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夏の雪だるま

高石垣の城 (2016/09/21 訪問)

日本百名城の一つ三重県伊賀市の伊賀上野城です。1585年大和郡山から伊賀国へ移封となった筒井定次により築城され、上野盆地中央の丘陵に本丸や三層天守などが造られたとされます。関ヶ原の戦いの功績により1608年藤堂高虎が伊勢・伊賀20万石で入封すると、大阪城の豊臣氏への備えとして上野城は大々的に改修され、西側へ拡張高さ28mの高石垣が設けられ、五層天守の造営も始められましたが、完成直前の1612年台風により倒壊。1615年大阪夏の陣で大阪城は落城、豊臣氏が滅んだことから、天守閣は再建されず、上野城は藤堂氏の支城として城代が置かれ、二の丸(筒井氏時代の本丸)に城代屋敷が造られ、麓に武家屋敷が建て外堀を廻らせた東西900m南北700mの規模と言われ、外堀の外側に城下町を整備、藤堂氏支城として明治維新を迎えています。城は北に阪部川、南に久米川、西に木津川に挟まれた標高180mの独立丘陵に築かれ明治維新により破却された城跡の本丸に復興天守閣が昭和10年に建てられています。麓部分の武家屋敷や外堀は市街化により消失したものの、本丸、二の丸が上野公園として整備され、復興天守と本丸の高石垣、松尾芭蕉生誕300年を記念して昭和17年に建てられた俳聖殿、忍者体験もできる忍者博物館などが有名です。

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夏の雪だるま

藤堂高虎の城 (2016/09/21 訪問)

三重県津市の津城です。織田信長の弟信包により1571年より築城がはじめられ1580年五層の天守が造られ完成しています。その後富田氏が城主となり、1600年の関ヶ原の戦いでは西軍の攻撃を受け津の町は火の海となり、天守閣なども焼失したと言われます。1608年藤堂高虎が20万石で入封すると城を大々的に改修、本丸・各曲輪・堀を広げ石垣を高くし、町外れを通っていた伊勢街道を城下引き入れ、城下町も整備しますが、天守閣は再建されませんでした。城は、伊勢湾近郊の伊勢街道が通る交通の要衝であり、南北を安濃川と岩田川に挟まれた要害の地に築かれ、本丸の左右に東の丸と西の丸を置き、内堀で囲み、その回りに二の丸を配置し、外堀で囲んだ平城で、東西・南北約650mの規模とされます。現在城跡は外堀が埋められ大部分が市街化しており、本丸・西の丸の石垣と縮小された内堀、再建された丑寅櫓、藩校正門(入徳門)が移設され、藤堂高虎像が置かれお城公園とし整備されています。

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dougen

2018.12.29 (2018/12/29 訪問)

瀬木城から県道380号を北に進んで行くと、ビニールハウスが建ち並ぶ農地の中に高い土塁があり、牧野城址となります。
市の史跡に指定されており、解説板と城址の石碑が設置されています。
遺構は土塁が一部残るのみですが、高さに圧倒されます。
なお、駐車場はありませんが、周りが農地ということもあり、路上駐車しても問題ありません。

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くろもり

無高の城 (2013/11/09 訪問)

江戸時代の松前藩は米がとれなかった為、石高が無く、無高(むたか)の藩でした。※一応、格として1万石でちゃんとした大名だったそうです。
木古内駅からバスで向かったのですが、本州では1時間30分も車で走っていれば田園を見る機会も多いですが、確かに道中で田園を見た記憶がありません。でも、今ではこの辺りでもお米は取れるそうです。

お城に野生のキツネがいたり、二ノ丸から津軽半島が見えたりと、蝦夷の地に感動しましたが、一番印象に残ったのはシャクシャインの耳塚でした。

城下町の和菓子屋さんの中村屋で、桜色のカステラをお土産に買って会社に持って行ったところ、次の日に女の子のお子さんがいる上司から「娘が気に入ったからもう一つくれ!」と催促されましたw
女子へのお土産にはいいかもしれません。すいません、カステラの写真は撮ってませんでした・・・
確か「花の松前」ていう名前のお菓子だったと思います。

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朝田 辰兵衛

七つの尾根の… (2018/03/17 訪問)

冬が明ける。

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夏の雪だるま

六角氏の居城 (2016/09/21 訪問)

日本百名城と中世五大山城の一つ滋賀県近江八幡市の観音寺城です。城は、南北朝の頃には存在していたと言われ、石垣が本格的に使用された安土城に先立つ30年以上前の16世紀前半には六角氏の居城としてこの当時では他に類のなく石垣が多用されています。1568年織田信長が大軍を率いて上洛の途中、敵対する六角氏を攻撃、支城の箕作城・和田山城を落とされると六角氏は戦うこと無く観音寺城から逃亡、城は織田氏のものとなっています。1579年観音寺城から北東2kmに安土城が完成すると、観音時城は廃城となったようです。標高432mの繖山山頂から南山麓にかけ郭が多数築かれた大城郭で、東西1000m南北700mの城域とされます。現在の観音正寺を中心に周辺に多数の郭が配置され、本丸や平井丸、池田丸など各郭に石垣が多用されています。先にこの地にあった観音正寺は城を築くため麓に移され戦国時代が終わると、この地に再造営されたと伝えられます。
登城ルートは複数有りますが、一番近いと言われる観音正寺から登城。国道8号線から観音正寺への道標の通り舗装林道へ入っていくと料金所があり600円徴収。料金所の方に城について聞くと、写真の城址図をもらえます。その先の林道は車1台分の幅しかなく、待避所が2~300m間隔であるので、ライトを付け安全速度で行きます。車止めのある広場へ車を止め、観音正寺へ歩いて行くと、道の上の木立の中に石垣が見えます。15分程で寺に着くと入口に料金所が有り拝観料500円を徴収。寺の本堂手前の仏像から左手に閂戸を開け山道を行くと、15分程で本丸です。本丸から右側に虎口石垣、左側の自然石の階段を下り丁字路を右に行くと立派な石垣の平井屋敷跡や池田屋敷跡があります。時間のある方は池田屋敷跡の下側にある大石垣などもお勧めです。全体を見るにはかなりの時間を要すると思われます。山道は蜘蛛の巣だらけで、軍手をはめ道に落ちている枝を振りながら歩くと良いです。

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夏の雪だるま

秀吉の出世城 (2016/09/22 訪問)

滋賀県長浜市の長浜城です。室町時代初め佐々木高氏が出城を築き、以後、家臣の今浜氏などが守将を勤めたのが長浜城の元と言われます。戦国時代、姉川の合戦の功により湖北三郡を与えられた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が小谷城からこの地に城下町を移し、地名を長浜と改め1574年から2年を掛け築城しています。織田信長が亡くなると後継者を決める清州会議後、長浜城は柴田勝家の城となり、甥の柴田勝豊が入城しますが、勝家と秀吉の争いが始まり、城は秀吉に攻められ降伏開城しています。その後山内一豊、内藤信成などが城主となりますが、1615年廃城となっています。城は内堀と外堀に囲まれた琵琶湖湖畔の水城で水門から船が場内に出入りでき、東西700m南北1200mの規模とされます。廃城後、城の建物や石垣は、彦根城築城に際して移築され、彦根城の天秤櫓や三重隅櫓は長浜城の遺稿とされます。城跡は現在、城中心部が豊公園となり模擬天守閣が建てられ、往時を偲ばせています。

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浅井氏の居城 (2016/09/22 訪問)

本百名城と中世五大山城の一つ滋賀県長浜市の小谷城です。城は江北を治めた京極氏の家臣であった浅井氏が京極氏の内紛に乗じ自立1524年築城したとされます。城は、北国街道・中山道の交通の要衝にあり、標高395mの頂に山王丸、それから続く尾根部に小丸、京極丸、中ノ丸、本丸、大広間、桜馬場、赤尾屋敷、御馬屋、御茶屋、番所、金吾丸、出丸が配され、麓の清水谷には家臣屋敷と城下町が配されています。1570年織田信長の朝倉攻めに対して、浅井長政は織田との同盟を破棄、織田軍を朝倉軍と挟撃敗走させています。これにより同年、浅井・朝倉と織田・徳川の姉川の戦いが勃発、朝倉軍の敗走により、浅井・朝倉軍は敗れ、織田軍の小谷城攻めが始まります。1573年援軍として来ていた朝倉軍の砦を織田軍が強襲、朝倉軍が撤退を始めると猛追し、朝倉軍は壊滅的となり居城の一乗谷城も陥落し滅亡します。越前を制圧した織田軍は小谷城を3万の大軍で包囲。しかし、5000の兵が守る堅城の小谷城は攻撃に耐えます。そこで木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が兵3000で、本丸の長政と小丸の父久秀の分断を図るため中間にある兵600が守る京極丸を夜襲により占領。引き続き久秀の小丸が陥落させられ、本丸の長政は落城を覚悟。信長の妹お市の方と娘達を信長に引き渡し後、自害落城しています。城は、城攻めに功のあった木下藤吉郎に与えられるも、藤吉郎は山城で不便な小谷城を廃して長浜城を築いています。当日は、中腹の出丸下の駐車場から小谷城攻めで藤吉郎が陥落させた京極丸まで登城。京極丸から上の山王丸にある一番大きな石垣は見逃してしまいました。向い側の峰にある大嶽城・福寿丸・山崎丸は援軍の朝倉氏の陣地跡で、地元の方の話では熊の巣があるとのことで、そちらを訪れる方はご注意ください。

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夏の雪だるま

徳川四天王井伊氏の居城 (2016/09/21 訪問)

日本百名城の一つ滋賀県彦根市の彦根城です。1600年関ヶ原の戦いで功をあげた徳川四天王の一人井伊直政が石田三成の領地を与えられ、1601年佐和山城に入城。彦根山に新城築城を計画するも病死。子の直継が1603年築城を開始。将軍家康が奉行を差し向け12カ国の大名を動員し、1622年完成させています。その後井伊氏は代々幕府の大老などの要職を勤め、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼も彦根藩主です。その間彦根藩は18万石から加増を繰り返し30万石となり幕末を迎えています。明治政府による廃城令が出されましたが、参議大隈重信の明治天皇への進言により破却を免れ、天守や櫓などの遺稿が残り、天守が国宝、櫓などの建物が重要文化財に指定され、城址が特別史跡となっています。城は、琵琶湖近くの標高50mの独立丘陵の彦根山に、本丸、西の丸、太鼓丸、井戸丸、鐘の丸、山崎丸を丘陵上に配し、東麓に二の丸、三の丸に重臣等の屋敷を配し三重の堀で囲んだ東西1400m南北1000mの規模とされます。

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じゅんじん

(2019/01/14 訪問)

天守台へは駅から入ります。

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じゅんじん

ルーフィング (2019/01/13 訪問)

台所の屋根が飛び散り始めています。ルーフィングが見えますよ

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夏の雪だるま

戦国葛西氏家臣の城、江戸時代伊達留守氏要害 (2016/06/11 訪問)

岩手県奥州市の水沢城です。いつ頃築城されたかは定かでありませんが、葛西氏家臣佐々木氏により築かれたとされます。1590年葛西氏は小田原の戦いに参陣せず領地没収となり、この地は伊達領となり要害と呼ばれ家臣が配されたが、1629年留守氏が城主となり明治維新まで続いています。留守氏は宮城県仙台市北部の領主でしたが、戦国時代弱体化のため伊達氏より養子を送り込まれ、伊達氏の配下となっています。戦国末期は政宗の叔父の政景が留守氏当主となっています。城は本丸、二の丸、三の丸、南曲輪からなる平城で土塁と水堀で囲まれ東西300m南北300mの規模とされ1万6千石の城下町として整備されてます。城は現在本丸・二の丸は住宅地となり、三の丸の一部は奥州市役所となっています。市役所には推定500年の姥杉が三の丸土塁の遺構に立っており、冠木門も移設され残っています。市役所の西500mにある日高神社は初代城主留守宗利が社殿を改築したとされ、留守宗利の銅像があります。

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稗貫氏の居城 (2015/11/03 訪問)

岩手県花巻市にある花巻城です。城は三方を川に囲まれた台地に東西710m、南北500mの規模で本丸・二の丸・三の丸を擁する平山城です。古くは鳥谷ケ崎城と言い、前九年の役の安倍氏の城柵と伝えられ、源頼朝の奥州藤原氏征伐の戦功により稗貫郡を領した稗貫氏が1559年ここに本拠を移したとされます。稗貫氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣せず大崎・葛西・和賀氏と同じく領地没収となり、鳥谷ケ崎城には浅野長政の代官浅野重吉と城兵250名程が入城。奥州仕置軍が引き上げた後、領地没収に不満を持つ大崎・葛西・和賀・稗貫の旧臣などが各地で蜂起、1591年鳥谷ケ崎城は、和賀・稗貫の一揆軍2千数百名が包囲。城は東を北上川、南を豊沢川、北を瀬川が囲む台地に作られた堅城であり、城方が保有する多数の鉄砲により、簡単には落城せず、その間に三戸城の南部信直が5百騎を率いて代官・城兵を救出し三戸城に後退しています。一時的に一揆軍が城を占拠するも、その後、豊臣氏の征伐軍により鎮圧されています。そして、岩手県は南部氏と伊達氏に二分され、南部領の南限は現在の釜石市、遠野市、和賀郡、花巻市が境となります。鳥谷ケ崎城には南部領の南方の抑えとして重臣の北信愛を入れ名も花巻城と改めてます。1600年関ヶ原の戦いを好機とみて、秀吉に領地を没収された和賀・稗貫氏の残党が伊達政宗の煽動により再度一揆を起こし、9月20日の夜一揆軍5百名が花巻城に押し寄せました。関ヶ原の戦いは15日に徳川家康の勝利で終わっていますが、奥羽には情報が届いていなかったためです。花巻城主の北信愛は各方面に蜂起した一揆軍に対して援軍を次々と送り出していたため城内には十数名の兵しか残っておらず、一揆軍は三の丸、二の丸を打ち破ってたちまち本丸に迫ってきたため、信愛は本丸の城門を固め鉄砲に火薬だけを詰めさせ兵以外の次女たちにも空鉄砲を盛んに撃たせ城兵が多数いるように見せかけ必死に防戦、彼我の銃声が多数とどろくと城外に出撃していた南部軍がこれを聞きつけ城ヘ引き返し、一揆軍の背後から襲いかかり、形勢は逆転し一揆軍は潰走したと言わてます。以後、城主の北信愛が没すると藩主利直の次男政直の2万石の城下町となり、政直没後は城代を置き南部藩南境を守る重要な城として明治維新まで続いています。

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じゅんじん

吉川元春館麓より (2019/01/13 訪問)

石垣があります

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夏の雪だるま

斯波氏の居城 (2016/06/11 訪問)

JR盛岡駅から南約20kmにある岩手県紫波町の高水寺城です。標高180mの独立丘陵に築城されたこの城は斯波氏の累代の居城です。足利尊氏に奥州管領に任ぜられた斯波家長がこの城を本拠とし奥州の北朝方として活躍しています。室町時代になると斯波郡の領主として地位を確立、格式の高さから斯波御所と呼ばれたとされます。戦国時代に入ると南下攻勢をかける南部氏と争うようなり、1549年には岩手郡の雫石方面を攻略、雫石城に二男を、三男を猪去城に置き支配下を拡大しています。しかし北の南部氏の侵攻を受け次第に劣勢となり、また、配下の反乱が起こるなど弱体化、これを見て、1588年南部氏当主信直みずからが出陣、斯波氏は防戦するも南部氏の攻撃を受け滅亡しています。高水寺城を占領した南部氏は郡山城と改称、城代を配しましたが、居城として築城していた盛岡城築城に難航、一時この城を居城としています。しかし、盛岡城が完成するとこの城の建物は盛岡城に転用され、1677年廃城となっています。本丸(御殿)は東西60m南北120m、本丸の東南に二の丸(若殿屋敷)があり東西50m南北100m、本丸の北東に三の丸(姫御殿)があり東西30南北60mの規模で各丸には段状に腰郭が配され、城全体は東西700m南北1200mと大きな規模とされます。現在城跡は城山公園となっています。

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じゅんじん

女子駅伝を聴きながら (2019/01/13 訪問)

故郷愛知がいいレース・・・道を間違えて最後は急壁をよじ登って主郭につきました。駐車場に着いたところで優勝決定。静岡も入賞。
お城は意外に直線登山がきつかった。

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夏の雪だるま

遠野南部氏の城 (2015/09/14 訪問)

「歴史と民話の里」岩手県遠野市にある鍋倉城です。奥州藤原氏の攻めの功績により遠野地方を治めていた阿曽沼氏が、それまで居城としていた猿ケ石川右岸の横田城が、たびだび洪水の被害を受けたため、新たに猿ケ石川対岸の鍋倉山上に天正年間1573~1591年頃に築き居城とした城です。阿曽沼氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため、独立大名から南部氏配下とされます。1600年関ヶ原の戦いに南部軍として山形に遠野から出陣した時、一族の鱒沢氏が謀反を起こし鍋倉城を占領。鱒沢氏は南部家当主利直の妹を妻としており、南部氏の謀略とも言われています。阿曽沼氏はこのため、伊達政宗の支援を受け遠野を奪還しようとしますが、南部氏の加勢を受けた鱒沢氏が遠野を守り切り阿曽沼軍を撃退、阿曽沼氏は滅亡したとされます。その後、鱒沢氏も謀反の疑い有として南部氏に粛清され、南部氏は家臣を城代として遠野を治めましたが治安の乱れが続いたため、1627年一族の南部八戸氏を八戸根城から一万二千五百石で遠野に移封。以降、遠野南部氏として幕末まで続いています。遠野南部氏は御三家と呼ばれ、盛岡城に常勤したため鍋倉城には家老が城代として遠野を治めたとされます。城は遠野盆地の南方の標高340mの独立丘陵鍋倉山に築かれ、本丸に当主屋敷を置き、二ノ丸、三之丸に家臣の屋敷を配し、来内川を天然の内堀とし全体で東西350m南北450mの規模とされます。現在は、鍋倉公園として整備され、二ノ丸に遠野南部家墓所、三之丸に櫓を模した展望台があります。

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夏の雪だるま

和賀氏最後の戦いの城 (2016/06/11 訪問)

JR岩手県奥州市の北上駅から西約8kmにある岩手県北上市の岩崎城です。いつ頃築かれたかは定かではありませんが、南北朝時代にはあったとされ、飛勢城を本城とする和賀氏の一族岩崎氏の城です。城は和賀川と夏油川にはさまれた台地上に南北300m東西600mの規模で、本丸、二の丸、三の丸を有し、各郭は土塁と空堀に囲まれていました。1590年豊臣秀吉の小田原攻めに和賀氏は参陣しなかったため領地没収となり、この地は南部氏に与えられます。1600年関ヶ原の戦いで南部氏が出羽の最上氏支援に出陣、この隙をついて和賀氏旧臣が和賀忠親を擁し伊達氏の支援を受け兵2500で一揆を起こし南部氏の花巻城を包囲しましたが敗れ、飛勢城へ撤退するも支えきれず、岩崎城へ籠城。籠城後は伊達氏の支援も無くなり、翌年の1601年南部氏の攻撃より岩崎城は落城。忠親は伊達領に落ち延びた後、自害したとされます。一揆鎮圧後は、伊達氏に備える国境の城として修復され南部氏家臣が城代として置かれましたが、のちに廃城となっています。現在城跡は城址公園として本丸跡に模擬天守が建設されていましたが、老朽化と東日本大震災の被災を受け取り壊しとなり、現在は跡地に岩崎城址舞楽殿が建てられています。この時期になると草も伸び藪状態となり、手入れされていないところは歩道も歩けない状態となります。本丸から岩崎集落側の二の丸へ降りてゆく歩道があるはずなのですが、草で発見できませんでした。

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じゅんじん

名城 (2019/01/13 訪問)

要塞です。石垣の破壊が痛々しい。元就公にご挨拶してから上りました。旧本城は道が分かりにくいところがありました。

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夏の雪だるま

和賀氏の居城、別名飛瀬城 (2016/06/11 訪問)

JR北上駅から北約5kmにある岩手県北上市の飛勢城です。和賀郡を領した和賀氏の居城で和賀郡最大の城郭です。別名二子城。並ぶ二つの山に西側の山は物見、東側の山は八幡館が詰めの城として築城されています。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、12世紀頃この地に任じられた刈田氏が和賀氏を称し築城したとされます。北上川に臨む標高130mの丘陵に築かれ東西500m南北1000mの規模であったとされます。城の麓に館群を配し北側より監物館・坊館・加賀館・八重樫屋敷・白鳥館・御台方屋敷・小田嶋屋敷・文殊院・大森屋敷・渋谷屋敷・斎藤屋敷などの名が残っています。城主の居館は白鳥館と言われ、主殿などが存在していたとされます。和賀領は周辺の稗貫郡領主稗貫氏や斯波郡領主斯波氏などとともに、南の葛西氏、北の南部氏の大勢力に挟まれており、特に南部氏がたびだび南下、このため和賀氏は稗貫氏と連合、また、出羽の小野寺氏などに援軍を求めるなどして対抗しています。しかし、1590年和賀氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため、稗貫氏とともに改易となり飛勢城には浅野長政家臣後藤半七が城代として置かれます。その後、改易となった大崎・葛西旧臣の一揆が発生、それに連なり和賀義忠と稗貫郡領主だった稗貫広忠も旧臣2000名で蜂起。飛勢城を奪いかえしますが、翌年、伊達政宗・蒲生氏郷により鎮圧され、和賀義忠は逃亡の途中土民により殺害、子の忠親は出羽国へ落ち延びています。1600年関ヶ原の戦いの時、和賀忠親は伊達政宗の支援を受け家臣残党を率いて蜂起。南部氏が守る花巻城を攻めるも敗退、飛勢城に籠りますが支えきれず岩崎城へ籠城するも落城。忠親は伊達領に逃れますが、政宗により殺害されたとも自害したとも伝えられます。

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