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あんらくごえ

続日本100名城154 (2019/01/19 訪問)

続日本100名城に選ばれて全国区の知名度になりましたが県内では桜の名勝として有名です。
南朝北畠氏による築城にはじまり、北畠氏に養子に入った織田信雄の居城でもありました。
信雄以降は田丸氏、稲葉氏、藤堂家の支配ののち江戸時代には紀州藩領となり家老久野氏が代々治めていました
近くに伊勢神宮、山田奉行所、斎宮があり、徳川家にとっても重要拠点の一つだったと思われます
無骨で迫力のある野面積みの石垣が見事でした

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カルビン

戦争の傷跡 (2014/10/03 訪問)

東金駅から徒歩10分程で東金城登城口があると調べがついていたのですが、その肝心の登城口がどう探してもみあたらず・・・しかし東金高校脇に東金城・東金御殿の解説があって・・・(・`ω´・;)ゞ?

結局徳川家譜代の酒井氏の菩提寺となっている本漸寺と東金高校の間・ちょっと奥まったところに登城口ありました。
(登城口を私有地と間違わんばかりに覆っていて、しかも案内が無い為にかなり不親切ですw)

一応土塁・堀・堀切等の遺構がありましたが、数は少なかったです。
まだ藪が厳しい時期だったので、もしかしたら隠れていたのかもですが・・・

ちなみに奥まで進んだのですが、主郭と思われる場所が見つからず、途中で道が無くなってしまった感じでした。
やはり藪で道が塞がれていたのか、もしくは主郭自体失われていたのか、はたまた主郭までの道が崩落したのか・・・

代わりに近代の戦争に関係すると思われる防空壕のような横穴やコンクリートで塞がれた場所とかが城域にいくつも見つかったのが印象的です。


お城初心者の時期に訪問した場所は再訪して新たな発見する場所も多いですが、東金城に関しては再発見出来るような気がしません。。。それだけ当時ちゃんと見学したのに肝心な場所がなかった感があるので(汗)
でも行かねばならないんでしょうなぁ(ー△ー;)

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朝田 辰兵衛

【再訪】第93回高田城百万人観桜会に合わせて… (2018/04/07 訪問)

スタンプペッタン。
初日から,違和感があったスタンプ設置箇所は,高田城三重櫓受付に変更されてます。

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かりのんと

桜山城 (2019/01/20 訪問)

名前の示す通り、桜がたくさん植えられていました。
石積、土塁、井戸が残っており、見応えのある城でした。

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ヒロケン

戦国武将集結 (2019/01/04 訪問)

石垣山城は「石垣山」と呼ばれる箱根からの派生する山上にあります。関白豊臣秀吉が天正18年の小田原合戦の際に築いた陣城で「家忠日記に石かけの御城」とあることから、「石垣山城」と呼ばれています。秀吉が一夜のうちに城が出現したように見せかけたとの伝承から「石垣山一夜城」とも呼ばれていますが、実際には聚楽第や大阪城に勝るとも劣らない普請工事であっとことを秀吉自身が書状にしたためており、秀吉入城までに3ヶ月の築城期間を要した関東唯一の豊臣秀吉の城郭です。
今も穴太衆により築かれた野面積み石垣が本丸や南曲輪などの各所に残り、谷を石塁で塞いで井戸とした井戸曲輪の姿は圧巻です。

小田原合戦の折、この石垣山城に日本全国の戦国武将達が集結し、どの様な思いを巡らし、どの様に戦ったのか妄想しているだけで、時間があっという間に過ぎてしまいました|゚Д゚))) この石垣山のどこかで小田原征伐に遅れた伊達政宗が白装束で豊臣秀吉と対面したのでしょうか( '-'* )? 

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かりのんと

稲村山城 (2019/01/20 訪問)

地元の子供による案内板に導かれて山頂に到着しました。
道幅も広く、登りやすい山でした。

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刑部

石碑は立派 (2019/01/19 訪問)

セブンイレブンの直ぐ横に城址の石碑がありました。

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夏の雪だるま

伊達・最上の境目の城 (2018/06/09 訪問)

山形県白鷹町の鮎貝城です。1396年横越氏が築城、鮎貝氏を称したとされます。鮎貝氏は米沢地方から勢力を拡大した伊達氏に従属、同じ藤原氏の出であったことから、伊達一門に加えられたとされます。1587年、時の当主鮎貝宗信は、最上義光と縁戚関係を結び伊達政宗に対して謀反の気配を示し、それに反対する宗信の父宗重から一報を受けた政宗は、鮎貝城へ電光石火の急襲を行ったため鮎貝城は落城、城下も灰燼に帰したとされます。城主宗信は山形へ逃れ、一時、城は破棄されますが、その後、領国境の強化のため改修されたとされます。伊達氏が国替えとなると、蒲生氏・上杉氏時代には、境目の城として拡張整備を繰り返されたとされますが、詳しくはわかっていません。江戸時代に入ると、一国一城令により廃城となり、、御役屋と呼ばれる屋敷が本丸背後に建てられ、上杉氏家臣本庄氏が領主として鮎貝を治めています。城は、最上川の左岸段丘上に築かれ、現在の鮎貝八幡宮が二の丸、その北西側に本丸、本丸の北・西・南に三の丸が配され、各丸は水堀で囲まれていたとされ、麓の城下も水堀で囲む外城とした総構だったと言われます。現在、城跡は二の丸跡の鮎貝八幡宮に土塁や北側に水堀が残り、本丸跡は住宅地や果樹園となり、本丸跡の看板が設置されています。また、三の丸は住宅地となり、堀跡が一部残っています。

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夏の雪だるま

小野寺・最上攻防の城 (2018/05/12 訪問)

秋田県湯沢市の北部の皆瀬川左岸にある丘の先端部標高110mに位置する、本丸・二の丸・三の丸を配する東西250m南北180m規模の岩崎城です。城西側の羽州街道と皆瀬川の監視を目的とした湯沢城の支城とされます。築城年代は定かでありませんが、戦国時代秋田県南を領した小野寺氏の庶流岩崎氏が城主でした。1590年奥州仕置で雄勝郡は山形の最上義光の領土とされますが、小野寺氏は雄勝郡の支配を継続したため、最上義光は、1593年より雄勝郡侵攻を開始、国境の諸城を攻略、1595年雄勝郡の重要拠点である湯沢城を最上軍6千の兵で攻撃、激戦のうえ落城させると、岩崎城を6百の兵で夜襲。岩崎城は援軍も無く守兵2百と手薄であったため落城。最上氏家臣原田氏が城主となます。1602年佐竹氏が移封となると佐竹氏の城となりますが、1615年一国一城令により廃城となっています。1868年岩崎城址南麓に佐竹支藩2万石が陣屋を構えて岩崎藩を置きますが、1871年わずか3年で廃藩置県により廃藩となっています。城跡は現在、千年公園として藤棚などを整備、5月には藤祭が開催されています。本丸東側の堀をJR奥羽本線が走り、二の丸東端櫓台跡に高辻神社、三の丸に玉子井戸・能恵姫像があります。三の丸の下にある帯郭の八幡神社拝殿の唐破風が陣屋殿舎からの移築と伝えられ、その奥に水神神社と鹿島様の藁像があります。

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夏の雪だるま

関ヶ原後の戦いの城 (2017/10/28 訪問)

田県横手市の吉田城です。戦国時代に秋田県南を領した小野寺景道が築城、隠居後入城したと伝えられています。城は、四方100メートルほどの平城で、横手盆地平野部のほぼ中央に位置し城の西側を大戸川流れる地に、東西南北に高さ2m程の土塁を廻らし、その4つの隅には物見櫓を配し、周囲に幅10m程の水堀があったとされます。景道は父を家臣大和田等の謀反により失い、山形庄内の大宝寺氏(武藤氏)に保護されたのち、大宝寺氏や由利諸将の支援を受け大和田らを滅ぼし、横手城を本拠に領土を秋田県南・由利地方・山形の真室川地方まで拡大、小野寺氏の最盛期を築き上げ、上洛し織田信長に会見後、家督を次男義道に譲って隠居したとされます。景道が亡くなると末子陳道が城主となり1600年関ヶ原の戦いの時、小野寺氏は山形の最上義光に奪われた秋田雄勝郡の領地奪還のため最上氏を攻撃、このため関ヶ原の戦いが終わると、最上氏や周辺大名1万余の軍勢から小野寺領西部の重要拠点大森城が攻撃を受け、同時に、大森城10km東の吉田城へ3千の軍が攻めてきます。これに対し、城主陳道は吉田城の兵5百、横手城からの援兵5百、北8kmの黒川城の5百の兵計15百で、迎え撃ち撃退したとされます。しかし、小野寺氏は反徳川とみなされ改易、陳道は南部氏をたより家臣となったとされ、佐竹氏が秋田に領地替えとなると、佐竹家臣茂木氏が城主となるも1615年廃城となっています。現在城跡は一部南側が墓地となり破壊されていますが、その他土塁が良好な形で残っています。

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夏の雪だるま

小野寺・最上の攻防の城 (2016/05/08 訪問)

秋田県南部の湯沢市にある湯沢城です。鎌倉時代後期秋田県雄勝郡に入部した小野寺氏稲庭城の支城として築かれ、のちに小野寺氏は雄勝・平鹿二郡を領する戦国大名に成長してます。しかし、1593年山形最上氏の雄勝郡侵攻が始まり、国境の八口内城など数城が最上氏に攻略され、さらに、1595年雄勝郡の小野寺方の重要拠点である湯沢城周辺の小野寺方の西馬音内城主など5城主が最上氏に従属、しかし、湯沢城主小野寺孫七郎兄弟は従わなかったため最上氏は主将楯岡満茂、先鋒鮭延秀綱の兵6千で湯沢城を攻撃。湯沢城には小野寺孫七郎兄弟が兵8百で籠城。小野寺本軍の援軍は来ず、多勢に無勢で落城必須と知った城主孫七郎は妻子を殺害、残った兵3百と城から突撃。最上軍に多大の被害を与えますが残兵50名となり燃え盛る城へ引き返し切腹したとされます。以後最上氏家臣楯岡満茂が湯沢城主となり小野寺領侵攻の前進基地となります。関ヶ原の戦い後、佐竹氏が秋田に転封となり湯沢城には佐竹南家が城代となり城と城下町を整備します。しかし、1620年一国一城令により廃城。城山麓に館をたてこの地を治めたとされます。城は、湯沢市街地の市役所向かい側の標高230mの古舘山に築かれた山城で本丸、二ノ丸、馬場郭からなり東西400m南北650mの規模といわれ、現在は中央公園となっています。

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夏の雪だるま

小野寺氏の西の重要拠点 (2016/05/08 訪問)

秋田県羽後町の西馬音内城です。湯沢市の西方に広がる田園地域を西馬音内街道で西に進むと羽後町西馬音内の街があります。日本三大盆踊りの一つ西馬音内盆踊りが有名なところです。街を西にはずれて平地が尽きる所にある出羽山地の丘陵に築かれたのが西馬音内城です。稲庭城の小野寺氏の支城として1277年築かれています。日本海側の由利地方の押さえとして重要な城であり小野寺一族が城主として配されていました。戦国時代の城主小野寺茂道は由利郡の矢島城主大井満安と縁戚を結んでいましたが、1592年大井氏が仁賀保氏以下の由利諸将との戦いに敗れ茂道のもとに落ち延びてきましたが、これに小野寺氏当主の横手城主義道が反乱の疑惑をもち兵がさしむけてきました。茂道はこれと一戦を辞さぬ覚悟でしたが、大井満安は一族と戦わなければならない茂道の苦渋を察して自害したとされます。このことにより、茂道は義道に反感を持つようになり以後、義道からの出兵命令にも応ぜず、山形最上氏が雄勝郡に攻めて来るや、最上氏に従属。しかし、小野寺氏が最上氏に奪われた湯沢城奪還に動くと小野寺方にもどっています。その後、関ヶ原の戦いの後、小野寺氏は徳川側の最上氏と敵対したため最上氏や周辺大名の本格的な攻撃にさらされます。このため西馬音内城主茂道は1601年みずから城に火を放ち、戦わずして庄内地方へ落ち延びたとされます。城は、廃校となった元西小学校裏山にあり、由利郡の東由利と矢島からの街道が眼下で落ち合う交通の要衝で標高172mの平野に突き出た丘陵部に東西100m南北50mの本丸、一段低く東西40m南北150mの二ノ丸、外側に複数の郭を配し総面積23ha程の規模を有していたとされます。北は西馬音内川があり東西は急峻な崖で、南は空堀で防御された要害で、焼け残った城門が城跡の向かいにある西蔵寺に移設され山門として残っています。

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夏の雪だるま

五城目の城下町を築いた城 (2016/05/02 訪問)

秋田県五城目町の砂沢城(五城目城)です。1588年湊安東道季と桧山安東実季の湊合戦後、この地域を領していた三浦氏が滅亡、そり代わりにこの地を治めることとなった藤原秀盛が砂沢城を築城したとされます。城は東西200m南北80m程の規模で湖東平野の北東部、現在の五城目町の役場の北方の半独立丘陵の森山山頂に本丸を配し、本丸から延びる東西尾根部に3から4段の郭を配した山城で、南麓に城主居館が構えられ城下町を整備し、現在の五城目の街並みと朝市の基礎を築いたとされます。1602年安東氏の常陸移封に伴い廃城となっています。現在は、本丸に模擬天守閣が展示館として建てられ、内部には木材関係と歴史の展示がされ無料で観覧でき町民の憩いの場となっています。
城麓にも駐車場がありますが、本丸まで自動車道があり天守閣下に駐車場があります。

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夏の雪だるま

戸沢氏重臣 (2016/04/24 訪問)

角館城から南西20㎞にある大仙市南外にある楢岡城です。角館戸沢氏の重臣で5千8百石を領していたと言われる小笠原氏が城主です。小笠原氏はもともと楢岡城から約30㎞南の平鹿郡の増田城主でしたが、県南の雄、小野寺氏に攻められ、南外に落ちてきたもので、その当時この地の城主だった佐原氏の城を1458年奪い、小野寺氏に対抗するため角館の戸沢氏と関係を重ね臣下となったものです。小笠原氏はその後、この地の楢岡氏を名乗っています。1529年戸沢氏当主秀盛が亡くなり、わずか5歳の道盛が家督を継いだおり、叔父の忠盛が角館城を奪う事態が発生、楢岡氏は角館城から逃れた道盛を助け忠盛から角館城を取り戻したとされます。また、1543年横手城の小野寺氏が角館城攻略に出たおりには、開城に傾いた戸沢家臣団を道盛の生母と共に説得、戸沢氏の危機を救ったといわれます。伝承では、1556年跡継ぎの男子がなかった楢岡氏は、武田信玄に敗れた信濃国の守護小笠原長時が各地を放浪してたおり、同じ小笠原一族として長時の当時3歳の子供を養子にもらい、その後娘婿とし光兼と名乗らせ世継ぎとしたと言われています。記録にある小笠原長時の3人の子供ではないため、伝承が正しいとすれば長時に仕えた下女に生ませた子供ではないかと思われます。小笠原長時は会津芦名氏の食客となっていたおり、家臣の妻に手を出し殺害され68歳で亡くなったとの話もあり、ありうることと思われます。城は雄物川支流楢岡川の左岸丘陵の標高50mに本丸、二ノ丸、三之丸を配し、東西250m南北350mの規模を有していたとされます。楢岡氏の菩提寺であった常泉寺が城の入口にあります。城は関ヶ原の戦いの後、戸沢氏が角館から常陸国に移封となり、楢岡氏も戸沢氏に従い1601年廃城となったとされます。

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BUGTI

天正伊賀の乱の契機となった城 (2019/01/19 訪問)

丸山という小高い山のあちこちに郭を配置した城だったという。藪が多くて見通しが悪いので堀や土塁がはっきりとは確認できなかった。天守台と呼ばれるところに立派な城址碑が立っていた。天守台付近には栗石のような石や、比較的大きな石も残っていたので、やはり石垣で固められた城だったのではないかと思う。

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BUGTI

北畠信雄の城館跡 (2019/01/19 訪問)

桜町中将とは信長の次男で北畠氏を継いだ信雄のこと。滝川氏城のすぐ近くにあり、同じく伊賀平定戦のために作られた城だけあって、滝川氏城をひと回りコンパクトにした感じの城となっている。植林されていて見通しは悪いが、おかげで素晴らしい遺構が残っている。南側には虎口が開いているが、それ以外は高い土塁と深い堀で守られていることが良くわかる素晴らしい城である。

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BUGTI

南伊賀支配の拠点城 (2019/01/19 訪問)

単郭式城郭では三重県最大というだけあって、郭内は広い。昔通りがかったときには地区の運動会をやってました。方形の高い土塁がしっかり残っており、その外側の堀も藪の中に見え隠れしています。南の虎口には馬出のような郭もあり、伊賀平定のために相当の兵力を動員していたことがわかります。

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たかりん

ヤンチャな天守とマジメな石垣 (2019/01/13 訪問)

天守は見るからにふざけており、最下層には通り抜けの穴まで開いている斬新(笑)な形、当然模擬天守です。まあここまでやれば、さすがに戦国時代から建っていたと勘違いする人も少ない(ゼロではない…)と思うので潔ささえ感じます。しかし建造は昭和3年(1928年)で現状では日本最古の模擬天守だそうで、それなりに風格を感じます。ただし、今は諸事情により中には入れない構造です。山麓には江戸時代に政庁として機能した平城部分もあり、堀、石垣の郭内に資料館や裁判所等が建っていました。資料館では徳島藩領だった淡路国がなぜ明治維新後、兵庫県に転じたのか、その悲しい歴史がわかります。さて、このヤンチャな天守に反して山上に残る数多くの石垣は至ってマジメです(笑)。主に脇坂氏自体のものとのことですが、本丸ほか周辺の曲輪に思った以上に大規模で素晴らしい石垣遺構があり、あまり期待してなかった分、驚かされました。山上へは徒歩でもいけますが、車であれば山頂主郭部に徒歩5分のところまで近づける駐車場もあり、サクッと回れると思います。

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BUGTI

道三の隠居城 (2019/01/12 訪問)

平地のなかでこの山だけこんもりしているので、拠点にするには都合がよかったのだろうか。そんなに大きくはない山で、堀や土塁が残っているが、この規模ではそんなに多くの兵で防御することは難しいと感じた。まさに隠居城にはふさわしいかもしれない。

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BUGTI

小牧長久手、関ヶ原の合戦に巻き込まれた城 (2019/01/12 訪問)

いくたびかの戦乱により廃城となり、今や場所もはっきりしていない。小牧・長久手や関ヶ原といった大きな戦いで攻められた城だが、今は静かな住宅地となり、お城地蔵が街を見守っていました。

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