀吉が入城し小牧山に陣をしいた家康と戦っています。ています。徳川幕府となり1618年尾張藩家老成瀬氏が城主となり明治維新まで続き、明治維新により天守以外の建物が取り壊されています。個人所有の城として有名でしたが、平成16年以降は成瀬氏が設立した財団が管理しています。城は尾張と美濃の国境の木曽川左岸の40mの断崖上に築かれた平山城で、川に近い断崖上に本丸、そこから曲輪が段上に複数配され、天守は三層六階の高さ24mで現存する最古の天守となっています。

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雲海に浮かぶ城 (2016/09/22 訪問)

岐阜県郡上市の郡上八幡城です。岐阜市から長良川を北上、飛騨山中へ入り長良川が吉田川と分かれる地の八幡山に、戦国時代の1559年遠藤盛数が山頂に砦を築いたのがはじまりとされます。ちなみに盛数は山内一豊の妻千代の父とされ、城址には山内夫妻の像が建っています。1567年遠藤氏は美濃に侵攻した織田信長に従い領地を安堵され、城と城下町を整備します。1588年美濃国加茂郡へ移封となり、替わって稲葉貞通が城主となり城の大改修を行い近世城郭に整備しています。1600年関ヶ原の戦いで稲葉氏は当初西軍に加担、東軍に参加した遠藤氏は八幡城を娘婿の飛騨国金森氏とともに攻撃。城を守っていた貞通の末子通孝と激戦となります。その頃、稲葉貞通は東軍福島正則から誘いを受け東軍に転向。城が攻撃されているとの急を聞き、自城へ戻り遠藤軍と和議を締結。関ヶ原の戦い後、稲葉氏は豊後臼杵へ5万石で移され、遠藤氏が郡上八幡城復帰を徳川家康より許されますが、1692年遠藤氏は家督騒動の中で当主となった7才常久が家臣に毒殺され跡継ぎが絶え改易となり井上氏が4万石で入封、その後1698年金森氏が城主となりますが1751年失政のため農民一揆が起こり改易。同年青山氏が4万8千石で城主と成り、それまでの山頂の本丸を桜の丸・松の丸に、中腹の二の丸を本丸に改め明治維新を迎えています。城は標高354mの八幡山の南北に延びた稜線上に天守閣・桜の丸・松の丸、中腹に本丸、二の丸が、山麓に居館が配されています。明治維新により石垣だけを残し取り壊されましたが、昭和8年模擬天守が木造で建てられ城山公園として整備、中腹の本丸跡には山内一豊と妻の像が置かれ、天守閣展示写真にあるように雲海に浮かぶ天空の城としてもPRしているようです。

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清州会議の城 (2016/09/20 訪問)

愛知県清須市の清洲城です。15世紀初め斯波氏が築き、1476年尾張守護所が戦乱で焼失したことから清州城が守護所となったことから、尾張国の中心地とさて栄えたとされます。その後、尾張下四郡を支配する守護代織田氏の本城となり、1555年守護代織田信友の時、織田信長が守護代織田氏を撃ち、清洲城は織田信長の居城となっています。1563年美濃攻略のため小牧山城に信長は移り、清洲城は城代が置かれ、本能寺の変で信長が亡くなると、1582年跡継ぎをめぐる清洲会議がこの城で開かれています。その後、信長次男の信雄が城主となり、大天守などが造営され城下町も取り込んだ東西1.6km南北2.8kmの規模に改修したとされます。豊臣秀吉の小田原北条攻め後、織田信雄は秀吉の命による国替えに従わなかったため改易、豊臣秀次の所領となった後、1595年には福島正則が城主となっています。1600年関ヶ原の戦いの功績により福島氏は安芸へ転封となり、徳川家康四男松平忠吉が城主となりますが病死したため、1607年家康九男義直が城主となり、尾張藩初代藩主となっています。1609年家康の名古屋城普請の命により「清州越し」と呼ばれた清洲城から名古屋城へ城下町毎移転され、清洲城は廃城となっています。現在城は、新幹線や鉄道により分断、市街化により遺稿はほとんど残っていませんが、模擬天守が城跡に隣接する文化広場に建てられ、線路に分断された城跡の南側の清洲公園に信長像が、北側の清洲古城跡公園に清洲城址碑があります。早朝に訪れたため天守は時間外で入れませんでした。

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道三の城 (2016/09/20 訪問)

岐阜県岐阜市の岐阜城です。十三世紀の初め鎌倉幕府の政所令二階堂氏が砦を築いたのが始まりとされます。子孫は稲葉氏と改め砦も稲葉山城と呼ばれますが、その後廃城となっています。戦国時代15世紀中頃守護代斎藤氏が稲葉氏の砦遺構を利用し、城を築き居城とし城下町も建設。1525年美濃の内乱で、守護土岐氏・守護代斎藤氏の実権は長井新左エ門尉(道三の父)が握り長井氏が城主となっています。最近発見された文献から道三の国盗り物語は、前半が新左エ門尉、後半が道三との見解もでています。その後、道三が城主となり城を要塞化、西麓に居館を建て、市場を設けて城下町を発展させています。1554年道三は隠居し家督を義龍に譲り、やがて父子の対立から1556年道三は長良川河畔の戦いで討死。しかし、義龍は道三の死後6年で病死、後を幼い竜興が継ぎ斎藤氏は弱体化、1564年家臣の竹中半兵衛が城を一時占拠する事件も起こっています。1567年稲葉山城は織田信長により攻略され、以後、信長の居城となり岐阜城と名付けてます。1575年城主を嫡男信忠に譲り自身は安土城へ移り、本能寺の変後、城主は三男信孝、池田輝政、豊臣秀勝と替わり、織田信長の孫秀信が城主の時、関ヶ原の戦いで西軍に味方したため東軍に攻められ降伏開城、廃城となっています。城は長良川に面した標高336mの金華山山頂に築かれ山全体に郭が配され、麓にも天主と呼ばれる御殿があったとされます。しかし、山頂部の井戸は雨水をためるもので、大兵力による長期籠城には向かない城のようです。現在は岐阜公園となっており御殿跡隣からロープウェイで一の門付近まで乗車し、山頂天守閣まで徒歩7分程です。

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スミヤキ

鉄製の城門・釣り橋の架かる城 (2019/01/03 訪問)

 タイトルにあるのは、ドン・ロドリゴの「日本見聞録」にある 1609年9月頃の大多喜城の姿です。彼らを歓待した当時の城主は、本多忠朝さんでした。
 1590年、家康さんの江戸入府時に安房里見家の抑えとして10万石で本多忠勝さんが上総小田喜に入ります。正月時代劇ではありませんが「忠勝も大多喜を建てる」のです! 天然の地形を生かした要害堅固な城郭、金銀で装飾された美しい木造御殿、屈強な家臣団の様子も含め、この見聞録に書かれています。
 今日の再建されたお城も素敵ですが、忠勝さんが精魂込めて縄張りした慶長期の城も見たかったですね!
 
 また、齊藤弥四郎氏の「御禁止川の鯉(おとめがわのこい)」の話も末永く、この地に伝承されるといいですね。(殿様のモデルが誰なのか気になります)
 生きたまま将軍家にむらさき鯉(今でいうブランド鯉)が献上されていた事にも驚かせられました。

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じんじゃー

木曽氏初期の詰城 (2019/01/12 訪問)

城跡東側にある大カーブから、城域にある鉄塔の保安道がとりつけられているのでそこからアクセスできる。
一つ目の鉄塔から細長い削平地が続き、二つ目の鉄塔の手前から切通し状の通路になっている。この辺りは大きな石が転がっているので門等があったのかもしれない。鉄塔のある郭から主郭へは二重の堀切・土塁と土橋で区切られているが堀もあまり深くなく堅固さは感じない。主郭から西側に細長い削平地と段郭がつづき、物見のような郭で城域は終わっている。
全体的に古風な山城で堀や城塁の高さもあまりないのでそれほど重要視はされていなかったのかもしれない。

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todo94

豪雨の爪痕 (2019/01/13 訪問)

昨年7月にスタンプだけは捺してあったので、今回は水門に直行しました。無事、水門を拝むことができましたが、史跡碑は倒れ、説明板はひしゃげ、石橋にも破壊の跡が見られました。登山道はまだ、通行不可と云うことです。

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山口駿河守幻夢斎

堅田城跡

北陸の天気は、変わりやすく、晴れる日が少ない金沢。

この日も、午前中の土砂降りが嘘のように、晴れた夕方、日の長い夏場ということもあり、チャレンジしちゃいました。

夏場ということもあり、草が伸び切っており、なかなかハード。自分の肩幅くらいしかない道なき道を進みつつ、一通り、観て回ったと思います。

散策中は、必死だったが、あとからじわじわと、遺構のすばらしさが実感される城跡です。

願わくば、もう少し整備していただけると、せっかくの畝状竪堀が伐採した樹木で埋もれています。

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山口駿河守幻夢斎

東林寺城跡

JR牛久駅から牛久沼ほとりにある東林寺を目指し、徒歩50分くらいでしょうか。駐車場は確認しておりません。

お寺の墓地背後の広大な畑の先に、空堀、土塁が残されています。しかし、空堀は劇ヤブです。

土塁に沿って散策すると、深い空堀や、浅くなってますが、横堀なども確認できます。

迫力ある遺構が残っていますが、とにかくやぶがひどい。お寺のお坊さんと話しましたが、たまに市の職員の方が見に来るそうですが、整備は難しいようです。

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くろもり

三日月の丸くなるまで (2013/11/10 訪問)

岩手県の盛岡城を築城した南部氏が、盛岡城に移る前に本拠としていた城です。比高約90mの小高い山城ですが、鍛冶屋御門跡に古い崩れかかった石垣が残っており、天守を模した三戸城温故館からの景色は、往時の南部騎馬軍団が野を翔ける様を連想させてくれました。

城址にある三戸城のイラスト地図は、「三戸御古城之図」と、新渡戸稲造氏の父である盛岡藩士・新渡戸十次郎氏らが作成した「三戸郡三戸御古城御縄張測量の図」を元に作成されているそうです。※8枚目の写真

城と三戸駅との間にある法泉寺に三戸城の搦手門、龍川寺に三戸城の伝・表門(どこの門かは不明とのこと)が移築されています。※9,10枚目の写真

南部氏の隆盛を称える「三日月の丸くなるまで南部領」という言葉、子供の頃は「三日月が満月になるから領土が3倍か4倍くらいに増えたんだ!」なんて思っていましたが、三日月が満月に変わる「時間(約12日)」と「距離(南部領内)」を掛け合わせて、南部領内は移動に約12日かかるほどの広さと謳っていると知った時に、とても感動した記憶があります。誰が思いついたのか知りませんが、そのセンスしびれます・・・

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井伊谷の祐

座間城址へ行きました (2019/01/17 訪問)

本当に何の痕跡もありません。ただ、白井織部様のちっちゃな石碑だけ。裏のお寺さんは白井氏の持仏堂が元になっているようですので、このお寺を含めこの辺りにお城があったのでしょうね。

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