たかやじょう

高屋城

大阪府羽曳野市

別名 : 城山、畠山城
旧国名 : 河内

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しんちゃん

天皇陵をリサイクルして築いた城(・・・) (2024/11/17 訪問)

高屋城は安閑天皇陵を本丸として築かれた城で、二の丸・三の丸は南方に築かれ市街地化しているようです。目立たないですが天皇陵の南の道路沿いに城山姥不動明王があり、そこに案内板が設置されています。応永年間に畠山基国が管領となり、築かせたとされています。
大阪にはこのように古墳を利用した城跡が幾つもあります。大きな郭に堀が付いているとなれば利用する手は無いですよね?
この周辺には古くてでかい古墳がいっぱいあって世界遺産にも登録されています。最初に訪れた場所は、なんか違うなと思って良く調べたら別の古墳でした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:高屋城 (2024/09/29 訪問)

古市駅から徒歩10分くらいで、不動明王説明碑(34.547610、135.609288)に着き、その後、高屋城不動坂説明板(34.548562、135.610520)に向かいました。

1479年(文明11年)畠山義就によって築かれたと云われています。 以後、河内国守護職であった畠山氏の居城となりました。
畠山氏の家臣で飯盛山城主の安見直政は、守護職畠山高政を追放して守護代を称し高屋城主となりましたが、高政を支援した三好長慶によって追われました。
しかし、三好長慶の河内進出を懸念した高政は安見直政を呼び戻すと、これに怒った三好長慶は高屋城を取り囲み、後詰めの安見直政軍を撃退すると、高政と直政を河内より追放しました。
その後、織田信長が摂津・河内を平定すると北河内を与えられた畠山昭高が高屋城主となりましたが、昭高は重臣の遊佐信教によって討たれ、遊佐信教と三好長康が結んで織田信長と対抗しましたが、1575年(天正3年)織田軍により落城しました。

高屋城は安閑天皇陵を本丸とした平山城で、城山と呼ばれる台地の上に築かれていました。
安閑天皇稜(34.548815、135.608387)と堀は高屋城不動坂説明板に行く途中に確認しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=天保山台場を目指す為、古市駅から電車で大阪港駅に向かいました。

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安閑天皇陵 (2021/10/14 訪問)

 近鉄古市駅より徒歩にて登城しました。
安閑天皇陵が本丸とのことでしたが、もちろん入れません。城山姥不動明王に案内板があります。案内板までは古市駅より約10分です。道路に「高屋城二の丸跡0.1km」の標柱を見つめましたが、どこにあるのかわかりませんでした。

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ぴーかる

高屋城 (2020/06/07 訪問)

【高屋城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>1479年頃の築城と推定され、河内守護の畠山氏が治めた。しかし家督争いで畠山氏の中で頻繁に代変わりし、戦国期には三好長慶が入りそこから更に城主が頻繁に変わる。高屋城の戦いで信長に攻められ落城、廃城となる。

古墳が本丸部分に当たり、その南に二の丸、三の丸になる。現在は二の丸、三の丸は住宅地になっているが、一郭の大きさとしては日本最大級だったそうです。
安閑天皇の陵墓なので中には入れず、参拝させていただいて、堀を観察した。堀は石積みで腰巻き石垣風になっていました。

<満足度>◆◇◇

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城郭情報

分類・構造 連郭式平山城(古墳利用)
築城主 畠山義就
築城年 文明11年(1479)
主な改修者 三好康長他
主な城主 畠山氏、安見宗房、三好氏
廃城年 天正3年(1575)
遺構 曲輪、土塁、横堀(水堀)
再建造物 説明板
住所 大阪府羽曳野市古市5〜7
問い合わせ先 羽曳野市教育委員会
問い合わせ先電話番号 072-958-1111