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夏の雪だるま

関東七名城 (2017/05/01 訪問)

関東七名城の一つで、今年続百名城に選定された栃木県佐野市の唐沢山城です。900年代平将門を滅ぼした藤原秀郷によって築かれたとの伝承もありますが、室町時代に秀郷の子孫佐野氏によって本格的に城として改修されたとされます。佐野氏は山内上杉氏に属し、のちに上杉氏を継いだ上杉謙信に従い北条氏に敵対、1559年北条軍3万5千に包囲されるも、城は耐え抜き謙信の援軍により北条軍を撤退させています。その後、佐野氏は謙信と不仲になり、1576年謙信軍1万5千により攻められますが、落城することなく天下の堅城として名を高めています。1587年佐野氏は北条氏から養子を迎え北条氏に従いますが、1590年豊臣秀吉の北条征伐では、秀吉に従っています。1600年関ヶ原の戦いでは、徳川家康に従い所領を安堵され、3万5千石の佐野藩となり近世大名の居城として石垣等を築き改修しています。しかし、家康から廃城命を受け新たに佐野城が築かれ1602年廃城となっています。城は東武佐野線田沼駅南東2.5㎞の標高242mの唐沢山の急峻な山頂を本丸とし、各方面に伸びる尾根に曲輪を配し、東西900m南北500mの規模とされます。城は現在県立自然公園の一部となり石垣や桝形虎口、堀切などの遺構が残り、本丸跡に唐沢山神社が置かれています。

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足利氏の館 (2016/08/27 訪問)

栃木県足利市の百名城の一つ足利氏館(鑁阿寺)です。源義家が新田・足利の領主となり、義家の子義国の長男義清が新田氏となり、二男義康が足利氏となり12世紀半ばに義康がこの地に居館を構えたとされます。義康の子義兼は1196年館の内に持仏堂を建立、自ら剃髪して鑁阿と称し、これが鑁阿寺の始まりであり、その後、13世紀頃に鑁阿寺は足利氏の氏寺となり、足利氏は両崖山城を本拠としたとされます。14世紀前半新田氏と足利氏は鎌倉幕府を滅ぼす立役者となりますが、その後南北朝で敵味方に分かれ争う間柄となり、のちに足利氏が室町幕府を開いています。鑁阿寺は四方を土塁と水堀で囲まれ、四方に門があり、鎌倉時代の武士の館の風情が色濃く残っています。また、隣接する足利学校にも土塁と水堀があります。

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那須氏の城 (2017/04/30 訪問)

栃木県那須烏山市の烏山城です。1417年那須氏一族の資重により築かれたとされます。それ以後那須氏の居城となり北の葦名氏、東の佐竹氏からたびたびの侵略を受けるも小田原の北条氏と結び勢力安定を図っています。1590年の豊臣秀吉の小田原征伐では、下野で唯一参陣せず、所領没収・蟄居となっています。その後、信長の次男で秀吉の命による尾張からの国替を拒んだ織田信雄が秀吉の怒りを買い佐竹氏預かりの身として2か月烏山城主となり、のちに秋田へ流罪。そして、のうぼうの城で有名な忍城の成田氏が2万石で城主となりますが、お家騒動により改易、その後は数々の領主が入れ替わり1728年大久保氏が領主となると明治維新まで続いています。城はJR烏山線烏山駅北西1.5㎞の那珂川西岸の標高206mの八高山に築かれ本丸(二の丸)、古本丸(本丸)、中城、北城、西城、常盤曲輪、若狭曲輪、大野曲輪の郭が配され、五城三郭と呼ばれる8つの曲輪が置かれ東西350m南北600mの規模とされます。江戸時代に入り麓に三の丸が増設され藩主の居館が置かれています。現在は那珂川県立自然公園の中にあり本丸入口付近の石垣、常盤曲輪の石垣、各丸の間の堀切などの遺構が残り往時を偲ばせます。国道294号沿いの寿亀神社(三の丸)入口から入り、神社前を左に進み道路終点に車を止め、山道を歩き本丸を目指せます。

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宇都宮氏重臣芳賀氏の城 (2016/07/17 訪問)

栃木県宇都宮市の飛山城です。鎌倉時代の1290年代宇都宮氏の重臣芳賀氏が築いたとされ、宇都宮城から東8kmにあり北と西に流れる鬼怒川を天然の堀とし、東と南を二重の堀で守られた平山城で、中央の堀により大きく北と南に分かれ、北側に主郭を配し内部は3本の堀により守られ、全体の規模は14ha東西240m南北420mと言われています。芳賀氏は益子氏とともに「紀清両党」と呼ばれた宇都宮氏を支えた武士団です。戦国時代宇都宮氏内紛の混乱に乗じ宇都宮氏家臣壬生氏が宇都宮城を占領。このため1557年宇都宮氏・芳賀氏による宇都宮城奪還作戦が行われ、佐竹氏が支援し飛山城を前進基地として宇都宮城を奪還しています。1590年小田原の北条征伐では宇都宮氏は豊臣秀吉に味方し、宇都宮城に入城した秀吉から宇都宮領18万5千石を安堵されますが、「いらざる城は破却せよ」との命から飛山城は廃城となっています。現在城跡は飛山城史跡公園となっていて土塁や堀、木橋などが整備され、とびやま歴史体験館が設置され、城などに関係する展示がされています。当日は、6時半ごろ訪れた所、歴史体験館は当然しまっていましたが、公園も周囲を囲った土塁に城門があり閉まっていたため、土塁周りだけの探訪となりました。

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芭蕉の城 (2017/04/30 訪問)

栃木県太田原市の黒羽城です。城は那須七騎と呼ばれる那須氏の家臣団の一人大関氏が1576年築きそれまでの白旗城から本拠を移したとされます。1590年豊臣秀吉の小田原征伐に主人那須氏は家臣の説得にも参陣しようとしなかったため、他の家臣とともに大関氏は参陣し所領を安堵されています。1600年関ヶ原の戦いでは、黒羽城は会津の上杉景勝に対するため、徳川家康から岡部・服部氏などの援兵や鉄砲が送られ城は改修されています。戦後、大関氏は1万8千石の大名となり明治維新まで続いています。城は東北新幹線那須塩原駅南東約12㎞の那珂川に沿って南北に伸びた丘陵に築かれ本丸を中心に北に中丸・二の丸、南に三の丸を配し南北1500m東西250mで栃木北部では最大規模といわれます。城は現在黒羽城址公園となり本丸に文化伝承館・展望台、二の丸に黒羽体育館、三の丸に奥の細道で芭蕉が滞在したことから芭蕉の館が建っていますが、土塁や空堀などの遺構が残り往時を偲ばせています。

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関東七名城 (2016/07/17 訪問)

栃木県宇都宮市の宇都宮城です。関東七名城の一つで平安時代後期に宇都宮氏がこの地に館を置いたのが始まりとされます。益子氏を中心とする紀党武士団、芳賀氏を中心とする清党武士団を家臣に組み入れ勢力を拡大したとされます。戦国時代に入ると17代当主宇都宮成綱は反抗的な家臣を討伐して家臣団を再編、西の鹿沼城を攻略し領土を拡大、北の塩原の地をめぐり芦名氏と争い片角原の戦いで破り自領としてます。1514年佐竹・岩城氏連合軍が2万の大軍で宇都宮氏の下野国に侵攻するも撃退。さらに1516年再度佐竹・岩城氏は大軍を率いて侵攻。宇都宮氏は大いに破り逆に佐竹領へ侵攻。北関東の実力者となっています。しかし、成綱死後、跡を継いだ忠綱は無謀な戦いを行うようになり家臣の謀反が起こり家中は混乱。家臣の壬生氏が宇都宮城を占領。これに対して宇都宮氏は忠臣芳賀氏に支えられ1557年宇都宮城を奪還。1558年には上杉謙信が、1572年には北条氏政、1574年には武田勝頼が攻撃してきますが、これらをすべて撃退。その後小田原北条氏に対抗するため佐竹氏・結城氏らとともに反北条連合を結成、北条軍と戦っています。そして、1590年豊臣秀吉の北条征伐に参陣、本領を安堵されています。その後理由は不明ですが1597年突如宇都宮氏は改易処分を受け、宇都宮領には蒲生氏が入封。1601年には奥平氏、さらに1619年には本多正純が15万5千石で城主となり、城を大改修しています。しかし、1622年釣天井事件と呼ばれる謀反の疑いにより改易。その後、城主はめまぐるしく替わり江戸時代後期戸田氏が城主となり明治維新を迎えています。戊辰戦争では官軍の攻撃により城は炎上灰燼に帰しています。城は本丸を中心に堀を廻らし二の丸、三の丸、外曲輪を配した東西・南北1kmの規模の平城で、現在城跡は開発により市街地となり、本丸の一部が宇都宮城址公園として富士見櫓、清明台櫓、土塀、土塁などか復元されています。今後も、復元計画があるようです。

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赤い城

説明板があります (2019/01/19 訪問)

市川大野駅から徒歩で10分。
市川五中が跡地で遺構はありません。

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赤い城

長福寺の裏手 (2019/01/19 訪問)

船橋駅体徒歩で20分。
長福寺の本堂裏手に遺構が残っています。
以前は中に入れましたが柵が置いてあり入口までしか行けませんでした。

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赤い城

意富比神社が建っています (2019/01/19 訪問)

最寄りは飯山満駅。
畑の中に建つ意富比神社が跡地。

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赤い城

住宅地に土塁が少し残っています (2019/01/19 訪問)

高根寺と秋葉神社から県道8号線の反対側の住宅地に土塁が残っています。
説明板等はありません。
跡地の多くは私有地になっているようです。

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夏の雪だるま

百名城甲府城 (2016/09/18 訪問)

山梨県甲府市の百名城の一つ甲府城です。武田一族一条氏の一条小山城があったと言われますが、1582年武田氏滅亡後、豊臣氏時代に甲府城の築城が始められ、豊臣秀勝、加藤光泰をへて浅野長政により1600年頃完成したとされます。関ヶ原の戦い後、徳川領となり城番制がしかれますが、1704年柳沢氏が城主となり、1724年再び幕府領となり甲府勤番制となります。城は本丸、二の丸の外各種曲輪を配し、その周囲を堀で囲んでいます。現在城は、舞鶴城公園となり、天守台や高さ17mの高石垣、水堀が遺構として残り、稲荷櫓や鉄門、鍛冶曲輪門などが復元されています。また、舞鶴城公園からJR中央線を挟んで歴史公園に山手御門が復元されています。無料駐車場はないため、民間の有料駐車場を利用しました。

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信玄の居城 (2016/09/18 訪問)

山梨県甲府市の百名城の一つ躑躅ケ埼館です。1519年甲斐を統一した武田信虎(信玄の父)が館を建て、1年後、背後の石水寺丸山に詰めの城要害山城を築城しています。1521年駿河の今川氏が甲斐に侵攻。信虎は臨月の妻を要害山城に避難させ、そこで信玄が生まれています。武田軍は世継ぎ誕生に決起し今川軍を打ち破ったとされます。以来、武田氏は滅亡まで外敵を一歩も甲斐に入れず、躑躅ケ埼館は、信虎・信玄・勝頼三代の居館となっています。館は一辺約200mの方形の主郭を中心に土塁と堀で囲み、その周りにいくつかの副郭が造られた平城です。館の周りには家臣の屋敷が建てられ格子状に整備された城下町があったとされ、正面には裏切りにより武田氏滅亡を早めたとされる御親類衆筆頭と言われた穴山信君の屋敷跡があります。現在、館跡は武田神社となり地元の人々の信仰の場となっています。

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武田最後の城 (2016/09/18 訪問)

山梨県韮崎市の武田氏滅亡前に最後に築いた新府城です。城は、1575年長篠の戦いで織田・徳川軍に大敗後、武田親族筆頭の穴山信君が甲斐国内に新たな城の築城を武田勝頼に献策(武田家の疲弊と家中分裂を狙った策略とも言われます)、1581年正月勝頼が真田昌幸に織田徳川軍を迎え撃つ堅固な城づくりを命じたのが始まりです。昌幸は躑躅ケ埼館の西15kmの七里ケ岩と呼ばれる釜無川に侵食され断崖となった台地上に1月末から昼夜兼行で築き11月頃には9割方完成、12月末に勝頼は躑躅ケ埼館から移住したとされます。しかし、1582年新府城普請の負担への不満から木曽義昌が謀反・織田軍が武田侵攻をはじめたため、勝頼は1万を率いて迎え撃ちますが、穴山氏などの裏切りが発生したため、武田軍は新府城へ籠城するため引き上げますが、兵の逃亡が相次ぎ新府城へ着いた時は兵2千までに減少。新府城を守るには兵が少なく、勝頼は城に火をかけ重臣小山田信茂の岩殿城へ向かいますが小山田氏も裏切り、途中の天目山で僅か家臣40名程と3月11日最後を迎えています。同年6月本能寺の変で織田信長が亡ぶと徳川対北条の旧武田領の覇権争いが勃発、徳川家康が要害である新府城跡を修復本陣とし、1万の徳川軍に対し兵力で勝る北条軍5万相手に戦線を維持、和睦に至っています。北条氏滅亡後、甲府城が築かれると新府城は廃城となっています。城は釜無川と塩川に挟まれた台地に築かれ西側は断崖絶壁で、本丸、二の丸、三の丸、帯曲輪を配した東西550m南北600mの規模で、甲州流丸馬出しや三日月堀、鉄砲出構などが確認できるようです。訪問日、到着時で小雨でしたがスマホの雨雲レーダーで豪雨となる予報で登城は断念しました。全体を回る場合は県道17号線沿いの駐車場から道路を渡り歩道を釜無川方向へ進み、搦手から二の丸、本丸と回り三の丸から車止めの有る車道を県道17号線へ戻る約50分コースとなるようです。本丸だけなら県道から藤武神社の階段を上りますが、県道付近でもやぶ蚊が多く、虫よけスプレーは必須です。

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夏の雪だるま

松平忠輝監禁の城 (2016/09/23 訪問)

長野県諏訪市の高島城です。1542年信濃の名族諏訪氏を攻略した武田氏は、諏訪氏の居城上原城に諏訪郡代板垣氏を置きますが、中信濃攻略の拠点としてより北にある諏訪氏の支城があった諏訪市街地北方の茶臼山の高島古城を改修し郡代を置きます。武田氏が滅亡、織田信長が本能寺の変で亡くなると、諏訪氏が旧臣とともに蜂起し高島古城に入り旧領を復活、徳川家康が旧武田領を狙い侵攻してくると家康に味方し、領地を安堵されています。その後、諏訪氏は平城の金子城(諏訪市中洲)を築き移りましたが、家康が関東へ移封となると武蔵国へ転封となります。1590年豊臣秀吉家臣日根野氏が高島古城へ入城、新たに諏訪湖湖畔のこの地に、1592年新城の築城を開始1598年完成しています。城は諏訪湖と沼沢地に囲まれ衣之渡川と中門川などの川を堀とし、本丸・二の丸・三の丸・衣渡之郭を配し、金子城の石垣や墓石などを用いられたとされる総石垣造で、諏訪湖の波が石垣に迫る「諏訪の浮城」と呼ばれ、日本三大湖城の一つとされます。築城時、天守閣の屋根は瓦ではなく桧の薄い板を葺く柿葺であり、石垣は野面積みで稜線だけが加工した石を用い、地盤が軟弱なため沈下しないよう大木で組んだ筏の上に石垣が積まれたとされます。1601年日根野氏が下野国に転封になると諏訪氏が2万7千石で復活、初代藩主諏訪頼水から10代続き、明治維新により廃城を迎えています。1626年には改易流罪となった徳川家康6男松平忠輝を預かり監禁場所として南の丸を増設、忠輝は92歳で亡くなったとされます。城は廃城により天守閣など撤去され、現在は二の丸・三の丸が市街地となり本丸が高島公園として一般開放され、昭和45年には天守・櫓・門が再建されています。

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武田軍玉砕の城 (2016/09/23 訪問)

長野県伊那市の百名城の一つ高遠城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、信濃諏訪地方の領主で諏訪神社上社大祝の諏訪氏一族高遠氏の居城とされています。高遠氏は独立心が強く宗家諏訪氏とは反目、1541年武田晴信(信玄)の諏訪氏攻略では武田軍と同調。諏訪氏を攻撃し諏訪氏を滅ぼしますが、諏訪領有を巡って武田氏と対立。武田軍と戦いになり敗れ、1545年高遠城は武田氏に降伏開城。1547年山本勘助の縄張りにより大規模に改修され秋山信友が城主となり信濃侵攻の拠点となっています。1562年武田信玄と諏訪氏娘の子である勝頼が諏訪氏を継承し高遠城主となりますが、武田氏嫡男義信が謀反の疑いで廃嫡となると、勝頼が躑躅ヶ崎館へ移り信玄実弟信廉が城主となっています。1575年長篠の戦いで武田氏が大敗すると、勝頼は国内の守りを固めるため躑躅ヶ崎館に替わる新府城を築城、高遠城には弟の仁科盛信を城主とします。1582年木曽氏が織田へ寝返ると、勝頼は木曽氏攻めに、従兄弟の武田信豊を先鋒として兵5千を向かわせ、勝頼自身も兵1万を率い後詰めとします。それに対し織田氏も5万の兵で武田侵攻を開始。木曽攻めでは鳥居峠で武田軍は敗退。信濃伊那では侵攻した織田軍に恐れをなし、飯田城・大島城は戦わず逃亡、唯一高遠城が織田軍からの降伏勧告を退け兵1千で徹底抗戦。3万余の大軍に夜明けから始まった攻城戦は夕方にまでおよび、城主盛信も含め全員が玉砕したとされます。多くの武田軍が戦わず崩壊した中で唯一激戦を繰り広げた城となっています。武田氏滅亡後、本能寺の変で信長が亡くなると徳川家康がこの地を制しますが、関東移封により伊那領は毛利秀頼に与えられ、秀頼が亡くなると京極氏、関ヶ原の戦い後は、保科氏、その後鳥居氏や天領となり、1691年内藤氏が城主となり明治維新まで続いています。城は三峰川と藤沢川に挟まれた台地上に築かれ、南と西側が断崖となっている堅城で、本丸、二の丸、三の丸、南曲輪、法憧院曲輪、勘助曲輪が配され各曲輪に堀が回されています。明治維新により建物は撤去されましたが、城は現在高遠城址公園として各曲輪や堀が残る桜の名所となっており、民間への払下げにより切り詰められ使用されていた大手門が三の丸に移設され、また、城下の問屋役所の問屋門が本丸に移設されています。

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赤い城

私有地になっています (2019/01/19 訪問)

東武馬込沢駅から徒歩で20分。
私有地となっていて見ることは出来ません。
遺構もほとんど無いようです。

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武田信玄の伊那制圧の拠点城 (2016/09/23 訪問)

長野県飯田市の飯田城です。この城が伝承に登場するのは室町時代で、現在の城地から南西約800mの愛宕神社の場所に城を構えていた坂西氏がこの地に城を移したと伝えられています。その後、武田信玄が下伊那を制圧すると飯田城には伊那郡代として秋山信友が入城し強固に城を改修。1550年から1582年の武田氏の滅亡までおよそ33年間武田氏の支配下にあったと言います。長篠の戦いでの武田氏の大敗や木曽氏の織田への寝返りにより、1582年織田信長の武田氏攻略がはじまると、飯田城主保科正直は戦わずに逃亡、城は制圧され武田軍は高遠城以外まともな抵抗をしないまま武田氏滅亡を迎えます。その後、信長の家臣毛利秀頼が伊那全郡を与えられて飯田城主となりますが、わずか3か月足らずで信長が本能寺の変で倒れると秀頼は京に逃れ、旧武田領を狙う徳川家康の支援を受けた旧武田家臣下条氏が飯田城を掌握、その後家康家臣菅沼氏が入城しています。1590年徳川氏が関東に移封になると、豊臣秀吉から毛利秀頼が十万石を与えられて城主となり、3年後に没し娘婿の京極高知に引き継がれて、近世城郭に改修されたとされます。1600年関ヶ原の合戦後、京極氏が去ると小笠原秀政が入り、1613年秀政が松本城に移ると1617年脇坂氏が入ります。その後堀氏が1672年に城主となると明治にいたる200年弱当地を治めています。城は天⻯川の⽀流の松川と野底川にはさまれた台地の先端部分に築かれた平⼭城で、東から山伏丸、本丸、⼆の丸、桜丸、出丸、三の丸を配していました。現在、本丸は長姫神社、⼆の丸は飯⽥市美術博物館、藩主居館のあった桜丸は県合同庁舎・中央図書館、出丸は追手町小学校、三の丸は商店街となり、遺稿としては、本丸神社境内に土塁と石垣、⾚⾨とも呼ばれる桜丸御⾨が中央図書館裏に、搦手門の水の手御門跡に石垣などが城址に残り、移設されたもので市内松尾久井の民家に、二の丸二の門の⼋間⾨が、桜丸の⾨が市内の経蔵寺山門に現存しています。

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国宝、黒の城 (2016/06/18 訪問)

長野県松本市の百名城の一つ松本城です。1504年信濃国の守護小笠原氏の家臣島立氏が豪族坂西氏の館跡に築城した深志城が前身とされます。1550年武田信玄が信濃攻略を目指し小笠原長時から奪い北信濃進出の拠点となっています。武田氏滅亡後は織田信長から援助を得て木曽義仲が城主となっています。本能寺の変後、父祖の地を継いだ小笠原貞慶が松本城と改称し、城の改修が行われたとされます。1590年豊臣秀吉の小田原攻め後の領地替えにより石川数正が城主となり、大規模な城の改築を行い1594年二代康長の時、現在の天守閣が完成したとされます。その後、石川氏は改易となり城主は小笠原・戸田氏と替わり、1633年城主となった松平氏が天守閣に付随する辰巳附櫓・月見櫓などを増築。その後も城主は次つぎと替わり戸田氏で明治維新を迎えています。城は松本市街地にある平城で、天守閣は外見五層六階建ての黒づくめの外観であり国宝に指定され、城は三重の水堀と土塁を巡らし、本丸と二の丸を内郭とし三の丸を外郭として面積39万㎡、内郭には天守や御殿など藩の施設を置き、外郭は上級家臣屋敷とし、総延長3.5㎞の土塀で囲まれた名城と言われています。

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城下町より低い穴城 (2016/06/18 訪問)

長野県小諸市の百名城の一つ小諸城です。城の起源は平安時代この地を支配していた木曽義仲の家臣小室氏が建てた館が始まりとされ、南北朝時代に小室氏が衰退すると大井氏の領地となり1487年大井氏が築城。この地は関東と信州を結ぶ交通の要衝であり、戦国時代に入る北信濃攻略を狙う武田信玄が大井氏を攻略、小諸城の原型となる連郭式の平山城を完成させています。1582年武田氏が滅亡すると織田信長の家臣滝川一益の領地となり家臣道家氏が城主となりますが、本能寺の変で滝川氏は伊勢へ退去後、旧武田領をめぐり北条氏政と徳川家康が争い、小諸城は徳川氏のものとなりますが、豊臣秀吉の小田原征伐後、仙石秀久が5万石で入封、近世城郭に大改修し現在の城となっています。関ヶ原の戦いでは、徳川氏が上田城の真田氏攻め徳川軍3万8千の本陣として使用したとされます。その後、城主はめまぐしく替わり、1702年牧野氏が城主となり明治維新まで続いています。城は千曲川に面した断崖の上に南北150mの幅で本丸・二の丸・三の丸が700m程の長さで連なり、本丸が一番低く三の丸が一番高い珍しい構造で、城下町より城が低く穴城とも呼ばれたとされます。また、島崎藤村の詩(小諸なる古城のほとり)でも有名な小諸城です。現在本丸・二の丸が市営公園懐古園となって天守台や石垣が残り入口に三の門が現存しています。三の門が訪問時修繕中で、覆いがかけられていました。また、しなの鉄道の線路を越えた所にある大手門公園に大手門が現存しています。

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真田氏の居城 (2016/06/18 訪問)

長野県上田市の百名城の一つ上田城です。1583年真田昌幸により築かれた城で、千曲川の分流尼ケ渕の断崖に臨み、太郎山と千曲川・神川に取り込まれた天然の要害です。1585年昌幸の領地沼田城を北条氏に引き渡せとの徳川家康の命に従わなかったため、大久保忠世等の徳川勢8千の兵が上田城を攻めますが、真田軍2千足らずにより徳川軍は多数の兵を失い退いています。1600年関ヶ原の戦いに際し豊臣方についた真田昌幸・幸村親子は、徳川秀忠率いる3万8千の徳川軍を2千5百の兵で5日間この城で防ぎ、このため秀忠軍は関ヶ原の戦いに間に合わず、真田と上田城の名は天下一に鳴り響いたとされます。その後上田城は徳川氏により破却され徳川方についていた長男の真田信之に引き渡されますが、信之は城を再建せず三の丸に御殿を作り上田を治めています。1622年上田に6万石で入封した仙石忠正政が城を復興、1706年松平氏が5万8千石で入封し明治維新まで続いています。城は本丸・二の丸・三の丸からなり、現在三の丸は市街地となっていますが、本丸・二の丸は西・北・南櫓、土塁・石垣・豪跡が残り上田城址公園となっています。城内に大河ドラマ館等あり観光化が進んでいるのは賛否のあるところです。

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