といちじょう

豊地城

兵庫県小野市

別名 : 拾市城、都市城、依藤城、依藤館、東条城
旧国名 : 播磨

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観音堂
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しんちゃん

城主コロコロ変わる (2024/04/20 訪問)

豊地城跡は東条川が周囲の地形に沿って南側に向かって大きく湾曲している部分の南東に位置しています。観音堂のある場所が西の郭の周辺と見られ、東の畑地が主郭跡とされています。主郭周辺には内堀と外堀が配されていたとされ、今でも道沿いに内堀の跡が見られ、観音堂周辺にも堀跡らしき溝が残っています。また主郭東側には外堀跡とされる ため池も有るようです。
石碑に刻まれている文章を読むと、豊地城は東西およそ400m、南北およそ200mの城域を持ち、東西北を川に囲まれた要害の地に築かれていたようです。南北朝時代の城主は金谷経氏、応仁年間以降は赤松氏の家臣・依藤氏 三木の別所重棟(宗) 栗山氏(初代赤松氏の実兄景盛の子孫で依藤氏時代からの執権)と変わり、三木合戦後に廃城になったようです。

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ぴーかる

豊地城 (2022/09/11 訪問)

【豊地城】
<駐車場他>城跡碑のある観音堂に1台くらいなら停めれます。
<交通手段>車

<感想>日帰り西摂津東播磨ちょこ城巡りの旅4城目。「といちじょう」と読みます。十日ごとに市がたつ十日市が変化したものだと言われているそうです。豊地城の築城者は定かではない。城主は複雑に変わったらしく略して説明すると、南北朝時代に金谷経氏という武将が南朝方として周辺の城とこの城を中心に戦った。室町時代には赤松氏の家臣依藤氏が治め、戦国時代には別所重棟が城主となります。三木合戦の時には別所重棟は秀吉に加担したのですが、戦後城は破却されたそうです。
 現地は土塁が1つ、堀跡、県道沿いと観音堂にそれぞれ城跡碑があります。小野市立好古館に出土品(このあと来訪)、「誉田の館いろどり」にて御城印が販売されています。

<満足度>◆◇◇

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イシテル

播磨の歴史を巡る御城印:その6 (2022/05/03 訪問)

豊池城は、宇城土居を中心として、東西400m、南北200mの規模を持った中世の平城。
三木合戦までは別所氏重鎮であった栗山氏が東條谷を領し、城主であったが、三木合戦以降、秀吉の命により取り壊された。
現在、土塁跡が残っているが、その他の明確な遺構は判らなかった。近くの神社あたりに堀跡と思われる形状は見られる。
豊池城の御城印は、誉田の館いろどりで購入できます。

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シロマサ

加東市の友人訪問の帰りにちょい寄り (2019/06/16 訪問)

朝トーダイさんの投稿の豊地城が気になっていました。
夕方友人宅を訪問した帰りに豊地城を検索して近くなので立ち寄りました。
加東市から小野市に入ってすぐでした(県道85号線)
案内標識の手前に石碑があります。
案内標識を左へ曲がった路上に駐車して探索しました。
まずは大きな土塁を見て回り、八幡神社を目指し道を左折して三辻左に曲がると八幡神社に行きます。
左手の八幡神社、右手のみやま保育園の東側は堀跡。
豊地城概念図を見ると外堀になっている。
今回は行ってないけど観音堂も城跡です。

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 不明
築城主 不明
築城年 南北朝時代
主な改修者 別所重宗
主な城主 金谷経氏、依藤氏、別所重宗
廃城年 天正8年(1580)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、建物跡
再建造物 石碑
住所 兵庫県小野市中谷町字城ノ土井