静岡県静岡市の百名城の一つ駿府城です。城がある駿河の地は室町時代今川氏が守護に任じられ駿府館が置かれ、海道一の弓取りと言われた今川義元の時代、徳川家康も7歳から18歳の間、人質として暮らしています。1560年義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれて以降、今川氏は衰退、1568年武田氏により駿府を奪われています。1582年武田氏が滅亡すると徳川家康は1585年駿府城の築城を開始、浜松城から移っています。1590年秀吉の小田原征伐により北条氏が亡ぶと家康は関東に移封となり、中川一氏が城主となりますが、関ヶ原の戦いで家康が勝利し徳川幕府を開き、1605年秀忠に将軍職を譲り駿府城が家康の隠居城となると、天下普請により駿府城は拡張整備されています。家康の死後1624年秀忠の二男忠長が城主となり3代将軍職を家光と争いますが改易、それ以降は城代が置かれ、明治維新を迎え廃藩置県により廃城となっています。城は、本丸、その周囲を二の丸、さらに三の丸が取り囲む輪郭式の平城で、各丸は水堀で囲まれ東西600m南北650mの規模とされます。明治維新後、城内に陸軍連隊が置かれたため本丸の堀は埋められ天守台も解体されて城はかなり改変されています。現在は、本丸・二の丸が駿府城公園として整備され三の丸は官公庁や学校となっています。遺構は二の丸堀、三の丸堀の一部、石垣や土塁が残り、東御門、巽櫓、坤櫓が復元され、平成28年から天守台が発掘調査されています。
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