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じゅんじん

郡山城前のウォーニングアップ (2019/01/13 訪問)

元就誕生のお城だとか。よい準備運動となりました。

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夏の雪だるま

伊達藩領北の浮牛要害 (2016/06/04 訪問)

岩手県北上市の浮牛城です。いつ頃築城されたかは定かではむありませんが、安倍貞任が築城したとされます。鎌倉時代になり葛西氏七党の一人、岩谷堂城の江刺氏の子口内氏が戦国時代居城したとされます。しかし、葛西氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣せず改易。口内氏も城を去り、その後伊達領となり南部領との境目の城として要害と称し伊達家家臣が在城。1695年には中島氏が城主となり明治維新まで続いています。城はJR北上駅の東約8km、岩谷堂城の北12km程の口内川北岸にあり独立丘陵頂部に本丸、東南側に二の丸、二ノ丸周囲には水堀が廻らされ、北東側は空堀が廻らされ、北側は断崖となっています。口内川両岸には家臣屋敷を配し中島氏は2524石の知行地でした。現在本丸は浮牛城農村公園として整備され二ノ丸跡・堀跡などに立札が設置されています。

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じゅんじん

15年ぶり (2019/01/12 訪問)

15年ぶりの広島城でしたが厳島→原爆ドーム→広島城 ・・・閉館直後に到着となってしまいました。

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夏の雪だるま

伊達藩最北の人首要害 (2016/06/04 訪問)

岩手県奥州市の人首城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、葛西氏家臣で江刺郡を領した岩谷堂城主江刺重胤の二男人首如清が城主であったと言われます。1590年豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏は改易となり、伊達氏の一族沼辺氏が伊達領北辺の守りとして、この城に配され明治維新まで続き、城は人首要害と呼ばれたとされます。城の規模は東西188m南北104mで本丸は東西50m南北46mあり招魂社(護国神社の前身)が祭られています。本丸東側に一段高い二の丸があり東西36m南北50mの規模です。人首氏の時代は二ノ丸が本丸だったとされます。本丸と二の丸の間にも曲輪があり、伊達氏時代は搦手門、人首氏時代は大手門があったとされます。城の周りには堀が廻らされ、伊達領時代は西側に大手門があり、城への道、本小路は城内と称し家臣たちの屋敷町があったとされます。城は人首川に沿って東西に伸びた丘陵部にあり、岩谷堂城から北東13kmにあり遠野・三陸に通じる街道が分岐する交通の要衝の地で、現在は、館山公園となっています。

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じゅんじん

厳島 (2019/01/12 訪問)

神社に行く前に宮尾城へ。鹿さんに遭遇

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夏の雪だるま

南部藩の居城 (2015/11/03 訪問)

岩手県盛岡市にある盛岡城です。百名城の一つで東北では珍しい壮大な総石垣造りの城です。
南部氏は、青森県三戸町の三戸城を本拠とし、青森県・岩手県北部・秋田県鹿角郡を勢力下に置いていましたが、戦国末期後継者争いが起こり、それに乗じて津軽大浦城の津軽為信が青森津軽地方の南部方の城を次々攻略し青森県の西半分が独立。また、小田原攻めに参陣せず取り潰しとなった和賀氏・稗貫氏などの盛岡以南の領地が南部氏のものとなったことから、三戸では領地の北に偏りすぎるため三戸城から17km南の九戸城を居城としましたが、浅野長政のから当時、不来方と呼ばれていたこの地を本拠することを勧められ1598年から本格的に築城を開始。再三の河川の氾濫に苦しめられますが1615年頃にはある程度完成したところで、不来方から森岡と改め居城を移したとされます。しかし北上川等の氾濫により石垣が崩れたため築城を諦め、17㎞南の紫波町にある斯波氏の居城だった高水寺城を改修し一時本城しましたが、工事を再開することとし、初代藩主信直から利直・重直の3代36年をかけて1633年城を完成させてます。1691年盛りあがり栄える岡との祈りを込め現在の盛岡城と改名され、以後明治維新まで続いています。北上川と中津川の合流部の丘陵に造られ、本丸、二の丸、榊山曲輪、淡路曲輪を配し、それぞれに雄大な石垣を構築し内曲輪とし、内曲輪の北側に南部一族や家臣の屋敷を配して外曲輪とし、規模は南北1300m東西1100mと言われています。南部盛岡藩は当初10万石でしたが、その後、1664年新たに八戸藩2万石を分割したため8万石に。しかし、過去に領地を奪われた津軽藩が1808年石高の高直しにより10万石となったことから、津軽藩への対抗意識により幕府へ石高の高直しを要望し同年20万石となっています。明治維新の戊辰戦争では、南部藩は奥羽列藩同盟に参加し新政府方となった秋田久保田藩を山形庄内藩、仙台藩などと一緒に攻め、北では鹿角郡から侵入し久保田藩の大館城を攻め落とし、中央では奥羽山脈を越え久保田藩領内の田沢湖地方へ攻めいってます。これに対して津軽藩は新政府側に立ち久保田藩大館城へ武器等を援助してます。このため戦後、新政府より南部藩は減封処分、津軽藩は加増となっています。(2015.11.3訪問)

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夏の雪だるま

葛西一族江刺氏の居城 (2016/06/04 訪問)

JR金ヶ崎駅から東6kmにある岩手県奥州市の岩谷堂城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、平安時代末期に奥州藤原氏となる清衡の父の藤原経清が居住した砦館が始まりとされます。経清は前九年の役で安倍氏に味方し敗死。その後奥州藤原氏の滅亡後、源氏の重臣葛西氏の領地となり、一族が江刺氏を名乗りこの地に居城しています。宮城県に本拠を置く葛西氏の北縁を守っていましたが、葛西家本家が各地の一族や家臣との対立により弱体化、奥州情勢が混迷を深める中、江刺氏は青森・岩手北部を領する南部氏と親交をもち、1566年秋田の安東愛季が南部領鹿角郡に侵攻した時、援軍兵300名を送ったとされます。しかし、1582年南部氏九戸政実の岩手南部への攻勢が始まり、葛西氏に背き九戸氏に従ったとされます。このように葛西家が混乱するなか豊臣秀吉の小田原征伐が始まり、小田原に参陣できなかった葛西氏は改易となり江刺氏も城を豊臣秀吉の奥州仕置軍に明け渡したとされます。そして、江刺氏はかつての縁により南部氏に召し抱えられています。その後、この地は伊達氏の支配下におかれ伊達氏家臣の岩城氏が城主となり岩谷堂要害屋敷と呼ばれ岩谷堂伊達家5000石の居館として幕末まで続いています。城は人首川に面した東側が断崖絶壁の標高115mの館山に築かれ東西400m南北850mの規模とされ本丸、二の丸を配していたと言われます。現在城跡は本丸が館山公園となり、二の丸が公園下のグランドとなり、城跡には土塁や空堀が残り往時の姿を偲ぶことができます。また、岩谷堂城御館坂の上の旧岩谷堂小学校グランドに三瓶家正門の三瓶門、西麓の興性寺に二の丸裏門が移設され現存しています。

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じゅんじん

公園 (2006/04/09 訪問)

奈良の町から一走り。公園となっていました。

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夏の雪だるま

天下統一最後の戦い (2015/09/11 訪問)

岩手県二戸市にある九戸城です。九戸城は、三方を川の断崖に囲まれた台地に15世紀末頃、南部氏の一族である九戸氏が築城したといわれます。南部氏24代晴政が1582年没すると、有力一族の石川信直と九戸実親の後継者争いが起こり、石川信直を支持する一派が強引に信直を当主とし、豊臣秀吉朱印状により公認。これに不満を持つ九戸氏一派が1591年挙兵し信直派の城を攻撃。もともと領土拡大に貢献した主力の南部氏精鋭部隊であった九戸氏を鎮圧することは信直派には難しく、豊臣秀吉に援軍を要請。この当時、小田原参陣せず取り潰しとなった、奥州の小大名達の大規模な一揆が多発していたため、これらの鎮圧も含め秀吉は大規模な奥州仕置軍を編成。各地の一揆を鎮圧しながら北上、9月初めには蒲生氏郷・浅野長政・井伊直正・南部信直を含め近隣の諸大名の総勢6万が城を包囲。これに対して九戸派5千の兵が籠城。九戸城は西の馬淵川、北の白鳥川、東の猫淵川を天然の外堀とし、本丸、二の丸、三の丸、松の丸、若狭館、外館を擁す東西約700m南北約500mの34万㎡(東京ドーム約7個分)の規模を誇る要塞堅固の城であり、九戸勢は良く防戦し寄せ手に多大の被害を与えます。そこで戦の長期化を嫌った仕置軍の蒲生氏が城兵の助命の和睦を持ち掛け、九戸氏はこれを受け降伏。しかし、助命の約束を違え一族郎党を二の丸に押し込め惨殺したとされます。戦いの後、蒲生氏郷が九戸城を改修後南部信直へ引き渡し、名を福岡城と改め信直が南部氏本城としました。その後、南部氏は1597年から本城を盛岡城とすべく築城を開始。1633年盛岡城が完成したため廃城となっています。

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刑部

田畑の中に遺る城址 (2019/01/17 訪問)

普通の田畑の中にあります、良く崩さずに土塁と空堀を後世に伝えて頂きました。・・・感謝!

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カルビン

野球部のランニングコースwww (2014/06/01 訪問)

当時伊勢新九郎が城主だった事等知らずに、そこに見やすいお城がある・・・ってだけで訪問しましたw
今思えばなんて無知だったんでしょう(汗)

観光用の駐車場から溜池の脇を歩いて10分もかからずに登城口に到着。
熊野神社を抜けたところで、正面の山道から威勢の良い声がしてきたと思ったら、いきなり10人くらいの野球部が自分の脇を駆け抜けて行きました(驚)
しかも全員礼儀正しく挨拶しながら(笑)
みんな結構な勢いだったので、返答聞き取ってもらえただろうか・・・ww
そもそも大事な史跡でランニングするってwww

遺構が見やすいシーズンの訪問では無かった為、遺構が雑草で見辛い場所も多かったですが、流石は当時から整備がしっかり整っていて藪の中を歩くような事はありませんでした。

現在お城として残っている遺構を見ると、本当に豊臣の大軍から長期間耐えれた?と疑問に思うくらい規模小さいですが、そこはそこ、山城というより丘城くらいの高さなので登りも苦にならず、気軽に散策できるお城です。


前回訪問してからもう4年半経つので、今なら違った観点から見学出来る気がするのでそろそろ再訪してみたいですね。

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刑部

連郭式 山城 (2019/01/17 訪問)

霞ヶ城の看板を入ると直ぐに駐車場がありますが、そこから道なりに進むと車で中腹まで行けます。かなり時間短縮です! そこからなら往復30分以内で行けます。 連郭式縄張りの山城は三の丸から二の丸・本丸と攻めることが出来て面白いです!

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チェブ

桶狭間の戦い前夜。 (2018/12/29 訪問)

今川 義元公が桶狭間に向かう前に宿泊した「沓掛城」。
桶狭間の戦い後は勲功一番の梁田 政綱の居城になりました。
今は公園になっていて本丸、空掘、土塁ときれいに残っています。
「沓掛城」に行く前に信長軍の砦跡を何ヵ所か巡りました。
信長軍、やる気満々、攻めモードONです!
「沓掛城」に泊まった義元公はどんな気持ちで桶狭間に向かったのでしょうか?

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やまびこ

明石城 (2019/01/14 訪問)

久しぶりに行ってきました。

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刑部

竹やぶに阻まれる (2019/01/17 訪問)

竹やぶの中 登城口を探しましたが見つかりませんでした、行けそうな所はあるが身体が前へ進みません断念しました。

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山口駿河守幻夢斎

小坂城跡

JR常磐線牛久駅から、牛久市のコミュニティバス「かっぱ号」で行くことができます。小坂団地入口、もしくは、小坂城址と言うバス停があります。本数は、一、二時間に一本程度、100円と格安。(3倍以上料金がかかりますが、関東鉄道のバスもあります。)

また、駐車場もあります。

この城跡は、以前はすさまじいヤブだったということですが、現在はきれいに整備されています。いつ来ても、きれいな状態の城跡を堪能することが可能です。

空堀、土塁、土橋、虎口、小規模ながら、見事な遺構がほぼ完全な状態で残されています。主郭が、道路拡張で少し削られています。

案内板も充実しており、とても見学しやすく、茨城県屈指のおススメの城跡です。

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山口駿河守幻夢斎

牛久城跡

たぶん、5回目くらいの訪問。JR常磐線牛久駅から、徒歩35分くらい。駐車場は、徳月院前の観光用の駐車場が使えそうです。

前々回、来たときは草刈り直後だったのか、こんなにきれいになっている牛久城跡は、観たことがないというくらい、きれいな状態だったんですが・・・。

夏場の荒天の影響なのか、倒れ掛かっている木や、倒木がありやや荒れた印象。

それでも、見事絵ある遺構は相変わらず。空堀の深さと、大河ドラマにも登場した、本丸への土橋など、素晴らしいと思います。

ヤブ漕ぎして、擦り傷、泥だらけになりながら探索する城跡が、チバラギには多数あることを思えば、ここはよくぞ整備してくれたって思うべきでしょうか。

近くの東林寺城跡も、こちらはさらにやぶがひどいですが、見ごたえあります。

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柳沢 信鴻

訂正 (1985/06/16 訪問)

先ほどの投稿で「初めての現存12天守探訪」と書きましたが、同年の冬休みに姫路城行ったの忘れちょったです(/≧◇≦\)

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柳沢 信鴻

桜の時期に行きたかった(>_<) (1984/06/16 訪問)

中学三年の修学旅行で行きました!確か6月だったと思いよります。初めて見た現存12天守で、小ぢんまりながら破風が良い風格を出していた記憶があるねゃあ(///ω///)♪ 欲を言えば桜の時期に行きたかった…

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刑部

国府山城 (2018/05/04 訪問)

麓の荒神社から登れます、車は付近に路駐。

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