といちじょう

豊地城

兵庫県小野市

別名 : 拾市城、都市城、依藤城、依藤館、東条城
旧国名 : 播磨

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ぴーかる

豊地城 (2022/09/11 訪問)

【豊地城】
<駐車場他>城跡碑のある観音堂に1台くらいなら停めれます。
<交通手段>車

<感想>日帰り西摂津東播磨ちょこ城巡りの旅4城目。「といちじょう」と読みます。十日ごとに市がたつ十日市が変化したものだと言われているそうです。豊地城の築城者は定かではない。城主は複雑に変わったらしく略して説明すると、南北朝時代に金谷経氏という武将が南朝方として周辺の城とこの城を中心に戦った。室町時代には赤松氏の家臣依藤氏が治め、戦国時代には別所重棟が城主となります。三木合戦の時には別所重棟は秀吉に加担したのですが、戦後城は破却されたそうです。
 現地は土塁が1つ、堀跡、県道沿いと観音堂にそれぞれ城跡碑があります。小野市立好古館に出土品(このあと来訪)、「誉田の館いろどり」にて御城印が販売されています。

<満足度>◆◇◇

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イシテル

播磨の歴史を巡る御城印:その6 (2022/05/03 訪問)

豊池城は、宇城土居を中心として、東西400m、南北200mの規模を持った中世の平城。
三木合戦までは別所氏重鎮であった栗山氏が東條谷を領し、城主であったが、三木合戦以降、秀吉の命により取り壊された。
現在、土塁跡が残っているが、その他の明確な遺構は判らなかった。近くの神社あたりに堀跡と思われる形状は見られる。
豊池城の御城印は、誉田の館いろどりで購入できます。

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シロマサ

加東市の友人訪問の帰りにちょい寄り (2019/06/16 訪問)

朝トーダイさんの投稿の豊地城が気になっていました。
夕方友人宅を訪問した帰りに豊地城を検索して近くなので立ち寄りました。
加東市から小野市に入ってすぐでした(県道85号線)
案内標識の手前に石碑があります。
案内標識を左へ曲がった路上に駐車して探索しました。
まずは大きな土塁を見て回り、八幡神社を目指し道を左折して三辻左に曲がると八幡神社に行きます。
左手の八幡神社、右手のみやま保育園の東側は堀跡。
豊地城概念図を見ると外堀になっている。
今回は行ってないけど観音堂も城跡です。

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勝野武士

忽然と姿を現した大土塁。 (2019/04/13 訪問)

金つるべ城をあとにして、前々から気になっていた豊地城跡に行って参りました。

豊地城の歴史は少々複雑です。
ただでさえ長い私の文章、説明すると余計長くなるので、皆様におかれましてはWikipediaを読んでいただいたほうが良いかと思いますw
豊地城の別名がやたらとあるのは、勢力争いに絡んで城主がコロコロ変わった事によります。
そして、秀吉の命により豊地城は廃城となるのですが、直接破城処理をしたのが後に一万石で小野藩を立藩する一柳氏の先代である一柳直末というのも、何か因縁めいたものを感じます。

さて現地に行ってみますと、道路沿いに堂々とした土塁の姿がいきなりドドンと出てきます。
説明板によると、高さ5メートル、幅11メートルもあるのだとか。確かにデカい!どうやらここは主郭の土塁だそうです。
説明板にもあった八幡神社とみやま保育園付近にも行ってきました。こちらは豊地城の東端にあたるようですが、こちらは土塁と外堀跡が残っております。

集落に埋もれながらも、こうしてハッキリと痕跡が残っているのは嬉しいですね。
このお城、必見ですよ!

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 不明
築城主 不明
築城年 南北朝時代
主な改修者 別所重宗
主な城主 金谷経氏、依藤氏、別所重宗
廃城年 天正8年(1580)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、建物跡
再建造物 石碑
住所 兵庫県小野市中谷町字城ノ土井